大浴場の扉がガラリと開く。湯気で前が見えないかと思えばそうでも無く、換気設備が整っているお陰か、視界はクリアだ。その水色のタイルに足を踏み出した男は、Yシャツにネクタイの姿で浴場に姿を見せた。

《……受付は何してんだよ。部外者入れやがって》

 中国語で文句を言った貸し切り客は、黒い短髪を泡で掻き立たせている。隣に居る背の高い男も中国人で、同じ言語を話した。

《日本代表選手だ》

「紹豹孚を出せ」

 褐色肌の侵入者は、強面で相手を威嚇しながら洗い場へと足を運んだ。その侵入者の狙いは、ただ一人……。だが、その人物はこの場を見渡しても姿が無いようだ。

「今、サウナアル」

 答えたのは、日本語の判る劉偉だった。これ幸いと、侵入者は劉に喰って掛かる。

「出せ」

「……相ッ変わらず強情アルな」

 シャワーの栓を捻り身体を洗い流す劉は、侵入者の要求を無視した。背後から重圧を感じてはいるようだが、気にしない振りが巧い。

 代わりに、サウナから黄瀬涼太にも勝る顔立ちの綺麗な青年が出て来た。彼は黄土色の髪を汗で濡らし、微笑みを張り付けたままに馴れない日本語で挨拶をする。

「ハジメマシテ。晧月<コウゲツ>デス」

 出て来た人物に不満を露にする青峰は、眉根を寄せた。

「舐めてんのか? 紹豹孚出せって、そう言ったんだよ」

 晧月と名乗った美青年はフンワリと微笑んだまま、片言の日本語を続ける。

「無理デス。お帰りクダサイ」

「はぁ? 何でだ? 居んだろ」

 青峰は、腕を組んで苛々する感情を抑えた。この場で目の前の美青年を組伏せ紹豹孚を呼び出してもいいのだが、怪我でもさせたら厄介だ。だから結局は、何も出来ずに留まるしかない。

「貴方が、彼に会う器では無いからデス」

「……誰が決めた?」

 その理由に片眉を上げる青毛の男は、自身を馬鹿にした相手に問う。青峰大輝と云う男は、"限界"や"器の大小"を他人に決められるのが大嫌いなのだ。

「誰が決めたんだよ!! そんな事!!!」

 広い浴場に青峰の低い怒声が反響し、全員が彼を睨んだ。敵意を剥き出しにする中国代表の面々は、異国で暴れる野暮な真似はしない。……例え、どれだけ馬鹿にされようと。

「アイツに伝えとけ。……あの身長があれば、オレは5M跳べる。鉛で出来てんのか? あのスターの身体は」

 その中傷へ、最初はクスクスと小さな笑いを漏らし段々と大きな笑い声へと変えた晧月は、遂に浴室へ響く程の声を出した。

「素晴らしいデスネ! まさに選手としては理想的な信念の持ち主デス! 日本のコトワザを思い出しマス!!」

 その後嬉しそうな顔を引っ込め、晧月は低い声で青峰を嘲る。

「……まさに"弱い犬程、よく吠える"デスネ」

「最近は、強い犬だってよく吠えるんだぜ?」

 ニコリともしない青峰は、目の前の外国人に教えてやる。……自分は"強者"だと。

 こんなポンコツな身体でどれだけ世界に通用するかは知らないが、威勢を張れるだけの自信はある。

 ――そんな二人の膠着状態を打ち破ったのは、開いたサウナルームの扉だった。

《オイ、うるせェぞ。静かにしろよ》

 低い中国語が全員の耳へ届いた。ソレは皮肉にも、青峰大輝と似た声質だ。声の主は高い身を屈め、扉の向こうから姿を見せる。世界トップクラスの肉体を、惜しみ無く晒しながら。

 シン……と静まった浴室に、シャワーが床を叩く音と、大男の足音だけが響く。

《誰コイツ。どっかで見たなァ》

 晧月の隣に立った男は、目元隠す長い前髪越しに青峰を見る。その赤い瞳は凶暴で、歓迎の意を表してはいなかった。

《紹……。気にせずくつろいでいて下さい》

《くつろげるかよ? 風呂は狭いし、最悪だな》

 目の前に立った中国スーパースターの紹豹孚は、まるで化け物だ。腕は長く、無駄な筋肉が無い。脚もバネが軽そうで、バランスの取れ方が均等だ。まさに理想の体型が、ソコにはあった。相田リコが紹豹孚の肉体を見たら、何も言わず俯くだろう。

