clap2(4/28〜7/7)
何も言わずに青い暖簾を潜る武市さんに続き、懐かしい玄関に上がると、ふわりと身体が宙に浮く。それはあまりにも突然のことで、私は驚きの声を出さずにはいられなかった。
「今日の外出(そとで)は止めにしよう」
「え…。そ、そんな…!」
反論しようとする私の口に人差し指を当て、二階へ上がると、武市さんはゆっくり手を下ろした。一方の私はといえば、なぜ彼がそんなことを言うのか、未だにこの状況を飲み込めずにいた。
「武市さん…?」
不安な気持ちで彼を見ると、その手がすっと私の足許に下りてくる。その瞬間、今まで気付かない振りをしていた痛みがじんじんと疼き始めた。
「…やはり、な」
足袋を脱ぐと、慣れない下駄で走ったせいか、指の間が赤く腫れている。私はそれを手で隠すと、俯きながら武市さんに問い掛けた。
「いつから気付いていたんですか?」
「最初に会った時だ。何となく、いつもと足取りが違ったからね」
そう言って薬を取り出し、彼は私の足をまた撫でる。ただ薬を塗ってくれているだけなのに、その長い指は私の鼓動を徐々に速めていった。
「武市さん、これぐらい平気です。だから…やっぱり…」
この日を何日も前から楽しみにしていた私にとって、靴擦れなんて大したことじゃなかった。それよりも、せっかく彼が作ってくれたこの時間を無駄にしたくなかった。
「出掛けるのはいつでも出来る。無理して悪化してしまったら大変だろう?」
「でも…」
「…ああ、それとも」
彼の言葉と同時に、また身体がふわっと浮き上がる。
「このまま君を抱いて出掛けようか」
そう言ってどこか艶かしく微笑む彼に、身体中の熱が顔に集まっていく。そのまま固まる私を見て、武市さんは更に笑みを深めると、廊下へと歩き始めた。
「…本当は、今日あの下駄を履いてくるつもりだったんです」
縁側に下ろされ、隣に座る武市さんにそう溢すと、彼はきょとんとした表情になった。
「あの下駄?」
「はい。…武市さんが前に買ってくれた下駄です」
私が長州藩邸のお世話になる半月前、武市さんは今日の着物と一緒に下駄をプレゼントしてくれた。そしてその下駄は、今日私がずっと探していたものでもあった。
「そうだったのか」
「はい。あ、あと、お渡ししたいものがあるんです」
私は二階に戻り、持って来た風呂敷包みを彼との間に置いた。形が崩れていないか心配しながら包みを解くと、武市さんはそれを見てふっと声を漏らした。
「桜餅か。君が作ったのかい?」
「はい。でも、桂さんにだいぶ手伝って貰っちゃいました。あ、ちょ、ちょっと待って下さいね」
私はその中から小さい桜餅を取り出し、ぱくりと口を付ける。朝からばたばたしていたせいで、試食も出来なかったけれど、とりあえず味は悪くないようだった。
「良かった。上手く出来たみたいです。武市さんも召し上がって下さい」
ほっと胸を撫で下ろしながら、私は風呂敷に手を伸ばした。
だけど、その手は突然武市さんによって止められてしまった。
「…?」
「それでは、遠慮なく」
その瞬間、桜餅を持っていた自分の手が浮かび、気が付けばそれは彼の口の中に収まっていた。
「え!あ、あの武市さん…!」
動揺しつつもその手を引き戻せずにいると、指先に彼の舌の感触が伝わってくる。ぞくりとするようなその感覚は、私から抵抗する力を奪っていくようだった。
「やはり君は、良い嫁になりそうだな」
ぺろりと音を立てて唇が離れても、私の頭は働こうとしてくれない。そんなぼんやりする私を見た武市さんは、またあの艶っぽい笑みを作った。
「今度は、僕が食べさせてあげようか?」
顔を近付けてそんな誘惑をする彼に、私はこくりと頷く。
久しぶりに訪れた幸せな時間は、私にお菓子よりも甘い後味を残した。