九月四日。

 日本代表の記者会見はフラッシュで前が見えない程に眩しい。いよいよ中国戦からの先発メンバーが発表され、控えも合わせた十二名はスーツ姿に壇上へ立った。盛大なフラッシュ音が彼等を出迎える。

 中国戦の会場はさいたまスーパーアリーナ。北側のメインアリーナは、既に会場の準備が出来ていると聞いた。客席は19000席で、一次・二次先行は共に終了。代表戦ともなれば満席になるだろう。期待度の高さが伺えた。

「精一杯やります。中国とはランクに開きがありますが、不安はありません」

 主将の笠松は笑顔でそう答えた。本当は笑顔になれる余裕も無いのだが、ココで嘆いたら無様な姿を全国に晒すだけだ。彼等は意地とプライドで、自信満々に見せるのだった。

 隣からマイクを預かった火神は、暗記した台詞を口にする。勿論ソレは彼が考えた言葉では無い。

「求められている結果が決まっている以上、ソレをす……す」

 火神が言葉に詰まり、誤魔化しに片目を閉じて記憶を探るが……ソコは漢字が読めずにつまずいた部分だった。

「タイガ、"遂行"だ」

 二列目に座った氷室が助け船を出し、火神は決起の言葉を続けられる事が出来た。

「"すいこう"するだけだ、です!」

 グダグダなスピーチを終えた火神が深く息を吐くと、会場から笑いが漏れた。そして、マイクは青峰へと回る。一番フラッシュが多いのは、先日の熱愛報道のせいだろう。

「特にありません」

 その横柄で短いスピーチに少しだけざわめきが起きる。青峰が不機嫌そうな態度でマイクを離そうとすると、記者から質問が飛んだ。まだ質疑応答の時間では無い為、ソレはフライング行為にあたる。

「青峰選手は今熱愛報道で有名になりましたが、何か周囲で変化は?」

「別に、何も」

 すると、他の記者から違う質問が飛ぶ。

「交際は順調ですか?」

「今は練習で忙しいです」

 淡々と答える青峰だが眉間の皺は濃く、機嫌の悪さが露見し始めている。火神は青峰の脇腹を肘で突いて戒めようとした。

「中島さんは、試合観戦に来ますか?」

「んなの……! 本人に聞いて下さい」

 乱暴な口調を慌てて直した青峰は、サッサとマイクを手放して火神へ押し付ける。そうすると、今度は火神へ質問が飛んだ。

「火神選手は、アジア選手権後に海外移籍との噂がありますが……具体的には?」

「オ、オ……オレは何も……――」

 十二名の選手達は、その会見で"世間の興味"が競技よりもアイドルの熱愛報道にあると知り、少しだけ落胆するのだった。


 …………………………


【夜八時。駅の男子トイレ】

 そのメッセージがなまえに届いたのは下校時だった。差出人の顔がすぐに浮かんだ少女は、暗い顔をしてしまった。

 体育館からシューズの擦れる音とボールが弾む音が聞こえた。バレー部かバスケ部が練習をしているようだ。グラウンドからはバットにボールがヒットする軽快な音と、演劇部の発生練習が聞こえる。皆が皆、何かしら目標を持って青春に汗を流す。こんな暑い、夏の日に……。

 スマートフォンを通学バッグにしまったなまえは、溜め息を吐いて一人校門を潜る。周囲には同じように放課後すぐに帰宅する生徒達が俯いて歩いている。大抵がスマホを操作しているからだ。友人と並んでいる生徒も、互いに画面を見ながら会話している。

 バッグの中でスマホが震えた。受信したメッセージを待ち受けで確認したなまえは、偽りで交際をスタートさせた現彼氏の名前に気まずそうな表情になる。

【今週末に埼玉来れんの?】

 行ける訳、無いじゃん……。

 火神のメッセージへ返事をせず、少女はコンビニに足を運ぶ。入り口のガラスには、バスケットボールアジア選手権の全日程が貼り出されていた。大きく写っているのは、中国の有名な選手らしい。"スーパースター"。クラスの誰かが選手をそう呼んでいた。ソレは瞳の赤い、凶暴そうな男だった。

