雨足は強くなり、どしゃ降りに近くなっていた。歩くのにも困難を要するこんな日に、運休を始めた電車を乗り継いだ黒子は、青峰のアパート前で傘を閉じた。鍵は掛かっておらず、ノブは最後まで下りた。

「お邪魔します」

 黒子は小さく呟き、大きなサイズの靴で家主の在宅を知る。彼は何故か忍び足で廊下を通り、薄暗いワンルームのドアを開けた。

 家主である青峰はベッドの上で踞っていた。彼にしては珍しく体育座りで身を小さくさせ、下半身はトランクス一丁。すぐ傍には膝が濡れて汚れたジャージが脱ぎ捨てられている。

「大丈夫ですか? 何が……」

 その疑問は、テーブルの上にある引き裂かれた写真が教えてくれた。被写体はベッドで項垂れている彼自身と、一人の少女。黒子も何回か会い、知った顔だ。高いカメラで撮ったのだろう。ピントが合い、二人の人物が綺麗に写っていた。

「こういうのを見る度に、キミ達が有名人なんだって実感します」

 クシャクシャになった写真を手にし、裂いた被写の心境を読んだ黒子は、フゥ……と息を吐いた。

「……サイアクだよな?」

 雨がアパートの屋根を叩く。垂れ流されたメロディーは不協和音で、二人の気分を更に盛り下げてくれた。スナップに写った少女を眺めた黒子は、ふと自販機の前で奇妙な行動をした男を思い出す。

「火神君は知っているんですか?」

「アイツに言う必要ねぇだろ」

 頭を抱えて髪を掴もうとした青峰は、短く切られたソレを掴めずに掻き毟るだけで終えた。

「この記事が出回ったら、オレは逮捕されんのか……?」

 深淵ギリギリに立たされた青峰は、顔を囲った腕の中で目線を左右に流す。対策を考えるにもショックがでか過ぎて、身動きすら取れないのだ。だから、こうして弱さを見せられる唯一の存在である黒子テツヤに救いを求めた。

「回避する方法はありますけどね? 合法的に」

 写真を元の場所に戻した黒子は、ベッドに座ったままの青峰を見た。首を捻りコチラを見た青峰の顔は中学時代と変わらない。自分に僅かな救いを求め、抱える絶望と戦う顔は当時と同じだった。……そう言えば、あの日も雨が降っていた。

「結婚すれば良いんですよ。学生相手でも、妻になら性交が認められています」

「馬鹿言うなよ……」

 ダラリと腕を垂らした青峰は、悲壮に包まれた顔をした。無表情に近く、彼は感情を表面に出すのにも疲れたようだ。そうして中学からの友人は、黒子に責任転嫁しようと口を開く。

「お前が……素直になれって、言うから」

「自分の気持ちに素直になるのと、欲望に呑まれるのは違います」

 苦言を告げ、青峰を突き放す。別に責任を押し付けて自分を悪者にしたいならそうすれば良い。昔から青峰大輝はそう云う奴なのだから。……問題から逃げているだけなのに、ソレで解決した気になれる哀れな男だ。

「……五百万で、見逃してくれるってよ。別に払えない訳じゃねぇ。貯金なら、八百万あるし」

 テーブルに投げ出された預金通帳は、その為だったのか。取引にしては金額が大き過ぎて、弱冠輩の黒子テツヤには想像も出来ない額だ。でも帯の巻かれた札束が五つ……。そう考えたら少しは現実味が増した。

「五百万……」

 黒子の呟いた言葉は狭い八畳に消え、うるさい雨音が余韻すら残さなかった。自然の生んだオーケストラは佳境を迎え、いよいよクライマックスだと激しさを増す。今夜のアンコールは長そうだ。

