黛千尋が"何をしているのか?"と聞かれれば、きっとこう答える。


『オレは、赤司征十郎になりたい』


 誰かの作った世界に逃げ込むしか出来なかった男は、赤司と云う強烈な人間と出会った事により、彼の目線でこの世界を見たくなった。

 皆が自分にひれ伏し、そして従順となる世界。ソレこそが彼の望んだ世界であり、欲しがっていた場所だった。

 だが、残念ながら黛に赤司のようなカリスマ性は無い。……他者を凌駕する実力が伴っていないからだ。結果、黛は単なる下僕のような立場で終わるのだった。

 嫌だった。ヒーローによって蹴散らされる雑魚のようで、本当に嫌だった。

 ――だから、黛千尋は他者の弱みを牛耳る事によってソレを埋め合わせようとした。少しだけ他者より回転の速い頭脳と、持ち前のポーカーフェイスを駆使して……。

 真に、愚かな話である。


 ………………………


「……私が、青峰さんを?」

 その愚かな男へ、一人の少女はそう問い掛けた。男は特徴が少なく、まるでスーツだけがソコに人をカタチ取っているようだ。

「……青峰は、お前を手放したいから中島と付き合ったそうだ。順番的には、女子高生の方が先だ。良かったな、コレで完全な被害者になれる」

 灰色の目をリビングのドアに向けた男は、ありふれた薄い声で呟き続けた。彼がその場に居ない気がするように、彼もまた、なまえがその場に居ないかのように独り言を続ける。

「被害者なら、周りが同情してくれる。……火神なんか、特にな」

 ドアの向こうに姿を消した家主は、渡されたレコーダーを聞いているのだろうか。どんな内容か判らないなまえは、どうか"自分の浅ましさ"が露見しないようにと神に祈る。

 ガチャリとノブが回り、扉スレスレにまで背が高い赤毛の男はリビングへ戻って来た。浮かない顔をしているが、怒ってはいないようだ。その様子に、黛は眉根を潜めた。

「やっぱ良い。返すぜ、コレ」

 落ち着いた声で、火神はレコーダーを持ち主へと返した。意外そうな顔をした黛は、細目を開いて相手を見る。

「……何か。聞いたらお前に踊らされそうな気がしたからよォ」

 そう言って、火神は黛から目を逸らした。その中身が何であれ、今は聞かない方が良いような気がした火神大我は、青峰が何を隠していたとしても、ソレは本人から聞き出すべきだと考えている。だからこそ、コチラも影でコソコソするのはみっともない。相手が誰であれ筋を通すのが、火神と云う人間だ。

 受け取ったレコーダーを胸の内ポケットへしまった黛は、溜め息を吐いて視線を伏せた。

「馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、案外賢いトコもあるみたいだな」

 誉め言葉にしては気分が良くならない台詞を告げた黛は、椅子から立ち上がる。そして足を踏み出した。……入り口とは逆の方向へ。

「……あ、の。何か?」

 初対面の男がコチラへ近付いて来る。その意図が判らないなまえは、身を縮こまらせて黛に怯えた。近くで見ると思ったよりも背が高く、また体躯が薄い。

 黛は、長く細い腕を前に出して少女の肩を掴んだ。――そして、少しだけ腰を落として顔を近付ける。

 火神が気付いて阻止しようとする前に、なまえの唇に柔らかいモノが触れた。

「………ッ!!?」

 黛千尋は、人生で二人目の相手とキスを交わした。一方的に……。意味は無い。愛も無ければ、何の感想も無い。本当に、ただのキスだ。挨拶代わりにもならない、数秒後には感触も忘れそうなキス……。

「テッメェ!!!」

 顔を離した男は、パンツスーツのポケットから一枚の紙を取り出して、ソレを少女に差し出す。シンプルな名刺には所属チーム、名前と携帯の番号が記されていた。青峰や火神とはリーグの違う黛は、自身の名刺を持っている。CMや各種の契約を、選手個人で請け負わなくてはいけないから。

