九月五日。金曜日。 昨日の大雨が嘘のように良く晴れた空は、湿度の高い気温を引き連れ日本列島を真夏日にした。 朝の八時。定時より大分前に更衣室へ姿を見せた青峰は、万端なまでに用意が整っている火神へウンザリとした表情を向けた。 朝の挨拶も無しにロッカーを開けた青峰へ、火神は非難めいた口調で声を掛ける。 「青峰、お前昨日の電話は何だよ」 「携帯壊れたんだよ。お前のせいで」 「はぁ?」 おおよそ"答え"とは言いづらいその返答に、火神は呆れた顔をみせる。青峰大輝はいつもこうだ。質問にキチンと答える事など滅多に無い。マイペースが故の雑な性格だ。 「壁に投げたらメシャメシャだ」 「完ッ全にオレのせいじゃねぇだろ」 バチンと激しく音を立て、鉄製のロッカーが閉まる。閉めたのは赤毛の男で、同時に青峰へ鋭い視線を飛ばす。その視線を受け流した青峰は、鼻で笑いながらこう言った。 「携帯買わなきゃだぜ」 「スマホにしろよ」 火神は記憶を辿り、青峰の右手に握られている通信端末を思い出していた。折り畳み式のフューチャーフォンと呼ばれる代物。周囲で使っているのは目の前の青峰と、今日はまだ姿を見せない笠松幸男くらいである。 「壁にぶつけても、壊れないならな」 「無茶言うんじゃねぇよ」 天井仰ぎながら呆れたまま声を出す火神。例えタフネスなモデルであったとしても、目の前のガタイ良い男性が渾身の力で壁に叩き付ければ、どんな頑丈なスマートフォンだって壊れてしまうだろう。 いつの間にか着替えを終えた青峰は、Tシャツで小鼻の汗を拭いながら火神へ質問する。 「火神、今日の夜空いてるか?」 ケースも何も着けていない剥き出しのスマートフォンを宙に放った火神は、その四角く白い機器を上手にキャッチして青峰へ答えた。 「先約が居る」 「断れ」 青峰の斬るような我が儘に、火神は辟易した。 「断れって……」 スマホをベンチに置いた火神は、早朝からのメッセージが無い事を確認する。なら、昨日なまえと交わした約束がキャンセルとなる事は無いだろう。 明後日は大事な国際試合だが、今晩の内に彼女を車で迎えに行く。笠松にバレたら怒鳴られ叱られ縛られた挙げ句に監禁されるに違いない。縄脱けの心得は無い。 「クソガキに関する事だ」 青峰の台詞に、火神はドキリとして顔を上げた。真剣な青い眼差しに貫かれたのはその一秒後。 「悪ィ、その"クソガキ"からのお誘いだ」 火神の口振りが唸るように低くなる。青峰は、視線を外す事なく挑発し続けた。 「クソガキは訂正して、ソイツを尻軽女に変更しとくぜ」 「捨てたのはお前だ、青峰」 威嚇に似た火神の視線は、青峰の見下した態度を咎める。せっかく実り繁った初恋を、こんなライバルにズタズタにされたくは無いからだ。 「喧嘩してんなよ、本番前だぞ」 二人の重々しい空気は、開けられたドアから逃げるように散った。入室して来たのはチーム主将の笠松幸男だ。最近は以前の覇気が見られず、溜め息ばかりを繰り返している。試合前の緊張感に飲まれた、典型的なタイプだ。 そんな疲れた様子の主将は、二人しか居ないロッカールームを見渡してこう尋ねた。 「黛は? 客人が来てる」 「オタボッチに!? 女か?」 青峰は驚愕で目を見開く。火神も火神で、青峰の台詞の後に口笛を吹いて囃し立てるのだった。 「男だ」 「何だよ」 さっぱりとした笠松の答えへ、途端に興味を無くす両名。ここで相手が女性だとしたら、おそらく二人は偵察に行ったのだろう。その後、ニヤニヤしながら黛をからかうのだ。主に下ネタ方面で。 笠松は、顎を擦りながら険しい顔を見せた。そして外の暑さにやられた額は汗ばみ、頬は些かの赤みを帯びている。 「なんっつーか、その。意外な人物過ぎて……」 「誰だよ?」 青峰の質問を無視しながら折り畳み式の携帯を取り出した笠松は、ボタンを操作し電話帳から黛を探し出す。長いコールの後、一方的に用件を告げる笠松へ、抑揚の無い声が『……会わなきゃ駄目か?』