 しかし、彼女には関係無い人物である。彼女に関係あるのは、後ろの方に小さく載っている赤毛の日本代表選手だけだ。


 …………………………


 夜も八時になれば、日は沈み暗くなる。自宅から駅まで歩いて来たなまえは、空が曇っている事を不安に思った。傘を持っていないから、雨が降っては困る。

 前回のように周囲に誰も居ないのを確認して公衆トイレに入った。誰も居ないソコに恐縮しながら足を踏み入れ、手前から個室を覗く。そして、奥の個室にお目当ての人物が居た。

 青峰はスーツをだらしない着崩し、蓋をした便座の上へ腰掛けていた。そして長い足を組んだまま、少女に挨拶をする。

「よォ、久しぶりだな」

「……あの、土曜日に……火神さんに言うんですよね?」

 なまえは入口をチラチラ見ながらサッと個室に入り、手こずりながらも扉を締めた。静かで狭い空間に二人きりになったなまえは、扉に背中を預けた。

「約束は忘れてなさそうだな。ハニートラップ向いてんじゃねぇの?」

 男は座ったまま、少女を胸に呼んだ。抱え込まれたなまえは、彼のスーツからは懐かしい匂いがして思わず目を閉じる。夏休みの殆どを、青峰大輝の部屋で過ごしたのだ。『今日が毎日繰り返せば良いのに』……そう考え、逞しい男の背中を眺めながら眠りに就いた日々を思い出す。

 なまえは青峰の匂いが好きだった。別に良い匂いでは無い。でも……彼と一緒に居る一番の証明な気がして、嬉しくなっていたのだ。

 青峰から更に強く胸元に引き寄せられたなまえは、彼の膝上に座った。すると相手の大きな手で臀部を撫でられる。スカートの裾から指先が滑り、なまえは緊張した。

「……いや」

「良いだろ、別に」

 抵抗するが、青峰は行為を中断しない。それ所か、なまえの手を握り自身の陰部へと移動させた。スーツの上からでも膨らんでいるのが判り、少女は息を飲んだ。

「最近忙しくて、一人でスる余裕も無ェんだよ」

 男の吐息が汗ばむ。はぁ、はぁ……と弾ませながらに青峰はなまえの耳元へ口を寄せた。男の唇が耳に触れると、少女は小さく喘ぐ。

「……ん、っ」

 シャツから手が入り込み、肌の上を滑った。愛撫のようなソフトタッチに、なまえの腰が動く。

「火神とは、どうだ?」

 青峰はブラのホックを外し、臀部を撫でていた手が胸元へ向かわせた。浮いた下着の隙間から五本の指が入り込む。

 しかし、少女は口を継ぐんでしまい顔を伏せた。青峰は顔を覗き込むのだが、相手は顔を両手で隠してしまった。

「何だよ? 急に黙り込んで」

 なまえは、搾るように言葉を投げた。泣くのを堪えているのか、ソレは至極小さな声だった。

「……騙したく、ない……。私、っ……火神さ……」

 彼女の発言を聞いた青峰は、一度動きを静止させた。そして胸元から相手を突き放す。冷たい表情に、冷たい声で……。突き飛ばされるように身体を離されたなまえは、青峰の膝から降りて震え出す。

