賑やかな居酒屋の一角に、不気味な笑いが混ざる。漏らしているのは黒いポロシャツを着た中年男性で、本日四杯目の生ビールを手配していた。向かいに座る男はグレーのスーツをカッチリと着て、先程からウーロン茶しか口にしない。

 手を組もうと持ち掛けたのは黛からだった。チームメイトに話を聞き出そうと張り込んでいた記者に、自ら声を掛けたのだ。背後から煙のように現れた青年の姿へ驚いた記者は、危うく一眼レフカメラを地面に落とす所であった。

 半分以下になったウーロン茶をコースターに置いた黛は、ポケットからスマホを取り出した。バイブレーションでの呼び出しに、無表情のまま視線を向ける。

「……電話が入った」

 スマートフォンを操作し、黛は着信に出た。画面に映っていたのは未登録の携帯番号。相手を確認しようと首を伸ばした記者は、つまらなそうな顔をして引っ込める。ガヤガヤした店内では、受話口から漏れる相手の声も聞こえなかった。

「あぁ、持って来たか。待ってろ」

 黛はソレだけ言うと、耳から機器を外して通話を終了させた。彼は誰に対しても無駄な事は喋らない主義のようで、コミュニケーションが苦手そうな人間に思えた。――暗躍には持ってこいだが、友人にしたいとは思わない。

「どうしました?」

「お前に、もっとスキャンダルをやるよ」

 そう言って、黛は席を立ち店内出入口へと向かった。追い掛けようか悩んだ記者は、急な尿意に負けトイレへと向かうのだった。


「――すみません、お待たせして」

 トイレから戻ると、黛は既に着席し腕を組んでいた。強気とも取れる姿勢の青年は、一枚の長封筒を差し出す。清潔感ある表面に書かれた『診断書在中』の文字。下部にはココ一帯で一番大きな総合病院の名が書かれていた。

「何ですか? コレ」

 覗き込むように中身の薄紙を取り出した記者は、広げて内容を確認した。そして"誰の診断書"なのかを知り、口を開く。

「青峰大輝の、……診断書?」

 ソコに書かれた診察内容は、アルコールで真っ赤な記者の顔を少しだけ青くさせた。黛は、丸まったおしぼりの端を掴み、左右に振った。柔らかいソレは頭をもたげるように揺れ、まるで元気がない男性器のようだ。

「……ソイツの病名は、勃起不全。インポテンツだ」

 肩を震わせて静かに笑い始めた黛は、まるで怪物のように思える。そして、賑やかな筈の店内はいきなり静かになった。……別に皆が黙ってしまった訳ではない。記者の耳に、何も届かなくなっただけだ。

「笑えるよな? 人気アイドルの彼氏が、セックス出来ないなんて。下衆いスキャンダルだろ」

「……セックス、出来ない?」

「哀れな男だ。……いや、アイツはもう、男として不全みたいだな?」

 診断書を隅から隅までチェックする。偽物である可能性があるからだ。だが、病院名はこの変でも有名な総合病院だし、医師のサインもある。判子も正しい。この病院が、掛かってもいない病名で診断書を出す真似はしないだろう。

 ……だが、鑑定に出すまでは諦めないつもりだ。だってコレが本当なら、自分が追い掛けているスキャンダルがただの虚構話になってしまうから……。

「……でも証言が!」

 慌てて胸に入れたレコーダーを取り出し再生ボタンを押すが、何も録音されていない。何度頭出しをしても無駄だった。空ロムを渡された記者は、目を見開いて黛を見た。

 ――何故、この男を信用してしまったのだろうか。記者の頭には、その疑問が浮かんで消えた。

「そんなレコーダーを三十万で買うなんて、記者って言うのは儲かるんだな?」

「詐欺だ!!」

「何が詐欺だ?」

 確かに黛は何も言ってはいない。『録音が出来た』とも『報償金を出せ』とも言っていない。記者が勝手に納得し、金を渡しただけだ。黛千尋は、元々口数少ない男だった。だから記者は黛の無言を問い質す事なく、まんまと騙されたのだ。

「ふざけるな!!!」

 こんな二十歳そこそこの若造にしてやられた記者は、怒りに任せて大声で野次る。

「スッパ抜いてやる!! お前の事何もかも!!!」

 黛は机を叩き、腰を上げた。宙に浮きガチャンと揺れた食器やグラスは、重量で元の場所へと戻る。

「……やってみろ」

 特徴無い顔を記者に近付けた黛は、珍しく相手へ威圧を掛けた。死んだように濁った瞳からは何も感じられない。怒りと云う感情さえ表面に出さない男は、まるで死人のように不気味だ。

「オレは二十三年間、誰にも存在を認識されなかった。お前ごときにオレを認識出来るのか?」

「……私は記者だ」

 目を大きく開いた記者は、黛を睨み返した。灰色の瞳に映った自分は仰け反っている。そして、記者の耳には自分の荒い鼻息だけが付く。

「楽しみだ」

 怒りも笑いもしない黛は、最後に三十万の入った封筒をテーブルに叩き付け、静かに居酒屋を後にした。店内全ての人間が、自卓を気にしているように思えた記者は、ジョッキに残ったビールを飲み干し席を立つ。