と不満気な態度を見せたようだ。 「嫌なら断る」 そう言って数回相づちを打った笠松は、通話を終了して黛へメッセージを打ち始める。 「誰だよ、気になんなぁ」 火神は、笠松の携帯を覗きながらニヤニヤする。鬱陶しそうに顔をしかめた笠松は、癖となりつつある溜め息と共に質問へ答えた。 「虹村修造だ」 「はぁ? オタボッチにィ!?」 懐かし過ぎるその名前に、青峰は情けない声を出してしまった。そして、何故その"先輩"が自分達"後輩"を無視してまでも黛千尋に用事があるのか、想像も付かないようだ。青毛の男は『納得出来ない』と言わんばかりに口を曲げてしまった。 「紫原やオレじゃなくて、アイツに用事って何だよ? そもそもアイツに来客なんて、明日は槍が降るだろ」 「青峰お前、攻めるなァ」 火神はケタケタ笑い、青峰のジョークにパチンと指をならし賛同する。 「用事は聞いてない。ただ、会いたいそうだ」 白けた顔で笠松から視線を外した青峰は、退室がてらに先日聞いた事実を教えてやる事にした。 「……虹村サン、中国代表のフィジカルトレーナーだぞ」 目をパチパチさせた笠松は、数秒後に絶望的な顔を披露してくれた。初耳だった上に、またひとつ苦労しなければならない案件が増えたようだ。青峰の整った後頭部へヤジを飛ばすのだった。 「もっと早く言え!!!」 ………………………… 午前八時四十分。日本代表が練習場にしているスポーツセンターの入り口へ、一人の男が姿を見せた。白いワイシャツに細身のパンツスーツ、クールビズでノーネクタイ。昨日の雨のせいか、今日は湿度が高く蒸し暑い。そんな不快指数高い日にも関わらず、その男は涼しげな顔をしていた。 灰色の長めな前髪をくちばしピンで纏めておでこを見せている。この髪型が、後程青峰と火神に爆笑されるなんて、涼しげな顔の男は知らない。 主将から客人が来ていると聞いた男――黛千尋はメッセージで指定された場所に着き、見知らぬ男を目の当たりにして軽い溜め息を吐く。 「何の用だ?」 自分と幾ばくも変わらなさそうな客人へ眉毛は声を掛ける。年上だろうが年下だろうが、そんなの黛には関係ない。どうせ今日だけの関係だ。 客人は黒く鋭い瞳を黛へ向けると、少しだけ仰天したようだ。しかし、そのまま意地悪めいた笑顔を貼り付けると真っ直ぐに右手を差し出した。 「虹村修造です」 「……黛、千尋」 目の前の青年は、切れ長な癖に意思の強そうな瞳をしていた。自分とは正反対。物怖じなく他者に突っ込んで行けるのだろう。たった一言の会話で、ソコまでを分析した黛千尋は黙ったまま次を待つ。 「どんな選手か知りたかったんだよ。黛千尋だけ、データが無さ過ぎる」 肩を竦めた来客は、黛を頭から爪先まで一瞥する。目付きのせいからか不良そうに見えて、根は真面目なのかもしれない。『虹村』という名には聞き覚えがある。だが、具体性は無い。 「目立つ選手じゃ無いからな」 「オレもそう思ってる、プレーを見る限りは」 台詞と共に虹村修造は、人当たりの良さそうな印象を瞬時に引っ込めた。喧嘩のような感想を本人にぶつけた虹村だが、やはり黛の何かが気になるのかさっきから上から下までを舐めるように眺め続けている。 「だったら、気に掛ける理由なんか無いだろ」 ふいと黛から視線を反らした虹村は、ボンヤリとした顔でどこか遠くへ意識を飛ばす。意図が読めない黛は、イライラする感情を腕組みで誤魔化した。 そうしてまた真剣な表情に戻した虹村は、薄い唇を開くのだった。 「……黒子テツヤ。オレの後輩だ」 予想外な人物の名が飛び出す。 この男は誰だ? 何のつもりでココへ来た? 何でそんな奴の名を出してきた? グルグルと螺旋を描く疑問の渦は、黛の足を半歩だけ後退させた。 撤退。戦略的撤退。 理由は分からないが、目の前の彼には"自分のプレースタイル"を見破られてはいけない気がした。 