九月三日。早朝。

「……んー?」

 パチリと音が聞こえ、なまえがゆっくり目を覚ます。そして彼女の目は、ベッドの端の何かを映した。ソレは上半身裸の男で、背中を丸めて何かを操作している。その逞しい身体は意外と肌質が綺麗で、少し日に焼けていた。

 男は再度スマホの背を彼女に向け、フラッシュを炊いた。

「何っ……? 写真、っ? やだ!!」

「寝顔が動物みたいだったからな」

 フォローにもなっていない台詞は、デリカシーの無い彼らしかった。そして撮った画像を保存しているのか、火神大我はニヤニヤしながらまた機器を操作し出す。

「やだぁぁ〜。もぉ〜、消してぇ〜……」

 羞恥と眠気が戦っているなまえは、うつ伏せになり来客用の枕に顔を埋めた。

「誰にも見せねぇって」

「火神さんは見るでしょ!?」

 なまえは、火神の手からスマホを奪おうとする。しかし、彼は腕を伸ばしソレを天高く上げてしまった。そうなっては彼女は手が届かず、指先で宙を掻くだけになった。首を上げ天を仰ぎながらも、火神はさっきの写真を眺め続ける。

「すっげ、アッチの動物園で見たカンガルーみてェだな」

「サイアク! 火神さんキライ!」

 火神は、ソレを奪おうと抱き着くようにすがる少女の頭を少し乱暴に撫でた。

「怒んなって、かっ……可愛いんだから」

「消して下さいね!」

 寝起きの少女から恨みがましい目線を投げられた火神は、ベッドから腰を上げ一度だけ背伸びをした。胸板が膨らみ、より身体が大きく見える。

「寝癖、直して来いよ。朝食だ」

 ニヤニヤと悪戯に笑った火神は、目の下に濃い隈が出来ていた。なまえの鼻腔を、トーストの焼けた芳ばしい香りが擽った。

 その瞬間、なまえは自分が何をしているのか判らなくなった。……彼を裏切りたくは無い。火神大我は真っ直ぐで、真っ白で、真面目な男だった。


 ……………………………


 朝九時。全面が白いミーティングルームへ長机とパイプ椅子が並べられ、日本代表のジャージを着た面々が揃っていた。全員で二十五名。内の十二名がレギュラーとしてコートに立つ権利が与えられる。そして七名程が主力メンバーとして実際のコートに立つのだ。

 主力はほぼ決まったようなモノで、彼等は部屋の前方に集まっていた。主力メンバーで一人だけ、紫髪した男が後方に積まれたお菓子の段ボールを物欲しそうに眺めている。何かのキャンペーンに使用するのか、壁一面にスナック菓子の箱が置いてあった。

「……眠そうだな」

 緊張からか苦い顔をした笠松が、パイプ椅子に腰掛け頭を抱えた青峰へそう伺った。

「寝たの、朝の四時だ」

 眠気で目が開かない青峰は、眉間に皺を寄せて欠伸を噛み殺した。赤司の特訓は三時間に及び、結局アパートに戻ったのは朝に近い時間だった。相変わらずアパートの扉は落書きだらけで、誹謗中傷で彼を出迎えてくれたのだ。こんなんなるならホテルに泊まれば良かった……と落胆したモノだ。

「例の彼女とか? 余裕だな? スーパーエース様は」

 ドカリと青峰の右隣に座った火神は、足を組んで大柄な態度を示した。しかし、彼の目の下にも隈が出来ている。別にメンバー発表が楽しみで眠れなかった訳では無い。火神も火神で、色々と眠れない事情があった。

「あー……眠ィ」

 そうぼやいた青峰は数回頭を振り、ポケットから栄養ドリンクを取り出す。しかし、蓋を開ける前に笠松がソレを止めた。

「今は止めとけ。午後からドーピング検査だぞ」

「こんなん飲んで引っ掛かる訳ねぇだろ」

 青峰は抗議しながらキャップを回すが、主将は困った顔を崩さずに呻いた。

「でも、何が駄目になるか……」

「笠松サン、考え過ぎです。不安になる気持ちは分かりますけどね」

 火神の隣に座り、頬杖を付いていた氷室がそうアドバイスをする。ソレを聞きようやく納得したのか、笠松は顎を手で擦りながら呟いた。

「……そうだよな」

 笠松は青峰の左隣に腰掛け、腕を組んで深く座り目を瞑った。全身から緊張感を出し、ソワソワするのを必死に抑えているように見える。

「キャプテンが一番飲まれてんな」

 火神は氷室へ耳打ちするようにそう囁き、ヒヒッとイタズラそうに笑った。ソレと同時に、青峰の後ろの席へ座った紫原が質問を投げて来た。ガサガサと音がするのは、段ボールからお菓子を拝借したからだろう。バレたら犯罪者だ。