「萎える事言うんじゃねぇよ」

「青峰さん! 私やっぱり……!」

 相手の刺すような視線でそれ以上を言えなくなったなまえは、制服のスカートを強く握って俯いた。そして昨朝に見た火神の笑顔を思い出し、胸を押さえる。

 少女の目からは涙が溢れ、瞬きでソレを零れ落とした。

「火神に惚れたか?」

 返事の代わりに小さな嗚咽を漏らした少女へ、青峰は呆れた声を出しながら頭を抱えた。

「解散だ」

「……ごめんな、さい」

 個室の仕切りを拳で叩き大きな音を立てた青峰は、恐怖で泣き止むしか無いなまえに別れの言葉をぶつけた。

「役立たずだったな……。ホント、最後まで」

 二人から言葉が消え、外から雨音が聞こえた。最近は天気が崩れやすく、どしゃ降りに近い。溜め息を吐いて頭を掻いた青峰は、ソッポを向いて泣く少女を見捨てたようだ。



 なまえがトイレから居なくなり洗面台の前に立った青峰は、腰を屈めて鏡へ自分の顔を映す。少しやつれた気がするし、目はギラ付いていた。大会前は何時もこうなる。全てが試合に向けて臨戦態勢へ入るのだ。

 雨が降ってきたせいか、じめじめと不快な空気が纏う。公衆トイレ独特の臭気に混ざり、気分は最悪。最悪ついでに火神へ電話してやろうと、青峰はポケットから折り畳み式の携帯を取り出した。

 ……ぶちまけてやろう。何もかも。日程が早まっただけで、予定に狂いは無い。オレに騙された火神は対抗意識を強くし、そして気を紛らわす為に全てをバスケへ向ける筈だ。アイツはそういう男なんだ。恐ろしい程に馬鹿で単純で、羨ましい程に情熱的な奴だ。

 青峰は鏡に映った野獣のような自分と睨み合いながら、着信の応答を待つ。コールが切れ、ようやく相手が出たようだ。

『よォ青峰、どうした? 緊張してソワソワしてんのか?』

 その声を聞いた瞬間、青峰は携帯を壁に叩き付けた。そんな衝動に近い行為で、通信機器は通話を終えた。ガチャリと床に落ちたソレは画面が粉々に割れ、二つに分裂している。更に足で携帯を蹴り飛ばし、青峰は額を抱えてその場に崩れ落ちた。外では雨が降り始め、彼の嗚咽に似た呻き声を消す。

 青峰大輝は強がりだ。

 いつしかソレは深く身に染み着き、弱い部分を隠せるようになった。しかし本質は変えられない。青峰大輝は本当は弱く、そして脆い人間だ。一人で居るのが楽なのに、独りじゃ生きられない。でも、他人と寄り添うのが苦手な人間。

 そんな事をしているから、桃井さつきは自分の元を離れた。――そして、今度はなまえが離れていく。

 火神よりオレを見ろよ。こんなにツライんだ、寂しいんだ、怖いんだ、何をして良いか判らないんだ。傍に居てくれ、離れないでくれ、嫌わないでくれ。

 本当は一番近くに居て欲しいのに、励まして欲しいのに、甘えたいのに……彼は素直じゃなくて、そして強がりだった。

 "素直じゃなくて強がり"な部分が、孤独な自分を最も苦しめるのだ。ソレはきっと、一生治らない。何度後悔しても、泣きわめいても、きっと治らない。


 …………………………


 傘も差さず、なまえは駅からの帰り道をフラフラと歩いた。俯いているから、周囲の人間が自分をどう見ているか知らない。いや、知りたくもない。彼女はスカートのポケットから一枚の名刺を取り出した。記された名前は【黛千尋】。『青峰大輝に復讐したいなら連絡をくれ』と、言っていた筈だ。

 なまえは雨に濡れていく名刺をしばらく眺め、そしてスマートフォンを取り出した。鼻を啜り、頬を塗らしている髪から滴る雨なのか涙なのか判らない水滴を擦った。


 …………………………


 黛は改札口の人混みを抜け、フゥと一回溜め息を付きながら傘を差し帰路を急ぐ。駅から歩いて数分のマンスリーのマンションは、今日も静寂で彼を出迎えるのだろう。別にソレで良いのだ。騒がしいのは好きじゃない。