「アイツはコートの外から認識出来ない程に、存在が薄い」 虹村の一言で、記憶のプレイバックが始まった。相当昔の映像だ。モヤが掛かって色も不鮮明。だが、何年経っても上書きされる事の無い記憶……。 黒子テツヤは、虹村の言う通り気配の無いプレイヤーだった。彼のパスは、ボールがひとりでに軌道を変えたのだと錯覚させる。 だが、全方位から姿が見えないと云う事は、一度戦えば注力され対策を立てられてしまう。だからこそ黒子テツヤは幾度となく新しい戦略を編み出さなければいけなかった。知恵と努力で高校の三年間を乗り越えたのだ。 だが、黛はそうじゃない。もっとスマートなやり方で、影の薄さを自身のアドバンテージにして来た。自分にしか出来ない、唯一の戦略。 ソレをコイツに知られたら……。 いや、きっともう気付かれている。 「……黒子テツヤの知り合いって言ったな?」 口角だけを上げて無理矢理に笑顔を見せた黛は、不気味という形容詞が良く似合った。そうして、黛千尋は笑顔の奥で歯を噛み締めながら虹村へこう唸るのだった。 「オレはそんな奴と比べられる程、弱くない」 コレを虚勢と言うのは、きっと正しいのだろう。他者を退ける程の自信は、黛らしく無いのだから。 「シューゾー、何か分かりマシタカ?」 「厄介なゲームになりそうだぜ」 口をへの字に曲げた虹村は後部座席に乗り、晧月の隣へ腰掛けると足を組んだ。そして悩ましげに顎を擦ると、隣から下手な日本語で文句が飛んできた。 「アナタが、厄介にしているのデスヨ。こんな時期ニ……」 「まぁ、良いじゃねぇか」 その溜め息混じりの非難に、虹村は人の悪そうな笑顔で返す。そしてパチンと指を鳴らし、総合的な判断を下した。 「黛千尋が、キーパーソンだ」 《正気かよ……》 半ば軽蔑に似た眼差しを虹村へぶつけた晧月は、件のプレイヤーを思い出す。ソイツは、何故日本代表のレギュラーに居られるのか不思議な程に普遍的なPFだった。シュートの決定率が高い訳でも無い。ディフェンスだってドリブルだって秀でていない。上手い場所に潜り込んだと思えば、誰かにパスを回してしまう。……そんなアマチュアのような人物が、何故キーパーソンなのだろう。首を捻っても、答えは出てこなかった。 ………………………… 九月五日。新学期が始まって、そろそろ文化祭の時期となる。夏休みに浮かれていた同級生は、未だ終わらぬ課題に嘆いている者が数名。 友人の数名から距離を置かれたなまえは、移動教室さえ一人だ。教科書とノートの間に隠したスマートフォンを眺めて溜め息を付く。何度問い合わせても、【夜八時。駅の男子トイレ】から先のメッセージが無い。彼からの指令は、本当に終わったようだ。 今日の夜、再び火神大我と会う約束をしている。惚れたか? と聞かれた時、答えられなかったのは迷っていたからだ。火神が好きなのか、罪悪感に堪えられなかったのか……。彼女は、ソレが判らなかった。 「ねぇ、放課後……時間ある?」 「……淳ちゃん」 階段を上がろうとした時、待ち伏せしていたのか、踊り場にはかつての親友が立っていた。窓からの光が逆光となり、友人のディテールを黒く染め上げていた。なまえが階段を登るよりも先に、向こうから降りて来たようだ。黒く影取られていた友人は、真剣な表情でこう問い質して来た。 「好きな人が居るって、夏休みに言ってたよね?」 「あ……。う、うん」 ビクリと心臓が跳ねる。ソレは、目の前の友人から「モテモテごっこだ」と野次られた記憶が脳裏に過ったからだ。視線を上履きシューズへ向けたなまえは、友人の言葉を待つ。 「どうなったの?」 昨夜の様子を伝えたら、友人は何と言うだろうか。呆れられて、関係が破綻しました。もう連絡すらありません。その代わり、違う人と付き合う事になりました。……最悪だ。コレを「モテモテごっこ」と言わずに、何と言うのだろうか。 「駄目、だったよ? 当たり前なんだけど。恋愛って難しいね」 エヘヘ……なんていう愛想笑いが口から飛び出た。