「青峰に失望したら連絡しろ。手助けしてやる」

 いきなりのキスに頭が混乱するなまえは、火神が二人の間に割り入る前にその名刺を手に取った。

「捨てろよ!! そんなの!!」

 火神はそう言って彼女を怒った。嫉妬で大人の余裕を無くしているようだ。しかし、火神の言い付けを守らず、なまえは名刺をスカートのポケットへと入れた。

「なまえ!!」

 呆れたような怒鳴りで彼女を叱った火神は、複雑そうに唇を手で覆ったなまえへそれ以上何も言えずに黙った。家主の背後にいる黛は、無表情のままにこう言い残す。

「もう二度と、キスはしてやらないけどな」

「当たり前だ!!」

 吠えるような火神の台詞を無視した黛千尋は、そのままリビングを後にした。

 なまえはキスをした筈なのに、彼の薄い唇は何の印象も置いていかず、向こうは匂いすら無かった。まるで……幽霊と口付けをしたようだ。指先で自分の唇に触れるが、コッチの方が存在感がある。

 そうして彼女は、何故か青峰と初めてキスをした日を思い出す。その初キスは柔らかくて、心臓が飛び出すと思った。……締め付けられた心は、"痛い"と叫んで記憶を脳裏からフェードアウトさせた。

 彼女の唇を奪われた火神は、黛を恨みながらソファーへ腰掛け、苛立ちを貧乏揺すりで逃すのだった。


 ………………………


 施設の更衣室で、三人の選手が持ち寄ったポータブルDVDプレイヤーから目を離した。溜め息を吐いた笠松は、目頭を指で押さえる。彼等は中国とイタリアの親善試合の鑑賞をしていたのだ。

「中国に勝ったら、次は台湾だ」

 笠松の呟きを聞いた黒髪の男は、泣きほくろ付近をグニグニストレッチした。台湾もまた、日本よりはランクが高い強豪国だ。だが、中国を破れば……確実に準決勝に進める。恐らくは、カザフスタンか韓国と当たるだろう。勝てば、決勝でアジアランク一位のイラン戦だ。優勝すれば、晴れてアジアナンバーワンの実力を以てオリンピックに挑める。……それはまるで、子供の夢物語だった。

「アジア選手権も、第二試合まで終わりましたね」

「どうだ? 中国の試合は」

 笠松の問い掛けに少し考えた氷室は、何から言えば良いか悩んでいた。……目下の問題は、どうやって紹豹孚を抑えるかだ。

「……リバウンドが強過ぎる」

「豹孚のスクリーンアウトは強烈だからな」

「じゃあ、苦汁を飲むのはアツシか?」

 悪戯な笑みを見せた氷室辰也は、首を捻って自分の後ろに居る人物へ声を掛けた。

「サイアク〜……」

 そう言って三人目の男は、チョコレート菓子を口に含んだ。ウェハース部分がボロボロと崩れ、紫原のワイシャツに付着する。

「……いや、恐らくは火神に付くだろ。空港であんな事言ってたんだ、潰しに来るぞ」

 渋い顔をした笠松は、座ったベンチを指先で叩きながらそう言った。『赤目の男は、二人も要らない』――スポーツ新聞に記載されていた一文。日本代表に赤目の男は一人しか居ない。潰される運命である火神は体格こそ良いが、ニ十センチと云う身長差で大きなビハインドを負っている。

 世界最高峰のプレイヤーはリバウンドの場所取りすら完璧だ。紹豹孚の背に追いやられれば、ソコから動く事もままならない。ポストでのプレイが得意な青峰や紫原ですら、苦戦するかもしれない。

「タイガ、キレますよ? いや、最初は喜ぶだろうけど……」

 火神大我をよく知る幼馴染みは、苦痛そうに顔を歪める。

「火神、活躍出来なきゃすぐ拗ねるからねー。ダッサ……」

 咀嚼を止めた紫原は、ストレートに火神を馬鹿にした。

「じゃあ、アツシには劉のチェックが入るのか?」

「……面倒だね。前のチームメイトが居るって」

 そう呟いた紫原は、劉偉がどれだけ自分と氷室の性質を中国側へ提供しているかを気にした。勿論、コチラもある程度劉偉の性質を知っているが、一人と二人では圧倒的に歩が悪い。――弱点が読まれている。しかも、五人中二人も。

