九月二日。中国戦まであと六日。

 朝も早い代表選手は、スーツで練習場に訪れ更衣室で着替える。朝六時に家を出た青峰は、目を擦りながら姿を見せた。着替え途中の笠松が、まず声を掛ける係だ。

「肩は大丈夫か?」

「だからァ、ただの炎症だよ。休んだから平気だろ」

 青峰はそう言って右肩を回すが、笠松の表情は晴れない。診断書を提出しない辺り、病院には行っていないようだ。

「……不安そうな顔すんなよ」

「黛が来てる。謝っとけよ。明日にはかさぶた出来るから復帰するって言ってるぞ」

 主将の向こう側に、ロッカーへ額を付け目を閉じている黛の姿があった。朝が苦手な彼は、立ちながら寝ているようだ。青峰は、黛の右手を見て大きく息を吐く。今日も手の甲に包帯が巻かれていた。薬品に溶かされた皮膚は、かさぶたになるにも時間が掛かる。

「タフで強情な奴だ」

「お前が復活したから怖いんだろ。スタメン外されんのは、自分だって焦ってる」

 起きた黛は顔をしかめてロッカーを開け、包帯巻かれた手でワイシャツのボタンを外した。今日もボサボサの髪を直しもせずに電車に揺られたようだ。

「……あっそ」

 雑に返事をした青峰は、青い瞳を左右に流して最後に笠松を見た。そしてこの場に主要人物が居ない事を疑問視するのだった。

「火神は? 合宿からどうなんだよ」

 その質問に、苦い顔した笠松が答える。

「相変わらず、何も変化がねぇよ」

「ゾーンを戻したのにか?」

「あの日だけだ。試合形式でも兆候がねぇんだよ」

「……そんな筈」

 眉間の皺をより深くした青峰大輝は、先日の練習試合で見せた火神の雄々しさを思い出す。逃げて野次られ、苦汁を飲んだエースは、既に高校時代の感覚は取り戻している筈だ。……じゃあ、何で彼は自分を解放しないのか?

「実際相手してみろよ。"いつも通り"の火神だ。本人が言う通りウエイトの問題なんだろうな」

「ウエイトなんか関係ねぇよ。そんな言い訳してっから駄目なんだよ、今の火神は」

 ロッカーを乱暴に開けた青峰は、日本代表エースである火神に怒りを隠せない。アイツは一体何をしているんだ。

 ……情熱が失せたのか? 全てが想定の逆方向に作用している気がした青峰は、練習着を取り出すとロッカーを閉めて笠松を見る。

「オレに考えがある。成功したら、アイツは化けるぜ?」

 早口で捲し立てた褐色肌の男は、指を鳴らして笠松を指す。

「……ただ、失敗して腑抜け野郎になる可能性もあるけどな。試してみるか?」

「方法は? それによるだろ」

 顔を寄せた青峰は、笠松の前で口角を上げる。悪戯を思い付いたような青峰大輝の顔に不安を感じ、笠松幸男は顔を引き締めた。

「――女だ」

「はぁぁぁぁ!!?」

 その意味の判らない提案に、笠松は絶叫してロッカールーム全員の視線を集めるのだった。


 ………………………


 午前中に雑用をこなした黛は、男性トイレで用を足していた。午後は楽しい楽しいビデオ観賞だ。中国選手の弱点をデジタル信号の羅列で追う。

 手に巻かれた包帯は、甲を包む大きなバンドエイドに変えた。やはり大袈裟すぎる気がしたからだ。

 便器の前で小さく溜め息を吐いた黛が下ろしたジャージを戻していると、ある人物が青タイル貼られた壁の向こうから現れた。

「手ェ、大丈夫か?」

 謝りもしない後輩は、昨日の事件に自分の非を認めないようだ。青峰大輝の来訪を、黛は嫌味で歓迎する。

「ボヤ消すのに、山火事起こす馬鹿が居るみたいだな」

「そう言ったのは、ソッチだ」

 青峰は黛を一瞥すると、隣の便器前に立つ。

「ここからは、オレの一人言だ。オレには守秘義務があるからな。……でも、たまたま一人言を聞かれても、それは仕方ねぇよ」

「お前は、サラリーマンにならない方が良い」

 チクリと嫌味を刺した黛は、青峰の一人言を止めようとはしない。だが、興味があるようにも見えない。どちらでもないのだろう。彼は余計な事に気をそそられる人間ではないからだ。