 数分前に退店した筈のグレーのスーツを着た青年は、煙のように姿を眩ましていた。……まるで、彼の存在そのものが幽霊のようで気味が悪かった。


 ………………………


「主張が激しくなったんじゃねぇの?」

 人混みに紛れたら消えてしまいそうな黛の後ろを着いて歩く青峰は、彼にそう嫌味を刺した。ピタリと足を止めた黛千尋は、振り返り感情無い目で青峰を見た。

「……青峰。オレに逆らわない方が身の為だ」

「"助けてくれ"なんて頼んでねぇのに、図々しいな」

 維持でも借りを作りたくない青峰は、お礼も言わずに黛へ喧嘩を売った。

「勘違いするな。誰がお前の為に動くんだ?」

 パンツスーツのポケットからもう一つのICレコーダーを取り出した黛は、勝ち誇った顔で再生ボタンを押した。

『女子高生抱いといて、保身の為に捨てんのか。青峰大輝。日本代表になって、調子に乗ったか?』

『お前も、今日はよく喋るな』

『そうするしかねぇんだよ』

 ソレは、トイレでの発言を録音したモノだ。やはりあの時フルネームで呼んだのは、事実を記録として残す為のようだ。

 音声を証拠とするのに必要なのは、相手の正式なフルネームと所属だ。

 "日本代表の青峰大輝"は世界に一人しか居ない。ソレを踏まえて淫行を認める発言をしてしまった青峰に、逃げ場は無い。

「オレの座右の銘は"晴耕雨読"。益にならない事は、しない主義だ」

「テメェ……!」

 黛は狡猾な男だ。最初から、青峰を奴隷にするつもりで動いていた。まんまと手中に収められた青峰は、黛の駒となるしかない。

「青峰、早速お遣いを頼もう。小学生でも出来る、簡単な頼みだ」

 レコーダーを上着の内ポケットにしまった黛は、笑顔を消して"いつもの表情"に戻した。

「京都から埼玉まで、新幹線のキップを買ってこい。往復分だ。時間は追って指定する」


 ――青峰はボンヤリとさっきの出来事について考えていた。黛千尋は簡単な誘導で二人の人間を翻弄し、牛耳ってしまった。アレは対象の行動を先読み出来る観察眼と、黛独特のポーカーフェイスが無くては出来ない。

 赤司は高校の数ヶ月で、この黛のポテンシャルを見出だした。赤司の"人材を見極める能力"は、相変わらずに化け物並みだと感心してしまう。

 黛がした事は、ただ人の弱味を察し、頭の中で綿密なフローチャートを組み立てただけ。……皮肉にもそれは、PGの仕事と似て通じるモノだった。

 だが、黛はプレイに自己主張が無い。運ばれたボールを次に繋げるだけのプレイヤーだ。あの影の薄さでは司令塔は務まらない。それなら主張が強い青峰自身が指示を出す方がまだマシである。

 でも……馬鹿な自分には無い、あの頭の高速回転が欲しい。青峰はたったひとつの可能性を思い浮かべ、その"頭の悪そうな提案"を笑った。

 黛からサインを貰い、自分がガードポジションから指示を出す。黛の仕事は、例えるなら野球の捕手と同じだ。

 ……やっぱ無理だ。黛千尋は影が薄い。見失ったら何の意味もない。おとぎ話のようなその案は、脳内で棄却された。そもそも二人で司令塔をやるなんて、笠松がブチ切れそうな提案だ。

『PGナメんな!』

 あの男だったら、絶対にこう言うだろう。


 ………………………


 大衆銭湯に足を運んだ青峰は、ロビーがガラガラな事を幸運だと喜んだ。ゆっくりと湯船に浸かりたい。それならば、人が居ないだけ有難い。

 大広間のテレビはスポーツ番組が流されていた。大型の液晶に映る火神大我の姿に「あ」とだけ呟いた青峰は足を止める。特集番組はスポーツ番組の一部に組み替えられ、インタビューに答える男が寂しげに見えた。何名かの男性がテレビを観ながら遅い晩飯を取っている。

『オレの仕事は、勝つ事だけだ』

「随分と楽な仕事だな!」

 土木作業員なのか、薄汚れたツナギを着た男性三人組が火神の発言を笑った。思う事があるプロ選手は、黙って三人組を眺める。

 ――スポーツ選手の苦労は誰も知らない。かく言う青峰自身も、プロの世界に入るまでは『好きな事で金を稼げる夢のような仕事』だと思っていた。……肩を壊した今、背後にあるのは恐怖だ。