「峰ちん、肩大丈夫だったの?」

「あ? 炎症だっつぅの」

 首を捻り背後を向いた青峰は乱暴にそう答え、栄養ドリンクを一気に喉へ流し込んだ。そして、空き瓶を長机に叩き付けながらに呟く。

「何の問題もねぇ。オールグリーンだ」


 ……………………………


 前方に選手達と向かい合うようにして設置された一つの長机は、指令席として置かれている。現在はバインダーを抱えた通訳の男性と、ホクホクした顔で新品のラジコンカーを撫でる監督が座っていた。通訳はバインダーの上で指を滑らせ、口を開く。

「では、中国戦のスターティングメンバーを発表します。言われたメンバーは明日記者会見に臨みますので、スピーチを用意して下さい」

「用意って、どうせゴーストだよな」

 含み笑いをした火神が青峰にそう話し掛けると、青毛の男もニヤニヤを始めた。作文が大の苦手であるこの二人は、こういう場で自分の気持ちを言葉にした事が無い。全て誰かに代筆させているのだ。

 青峰の隣に座っている笠松が、溜め息混じりに火神へこう言った。

「そんなのお前らだけだ、バカ」

 火神は驚いて大きく口を開いた。そして右隣の氷室の方を向くが、氷室も首を縦に振り笠松を肯定している。

「センター、紫原敦。パワーフォワード、火神大我、青峰大輝。シューティングフォワード、氷室辰也。ポイントガード、笠松幸男。以上です。後半は青峰大輝を抜いて、パワーフォワードで黛千尋、もしくは安達雄太を入れます。どちらも出る準備をして下さい」

 そうしてスターティングメンバーが発表され、各々が指令に頷く。背番号は合宿の時と同じで、代表のユニフォームが渡された。

「お前、結局前半だけか」

 火神はユニフォームを丸めて机に置いた青峰へ嫌味を告げた。しかしそんな意地悪に屈する青峰大輝では無い。彼は彼で、火神に向かって意地悪な顔を投げるのだった。

「お前は馬鹿な事して試合前に大怪我しそうだな、火神」

「変なフラグ立てんなよ」

 口をへの字に曲げた火神は、ムッスリした顔のまま正面へ顔を向ける。

 そうしてメンバー発表が終わると、ホワイトボードを使用しての作戦会議が始まった。ハーフコートが描かれた図面の上へ、マグネットが置かれていく。赤が中国、青が日本でひとつひとつに背番号の数字が書かれていた。

「ディフェンスも見ての通り、ゴール下を抑えます。アツシ、紹豹孚を止めて下さい」

「簡単に言わないでよ……」

 頬杖付いた紫原は、ヤル気の無い声でそう言った。

「タイガーがフォローに入ります。劉偉のマンツーマンを外れて下さい。ダイキーは、炳煥[ヘイカン]のリバウンドを抑えるのに専念」

「ソイツのスクリーンも激しいからな」

 歯を見せて笑った青峰は、自分に課せられた役割に不足を感じなかったようで、その目は勝機に燃えていた。炳煥の身長は二メートルを越える。

 しかし……指示はソコで終わり、監督はラジコンを床に置いてリモコン操作を始めた。通訳はバインダーを畳み、席を立つ。

「……オフェンスの指示は?」

 青峰が足元にやって来たラジコンを思い切り踏みつけ壊したと同時に、笠松が質問を口にした。しかし、通訳は全員へこう告げるのだった。

「ドーピング検査は午後一時。それまでにこの場へ集って下さい」

「……オイ、どこ行くんだよ?」

 とどめとばかりにラジコンカーを蹴り飛ばし指令席まで転がして返した青峰は、部屋を出ようとする二人に問いたが、彼等から返事は来なかった。流石の黛も笑う余裕が無く、無言で二人を見送るしか出来ずに居る。

「待って下さい! 中途半端過ぎる!!」

 笠松が言葉で止めるのだが無情にもドアは閉められ、選手達は取り残された。

「……見捨てられたのかよ?」

「そんな訳無いだろ?」

「じゃあ何なんだよ!! この状況は!!」

「ざけてんじゃねぇよ!! 負けたら何の意味もねぇだろ!! トーナメントだぞ!!」

「クソッ!!」

 混乱が混沌を生み、選手達から口々に荒れた言葉が出た。前方に座ったレギュラーメンバーは、状況が飲めずに監督達が出て行ったドアを眺めているだけだ。氷室が左隣を見ると、火神の顔は真っ青だった。