「中島のぞみは不倫している。相手は妻子持ちの大物プロデューサー」

「……不倫?」

 青峰の口から飛び出た単語に、黛は反応を見せた。その暴露は、天下無双のアイドル『中島のぞみ』とその事務所を脅かすのに十分な内容だった。

「マネージャーがソレを知ったのは一週間前だ。そんなんマスコミにスッパ抜かれたら、一気に炎上してあの女は終わる。アイドルなんて、そんなモンだ」

「三次元は面倒だな。……まぁ、二次元も二次元で色々面倒だけど」

 一人言に一人言を返した黛は、手を洗いに洗面台へ向かう。便器の前に立つ青峰は、先日の黛よろしく何もしない。

「オレは自分のスキャンダルを揉み消したくて、協会に事情を話した。ソレが始まりだ。嘘の熱愛報道を持ち掛けられたのはその時……」

 静かな男性トイレに足音が響く。発しているのは青峰で、黛は鏡の前で薄く無機的な顔と睨めっこをしている。

「――経緯は以上だ。協会は、氷室サンを生け贄に差し出すつもりだったらしいぜ? あの人、ツラだけは良いからな」

 協会に駆け込み、経緯も話さずに『売名の為に、何でも良いからスキャンダルを流してくれ』と頼み込んだ青峰は、協会の人間からこの話を持ち掛けられた。売名は出来るが、炎上して今まで以上に叩かれるかもしれない。選手権で失敗して敗北したら青峰大輝の評価は地に堕ちる。まさに背水の陣だ。……それでも彼は、中島のぞみと云うスターを利用する事にした。

 地獄行きの賽は投げられた。後戻りは不可能な程、青峰の足元は炎上している。

「三ヶ月後、破局報道を流す。ソレで事態を収集させんだよ」

 全てを知った黛は、自分の背後に立つ青峰を鏡を通して見る。

「今日はよく喋るな」

「一人言が多い人間なんだよ、オレは」

 背後に映る褐色肌の男は、洗面鏡から姿を消そうとした。黛はソレを止める。

「青峰、待て」

「何だよ」

 黛千尋は珍しくジャージのポケットに両手を入れて、出口に近い青峰の方を向いた。

「……女子高生、どうした」

「火神にくれてやった。オレのお下がりだ」

 話題が気に入らないのか、青峰は面倒そうな口調になる。彼の中で、なまえとの交際は過去のモノになったようだ。だが、未だに縁が切れた訳では無さそうだ。

「火神も、我慢出来りゃあ良いんだけどな」

 堪えた笑いを漏らす青峰へ、表情変えない黛は更に突っ込んで聞き込みをした。

「女子高生抱いといて、保身の為に捨てんのか。青峰大輝。日本代表になって、調子に乗ったか?」

 フルネームに違和感を覚えた青峰は、乾いた笑いを引っ込めて正面から黛を見る。

「お前も、今日はよく喋るな」

 青峰は黛に猜疑の眼差しを向けた。しかし黛は目を逸らさない。感情読めない瞳を覗き込んでも、ソコにあるのは他人に興味を示さない虚構だけだ。

「……そうするしかねぇんだよ」

 呟くように弁明を終了した青峰は、青いタイルが広がる男性トイレから姿を消す。後に残った黛はポケットから手を抜き、もう一度だけ手を洗うのだった。


 ………………………


 疲弊感だけが身体を纏う火神は、荷物をリビングに落とすとポスティングされていたDMをテーブルに投げる。……本番まであと一週間弱しか無いのに、競技へ集中出来ない事に苛立っているのだ。全ては青峰の暗躍のせいだ……。他人のせいにしたエースはソファーに腰掛け、買ったきり読んでいないバスケ雑誌を引っ張り出した。

 NBAの記事を見て、写る中国のスーパースターを睨み、額を抱える火神をスマホが呼び出す。丁度テレビのゴールデンタイムが終わった頃の時間。画面に映る名前を見て、男は顔を綻ばせた。

「……何だよ、最近はやけに積極的だな」

 愛しい相手からの着信に声が弾む。火神は片思いが向いている人間だ。獲物を追い掛け、手に入れるまでが一番楽しいと感じるタイプだからだ。……追われるより、追い掛けていたい。そうして誠意を持って接すれば、獲物は徐々に自分へ近付く。まさにハンターの精神だ。

『青峰さんを思い続けるのに、疲れました』

 指を鳴らした火神は、バスケの雑誌をサイドテーブルに放る。なまえの声は沈み、落ち込んでいた。青峰に対して不信感を積もらせているのだろう。チャンスを逃したく無い火神は、彼女の電話に集中した。

「振り回すのが好きな男だからな。傍若無人っつーのか? ああいうの」

 努めて明るい声を出す火神は、少しでもなまえの感情から"青峰大輝への恋心"を追い出そうとする。

『…………私、尻軽かもしれません』

「混乱してるだけだ」

 生唾を飲んだ男は、今立ち上がったら足が縺れそうで座ったままに会話を続けた。

 恋愛でこんなにドキドキするなんて知らなかった。彼は一生をバスケに捧げるのだと思っていた。――だけど、今の未来ビジョンの端にはなまえが笑っているのだ。

『火神さんと、先に会っていれば良かった』

「後悔だけはするなよ」

 出来るだけ優しい声を出した火神は、無言になったなまえの言葉を待つ。

『――私……あの……火神さん、その……』

「何だ? オレに惚れたか?」

 ハハハハ……と大声で自分の発言を笑い飛ばした火神は、期待で胸が膨れて少しだけ苦しかった。

「冗談だ、笑えよ。『図々しい人だ』ってな」

『――いいえ』

 僅か数秒の間も、今は急かしたくなる。せっかちを加速させた火神は、雑誌のページを無意味に捲ってソワソワした。

『…………そうかもしれません』

 青峰の熱愛報道を見てから、こうなる予想はしていた。ソレは何度も神に願った……最高の展開である。

 遂に獲物を手にしたハンターは、この結末に満足して微笑んだ。


 電話を切ったなまえは、スマホを強く握る。胸が痛むのは、告白を聞いた火神が凄く嬉しそうだったからだ……。頭を横に振った彼女は、履歴からさっき電話を寄越して来た男の名を選択した。三コールの後、相手は着信を受けた。

