夢幻


机上に開かれていた書物が夜風に揺れ、ぱらぱらと乾いた音を立てる。それに瞼を上げた僕を待っていたのは、紺碧一色に塗り潰された世界だった。

(眠ってしまっていたのか…)

先刻までの賑やかな掛け合いも、今ではすっかり聞こえない。それは、僕にとって長らく待ち望んでいた時間でもあった。

「これを片付けるまで、急な要件でなければ声を掛けないでくれ。…小娘さんによろしく」

彼女に会いたくないが為に、仕事を逃げ口上にするとは何と情けないことだろう。小娘を見切ったのは他でもない僕であると言うのに、今更何を恐れているというのか。

「もう終わりにしよう」

あの日、ぎりぎりのところで涙を堪えていたであろう小娘の顔が、色を無くした瞬間。残酷な言葉を吐いたと思う一方で、漸くこの苦しみから逃れられると思っていた。

「武市さ…待って…待って下さい…」

泣きじゃくる彼女を部屋に残し、僕はその場を後にした。小娘からすれば、なぜ僕が急にこんなことを言ったのか、いくら考えても分からないだろう。

―それも当然だ。
僕は小娘と別れるために、態とこじつけた理由を作ったのだから。

「たくさん迷惑掛けて…ごめんなさい……。お世話になりました」

小娘がここを離れると決めたのは、その次の日のことだった。
泣き腫らした目をしながら、それでも笑おうとする彼女が痛々しく、僕はその顔を見るに耐えなかった。

(全く…愚かなことだ)

そう仕向けたのは自分だというのに。
失笑を溢した僕は、明かりに手を伸ばす。こんな暗闇に身を置いているから、余計なことを考えてしまうのだ。

「……武市さん」

だが、それが行灯に届くことはなかった。空耳かと思い視線を変えてみるが、月明かりもない今宵は、人影を確かめることが出来ない。

「お久しぶりです。…小娘です」

けれど、再びその声色が耳に届いたとき、僕は漸くこれが夢ではないことに気が付いた。

「…何か用かい」
「あの…入っても良いですか」
「悪いが仕事中なんだ。用があるならそこで言って欲しい」

叱り付けるように答えると、怯えた小娘の顔が目に浮かぶ。だが、次に取った彼女の行動は、僕の想像を裏切るものとなった。

「嘘…吐かないで下さい……!」

勢い良く開いた障子が、張り詰めていた空気を壊す。同時に、嗚咽が混ざった小娘の声が耳を打った。

「武市さんっ……」

一歩一歩畳を踏み締め、涙ながらに僕の名を呼ぶ小娘は、さも親とはぐれた幼子のようだった。
「それ以上近寄らないでくれ」
どんなに心の中で叫んでも、その言葉は声にならない。

「…小娘……」

どうして君は、いとも簡単に僕の心に入り込んでくるんだろう。どんな想いで僕が別れの言葉を口にしたか、君はまるで分かっていない。

膝に置いていた手を上げると、柔らかな温もりが指先を伝う。胸許にぽすんと軽い衝撃を感じたのは、それからすぐのことだった。

「武市さんの嘘つき……」

すっぽりと収まる細らかな身体。
滑らかな髪から薫る花のような匂い。
まだ別れてから幾月も経っていないというのに、それが酷く懐かしい。

「明かりも点けないでお仕事なんて…嘘ばっかり」
「それは…」
「そんなに私が嫌いですか…?もう顔も見たくないくらい…?」

首に掛かる彼女の吐息。
それだけで、この秘めた想いを吐露してしまいそうになる。

「…ああ、嫌いだよ」

この手を彼女の背中に回してしまう前に、僕は拳を固めた。今宵の頻闇(しきやみ)に感謝しなくては。もしも月明かりがあったなら、僕はこのまま君を抱き締めてしまっていただろう。

「僕は小娘の顔も見たくない。それなのに君は」
「たけ…」
「これで満足かい?もう僕達は終わったんだよ」
「ふ…ぇっ……」

崩れ落ちていく彼女を支えることもせず、僕は小娘を見下ろす。

なぜ僕達は出逢ってしまったのか。
僕にとって君は未来の人間で。
君にとって僕は過去の人間で。

そんな二人が幸せになれる道などないというのに。

「でもっ…私、は…それでも貴方のことが、」
「…っ…言うな…」

無意識に封じた唇は、初めて口付けを交わしたときと同じ、蕩けるような心地を思い起こさせる。

例え一時でも。
君を愛することが出来て幸せだった。
二度と僕らの道が交わらなくとも。
こんなに愛したのは小娘だけだと、この想いが揺らぐことはない。

「言わないで…小娘……」
「ふ……」

遠くから微かに聞こえてくる小娘の名前。自身の頬に温かな滴が伝っているのを感じながら、僕は彼女の耳をそっと塞いだ。

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