「……とにかく、考えよう。戦略を。コートで動くのはオレ達だ。監督じゃない」

 笠松が後ろを振り返り、パニックとなった場を治めようとする。しかし、飛んで来たのは安達の怒号だった。

「だから、見捨てられたんだよ!! テキトウな事ばっかやってる奴等が居るから!!!」

「安達、やめろ」

 怒りで誹謗を続ける安達へ、隣に座る町田が声を掛けていた。それでも、相手の憤怒が軽くなる事は無い。

「試合放棄して逃げる奴は居るわ、こんな大事な時期に美女とイチャイチャする奴も居るわ……。挙げ句に開会式で怪我人だ。見捨てられて当然だろ!!」

「だから、そんな事今言ったってどうしようも無いだろ」

 町田が安達へ声を掛け続け、ヘイトスピーチを止めようとするのだが、周囲のざわつきは大きくなる一方だ。

「あぁそうだよな!? どうしようも無いよな!! 見捨てられたんだから!!」

 そうなると控えのメンバーには安達へ共感する者も多く、小さくはあるが一部のスタメンを誹謗し始める。攻撃対象は主に二人。その二名は、正面の誰も居ない指令席を眺めていた。

「いい加減にしろよ!! 笠松サンも言ってただろ!! 一体誰と戦ってるんだ!!」

 氷室が立ち上がり、怒りの形相で後ろの選手達に怒鳴る。普段は大人しい氷室辰也だが、本当は好戦的な男である。平常時に我慢している分、キレたら一番厄介な一面も持っている。

「タツヤ!!!」

 幼い頃から一緒に居る火神大我はソレを知っている。だから火神も怒鳴り、氷室の怒りを止めに入った。

「……悪かったんだ。オレが、力不足で……。スンマセンっした!」

 後ろを向いた火神は、頭を下げて謝罪する。火神大我の拳は強く握られ、自身の犯した過ちへの後悔を表していた。安達は火神の隣に悠々と座る青毛の男へも叱責する。

「青峰ェ!! お前も謝れよ!!」

「なぁ、もう良いだろ。喧嘩したって始まらないぞ」

 立ち上がった町田が安達の肩に手を置き、なだめに入る。舌打ちをした安達は、青峰の後頭部を鬼の形相で睨みながら、着席しようと腰を下ろした。

 だが、治まりそうな雰囲気を打ち砕いたのは、青峰の生意気な口調だった。

「……謝る必要ねぇよ」

「はァ!?」

 安達は再度立ち上がる。鼻で笑った青峰は、椅子から立ち上がる事無く腕と足を組んで優越な態度を見せた。

「勝てば良いだけだ、中国に。いや? 優勝の方が格好付くか?」

 全員が、その男の台詞に息を飲んだ。

 シン……とした部屋にパイプ椅子を引いた音が響いた。スーパーエースは立ち上がり、靴音を響かせ安達の前へ歩を進める。一触即発の緊張が、この白い部屋を支配した。

「中国に負けたら、土下座でも何でもしてやる」

「前半しか出れない癖に、大口だな」

「ハーフで逃げる訳ねぇだろ? オールで出てやるよ」

 その言葉には、笠松が拒否を示した。

「青峰、ソレは駄目だ」

「中国戦に全て掛けるのか? 後先考えないお前らしいな、スーパーエース」

 安達はそう言って青峰を馬鹿にする。顔を付き合わせた二人は、一歩も譲らず睨み合い続けた。……チームワークだの絆だの、もうそんなモノはこの場に存在しないようだ。

「後半、お前みたいなヘタクソがインサイドじゃ不安なんだよ」

 侮蔑を吐き捨てた青峰は、安達を一瞥するとミーティングルームから退室した。しばらくは誰も動かなかったが、ハッとした笠松が慌てて追い掛け始めた。

「……クソッタレ」

 安達はそう呟き、青峰から目を逸らして腰掛けた。そして苛立ちで隣のパイプ椅子を蹴り飛ばしながら舌打ちをする。


 ――廊下の先を歩く青峰を追い掛けた笠松は、彼の背に言葉をぶつけようとした。しかし途中でソレを止め早足で追い掛ける。ようやく追い付いたのだが、青毛の男は立ち止まらずに角を左に曲がった。

