星降り(2)


「あ、りがとうございます…」

やっと動いた唇は、そう口にするだけで精一杯だった。火傷そのものは大したことなかったはずなのに、今では傷口が燃えるように熱い。

「それにしても」

お皿を空にすると、半平太さんは溜息混じりに呟く。

「小娘が僕を嫌いだったとはね」

少し前の自分の発言を思い出し、はっと彼を見上げる。態とだと分かっていても、悲しみが滲んだ瞳に見つめられると、ずきんと胸が痛んだ。

「ち、違うんです。あれは成り行きというか、その…」
「無理をしなくて良いんだよ。気持ちが変わるのは仕方がないことだ」

視線を逸らし、腰を上げた半平太さんは静かに廊下へと足を向ける。その姿を見た私は、無意識のうちに彼の背中に抱き着いていた。

「や…!どうしてそんな意地悪言うんですか?私が半平太さんを嫌いになる訳ないじゃないですか」

きゅうっと私がその身体を抱き締めると、くすっと小さな笑声が聞こえる。こうなることは分かっているのに、それでも私はいつも素直な言葉を口にしてしまう。これは、惚れた弱味なのかもしれない。

「それじゃ」

私の手を外し、振り向いた半平太さんは、満足そうに目許を和らげる。彼はその手で私の頬を包み込むと、親指で唇を撫で始めた。

「僕のお願い、聞いてくれる?」

唇を指で塞がれ、返事が出来ない私は小さく頷く。

「一緒に東京に行って欲しい」
「東京、ですか?」

思ってもみない「お願い」に、私はついぽかんとしてしまう。けれど、半平太さんは相変わらずふんわりとした笑みを浮かべながら口を開いた。

「ああ、君のことを紹介したい人がいるんだ」


井戸で顔を洗い、慣れない廊下を歩いていると、竹刀を振るうたくさんの人の姿が見える。朝稽古に打ち込むその姿は、剣道道場として名高い志学館の名前を強調しているように思えた。

「小娘さん」

その声に庭から正面に視線を戻すと、優しい笑みと視線が合う。ほっとした私は、思わず自分も相好を崩した。

「桃井さん。おはようございます」
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか」
「はい、おかげさまでぐっすりです」

かつて、半平太さんが剣術修行として訪れ、鏡新明智流皆伝を会得した志学館。私に声を掛けてくれた桃井春蔵さんは、その道場主であり、彼の師にあたる人だった。

「あの桃井さん、厨はどちらでしょうか?」
「厨、ですか?」
「はい。何かお手伝いが出来ないかと思いまして…」
「そんなことは気にしないで下さい。貴女は大切なお客様なのですから」

目を細めた桃井さんは、「それよりも、武市君は道場にいますから一緒に行きましょう」と廊下を進み始める。その後ろを歩きながら、彼が纏う物静かな雰囲気は、半平太さんにどこか似ているような気がした。

「小娘。もう起きたのか」
「おはようございます、半平太さん」

案内された道場に入ると、竹刀を立てて頬を緩める半平太さんはほとんど息が乱れていない。私は持っていたハンカチを取り出し、額から流れる彼の汗をそっと拭う。

「相変わらず腕は健在みたいだな」

桃井さんの声に道場を見渡すと、壁にぐったりと寄り掛かる大勢の人の姿があった。それはこの時代に来る前、毎日のように見ていた光景だけに、ふと懐かしさが込み上げてくる。

「半平太さん!私も久しぶりにお稽古してくださいっ」
「それは…小娘っ…!」
「桃井さん、竹刀を貸して頂いても良いですか?」
「ええ、どれでも使ってください」

半平太さんの返事も聞かずに、私は道場の隅に置かれた竹刀置き場に駆け寄る。だけど、そのことに夢中だったせいで、床に無造作に置かれた竹刀の存在に気付いていなかった。

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