涙雨(3)
右へ左へ飛び交う言い争いを片耳に聞きながら、僕は黙って味噌汁の椀に口を付ける。静かに朝餉を食べることが出来ないのは、最早今日に限ったことではない。
「…流石に夜這いは不味いだろう」
「じゃから夜這いじゃないと何度も言うとるじゃろう!わしはただ…」
「姉さんの寝顔を独り占めしてたなんて狡いッス!龍馬さん!」
小娘さんが席を立ってからというもの、話題はすっかり彼女のことで持ちきりだ。中岡から朝のことを聞いたらしい以蔵は、やれやれとでも言いたそうに箸を進めている。
「皆さん、どうかしましたか?」
膳を抱えた彼女がひょっこり顔を出すと、龍馬は薄らと頬を染めたまま片手を振った。
「い、いや、何でもないぜよ。それより小娘さん、今日わしらは帰って来んかもしれん」
「え…?皆さん、ですか?」
「はい。今日はそれぞれで会合がありまして…。どれも長丁場になりそうなんです」
一旦会合が始まれば、泊まり込みになる場合も少なくない。無論、それは小娘さんも分かっていることだろう。
「あまり無理しないで下さいね。お気を付けて下さい」
穏やかな笑みを浮かべた小娘さんは、再び廊下へと足を向ける。だが、いつもと同じように見えるその横顔は、僕の心にどこか引っ掛かりを残した。
「―本当に帰るのか、武市」
「ええ。気になることがありまして。今日はありがとうございました」
予定より早く会合を終えた僕は、高杉さんの誘いを断り、寺田屋へ帰ることを選んだ。
気になることの理由は言うまでもなく小娘さんだが、それを彼の前で口にすれば自分も行くと言い出しかねない。
「…雨が降りそうだな」
高杉さんの視線の先を見ると、真っ黒な雲が空に立ち込めている。その言葉通り、もう暫くすれば雨が降り出すのは必至だろう。
「傘、持ってくか?」
「いえ、大丈夫です。それでは失礼します」
悪天に託(かこ)つけ、急ぎ足で長州藩邸を後にした僕は、何故か胸騒ぎを抑えることが出来なかった。
勘違いだと言われればそれまでなのかもしれない。だが、最後に見た小娘さんの笑顔が妙に頭から離れなかった。
(…どこか無理をしているような…―)
言い知れぬ不安が頭を過ったとき、ぽつりと冷たい滴が頬を伝う。いよいよ泣き始めた空を見上げながら、僕は寺田屋の帰路を急いだ。
寺田屋に着いた頃には、小声での会話が難しいくらい雨脚が強くなっていた。濡れた髪と着物もそこそこに、彼女の部屋の前で足を止めた僕は声を失った。
文机に顔を埋め、時折肩を震わせる小さな背中。それは、僕が初めて見る小娘さんの姿だった。
何故もっと早く気付いてあげられなかったんだろう。
君がその笑顔の裏に、深い悲しみを隠していることに―。
「…小娘さん」
声を掛けるも、彼女に変化はない。
それは雨音のせいなのか、それとも深い悲しみ沈んでいるせいなのかは分からない。だが、気が付けば僕は、無意識のうちに小娘さんを抱き締めていた。
「武市、さん…?」
濡れた頬を拭ってやると、小娘さんは慌てて顔を背ける。恐らく、本当なら誰にも泣き顔を見せたくなかったのだろう。
「ごめんなさい、何でも、ないんです…。会合、早かったんですね…」
「…我慢しなくて良いんだ」
一瞬目を見開いた彼女を胸許に引き寄せ、僕はその背中をゆっくりと撫でる。
「泣きたいときは思い切り泣きなさい。顔を見られたくないのなら、こうしていれば良い」
「武市さん…」
腕に力を込めると、小娘さんの身体がびくんと揺れる。すると、次第に彼女の潤み声が雨音に混ざり始めた。
「こうして置いて貰ってるだけで幸せなんだって…分かってるんです」
「…うん」
「でも…やっぱり一人は寂しいんです…だから…私……」
たった一人で過去に放り出され、今まで彼女はどれほどの我慢を重ねてきたのだろう。それを考えただけで、胸が張り裂ける思いだった。
「これからは僕が傍にいるから…だからもう、一人で泣かないでくれ」
小娘さんの悲しむ顔は見たくない。
出来ることなら、この世界にいる限りは、僕を頼って欲しい―。
「武市…さん…武市さん…」
きゅっと着物を掴み、切れ切れに僕を呼ぶ小娘さんの声が降り頻る雨の中に溶けていく。
それは、僕が自分の気持ちに気付く少し前の出来事だった。