こうやって少女は、誤魔化す事が巧くなっていく。恋愛について語れる程多くは知らないけど、"駄目"と云う単語が口から出た瞬間、なまえは泣きたくなってしまった。 駄目だと自覚すると、楽しい思い出ばかりが浮かんでくるからだ。毎晩眺めた広い背中に、ココが居場所だと教えてくれるようなベッドの隙間。買い物に行った時、彼は背中を丸めてダルそうに歩いていた。買い物カゴが似合わないと思った。 コッチは沢山泣かされたけど、彼は自分を思って泣いた事があったのだろうか。今となっては、もう聞く事も憚られる。 「なまえ、変わったよね」 「え?」 友人の言葉に顔を上げて、自分が俯いていた事に気付く。授業時間が迫っているのか、廊下には誰も居ない。遠くにある三年生の教室から賑やかな声が聞こえてきた。そして静かな廊下は、切り離された世界のような気がした。 「自分の意志がちゃんとあるって感じ。アンタ、あんま主張しないから」 授業開始のチャイムが鳴る。毎日繰り返されるメロディー。ウンザリする程の日常なのに、この場で聞くのはまるで違ったモノのような気がした。サボタージュなんか気にしないのか、友人は会話を続けた。 「…………佐久間君、映画に誘おうかと思って」 申し訳無さそうな友人の姿に、なまえは笑顔で言葉を返した。そう言えば、友人は佐久間を好きだったのだ。だから喧嘩をした。 「私、好きな人と映画観たんだ。ホラー駄目だって言ったのに、ホラー観させられた。最悪だよね、意地悪なんだよ」 映画の内容なんて覚えていない。怖かったし、音が小さかったので台詞もイマイチ聞き取れなかった。アッチが吹き替えが良いと言うから吹き替えにしたのに、結局字幕まで付ける羽目になったのだ。そんな"どうでも良い事"と、あの広い背中の温かさだけは覚えている。 「……年上だっけ?」 「あのね! 初めて会った時にご飯奢って貰ったんだけど、何だと思う? 牛丼だよ! 勝手に決められたの!」 なまえは話を続けた。こうやって友人に思い出話をすると、少しだけ彼との思い出が鮮明になるような気がする。そして、また明日から関係がリスタートするような気もした。だから良い事も悪い事も含め、彼との思い出の全てを友人に話す事にした。 「ありえないんだけど!」 友人はそう言って、少しうるさい笑い声を廊下に響かせるのだった。 ………………………… 午後六時。最後の練習が終了し、日本代表の面々は解散を言い渡されていた。明日は午前十時からミーティング、軽い運動の後にフィジカルやメンタルのトレーナーとカウンセリング。青峰大輝は笠松に「ミーティング以降は全部パス。風俗行った方がよっぽど良いぜ」と言い放ち、説教されたのだった。 「話って何だよ?」 ロッカールームで最後まで残るよう言われた火神は、その命令を出した青峰の着替えをダルそうに眺めてる。長ベンチに腰掛け、大きな背中を丸めて欠伸をした時、青峰が口を開いた。 「……火神、何でお前本気出さねぇんだ?」 ワイシャツに腕を通しながら、青峰はつっけんどんにそう質問する。質問の意図が分からないのか、火神は鼻で笑った。 「出してんだろ」 「出してる? ふざけた根性だな。それとも身体がジジイになったって事か?」 ガンッと乱暴な音が響いたのは、火神がロッカーを蹴ったからだ。ココまで馬鹿にされて黙っていられる程、火神はお人好しでは無い。 「……肩壊してハーフしか出れねぇ奴が言う台詞じゃねぇだろ」 「コッチはテメェのガラクタのような神輿担いでやってるんだよ。アメリカ行って『駄目でした』なんて、情けない事言うんじゃねぇぞ?」 ボタンを留め終えた青峰は、酷く冷めた視線を火神へ当てる。思わず目を逸らした火神だったが、バカにされている怒りは燻る事なく燃え続ける。 「……担いでくれなんて頼んでねぇ」 「なら、担がなくて済むようなプレーしてくれ。重過ぎて無駄にくたびれんだろ」 「何が言いてぇんだよ!!」 