 頭を振って大広間から動いた青峰は、券売機で入浴券を購入しようとして立ち止まった。

「券、買えねぇじゃん」

 販売中止の赤いランプが光り、無駄足を運んだだけとなった青峰は舌打ちをする。

「お客様、すみません。只今の時間、男湯が貸し切りとなってまして……」

「は?」

 愛想の欠片も無い対応で受付を睨んだ青峰へ、店員は慌てて事情を説明する。

「中国の、バスケ選手だか何だか……四名程いらして。金は払うから貸切にしろと。勝手ですよね」

「マジかよ……。中国?」

 おもむろに千円札をカウンターへ叩き出した青峰は、そのまま階段を昇り浴場へ向かおうとした。慌てた店員は止めようと、オロオロ後を着いて来る。

「あの、ちょ……ちょっと!」

 振り返りもしない青峰は、ズカズカと昇りながら店員を誤魔化そうとする。

「挨拶に行く。オレもバスケのプロ選手だ。知り合いみたいなモンだから、問題ねぇよ」

「え……? あ! あーッ!!!」

 "バスケ選手"の一言で、目の前の男が今ワイドショーで話題の人物だと気付いた店員は、大声を出して青峰大輝を指差した。

 まるで竹馬でも履いたかのような長い足に、高い身長。そしてテレビで見るよりずっと広い背中。日本人離れした逞しい後ろ姿を眺め続けた店員は、慌ててスマートフォンを取りにフロントへ戻った。


 ………………………


「黛の奴、いきなりやって来て青峰に何て言ったか判るか? 『EDの診断書取って来い』だぜ? ア・イ・ツ・が! あの黛が!! 青峰にだ!!」

「……火神君。黛"サン"です」

 火神は、青峰と黛がつるんで何かをしているのが面白くないようで、自室リビングテーブルに座り貧乏揺すりをしている。向かいに座る黒子は、そんな友人を眺めながら出されたアイスコーヒーにミルクを入れた。

「青峰の奴、ホイホイ取りに行くしよォ。絶対何か隠してんだよ。腹立つぜ!」

「……それなら、キミが思っている以上に大変そうですよ」

 カラカラと涼しい音を立てながら氷とコーヒーを混ぜる黒子は、小さな声でそう言った。青峰が隠しているのは、恐らく先日に相談した事と関係があるのだろう。そして、火神がなまえと云う高校生と交際を始めた事に一抹の不安を感じていた。

「黒子! お前何か知ってんのか!?」

 乱暴に問い詰める火神は、何も言わずにコーヒーを口にした黒子に苛立ちを感じた。

「黙り込むのやめろ!!」

「怒鳴るのやめて下さい」

 デカイ声に文句を言われた火神は、口を曲げて拗ねた。

「教えろよ、なぁ」

「本人に聞けば良いじゃないですか」

「喋るタマかよ」

 テーブルを拳で叩きイライラをぶつけた火神へ、スマートフォンがメッセージの受信を伝えた。八つ当たりのようにスマホを掴んだ赤毛の男は、大きく舌打ちをする。

「……誰だよ」

【今、東京に居ます。会えませんか?



 無理なら大丈夫です】

 その控えめながらに強引なメッセージの送り主は、なまえだった。内容に唸った火神は、また貧乏揺すりを始める。

「……会わないんですか?」

 いつの間にか背後に移動していた黒子の存在に驚いた火神は、肩を跳ねた後すぐに相手を叱咤した。

「人のスマホ、覗き見すんな!」

「ボク、帰りますね」

 火神の背後から離れた黒子は、残ったコーヒーを飲み干す。

「は? 何でだよ。会うなんて言ってねぇよ」

「会わないんですか?」

 顎にスマホを当てた火神は、切なそうな顔をする。彼なりに考えがあるようで、元気無い口調で訳を話す。

「中国戦近いんだよ。こんな時に会うなんて……迂闊な事出来るかよ」

「なら、彼女が行く先はひとつしか無いですね」

 携帯で時刻表を確認した黒子は、意味深な言葉で火神を悩ませる。そしてパチンと折り畳みの携帯を閉じ、帰る準備を始めた。

「…………青峰ン所か? 浮気確定だな」

 強がりからか、下手な笑みを貼り付けた火神は、スマホを一回宙に投げキャッチして、すぐ電話を掛け始めた。そんな彼の格好付けた姿に、黒子は何のリアクションもしない。

「――なぁ、お前今東京のドコに居んの? いや……学校どうすんだよ?」

「お邪魔しました、お幸せに」

 彼女と通話を始めた火神に囁くような別れの挨拶を告げ、黒子はリュックを肩に掛けた。電話先で待ち合わせを決めながら、火神は黒子を呼び止める。

「オイ! 黒子!」

 リビングの出入口に立った黒子は、振り向き火神を見る。赤毛の男は通話口を手で塞ぎ、分かりやすい程勝ち誇った顔でこう言った。

「ワガママな彼女を持つと大変だぜ?」

「ご馳走様です」

 溜め息と混ざったその言葉を最後に、黒子テツヤは火神のマンションを後にするのだった。……能天気で負けず嫌いな火神を、心配するだけ無駄なようだ。