「――それか、火神になまえを譲って抱かせるかの……どっちかだ」

「……え?」

 青峰の口から漏れた"交換条件"は、きっと誰かを幸せにする。単純で、馬鹿が付く程に真っ直ぐな誰かを……。

「火神なら、五百万位ポンと出せんだろ。アイツ金持ちだしな?」

 その恐ろしい提案に、黒子は大きく目を開いた。信じられなかった。信じたくは無いし、コレが夢だと願いたくもなる。

「……青峰君? 正気ですか?」

 黒子は青峰に問い掛けた。

「惚れた女が手に入んなら安いモンだろ……? 何だったら、オレが取り持ってやるよ」

 違う。そんなんじゃ、誰も救済されない。事態が拗れて後悔するだけだ。ましてや生け贄のように付き合わせるなんて、最低だ……。

 黒子は、一番分かりやすく心に響く残酷な言葉を張り上げた。

「友達を売るつもりですか!!?」

 その言葉で、青峰の余裕無い虚勢は完璧に崩れた。細い目を見開き、小さな瞳を四白眼で際立てる。

「……そんな事無いって、言って下さい」

 この男、青峰大輝は素直じゃない。愛を肉欲だと思い込み、エゴを友情だと言い張る。言い訳を懺悔にすり替え、そして自分の中の悪魔を天使に見せ掛ける。

 黒子は眉を下げて痛々しい目で青峰を見た。どういう表情でいれば良いか分からない青髪の男は、無表情で奥歯を噛み締めていた。

「今のは冗談だって……お願いですから」

 雨の奏でるオーケストラは、たった今アンコールへと差し掛かった。世界を叩く激しい音は、まるでスタンディングオーベーションで湧いた拍手のようだった。


 ………………………


 同じく八月二十八日。木曜日。雨は夕方をピークに収束していた。

 中国側のレギュラーを知った笠松幸男は焦っていた。恥ずかしながら彼は、紹豹孚だけに注意すれば良いとタカをくくっていた。しかし、現状は二メートル級の選手が三人。紫原と火神だけでは、リバウンドに不足がある。安達は不安だ。世界の舞台に立たせて良い人間では無い。――では、青峰を出すしか無い。深手の男をオールで出したら……。黄瀬の姿が浮かび、下唇を噛んだ笠松は腕を組んだ。

「跳躍力足したら、最高到達点は四メートル近いですよ? ……化け物だ」

 紹豹孚の記録資料を読み上げた氷室は、自分じゃ絶対敵わないその高さに溜め息を吐いてファミレスの天井を見た。そして、同じように困った顔をして記録を手で捲る笠松に、補足をする。

「アツシで十センチ差が出ます」

「もっと跳べよ、紫原」

 笠松は、眉を潜めて紫原を見る。国内で最も背の高い彼は、氷室の隣に座りアイスをチマチマ口に運ぶ。

「オレ、そんなにピョンピョン跳べる選手じゃないんだけど」

 確かに紫原程の身長があれば、大した跳躍力が無くともポストプレイに余裕が出来る。しかし、それは国内での話である。今後世界を舞台にするのなら、跳躍力も求められるだろう。本人は危機感を持っていなさそうだが……ソレが問題だ。

「リーチの長さなら、青峰が一番長いな。あと二十センチ高く跳べば、リバウンドも勝てんだろ」

 資料を見た主将は、跳躍力が最も高い選手名を口にする。しかし相手はどこか遠くを見つめ、心を置いて来たような顔をしていた。練習後、このファミレスに呼び出して来てくれたは良いが、臨時ミーティングに混ざって貰わなくては声を掛けた意味が無い。

「……青峰?」

 笠松は彼の名前を呼び、その視線の先で手のひらをヒラヒラさせる。やっと意識をファミレスに戻した青峰は、首を小さく振り溜め息を吐いた。

「は? あぁ……。まぁ、そうだな」

「話聞いてたのか?」

 その隣に座る火神がロングスプーンの持ち手で青峰を軽く刺した。その刺激にウンザリ顔を突き付けた青峰は、火神を親指で指す。

「跳ぶのは火神に任せろよ。馬鹿だからノミみたいにビョンスカビョンスカ跳ぶぜ?」

「オイ、火神の最高到達点は?」

 その質問にすかさず資料を捲った氷室は、書かれた数字を読み上げる。

「……三メートル六十二センチ」

「お前、高校時代はもっと跳んでただろ!?」

 笠松が記録に驚いて今度は火神を見ると、相手は申し訳無さそうに首を引っ込めてパフェのスプーンを口に押し込んでいた。

「ウエイト増えたんだ。あん時より五キロも」

 より派手なプレイヤーになりたかった火神は、体重を増やしセンタープレイヤーに鞍替えする予定だった。だから筋力を付けたのだが、皮肉にも、増したウエイトが跳躍力の妨げとなっていた。それでも天錻の跳躍を誇っていた彼のジャンプは、平均より高い。

「なら三十センチ高く跳べ」

 食後の特大パフェを堪能する火神へ、青峰は嫌味のようなオーダーを出した。五人前を巨大ジョッキにぶち込んだようなデザートをつつきながら、火神は青峰にオーダーを返す。

「お前が二十センチ高く跳んだ方が早いけどな?」

「は?」

 パフェの奥にスプーンを入れ、バニラアイスの塊を取り出した火神は、嬉しそうな顔で頬張った。その子供のような顔を眺めた青峰は、状況が飲み込めずに顎を指先で擦った。

「聞いてなかったのかよ? 青峰、テメェが一番ウィングスパン長くて跳躍力高いんだよ」

 ウィングスパンとは、手を飛行機の翼のように広げた状態で右手指先から左手指先までの長さである。腕の長さだけで無く肩幅も重要になり、バスケットボール等では身長よりも重んじられる場合がある。大抵は身長と同程度であるが、腕が長く肩幅も広い青峰が代表選手で一番数値が高い。次いで紫原、安達に火神。

