――あの日から夢を見なくなった。目を閉じて微睡みの中で宙に漂えば、あっという間に朝になる。遮光カーテンから僅かに光が漏れ、今日もまた何も変わらぬこの部屋を照らす。


『ごめんね、大事な人を傷付けたく無いの』


 その言葉が男を"幸福の世界"から突き落とした。好きな奴に彼氏が居るのは知っていた。その彼氏が自分の知り合いでさえ無ければ、強引にも奪っていた。何でだよ? オレの方がアイツよりお前を知っているし、お前を幸せにする自信もある。


『近過ぎるのも、駄目なんだよ……。"青峰君"』


 だったらこれ以上近付かないように努力をすれば良い。"お前"は何時だってそうだ。頑固なんだ。昔から……それこそ小さい頃からだ。――そしてオレも、それ以上に頑固で意地っ張りだ。なぁ? さつき、お前もそう思ってんだろ……――?

「……ふざけんなよ」

 汗ばむ身体を拭いもせずただシーツを汚す青峰は、目を瞑ったまま溜め息を付き寝返りを打つと、前方に居る女から声を掛けられた。

「――……おはようございます」

 ギクリとした青峰が目を開ければ、疲れた顔をした少女目蓋をパチパチさせていた。

「……何時から起きてた」

 枕から顔を離し、至近距離で眺めてくる少女を険しい顔で見る。なまえは目を擦りながら男へ答えた。

「一晩中です」

 独り言を聞かれ羞恥を感じた青峰は、うつ伏せになり枕へ顔を埋めると「眠れないなら帰れよ……」と呻く。只でさえ狭いベッドを半分占領されているのに、一人の世界に浸っていた姿を見られてしまった。これは恥ずかしい失態だ……。

「あの、私……シャンプーとか持ってきてなくて……」

 青峰の後頭部へ声を掛けたなまえは、ヘラリと笑う。

「ハァ? シャンプー? あんだろ、風呂場……に……」

 浴室を指差しながら徐々に語尾が弱まっていった男は、自身の使っている『シーブリーズ』が男性向け商品である事を思い出したようだ。

「アレじゃ嫌なのか」

 今度はゴロリと身体の向きを変え、逞しく広い背中を見せた褐色肌の男は舌打ちをした。

「あと、歯ブラシも無いです」

「何で持って来ねェんだよ」

 居候の準備不足を批難した青峰は、再び寝に入る姿勢を見せるのだが、モヤモヤのせいで頭が冴えてしまう。

「オレは行かねェかんな。暑いっつぅのに外に出たく無ェ」

 冷房効いた涼しい部屋からの外出を拒めば、当然「えぇ〜?」と不満げな声が聞こえる。青峰は、更に意地の悪い言葉を続けた。

「火神んトコ行かなかった事、後悔してろ」

 異性に気遣いも無く上半身裸とボクサーパンツ一丁で睡眠を貪っていた青峰は、ベッドから起き上がると喉を潤す水分を欲した。ワンルームのドアを開ければ、待ってましたと言わんばかりに熱風が身体へ寄い纏う。

 冷えた飲料を求め冷蔵庫を開けるのだが、賞味期限のだいぶ過ぎたヨーグルト、貰い物の漬物パックとマヨネーズボトルしか入っていない。ミネラルウォーターすら無くガラガラな箱は、無駄に冷気を吐き出すだけだ。目を丸くした青峰は「何も無ェ……」と小さく呟いた。

 ウンザリと云った顔で冷蔵庫を閉めた青峰は、蛇口を捻り美味くもないぬるま湯を飲む。……ここ最近で一番最悪な目覚めだった。

「…………行くぞ、買い出し」

 廊下の暑さでグダッとした男は、ベッドの上で大人しく体育座りをする居候に声を掛けた。その相手は青峰の言葉に満面の笑みで答えた。





 外に出れば本日も活発な太陽にアスファルトは照らされ、蜃気楼が揺らめく。気温は36℃を超える猛暑日。着たばかりのTシャツの中では、一気に汗が吹き出し背筋に湧いた水滴が軌道を作る。

 一番近場の複合型スーパーマーケットへ行く事を決めた青峰は、後ろからミュールを鳴らし着いてくる少女を気にもせずにスタスタと歩く。

 やっと追い付いたなまえは少しでも大人びた姿で横を歩きたいのかスッと背筋を伸ばし、澄ました顔して軽快にアスファルトをミュールで叩く。その幼い姿に、青峰は鼻で笑って馬鹿にした。

 暑い野外を十分程歩き続けスーパーマーケットに入店すれば、何回も何十回も、恐らくあと一ヶ月は聞かされるであろう流行りの歌が店内を華やげる。「この歌、流行ってますよね」と少女は言うのだが、聞き飽きてウンザリしている青峰はソレを無視した。