「だけど、ウチにもイレギュラーが居るだろ」

 トントン……とベンチ叩くのを止めた笠松は、自分自身に言い聞かせるように二人へそう言った。強がりの言葉でしか無い事は判る。でも、強がらないとNBAプレイヤーと立ち会うにも膝が笑う。

「……誰の事言ってんのかは知らないけど、ドッチにしても駄目駄目じゃん」

 再びウェハースを噛み始めた紫原は、その頭に二人の人間を浮かべたようだ。一人はコート上で姿を眩ませる事が可能で、存在自体がイレギュラー。もう一人は、今までのポジションを捨てて新しい場所を手にする。……だが、現状どちらも不安要素が強くて武器にも出来ない。

「せめて青峰がPGを真面目に習得してくれりゃあなぁ……」

 ヤル気があるんだか無いんだか、とにかく今の青峰は信用出来ない。不誠実なあの男が、どうやったら真っ直ぐに立ち向かってくれるのか……笠松は頭を悩ませた。その様子に、氷室はクスクスと笑う。

「鬼コーチが必要ですね」

「鬼以上じゃねぇと、言う事聞かねぇだろ」

 珍しくケタケタと笑う氷室は、壁時計の時間を見た瞬間に驚いた顔で「あぁ!」と叫んだ。突如の大声に驚いた二人は、氷室を見る。

「今日! タイガの特番!!」


 ………………………


「……はにゃ?」

 リビングのテレビで、大分短く纏められた"自分の勇姿"を見た火神は、終了したコーナーに首を捻った。その可愛いリアクションに笑うのを堪えたなまえは、液晶を通して見るよりずっと逞しくて威圧感ある火神へ問い質す。

「どうしました?」

 首を再度捻った火神は、本日行われたバレーボールの試合結果を眺めながら呟いた。

「青峰のインタビューがねぇ。アイツ、撮ってねぇのか?」

 しかし「まぁいいや」で片付けた火神は、それ以上他のスポーツに興味が無いのか、テレビを消した。

 そしてソファーの隣に座る少女へ顔を向け、キスをしようとした。――だが、さっきなまえは他の男と唇を重ねていた。だからか、火神は顔を離して小さく唸るのだった。

「何か、今のお前とキスしたら……黛としたみてェで……その……」

 まごまごした事を言う火神は、黛が嘲笑っているような気分になっているようだ。頭を下げた火神は、組んだ両手の指先を遊ばせて居心地悪そうにする。

 すると、頬に柔らかい温もりが触れる。不意打ちにキスを貰った火神は、驚いてなまえを見た。真っ赤に染まった顔で、目を見開きながら。

「嫌な気分ですか?」

 その小さな悪戯に、笑みを見せた火神は相手の両肩を優しく掴む。

「……そうでもねぇな」

 そう言って首を傾けた火神は、なまえの唇目掛けてキスをした。束の間の安らぎだとは知っている。現実逃避にも似ているし、我慢の多い休息になりそうだ。

 でも、幸せだと思った。彼女が自分を応援してくれたら……週末に待ち受ける試練を、乗り越えられそうな気がした。


 ………………………


 ――青峰は走った。遠くから見たアパートに不審者が居たからだ。恐らくは、また自分の部屋へ悪戯しに来た中島のぞみのファンだろう。取っ捕まえて警察に付きだし、憂さ晴らしをするつもりで青峰は走った。不審者はアパートの階段をゆっくりと降りる。

「何してんだよ!! オイ!!」

 怒鳴って階段から姿を見せる筈の相手を威嚇した青峰だったが、現れた人物の姿を見るのと相手の声を聞くのは同時だった。意外過ぎる相手に、青峰大輝の頭はパニックに陥る。そうして聞き心地の良い特徴的な声が、閑静なこの場を緊張させた。