立ち上がった火神は、青峰へ手を伸ばす。ワイシャツを強引に掴み、憎いその身体を揺すぶって憤怒感を逃がそうとしたのだ。しかし、その手が青峰の首元を掴む事は無かった。 「火神お前さ、最近妙に上手く行ってる事……ねぇか?」 手首を掴まれた火神は、青峰の台詞に眉を潜める。無言の膠着状態が数秒間続き、興奮した火神の息遣いだけがロッカールームの静けさを際立たせた。 「分かりやすくしてやる。なついてきた人間、居んだろ」 「……だから何だ」 嫌な予感が火神の頭に浮かんだ。 「あの尻軽女、オレに惚れてる」 「結構前の話だろ」 「そうか? 昨日も会ったぜ?」 ピクリと右手の指先が跳ねた火神は、その挑発的な言葉に飲まれぬよう、青峰の様子から"嘘"を発見しようとする。コレが嘘でなければ、自分は弄ばれている事になるのだ。青峰大輝と、なまえから……。 「馬鹿な火神クンでも、理解出来るよな?」 「だから!! 何がしてぇんだよ!!!」 掴まれた手首をはねのけ、火神は怒鳴り声を上げる。コンクリートの室内はソレを吸収する事なく、ビリビリと空気を震わせた。 「火神!! お前は結局オレの手のひらの上で踊らされてただけなんだよ!!」 火神は、無意識の内に青峰の頬へ拳を叩き込んでいた。簡単に吹き飛んだ青峰は、ロッカーへと背中をぶつけ、そのまま身を預ける事にしたようだ。 「ざけんじゃねぇよ……。糞峰」 「まだ気付かねぇのかよ!! オレもお前もバスケしか残ってねぇんだよ!! 火神!! お前に恋愛なんて無理だ!! 弱くなるだけだ!!」 痛みに顔を歪める青峰は、少しだけ腫れた頬を懸命に持ち上げながら大声で火神の説得を始める。そんな状況も判別出来ない火神は、首を左右に振って拒否の意を示した。 「そんなのお前が決める事じゃねぇだろ!!!」 「だからお前は弱くなったんだよ!!!」 火神は、二発目のストレートをライバルの頬に叩き込もうと振りかぶった。 ロッカールームに慌てて入ってきたのは氷室で、彼は心配で二人の様子を偵察していたようだ。青峰を再度殴ろうとする火神を、後ろから羽交い締めにして止める。 「タイガ!! 駄目だ!! 落ち着け!!」 「離せよ!! タツヤァァァ!!」 「喧嘩なら選手権終わってからにしろ! 今喧嘩したって何にもならないぞ!!」 「今喧嘩しなきゃ負けるんだよ!! コイツのせいでな!!!」 標的を力強く指差す青峰は、火神の怒りを更に煽る。応戦しようと暴れる火神を必死に押さえ付けた氷室は、怒鳴りを重ねて二人を叱咤するのだった。 「いい加減にしろよ!!」 しかし氷室の命令など、ヒートアップした二人には届かない。今度は青峰が火神のTシャツを捻り上げ、メンチを切る番だ。 「火神! お前高校の時あんなに強かったじゃねぇか!! バスケしか無かったからだろ!!」 「……そんな、訳」 首元を予想以上に締め上げられた火神は、息苦しさから顔を歪める。 「お前は不器用だからひとつの事しか出来ねぇんだよ!! バスケ以外を作っちまったら駄目な人間なんだよ!!」 青峰が何故ここまで勝利に対して必死になるのか、火神には想像も付かない。全てを捨てて人生をバスケに捧げて掴む勝利にどれだけの価値があると言うのだろうか。 「抱えてるモン捨てねぇと中国に勝てねぇぞ!! オレもお前も!!」 「……でも、捨てたくねぇよ」 「捨てろ!!!」 威圧に飲まれたのか、火神の声が弱々しくなる。きっと昔の彼だったら、勝利の為に全てを捨てていただろう。だが、今の火神大我はそうじゃない。バスケに全てを捧げられる程の情熱は無いに等しいようだ。 「オレは! アイツもバスケも必要なんだよ!!」 火神は思いの丈を正直にぶつけた。欲張りで何が悪い。青峰は「バスケと恋愛を同等に語るな」と言うが、同等に扱っているつもりなど無いのだ。なのに、目の前のライバルはソレを理解してくれない。 「それじゃあテメェは本気になれねぇんだよ!! 