 マンションのエントランスで傘の水滴を払うと、着信が彼を呼ぶ。舌打ちをした黛は内ポケットに入れていた薄型のスマホを手に取る。

 ――しかし、男はソレに応対出来なかった。何故なら、マンションのエントランスで誰かが彼を待っていたから……。

「お久し振りですね。黛さん」

 声を掛けた客人は高校の後輩だった。しかし、今はスーツを着用している。その後輩は口を開く。視界に赤毛が入った瞬間から、黛の心拍数は跳ね上がっていた。

「……赤、司。お前」

 赤司は、閑散としたホールに革靴の音を響かせた。すぐ横のエレベーターが降りて来たり、後ろの自動ドアが開いたりはしない。二人きりの空間に、黛千尋は呆然とする。

 彼を畳み込むように、赤毛の客人が発声した。

「自分の力量を間違えると、失敗する。愚かな人間が陥る挫折が、ソレだ」

 台詞の真意が判った黛は目を見開いてしまい、驚きを隠せなかった。しかし拳を握った男はわざと相手に近付き、赤司を見下ろして態勢を整えた。

「何の話だ?」

「まさか火神の女に脅させるなんて。大胆に成長しましたね?」

 赤司の皮肉に一瞬カッとなった黛だが、努めて冷静を装う。

「大輝の件から手を引け。彼の周囲を掻き乱すな」

 赤司は、黛へソレだけを伝えに来たようだ。どうやって自分の行動を掴んだかは知らない。大方、探偵でも雇ったのだろう。事情の全てを飲み込めない黛は、せめてもの虚勢に笑ってやった。

「威圧すればオレが言う事聞くと、まだ思ってんのか? 成長しない男だ」

「大輝に何かするつもりなら、覚悟した方が良い。ソレはボクに楯突く事と同意義だ」

 赤司は尻ポケットからスマホを取り出す。一度だけ画面を見て不適な笑みを見せ、そして黛千尋の眼下に突き付けた。

「ボクは容赦しない」

 黛は再度目を見開き、瞬時に顔を青くさせた。赤毛の男が握るスマートフォンには、自分の"彼女"が写っていたのだ。隠し撮りにしては近く、そして目線が合っている。ソレは、親しい人間に見せる笑顔だ。赤司は"彼女"とコンタクトを取ったと言うのか?

「良い子じゃないか。あのストローハットの男に追わせるか?」

「……何で」

 何でお前がソコまで知っているんだ! 黛はそう叫びたいのに、上手く声が出なかった。みっともなく震える声を途中で止めた。口をパクパクさせ、目の前の"帝王"を眺め続ける。

「ボクを上回りたいのなら、もっと慎重に行動しろ」

 素人風情が、力量を間違えた結果だ。

 赤司はそう言って、スマホを元の場所に戻した。彼の革靴の音が、エントランスを静寂から解放させる。

「……良かったじゃないか。守るべきモノが出来て」

 投げるようにそう言った赤司は、自動ドアの向こうに消えた。黛がその場に崩れる。

 ……勝てない。彼はきっと、一生赤司征十郎には勝てない。そして一生、見たかった目線で……頂点から下界を見下ろす事は出来ないのだろう。

 いつか"彼女"が自分の枷になる日が来るとは思っていた。その時は、簡単に切り捨てられるとも考えていた。……しかし、出来なかった。

 何故だと聞かれても、きっと答えは出ない。言葉じゃ説明出来ない存在が、京都に置いて来た"彼女"なのだ。

 ――だから独りが良かったんだ。独りで良いんだ。

 誰かと寄り添う程、黛千尋は弱くなっていく。何かを守りたいと思えば思う程、自分の弱さを実感する。


 足元から崩れてしまった黛は、スマートフォンからリダイヤルを出来ずに赤司へ完敗したのだった。