「青峰、駄目だ。オールの許可は出せない」

「許可? 居るか、んなモン。オレをコートから引き摺り出したきゃ、重機でも持ってこい」

 尚も足を止めない青峰は笠松の言葉を跳ね退けて、ワガママを貫き通す。

「無茶苦茶だ! 後先考え無さ過ぎる!」

 その言葉で青峰は立ち止まり、額に皺を寄せながら怒りに任せ笠松を怒鳴り付けた。

「今どうにかしなきゃ、未来も希望もねぇだろ!!」

 "大事なのは今だ"。青峰はそう言った。その気持ちは笠松にも分かる。……だが、現状そんな自己啓発に似た言葉にすがるべきでは無い事も分かっている。彼がココで許可を出せば、天才がまた一人潰れるのだ。

「オレが大丈夫って言ったら大丈夫なんだよ!!! ツベコベ言うんじゃねぇ!!!」

 額に血管が浮くほどにキレている青峰は、唾を飛ばしながらそう怒鳴り息が荒いままにまた歩みを始めた。

「……ああなっちゃ頑固だ、青峰は」

 背後から声が聞こえた笠松が姿勢をソチラへ向けると、火神大我が背中を壁に預けていた。視線は青峰の背中に向けながら、彼は鼻で笑う。火神のその他者を嘲けりながら余裕を見せる態度は、青峰大輝を彷彿させた。だから笠松は、目線を下げてこう言うのだった。

「……お前もだ、火神」


 ……………………………


 夜も更け、今日が終わろうとする時間。とある公園のバスケットコート。ストリート用の半コートには二人の人物が居た。一人は柵に腰掛け月を眺め、一人はその場に座った。月を眺めていた男は、聞き惚れるような声を紡ぐ。

「青峰、虹村さんを覚えているか?」

 地面で胡座を掻いた青峰は、懐かしい名前に後頭部を掻きながら答える。

「……忘れる程、薄情じゃねぇよ」

 中学時代の先輩の名を聞いたのは久しい。渡米したと聞いたきり、何も連絡が無い。あの熱血男は今、何処に居るのだろうか……。

「だったら、耳に入れておくべきだ。あの人が今、何をしているか」

 柵から腰を離した赤司は、青峰の前に立ち相手を見下ろす。

「晧月のフィジカルトレーナー。晧月は中国代表のPGだ。知っているだろう」

 晧月の名前と顔が一致した青峰は、大衆浴場で見た中国人を思い出した。現在、何かしらの縁があって虹村は中国に居るようだ。フットワークが軽いあの人らしい。

「だから日本語喋れたのか、アイツ」

 ソコまで言った青峰は立ち上がり、お尻を叩いて遠くに転がったボールを掴みに歩く。

「でも残念だな。オレは今回PFだ。教えられても使う場面が無ェ」

 数回ボールをバウンドさせた青峰は、ゴールに向かってシュートを放った。勿論ソレはリングを通りネットを揺らした。圧巻的なそのシュート成功率は、彼を優秀なシューターだと知らしめる。しかし、赤司は決まったシュートを一切見ずに話を進めた。

「違う。必要だから教えるんだ」

「はァ? ただの暇潰しだろ?」

 赤司の告げた意味が判らない青峰は、喧嘩を売るような口調で相手を馬鹿にした。

「オレは未来透視は出来ないが……未来予想位は出来る。聞きたいか? 青峰」

「勿体振るなよ」

 赤司は眼帯で隠した左目を触り、小さな声でその予想を口に出した。

「笠松サンは、コートを降りる。恐らくは……そうだな、後半開始早々に」

 不穏な予想を口にした赤司を、笑いを漏らした青峰が軽くあしらう。

「んなら町田が居る。任せりゃ良い」

 何もPGが出場不可になるのなら、違うPGを出すだけだ。どの選手が出場出来なくなったとしても、バックアップ位は立てている。ただ、ソレに伴っての戦術は無い。そもそも、ベストメンバーであっても戦術なんか存在しない。

 赤司は、青峰の台詞を切り捨てた。

「だが、青峰。お前はPGをやる」

「ソレも予想か?」

 青峰からの質問へ、赤司は無表情のままに首を傾げる。ソレを見た青峰は、赤毛の男を睨んだ。

「そんな事言ってるけどな、赤司。本当は違ェだろ?」

 赤司は何も話さない。彼は彼なりに、無言の賭け引きを始めているのだ。薄ら笑いのその向こうで、ただ青峰の言葉を待つ。

「……お前、虹村サンと戦うつもりだろ。オレと晧月をコマに利用してな」

 その推測を赤司は否定せず、口角だけをゆっくりと上げた。

 ――赤司は、青峰を介して虹村へ勝負を挑んだのだ。内容は酷く単純。……お互いの"指導力"を競おうとしている。

 長い年月を経て叩き付ける赤司征十郎の"下剋上"は、中国戦と共に開始する。