「……あ、あぁ。じゃ、オレ……リバウンドか? ガードは?」

 現在は夜の九時。まだ眠るには些か早い時間帯である。――しかし青峰の脳は現在考える余地が無く、先程身に振り掛かった災難だけが渦巻いていた。クラクラする目眩を感じ、青峰は目元を手のひらで覆う。

「しっかりしろよ? どうした? 寝不足か?」

 火神が青峰の肩を抱いて軽く揺する。天然な彼は、死人に鞭を打っていた。面倒そうに息を吐いた黛は、読んでいた本を寝かせると青峰に声を掛ける。

「顔、洗って来た方が良いんじゃねぇの? 真っ青だ」

「……そうする、おう」

 席を外し、フラフラ化粧室に向かう青峰の広い背中を全員が見送った。

「アイツ、親でも死んだのか?」

 火神の冗談は、笠松に頭を叩かれ終了した。


 鏡の前で呆然とする青峰は、汗ばみ顔色優れない自分の姿をただ眺めていた。何をするにも面倒だ。事態を収束させるには何が必要なのか無い頭を捻り考えたが、駄目だった。ジャージから携帯を取り出しボタンに手を掛けた瞬間、すぐ後ろから声がした。

「馬鹿が悩むと厄介だな」

 肩を跳ねた青峰は傍に立つ黛の姿に驚き、その影の薄さを不気味に思う。黒子テツヤもそうだが、彼等こそジャーナリストにでもなるべきだ。絶対に気付かれない。

「た、立ちションすんのか?」

 携帯をポケットにしまいながら、青峰は黛に尋ねた。彼が立ちながら用を足す場面が想像出来ない。もしかしたら、赤司のようにイチイチ個室で済ませるのかもしれない。

「しなきゃどうやって出すんだよ」

 便座の前に立った黛は、ジャージを下ろす事もせずに青峰へ話し掛けた。上記の嫌味のあとすぐ、抑揚無い声で言葉を続ける。

「お前は考えが顔に出る。どうせ写真でも撮られたんだろ? 例の女子高生か?」

「……何の話だ?」

 額から汗が流れた。空調が壊れているのか、この男性化粧室は些か蒸し暑い。不快な環境は苛々にも変化し、八つ当たりのように黛を睨む。

「別に。天才も、コート降りたら只の人間だな」

「喧嘩売ってんのか?」

 強がる青峰だが、頭の中は更に混乱していた。何故黛は、写真の件を知っているのか? コイツはオレのストーカーなのか? 彼の思考はそうやっておかしな方向へ飛躍した。

「オレは、強い人間が嫌いだ。お前みたいな実力にかこつけて生意気勝手な人間……ヘドが出る」

 そう辛辣な言葉を投げてジャージのポケットからある一枚の紙を取り出した黛は、青峰の目先にソレを付き出した。

「お前ん所に来た記者は、コイツか?」

 ソコに記された名前は、現在自分を苦しめている男の名だった。たじろいだ青峰は、冷や汗が背中に流れるのを感じる。黛は、目を見開いて眉を寄せる相手の顔で答えを知る。

「だから、考えが顔に出過ぎなんだよ。青峰、お前は」

 名刺を片手で握り潰した黛は、手首のスナップだけで個室の便器に放り投げた。シュート決まった紙屑は、流される事無く水洗トイレに沈む。

「恐喝されてんなら、金は払うな。何度でも来る」

 便器に投げられた名刺から目を離せない青峰は、未だに信じられなさそうな顔をしていた。黛が何故この名刺を持っていたのかも判らず、増えた疑問に頭がグラグラした。

 青峰大輝が顔に出やすい性格なら、黛千尋は真逆で、常に何を考えているのか判断出来ない。白いTシャツに代表の青いジャージ姿の冴えない細身の男性は、用を足す事無くこう告げた。

「……小さいモノは、大きなモノで踏み潰せば良いだろ。お前そんなにデカイ図体して、その辺の蟻に負けんのか?」


 ………………………


 八月三十日。土曜日。

 なまえは大きな駅で電車を降り、人混みの方へと向かう。行き先は駅に複合されたデパートの一角。メンズの洋服店だ。

 この駅には見覚えがある。……火神のマンションの最寄り駅だからだ。意図が読めない彼女は、ある男に指定された店内を覗く。

 疎らに人は居るが、飛び抜けて背の高い相手の姿は見えない。一歩足を踏み出した彼女は、店内に流れるヒップホップに身構える。照明は暗く、黒いマネキンがアメカジスタイルの服を決めていた。