「青峰さん……言いました」

 深い後悔が溜め息となり、少女の口から漏れた。なまえは青峰に言われた通り、火神をそそのかしたのだ。相手の"がさついた声"が耳に残る。

『頑張ったじゃねぇか。期待してなかったんだけどな?』

 青峰は低く甘い声でなまえを激励する。ソレが全然嬉しくない少女の頭には、火神大我の姿だけが浮かぶ。……こんなの、純粋な火神に対する裏切りだ。

「でも、こんなんじゃ火神さんが……」

『いいから、言う通りにしろ』

 なまえは青峰の思惑が判らない。『弱くなるから好きになるな』だの、『強くなるから告白しろ』だの……。言っている事がチグハグだ。まるで、火神をただ傷付けたいようにも思える。

「もう、青峰さんに振り回されるのは……嫌です」

 そう囁くと、一瞬だけ相手が言葉に詰まった。長い沈黙が続き、耳元に当てた電話機器からノイズだけが届く。

『……お前が火神をフるのは、選手権前日の、朝だ』

 最後に悪魔のような命令を告げた青峰は、通話を切った。なまえは身体を曲げ、ベッドの上で絶望と失望を抱える。


 ………………………


 その大衆居酒屋は、平日でも混雑していた。焼き鳥が人気の店で、乱雑なイメージすらある店内は狭い。

 一卓でビールのジョッキを煽る記者は、向かいの椅子が引かれたのを見る。待ち合わせた相手が、気配を消して来たのだ。黒いポロシャツの男は上機嫌な顔で約束の相手を歓迎した。

「あぁ! いらしてたんですか! どうも!」

 グレーのスーツを着た男が向かいの席に座る。彼は目の前に置かれた箸に手を付けず、両手を膝の上に乗せて無言を貫いた。だから、記者の方から用件を告げる事にした。

「……何か掴めました? 青峰大輝の情報」

 スーツの男は尚も無言で、鞄からボイスレコーダーを取り出すと机上に置いた。薄型の機器を差し出され、記者は愛しそうな顔でソレを受け取る。

「仲間を売るなんて、貴方も人が悪い」

 無愛想なスーツの男は、無言で手のひらを前に出した。彼はレコーダーと引き換えに報酬を要求しているらしい。察した記者は、ポロシャツのポケットに薄いレコーダーをしまう。

「ハイハイ。ちゃんと証言取れてるんですよね?」

 大分くたびれた鞄から封筒を取り出し、スーツの男に渡す。もし、青峰から淫交の証言が取れたら三十万円の謝礼を支払う約束だ。

「名前、何て言いましたっけ?」

 記者は謝礼金の入った封筒を差し出し、男に問うた。グレースーツを着た男は、同じような色をした生気の無い瞳のまま、口を開く。

「……誰だって良いだろ」

 封筒をスーツの内ポケットにしまった黛千尋は、薄い唇で弧を描いた。

「貴方の作戦、上手くいったみたいですね」

 ベルで呼び出した店員にウーロン茶を頼んだ黛は、冷タオルで両手を拭いた。

「脳筋馬鹿は扱いが容易いからな」

 悪びれなく青峰を馬鹿にする発言をした黛は、表情をまた無に戻す。

 黛の作戦は、青峰をから情報を告げに来させると云うモノだった。だから彼は、わざと記者の名刺を捨て警告をした。ああ見えて青峰はメンタルが弱い人間だ、一人で問題を抱えられる器じゃない。味方になりそうな誰かにぶちまけ、楽になりたがるだろう。……そして、こんなにも簡単に思惑の通りに動いたのだ。

「中島のぞみには驚きましたが、作戦は成功だ。お陰でもっと高く買って貰えそうだ」

「そうなるように、そそのかしてやったんだ。高く売って貰わなきゃ、オレが困る」

 運ばれて来たグラスにジョッキを当て乾杯の音頭を取った記者は、こういう男こそ"敵に回すと恐ろしい"と経験で知っている。

 考えや感情が表面に出ず、打算的で利己的。更には、あんな"悪どい提案"を持ち掛ける程、心理戦と論理観に長けている。フリーライターの彼は、黛千尋と云う人間を甘く見ていたようだ。記者はクツクツと笑い、目の前の青年を賞賛した。

「貴方を敵に回したくないですねぇ」

 黛はグラスを口に当て、冷えた液体で喉を潤した。青峰を出し抜き作戦が成功したのにも関わらず、満足そうな表情ひとつしない彼は"感情無いロボット"のようで、少し不気味だった。