七情万化(2)
「あ、武市さん。おかえりなさい」
「小娘さん、」
薄闇に染まり始めた彼女の部屋。
その中央に腰を下ろしていた小娘さんは、見覚えのある着物を膝に広げていた。
「やはり、君は…」
「え?」
「…龍馬のことが好きなら、そう言えば良い」
「え?え?」
両肩下に家紋があしらわれた漆黒色の着物。
針と糸を手にしていた彼女は、驚いたように目をぱちぱちとさせた。
「龍馬には僕から言っておく。だから」
「た、武市さん…?」
「もう無理に僕の傍にいなくて良いんだ」
ふわふわと柔らかな頬。彼女に触れることが出来るのも、これが最後かもしれない。
未練がましい気持ちを残しながら手を離し、僕は彼女に背を向け立ち上がった。
「やっ…待って武市さん」
きゅっと着物を引っ張る気配がし、僕は足を止めた。振り返れば、膝立ちになって着物を握り締める小娘さんが僕を見上げている。
「何を言っているのか全然わからないです。お願い、私の話を聞いて下さい」
「…だが」
「それに」
僕の手を取ると、小娘さんは掌に視線を落とした。
「やっぱり、汚れちゃってます。掌、拭かなきゃ」
「は…?」
「今拭くもの持ってきます。ちょっと待ってて下さいね」
すっと立ち上がった小娘さんは、手荷物から手拭いのような布を取り出し、僕の傍に再び腰を下ろす。
その行動に僕が首を捻ると、彼女はふふっと笑い声を上げた。
「頬紅が手に付いちゃってますよ」
「頬紅…?」
「はい。今日龍馬さんにお願いしてお店に連れて行って貰ったんです。そしたら、龍馬さんが帰り道に着物を引っ掛けてしまって。今直していたんです」
「…今日はずっとその頬紅を?」
「はい。お店でも付けてくれて。ピンク…桃みたいな可愛い色なんですよ。それがどうかしましたか?」
淡く桃色に染まった小娘さんの笑み。
その裏に隠された想いは、龍馬への恋心だと思っていた。
「…良かった」
「え?」
ぽそりと口を吐いた独り言。
それを聞き返される前に、僕は畳に置かれた黒い着物を手にした。
「武市さん」
「なに?」
「私…龍馬さんのことは好きですけど、でも…」
消え入りそうな声で話しながら、小娘さんは膝の上に置いた手拭いに視線を落とす。
「ねえ、小娘さん」
「はい」
「何故龍馬と行ったんだい?僕に言ってくれても良かったのに」
「あ…それは……」
頭を垂れ、口籠ってしまう彼女。
仄暗い室内では見えにくいが、その耳まで赤く染まっているような気がする。
「武市さんには内緒です」
「…どうして?」
「今は、まだ内緒…」
もう誰かに惑わされるような感情など残っていないと思っていたのに。
君の一言は、なぜこうも簡単に僕の心を揺り動かすのか。
「僕に内緒事は認めない」
「あ…だめです、また手が…」
「構わない」
しっとりと柔らかな頬に触れると、小娘さんがそっと顔を上げる。
一回り以上も年下の子どもとも言うべき女子。
僕がこの感情の名前を知ることになるのは、もう少し先のこと―。