 息を飲み込みかけた青峰は、湿度のせいか背中に貼り付くワイシャツの感触に顔をしかめる。

「ナマクラ野郎が、ようやくお出ましか。試合中もこんくらい遅かったら、助かるんだけどな?」

 青峰の発言に反応を見せたのは、晧月だ。

「侮辱する発言は、控えてクダサイ」

「侮辱? 本当の事だろ?」

 紹豹孚は目の前の男を訝しそうに見やり、隣の晧月へ話し掛ける。

《何言ってっか判んねぇけど、腹立つ顔してんな?》

《日本代表です。貴方の敵じゃない。寝てたって勝てます》

《じゃあ、寝ながらバスケすっか》

 スターの冗談にクスクス笑う晧月は、その綺麗な顔を紹豹孚へ向ける。

 言葉も分からず嘲笑された事が面白くない青峰は、歪な笑いで二人に喧嘩を売る事にした。

「……一回戦敗退なんて、可哀想だな? 中国も」

「面白い冗談デスネ」

 鼻で笑いパンツスーツのポケットに手を突っ込んだ青峰は、余裕の表情でこう言い放った。

「冗談? 違う。――勝つのはオレだ」

「アジアランク九位ガ? ランク二位の私達にデスカ!? 二年前の大会、観ましたカ!? あんな国際試合、放送するだけ無駄ダ!!」

 青峰の強気を可笑しな冗談だと捉えた晧月は、スポーツ選手にしては華奢な身体を折り曲げて笑い出す。そのサラサラな黄土色の髪に、日本代表選手は言葉を投げ続けた。

「日本が勝つんじゃねぇよ。"オレ"が勝つんだよ。……ま、お前らからしたら意味は一緒だけどな?」

《何て言ってんだ? コイツ》

 日本語が分からず退屈そうな顔をした紹は、青峰を指差して肩を下げる。美青年は目元を拭いながら、スターの質問へ答えた。

《"勝つ"って言ってます》

 すると今度は、洗い場に座っていた黒髪の選手が笑い声を上げた。男は先日、警戒心薄い青峰から財布を奪った事もある。

《馬鹿かよ! 実力判ってんのか!?》

《油断しない方が良いですよ。相当の選手です》

 身体を洗い終えた劉偉は、その男へ敬語で話し掛ける。律儀で真面目な性格は、中国人相手にも変わらないようだ。

《劉、お前そう言えば日本でバスケやってたみたいだな。最悪だったろ、ただの球遊びは》

 話し掛けられた黒髪の男が、劉に皮肉を返す。しかし、青峰大輝を始めとする日本代表選手を間近で観てきた元留学生は、笑いもせずに呟いた。

《舐めてると、痛い目見ます》

「……お前に勝てば、オレが四億七千万人のトップだな?」

 青峰は、下から睨み上げるように笑う。不敵を彷彿させるその眼差しは、真っ直ぐに紹豹孚を貫いた。

「今から楽しみで仕方ねぇよ。王者の椅子に座るのが」

 青峰は一歩一歩スターへ近付き、互いの身体が接触しそうになる所で止める。メンチを切る格好だが、どちらかが離れる事は無い。胸を張り合い、強さを誇示し続けるのだ。

 奇しくも、ソレは数年前に桃井がライバル校の監督にした行為と同じだ。青峰大輝と桃井さつきは似ている。信念が誰よりも強く、そして負けるビジョンを考えない。それゆえに、彼等はどんな境遇に対しても強気で居られる。

「早く退いてくんねぇ? ……邪魔だ」

 青峰は、世界最高峰のプレイヤーを"邪魔"と切って捨てた。正直、紹豹孚のプレイは画面越しにも鳥肌が立つ位に精巧かつ大胆だ。……だからと言って、負ける気はしない。

 紹豹孚は相手を見下し、青峰は見上げる。圧倒的に分がある後者だが、彼は"そんな事"で怯む人間では無い。敵が目の前に居る事により、ひとつだけ確信が持てた。

 ――コイツだって、人間だ。弱点だってあるし、限界も存在する。

「ソコはオレの席だ!!! 退け!!! 豹孚!!!」

 自身が出せる最大の声量で怒鳴った青峰は、喉と耳の痛みを感じた。足を一歩引いた紹豹孚は、忌々しそうに青い瞳と視線を合わせる。

「それまで汚すなよ? 糞っ垂れ野郎には難しいかもしんねぇけどな」

 最後にそう言い残した侵入者は、振り向き浴場を後にした。

 晧月は、敢えて何も言わずに日本代表を帰した。片言の異国語では怒りを伝えるのは難しい。――ならば、試合の中でキッチリ仇を返してやろう。

 晧月自身は、青峰大輝を大したプレイヤーだとは思っていない。口だけ達者だが、どこか恐れているようにも思えた。プレイにソレが出ているのだ。彼は、身体のドコかが悲鳴を上げているのだろう。