何で分かんねぇんだ!!」 怒鳴り合いの後、静寂が始まったのは火神から切り上げたからだ。両者は肩で息をしながら興奮した心身を通常に戻そうとする。数度だけ深呼吸を繰り返した赤毛の男は、捻り上げられていた褐色の手を外させる。同時に氷室も火神の身体の拘束を解いた。 「……話はソレだけか? 青峰」 同じチームメイトとは思えない程に敵意を剥き出しにした火神は、青峰の横を過ぎて肩を怒らせたままにロッカールームから姿を消す。行き先は、きっとアリーナだ。怒りを静める為、彼は何度でもボールをリングに叩き込むのだろう。 火神が消えた後、青峰は静かに笑う。これで、出来る事は全てやったのだ。ココから先は火神自身に任せるしかない。 そして、男は次のフェーズに進む。数日前、笠松に叩き付けた自分の台詞を思い出しながら。 『今どうにかしなきゃ、未来も希望もねぇだろ!!」』 ………………………… アリーナに、シューズの擦れる音が響く。誰も居ないソコは静寂で、陰気で、自分独りの世界だった。 男は左足で踏み切り、高く跳ぶのだ。そうやって自分よりパワーのある強い人間を圧倒して来た。たった数十センチ他人より高く跳ぶだけで世界が変わる。世界を変えたくて、過酷なトレーニングにも耐えてきた。いつだって、天井からぶら下がった水銀灯が眩しかった。 「オレは、バスケが全てだとは思わない」 火神は、そう言ってボールを遠くへ投げた。フロアをバウンドする音はやがて消え、ゴロゴロと音を変える。 「タイガは、好きなようにすれば良い」 いつから居たのかは分からないが、氷室辰也はそう言って一度だけ溜め息を吐いた。こうやって氷室が拗ねた火神を追い掛けて来たのは二度目だ。合宿の夜を思い出した火神は、今日もまた兄貴分へ惨めで情けない本音をぶつけるのだろう。 「タイガがしたいようにするなら、フォローはする」 「……どういう意味だよ。フォローって何だ」 ピクリと目元が痙攣した火神大我は、自分が情けなくて仕方無かった。 「お前だって思ってんじゃねぇか!! オレがこのままじゃ駄目だって!!」 火神は咆哮に似た怒りを、数メートル離れた場所に立つ相手へとぶつける。広々としたアリーナは、男の声を吸収して再度の静寂を作り出した。 「そんな事……」 氷室が訂正の為に口を開いた瞬間、火神のスマホが呼び出し音を鳴らした。タオルと共に床へ置かれた通信機器は、電子的なメロディーを奏でる。 悲しげに眉を潜めた氷室は、白いスマホを眺めた後に俯きながら火神へこう告げる。 「でも……彼女には、会わない方が良い」 「好きにしろって言ったよな?」 火神は舌打ちの後に、反抗的な言葉を氷室へ向ける。宥めるような口調で、氷室は火神への説得を続けた。 「その余裕のなさじゃ、お互い傷付くだけだ」 「オレはそんなに不器用じゃない」 「でも、大して器用でもない」 その言葉に言い返せない火神は、氷室から逃れるように背中を向けて伏せた視線で床を眺めた。 バスケが全てじゃ無い。恋愛だってしたい。サーフィンも好きだ。腹一杯食べて、沢山遊んで、料理で皆をもてなす。友人を部屋に呼んで、ゲームして呑んで騒いで、二日酔いのままに朝を向かえる。彼女を夜景の綺麗なレストランに誘い、シャンパンを開ける。あぁ、アッチは未成年だからシャンメリーか……。何でも良いだろ、妄想なんだから。 しかし、青峰は「勝ちたいのならソレらの全てを捨ててバスケに打ち込め」と言う。……青峰らしくない。アイツは、ココまでチームでの勝利に執着する男じゃ無かった筈だ。自分さえ活躍出来れば満足する男の筈だ。 一体何が、アイツを変えた? 思考に飲まれた火神の背中に、バスケットボールがぶつかる。さっき遠くへ投げたモノだろう。氷室がご丁寧に拾ってきてくれたようだ。 「……何故タイガは弱くなった?」 「はァ?」 喧嘩を売られた気がした火神は、乱暴な口調で氷室へ喰って掛かる。