 店内に居ない事に肩を落とすと、そのタイミングで背後に男が立った。

「ちゃんとパーティーみてぇな格好して来たな?」

 青峰は、シャンパン色したパーティードレスを着た彼女を褒めた。色気の無いティーンエイジらしいドレスだが、この際何でも良い。そしてなまえは、背後に立った男の姿に驚く。

「……スーツじゃ、ない?」

 口角を上げた青峰は、キャップにTシャツ。ダメージジーンズを履き、サングラスで目元を隠していた。そのラフな格好に、なまえはパーティードレスの胸元を掴んだ。

「何で私だけ、こんな格好?」

「パーティーするからだ。別に変な理由じゃねぇだろ?」

「恥ずかしいです。青峰さん半袖にジーンズだし……」

 店内のショーウィンドウから通路を確認した青峰は、憎きジャーナリストの姿が無い事に安心し、先に歩き出した。

 ――彼が少女に服装の指定をした理由はふたつ。

 ひとつは制服の着用を防ぐ為。なまえに事態を知らせる訳にはいかないし、これ以上誰かに女子高生を連れ歩く所を見られたくない。だからドレスアップを頼む事で回避した。

 そしてもうひとつは……。

「今から会場押さえるから黙って見とけよ?」

 携帯を取り出した男は、ある場所にダイヤルを始めた。なまえは「はぁい」と素直に従い、ドキドキで緩む頬を両手で挟んだ。もしかしたら、ようやくお洒落な店に連れて行って貰えるかもしれない。

 だが、電話の相手を知った彼女は頬が強張った。

「……火神、オレだ。今は暇か?」

 青峰は階段下に設置されたロッカーから荷物を取り出していた。細長くて白く上品な紙袋。多分、お酒が入っている。

「お前ん家でパーティーがしてェ。オレと二人きりだ。ワイン位用意しとけよ? シャンメリー持ってってやる」

 意図が読めない交渉を続け軽口混じりに火神との会話を楽しむ青峰は、ロッカーに背をあずけて腕を組む。

「そりゃ、酔って寝たお前の歯軋りは最悪だからだ」

 その言葉を最後に、青峰は通話を終了させた。その後、なまえに紙袋を差し出す。

「コレ持って火神ン所に行け。オレ、ケーキ買ってくから」

 質問するにも何から聞けば良いか判らない彼女は、渡されたシャンメリーを手にしてオロオロした。青峰は、そんななまえの頭を小さく叩く。ポンポン跳ねる大きな手が優しくて、彼女の顔がまた緩んだ。

「……何があっても、もう泣くなよ?」

 サングラス越しに見せた優しい笑顔は、少しだけ作り物のようでなまえは不安になる。だから、彼女はこう言った。

「先に、行って待ってます。必ず来て下さい」

 そう伝えたら無言でその場を去ってしまった青峰。人混みに紛れても、しばらくは突き抜けた背を追う事が出来た。ソレさえ見えなくなって初めて、なまえは歩み始めた。――意味も判らず、火神大我の元へ……。


 彼女と別れた青峰は、電子マネーで改札を開ける。耳元に携帯、手元には名刺を持ち、帰宅のサラリーマン達に歩幅を合わせた。コールの後、相手は電話に出た。

『ハイ? どちら様?』

 まるで映画から抜け出したかのような男を、くたびれたサラリーマン達がチラリと見る。しかし男は浴びせられる視線を気にせず歩み、ついでに口を開く。

「……よォ、一昨日は名刺をどうもな?」

『答えが出たと云う事で、よろしいですね?』

「お前らが言う"冴えたやり方"を選ぶつもりだぜ」

『人間とは、選択の連続ですからね。貴方、首まで埋まっている状態ですよ? 顔から砂、掛けられないようにして下さいね』

 一瞬立ち止まった青峰は、再び人の流れに沿って歩み出す。

「お前に良い情報をくれてやる。……今から言う場所に来い。オレも、向かう」

 場所を指定すると、ヌッタリした笑いが聞こえた。

『貴方も業が深い方だ…』

 青峰はサングラスを外し、横目で駅通路の看板を見る。今日新調されたソレに写っていたのは、高校時代からよく知る顔だ。撮影から随分と早い広告デビュー。

 切れ長な目を細めた男は、唇に弧を描いた。