 しかし、彼はもうひとつの"真実"へ辿り着いていない。

 "何かに恐れている"と言う事は、"本気を出していない"と同意義だ。――そう。青峰大輝は肩を痛めてから本気を出していない。自ら実力をセーブしている。

 晧月がソレに気付く事は、きっと無い。

《……アイツ、何て言ってたんだ?》

 最後までそのワイシャツを見送った紹豹孚は、男の言った事を知りたがった。

《そんな事知る必要無いですよ》

 返事が気に食わないのか、紹豹孚は黄土色の髪を掴み、自身の強面顔を彼に突き付けた。

《教えろ。オレに逆らうな》

 その傍若無人且つ横暴な態度に、晧月は顔を綻ばせた。それ所か、暴力さえも愛しいのか……嬉しそうな眼差しをスターへと向ける。

《ハイ、喜んで》

 その様子にドン引きした黒髪の選手は、視線を逸らして《気持ち悪ィな》と呟く。劉も、晧月の愛情に似た忠誠具合を日本語で誹謗した。

「……ホモ野郎アルね」


 ………………………


「すみません、毎回……迷惑ばかりで」

 少女から何度謝られたか分からない火神は、キーケースを靴箱の上に投げた。そして革靴を雑に脱ぎ、ネクタイを緩める。

「迷惑じゃねぇって。明日駅まで送ってってやる」

 制服姿のなまえは、大きな手で頭を乱暴に撫でられ、少しだけ嬉しそうな顔をした。

「火神さん! CM見ました! スポーツ店にポスター貼ってあったし、東京の地下に大きな広告もあった! 凄い!」

 本日、火神の広告を初めて見た彼女は、目の前で恥ずかしそうにする被写体を褒め称える。ニヤけ顔を隠しもしない火神は、後頭部を掻きながらなまえに教える。

「きょ……今日、テレビにも出るぜ? インタビューだ」

「はぁー。すっかり有名人ですね。最近、クラスの人もバスケの話してます」

「そ、そうか。こんなん全然だけどな!」

 リビングに少女を通した火神は、ネクタイをテーブルに投げる。そしてシャツの第二ボタンまでを開放した。

「火神さんも…………青峰さんも、どんどん有名になっちゃう」

 リビングのソファーに座るよう促されたなまえは、そう言ってオープンキッチンに立つ火神を横目で見た。彼はうがいと手洗いをしているようで、シンクから水の流れる音がする。

