迷霧(3)


夕餉を終え、彼女の部屋の前で足を止めた僕は、一旦障子に掛けた手を下ろす。女将によれば、小娘さんもまだ夕餉を済ませていないはずだが、荷造りに疲れて床に就いてしまったのかもしれない。

「長州、か…」

ふいに呟いた独り言は、瞬く間に闇に溶けていく。
彼女が僕の手の届かないところに行ってしまう―。
だが、これで良かったのだと思う。

元々失うものなど何もなかった。
だからこそ、己の信念を突き通すためなら何でも出来た。
しかし―それは小娘が僕の前に現れるまでのことだ。

君が好きだと言えたらどんなに良かっただろう。
死を隣り合わせにして生きてきた僕は、小娘に出逢って初めて安らぎを知った。

小娘を僕だけのものしたい―。

その欲求は、消えるどころか日増しに増大するばかりだった。

けれど、この先僕が命を落としたとき、小娘はどうなるのだろう。
例え想いを伝えたところで、彼女に悲しみを残すだけだ。
それならば、小娘の未来に僕は必要ない―。

「…未練たらしいことだな」

頭では何度となく繰り返してきた言葉も、心はそう簡単に納得してくれないらしい。自嘲めいた薄笑いを浮かべた僕は、慣れぬ酒を盃に注ぎ、ごくりとそれを飲み干した。


見慣れた寺田屋の長廊下も庭景色も、もう当分は見られない。けれど、それよりも悲しいのは、この人の傍にいられないこと―。

「龍馬達には僕から話しておく。急だったからと言えば、皆分かってくれるだろう」
「ありがとうございます、武市さん」

荷物を詰め込んだスクバを手にし、私は微笑みながら武市さんを見上げる。上手く笑えているか分からないけれど、こうしていないと押し殺した感情が溢れてしまいそうだった。

「もう玄関に迎えに来てくれているみたいで…。慌ただしくなっちゃってごめんなさい」
「いや、僕のことなら気にしないで良い」

目を細めた武市さんは、私の髪をふわふわと撫でてくれる。だけど、これも今日で最後になるかもしれない。そう考えたら、いつの間にか視界が滲み始めた。

「…小娘さん」
「ごめ…な、さい…私…」

何度拭っても、堰(せき)を切ったように涙が次から次へと溢れてくる。けれど次の瞬間、それは目の前の人によって止められてしまった。

「ん……!」

初めて重ね合わせた唇は、蕩けるように甘やかで眩暈がしそうだった。絡み合う舌の柔らかさと合わせる度に深くなる口づけが、私の身体を少しずつ麻痺させていく。

「さよなら、小娘…」

折角貴方を忘れようとしたのに。
こんなキスをされたら、また貴方が恋しくなってしまう。

「…小娘様?」
「あ…ごめんなさい。ぼうっとしてて…。もうすぐ、長州藩邸ですね」

愛する人に必要とされていないのなら、せめて必要としてくれる人の役に立ちたい。
そう思って貴方を諦めたはずだった。
だけど、私が必要としているのは―。

「…ごめんなさい」

お屋敷が見える直前で立ち止まった私は、思わず踵を返す。

「あ…!小娘さ…」

武市さんが私を必要としてくれなくても良い。
あの人が私のことを何とも思っていなくても、それでも良いから。
私は貴方の傍にずっといたい―。

「小娘さん…?」
「武市さっ…あ…!」

廊下の柱に寄り掛かり、庭を眺めていた武市さんは、走り疲れて転びそうになった私を受け止めてくれる。私はその胸許に顔を寄せ、きゅっと彼の着物を掴んだ。

「私…長州には行きません」
「なっ…どうし…」
「だって」

『私は武市さんが好きなんです』
顔色の変わらない武市さんを見上げ、背伸びをした私は、そっと彼の肩に手を掛ける。

「だからもう迷いません。この先何があっても、私は貴方の傍にいます」

安全な場所なんて要らない。
私が欲しいのは、貴方だけ―。

「小娘…君は…」
「何も言わないで…。…私が貴方の傍にいたいんです…」

二度目に重ねた口付けは、さっきよりもずっと幸せな気持ちに満たされる。それは、このときを待ち続けていた私にとって、漸く手にした温もりだった。

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