「……何しているとは、随分とご挨拶じゃないか? 青峰」

「あ、赤司!?」

 目の前に姿を現した赤司征十郎は、数年前と何も変わっていない。左目を眼帯で隠し、童顔には似合わないスーツに身を包んでいた。彼は赤い右目で青峰の上から下を一瞥して再び口を開く。

「代表選手とは思えない位に腑抜けた顔だな。少しは自分の立場を自覚しろ」

 軽蔑したような眼差しは相変わらずで、赤司は元チームメイトに渇を入れる。数年振りの再会なのに、歓迎の意を見せない青峰は、その昔と変わらぬ青い瞳で赤司を睨んだ。

「……お前、説教しに来たのかよ」

「本来なら、火神の所に行くべきなのだが……今日は会いたくない人間に会いそうだったから、コッチにしたんだ」

 赤司の言葉を鼻で笑った青峰は、打って変わってニヤニヤした笑いを相手に向けた。

「お前にも苦手な奴が居んのか?」

「この場合、"オレが"と言うよりは、"向こうが"と言った方が誤解が無いだろうな」

 まるで何かを知っているかような口振りの赤司は、不思議な台詞を吐いて似つかわぬ笑顔を見せる。

「話がしたい。時間は取らせない。何だったら、バスケをしながら語り合うか?」

 コンビニの袋を回して拒否の態度を見せる青峰に、階段の前に立つ赤司は顎を上げてこう言った。

「……腑抜けたお前に勝つのなんて、寝てても出来る」

「――オレはプロだ。ガキの頃と一緒にすんな」

 分かりやすい挑発に乗った青峰は、赤司を睨む。確かに、彼と一対一で真面目に対戦した事はない。ソレはポジションが違うからだ。――否、本当は怖かったのかもしれない。単純に、赤司征十郎に負けるのが……。

「青峰がPGをやると聞いた。勝負に出たな。発案者は笠松サンか?」

 コツ、コツ……と閑静な夜道に足音が響く。そうして自身の耳元に手を這わせた赤司は、目を覆うガーゼを剥ぎ取った。

 眼帯を取った赤司の左目は、未だに橙色だろう。ソレがスイッチか何かのように、赤司征十郎は雰囲気が変わった。彼の"冷静であり、冷徹な部分"が露見する。

「――大輝。準備に三分やろう」

 コンビニの袋を強く握った青峰は、呼び名の変化と云う判りやすい区別に警戒する。こちらの赤司は、些か面倒な人格であるからだ。

「今すぐジャージに着替えろ。ボクが指導してやる。PGを、な」

 強気に腕を組んだ赤司は、鬼以上に威圧感がある。……ようにも見えた。

「はァ? 夜中だぞ。明日早ェんだよ。バスケしてェなら、またにしろよ」

 時計はてっぺんを回ろうとしているこんな時間に指導を始めると言う赤司へ、犬を追い払うかのように手を振る。ソレを見た赤毛の少年は、顎を抱えて「ふむ」と考え込んだ。

「あまり野蛮な真似はしたく無いのだけれど……」

 赤司の台詞を鼻で笑い「いや、十分野蛮……」とまで言った青峰は、数秒後に地面に崩れた。……それはもう綺麗な回し蹴りを鳩胸に喰らい、前のめりに倒れたのだ。

 肩と同じ高さまで上げた足を下ろしながら溜め息を吐いた赤司は、呻く青峰へ見下した目線を投げる。スーツなんて動きにくい格好で回し蹴りを繰り出せる赤司を、「人間だ」と思う事を止めにした青峰は、咳き込んで相手を睨む。

「そんな舐めた態度でPGをやろうとしているのか?」

 その赤司征十郎と云う人間は、言うならば"閻魔大王"と同等だろう。鬼なんか生温い。そんな赤毛のコーチは、腑抜けたトレーニーを地獄の炎へ送る事に決めた。

「侮辱するにも程があるぞ」