「青峰はなぁ……いきなり過ぎだよな? マスコミの奴等、練習にまで来て笠松サン……あぁ、キャプテンがブチ切れてたぜ」

 手を拭いた火神は、冷蔵庫からジュースを取り出してリビングへと戻る。そして少女の前へグラスを置いた。

「火神さんも、女優とかアイドルとか女子アナとか、綺麗な人達と付き合うんですか?」

「縁がねぇよ」

「……縁があれば付き合うんだ」

 意地悪な質問にあわやジュースパックを落としそうになった火神は、目を開いてなまえを見た。

「そう言う意味じゃねぇよ!」

 慌てた火神は、手を振って判りやすい拒否を示す。その素直な態度を可愛く感じたなまえは、思わず吹き出した。

「判ってますよ。本当に火神さんって真面目ですね」

「ま、真面目?」

 なまえの隣に腰掛けた火神は、真っ赤な顔を両手で隠して溜め息を吐いた。

「真摯的です。安心出来ます」

「……そうか?」

 年下にからかわれた火神は、悪い気がしないのか笑みを作って父性顔でなまえを見る。

「今日、一緒に寝て下さい。前みたいに」

 恥ずかしそうにそう言った少女は、首を傾げて火神の肩に頭を乗せる。緊張した男は、口をパクパクと開閉して挙動を不審にした。

「一緒に!? 無理無理無理!! 大会近いし!!」

「あの……隣で寝てくれるだけで良いんです。この前一緒に寝た時、安心出来たから」

 柔らかい髪をシャツ越しに感じた火神は、唸りながら困ったように眉を寄せる。

「……ソレが一番難しいんだよ」

「駄目ですか?」

 火神は、好きな女にそう言われ突き放す野暮な男ではない。男は大袈裟に溜め息を吐き、自分の三分の二も無い肩を抱き寄せた。

「……寝るだけだな? 了解、だ」

 なまえの頬を撫で、顔を近付けた火神だったが……玄関のインターホンにキスを邪魔される。舌打ちをして彼女から離れた火神は、口を曲げて不満を露にする。

「……誰だよ? 黒子か?」

 エントランスのインターホンでは無く、玄関のベルを鳴らした来訪者を"忘れ物でもした黒子テツヤ"だと思った家主は、カメラで確認をする。しかし、火神はそこに立っている人物が意外すぎて自身の目を疑うのだった。

 家主は面倒臭そうに自宅のドアを開け、スーツの男へ声を掛ける。

「なぁ、黒子もよくやるんだけどよォ……。お前らセキュリティ破んの、得意なのか?」

「オレの前でソイツの名前を出すな」

 灰色の瞳で批難の眼差しを向ける客人――黛千尋は、挨拶も無しに火神宅へ上がり込んだ。そして彼は、リビングで小さくなっていた女子高生を一通り眺めて視線を火神へと流す。明らかな侮蔑の目を受けた火神大我は、顔を背けた。

「火神さん、この人は……その」

 なまえは恐縮しながら、黛の背後に居る火神へと質問した。リビングの入り口に凭れ掛かった火神は、ソレに答えてやる。

「チームメイトだ。日本代表の」

 黛の風貌に"違う誰か"を重ねた少女は、来訪者にこう聞いた。

「黒子さんの、お兄さんですか?」

「違う。関ッ係無い」

 眉を少しだけしかめて嫌そうな顔をした黛は、黒子が苦手なようだ。ソレを知っている火神は、歯を見せ意地悪な笑顔を作り出す。

「口の悪い黒子みてェなモンだ」

 首を振り溜め息吐いた黛は、再びなまえへ視線を戻す。まるで生気を感じない二つの瞳に怖じ気付く少女は、肩を強張らせた。

「……青峰の女か。写真で見た」

「違ェよ、オレの女だ」

 横から訂正を促した火神を鼻で笑った黛は、微妙に愉快そうな顔をする。

「目出度い頭だな。赤いだけある」

 皮肉で火神を褒めた黛千尋は、顎でなまえを指しながら命令のような言葉を吐く。

「丁度良い。この女と話がしたい。出ていけ、火神」

 勿論、火神は警戒心を剥き出しにして命令に背く。

「そんな出来っかよ! 例えお前がフニャチン野郎でもな!」

「安心しろ。オレは三次元の女に興味が無い。全員ブスだと思ってる」

 なまえは、今日初めて会った男から"ブス"と言われショックを受けた。全世界の女性を馬鹿にした来訪者だが、彼は顔立ちが薄く整っている。目さえ死んでいなければ、万人に受ける容姿だ。

 まぁ、二次元にしか興味がない故の発言なのだが、黛のオタク気質を知らないなまえは、男へ横暴な印象を持った。

「何考えてんだよ……黛、サン」

「お前は別室でコレでも聞いてろ。データ壊したら五百万だからな」

 内ポケットからひとつのICレコーダーを出した黛は、顔をなまえの方向へ向けながら背後の火神へ放り投げた。意図が読めない火神は、売ったら金になる"あるデータを"手にし、廊下へと出た。――ソレが、数人の人生を終了させるだけの価値がある内容だと気付かずに……。

「……あの、話って?」

 ダイニングテーブルの椅子を引き腰掛けた黛は、手と足を組んで大柄な態度を見せた。その姿が何故か青峰と重なり、なまえは胸騒ぎを感じる。

 目を逸らしたら消えてしまいそうに存在感と覇気の無い男は、これまた消えそうな声を出して彼女へ質問を投げ掛けた。そしてなまえは、後頭部を殴られたようなショックを受ける。

「青峰は、お前を捨てる気だ。利用されているだけな事に、早く気付け」

 そして顎を上げて嘲た笑いを見せる男は、真っ青になった彼女へこう言った。

「記者が来ただろ? 利用してやれ。……お前が青峰を脅すんだ」