しかし、氷室は言葉を続けた。 「監督にそう聞かれて、誰も答えられなかった」 片手で掴んでいたバスケットボールが、火神の手からすり抜けて床へバウンドした。指先に力を入れ過ぎたせいだろう。辛辣な言葉に、火神は唾を飲むしか出来ないでいた。 「つまり……誰も否定しなかったって事だよ、タイガ」 そう言った氷室は、フォローも無くサヨナラも言わずアリーナから姿を消す。彼の悲惨な置き土産に、火神の目元が熱くなる。鼻の先がツンと痛む頃に、火神は手のひらで目元を強く押さえた。 「それ位、オレだって分かってんだよ……」 高校時代より天井が高くなった気がしたのは、プロ入りしてしばらく経ってからの事。そして天井が高くなったんじゃなくて、自分が跳べなくなったんだと気付いたのは、つい最近の事だ。 中国戦まであと二日。 プレッシャーが、彼の身体を更に重くする。 ………………………… 一足お先に施設を出た黛は、騒がしい国道を真っ直ぐに駅へと向かう。昨夜の赤司が彼の頭を過る。 『……良かったじゃないか。守るべきモノが出来て』 黛は歩道の真ん中で立ち止まり、悔しさから拳に力を入れる。赤司征十郎に弱味を握られた事が単純に悔しかった。……いや、"こんな事"が弱味に直結する事が悔しいのだ。 人混みが、こんな所で立ち止まっている自分を迷惑そうに見ているのが分かる。こんな風に意図的に邪魔をしなければ、誰も黛千尋を認識しない。 人間なんて、自分勝手な生き物なんだ。アイツも、アイツも、どいつもこいつも。 でも……一番自分勝手なのは、オレだ。 スマートフォンを手にした黛は、履歴からある人物の名前を探ろうとした。 『来なくて良い。チケットは捨てろ』 そう告げようと思って、目当ての人物をタップする。 ――しかし、黛は背後から自分の名を呼ばれた事によって、ソコから先の作業を一旦中断した。 「オタボッチ! 顔貸せよ!」 聞き惚れそうな位に低くガサツな、男性らしい声だ。そんな声で、こんな失礼な呼び方をする人物はひとりしかいない。 青峰の方を一度も見る事なく、黛は口を開いた。 「今度はオレに八つ当たりか」 黛の隣に立った青峰は、自分達をジロジロ見る人混みを睨みながらこう質問をした。周囲より大分背の高い二人は、特別目立ってしまっている。 「何話してたんだよ。虹村サンと」 「大した話、してねぇよ」 先に足を踏み出したのは黛で、青峰はその後を着いていく形となった。傍若無人な程にマイペースな青峰にしては珍しく、他人へ自分を委ねようとしている。そんな青峰の心境の変化へ、本人はおろか黛さえも気付かない。 「まぁ、そんなんどうでもいい。どうせ何も話してねぇんだろ?」 「じゃあ聞くなよ」 ぶっきらぼうに言葉を返した黛は、一度も横を歩く青峰を見ないままだ。そんな冷たいチームメイトへ、青峰は懇願と呼ぶには程遠いお願いを投げ付ける。 「お前さ、オレを助けろよ。コートの中で」 「ば、馬鹿か?」 「オレは、お前がキーパーソンだと思ってる」 黛が青峰の方向へ顔を向けたのと、青峰がその大きな褐色の手で黛の手首を掴んだのはほぼ同時だった。帰宅ラッシュの人垣の中、青峰の頬は腫れていた。 「オタボッチ。お前にこんな事頼む位、オレは勝ちてぇんだよ」 青峰の手のひらは汗で湿っている。相手が何を考えているのか分からない黛だったが、ひとつだけ分かる事があった。 ――青峰大輝は、中国に勝つつもりだ。 「勝たせてやる。中国に。このままじゃ、負けるぜ?」 「馬鹿、言うな。青峰、お前……」 さっき虹村の前でしたように笑おうとした黛だが、口元が引きつって上手く笑えない。そして、握られた手首も払う事が出来なかった。 "勝てるかもしれない"と思った瞬間、明後日の試合に現実味が増した。 膝が震えだす。視界がぐにゃぐにゃと歪み、目眩に似た感覚が脳を揺さぶる。 コレが、プレッシャーだ。 明後日、彼等は戦うのだ。 これより更に強大な緊張の元で。 |