「好きなの選べ」

 シャンプーやらボディーソープの並ぶ一角を顎で指した青峰は、七分パンツのポケットへ手を突っ込んだまま少女の後ろ姿を見送る。

 なまえが値段と香りと成分を比べ可愛らしいピンクのハーフサイズボトルを手にした横から、腕を伸ばした青峰は隣にある同じ商品の大きなボトルを掴んだ。

「もっとデカイの買えよ」

「でも、一週間しか居ないですし」

 そう言われた男は、徳用ボトルを棚に戻した。そしてなまえの手から強引に商品をもぎ取ると、いつの間にか持っていた買い物カゴへシュートした。

 もうココに用事が無い男は、スタスタと衛生用品売り場を後にする。向かった先は食料品売り場で、カゴの中へカップ麺と乾麺類、冷凍食品に缶詰……出来合いのチルドパックまでを適当に放り込み出した。

 調理の必要無い食品の数々に、なまえは素朴な疑問をぶつける。

「料理しないんですか?」

「買った方が早い」

 既に買い物カゴを食品で満たし、更に飲み物を選び始めた男はそう答えた。それは一人暮らしの独身らしい答えだ。

「好きな食べ物って何ですか?」

「てりやきバーガー」

 出来合いの既製品を告げられたなまえは、丁度近くにあった牛挽き肉のパックを手に取った。そして尚もチルド製品を選ぶ背の高い男へ問い掛ける。

「……ハンバーグとか、作ったら食べてくれますか?」

「トラウマあるから食いたくない」

 即答に近い返事になまえは「……そっか」と、肩を落とした。そしてどうやったら家庭のハンバーグでトラウマになるのか、なまえは少しだけソレが気になった。

「ついでにオレ、今日は夕方から練習あるから家に居ない。勝手に作って食っとけよ」

「…………はい」

 挽き肉を手にしたまま落ち込むなまえは、ノロノロとソレをあった場所に戻した。落ち込んだまま沈む高校生を見て、溜め息を溢した青峰は戻された牛挽き肉をカゴに入れた。

「何も戻す事ねぇだろ」

「一人じゃ食べきれません」

「余ったら、ラップ掛けて冷蔵庫入れとけよ」

 その変化球に似た言葉に尚も表情を変えないなまえへ、仕方無く自分の考えをストレートに判りやすく伝える。

「気が向いたら食ってやるから!」

 その言葉に顔を上げた女子高生は、ニッコリ笑って他の材料を取りに野菜コーナーへと走った。

 両手に袋を抱えた青峰は、クレジット明細をゴミ箱に捨てた。大きな買い物袋が左右にふたつ。後ろをひよこのように歩く少女も、カップ麺の大量に入った袋を抱えている。

 帰り道も途中に、制服に身を包んだ何組かの女子高生とすれ違った。彼女達の殆どが、キラキラした笑顔で談笑をしている。会話の内容はきっと恋愛や学業についてだろう。守られる立場にある彼女らは、そんな狭い世界の事しか心配しなくて良い。

 青峰が隣を通る時、必ず好奇の目を向けられる。例外なく、全員にだ。規格を超えた身長は、見世物小屋のアトラクションのようでもある。数人から『格好いい』と絶賛の言葉が無ければ、近隣の学校に苦情を入れていただろう。勿論ソレは冗談だが、とにかく男はその位精神に余裕が無い。

 それと一緒に、自分の傍に居る少女が異国の地から来たお嬢様にも思えた。ソイツも同年代の"制服を免罪符にした少女達"を眺め、羨んでいる。自分達は周りからどう見られているのか――。彼女と彼氏だったら困る。

「オレ……お前に一言も『居て良い』なんて、言ってねぇからな」

 周りに誰も居なくなった瞬間、青峰は居候する少女にそう告げた。

「…………はい。すいません」

 そう言って相手との距離を遠ざけた青峰は、自分が駄々を捏ねる子供と何も変わらない事に気付く。




「久々です、ハンバーグ作るの」

 『ウキウキ』と云う効果音を背負いながら、なまえは狭い単信用のキッチンへ材料を広げた。

「ままごと始める前に、風呂入って来い」

 そう言って頭を小突いてやれば、袋から取り出したシャンプーとトリートメントのボトルを抱え、なまえは浴室へと消えた。ガチャリと折り畳み式の扉が開き、伸びた白い手が洗面台の前へ衣服を落とす。

 彼女は下着を下ろす度、普段はその場所にあるモノが無い事へ――何を思うのだろうか。少しだけ湧いた罪悪感と背徳感から逃げたくなった青峰は、相手がシャワーから出るより先に、練習へ行く事を決める。

 リュックに練習着とタオルを数本詰める。それと財布と、預金通帳等の貴重品。普段は持ち歩かないが、他人を留守中に入れるのだから用心に越した事はない。

「じゃあな」

 シャワーを施設で浴びる事にした青峰は、リュックを背負うと競技用のシューズを掴み、自室から出発した。依然として浴室で身体を磨いている少女は、家主が出て行った事に気付かない。





 今日も定期の練習をこなし施設でシャワーを浴び、家に着く頃には22時を軽く過ぎていた。何時もの電車に揺られ、疲弊した身体を引き摺り帰路に発つ。纏う熱気は昼間よりはマシだが、湿度の高さにイライラが積もる。

 部屋の鍵を差し込み回せば、解錠が完了した。合鍵を渡して居ない家主は、閉まっていた事にひとまず安心した。チェーンは掛けられず、簡単にドアが開く。廊下も部屋も暗くて、闇だけが彼を出迎えてくれる。意外だったのが、冷房が切れ部屋に全域が熱気に溢れていた事だ。

 口元を尖らせ何時ものように部屋を明るくすれば、ベッドの中の何かが動いた。

「……お、かえり……なさい」

 布団がゴソゴソ動き、寝汗をびっしょり掻いたなまえが起き出す。青峰はシーツやタオルケットが汗で汚された事には何とも思わないようで、少女の浅はかに命知らずな行動に怒った。

「クーラーも付けずに寝てたのか!? 死んでも知らねぇからな!!」

「……あ」

 熱中症にでもなったらどうなるつもりだったのだろうか。せっかく頭を洗ったばかりだと言うのに、少女は汗と寝返りで髪がボサボサになっていた。やっと涼しい風に当たる事が出来たなまえは、コテンと横になってしまった。

「……勝手に寝てろよ」

 呆れも半ばに冷蔵庫を覗くと、予想通り手作りの歪なハンバーグがど真ん中に鎮座していた。取り出して添えられた野菜ごとレンジに突っ込んだ後、ワンルームでまた眠り始めたなまえへ声を掛ける。

「なぁ、お前。米は……」

 『どうした?』と聞きそうになり、まるで所帯染みた言葉に口を閉じる。バリバリと頭を掻けばレンジが温めを終了した。

 結局ハンバーグとチルドの米を食卓に並べ、一人黙々と夕御飯を食べる。テレビだけが部屋を賑やかにするのだが、違うのは寝息を立てて寝返りを打った若い少女が自分の背後に居る。――何を期待していたんだろうか。唯一の利点は想像していたよりも出来が良かった事だ。

 あぁ……そうだ、アレに似ている。まるで調理実習で作ったハンバーグだ。無駄なアレンジをせず、レシピと手順通りに作ればこんな風に出来上がる。秀才の味だ。お礼と褒め言葉の代わりに、振り向き横たわる小さな身体へ声を掛けた。

「最近、学校で作ったのか?」

 珍しくコチラからコミュニケーションを取ろうとするのだが、相手はすっかり眠りの世界だ。わざとじゃないと判ってはいるが、歩み寄ろうとするのに無視されると少し切ない。青峰は、たかが女子高生に対してこんな子供っぽく、えげつない事をしていたのか……と反省した。
 空になり、ソースだけが残った皿へ割り箸を投げた青峰は、ベッドに腰掛けてなまえの寝顔を眺めた。化粧も何もない顔は幼く、睫毛が長い。殆ど無いに等しい自分の目元とは大違いだ。何故コイツがオレに固執するのかは知らない。――でも、その仕草から"憧れ"や"恋心"は読み取れた。

 頬に流れた髪を指で払い、僅かに開いた唇へ顔を近付ける。触れ合うのにあと数センチの所で、枕近くにあった彼女のスマホが鳴った。そのタイミングに胸騒ぎを覚えた青峰は、メッセージを浮かべた画面を覗く。


【もう少しでダンクが出来そうです。なまえちゃんは東京でやりたい事出来た?頑張ってね】


 それを見た男は、少女から身体を離した。未だ無防備に寝ている少女の真ん前に、見えない誰かが立ちはだかったような気がした。別に、こんな何も知らないオボコ女……欲しくなったら強引に奪えば良いだけの話だ。

 そうしないのは、また同じ事を言われるのが怖いだけなのだろう。


『貴方より大切にしたい人が居る』


 コイツがそんな事をいけしゃあしゃあと言いやがったら、頬に張り手でも喰らわせてやる。

 ベッドを背凭れにし、小さな音量でAVを観た。明かりも付けない暗い部屋を、液晶の光だけが照らし出す。制服とは、然るべき対象の人物が着なければ只の布でしかない。テレビの向こうのAV女優が女子高生である訳が無い。全てがイミテーションだ……。飾りなだけなら、オレの股間のコレだって同じだ。

 まるで自分は砂漠に咲くサボテンのようだ。欲するモノがある癖に、その場から動かない。やって来るのを待つだけで、自ら歩いて探さない。『オレを見てくれ!』と花を咲かす癖に、自身の周囲をトゲで覆う。

「……別れてねぇなら、最初からそう言えよ」

 ようやく手に入りそうなソレは、命の水でも栄養剤でも何でも無い。

 ――……ただ単に、己を内部から朽ち果てさせる【毒】でしか無かったのだ。