誰も居ないワンルームに戻った青峰は、両手で顔を擦った。安堵から息を大きく吐き、卓上に置いた前時代的な携帯を手にする。履歴からある人物を選択し、着信を始めた。

「お前、今どこに居る?」

『スーパーですよ? 一緒に行った大きなスーパー』

 向こう側から朗らかな声が聞こえる。夕飯の買い出しに行かせて良かったと安心した青峰は、彼女と火神がエンカウントするのだけは防ぎたかった。

「ソコに居ろ。今から迎えに行く」

 状況も説明されない向こうは、『えー?』とマイペースな声を出した後に家主を気遣った。

『大丈夫ですよ。まだ外も明るいし、荷物も多くないので。休んでて下さい』

「いいから待ってろ。ソコ居なかったら、別れるからな?」

 脅しに似た台詞でスーパーへ足止めさせた青峰は、部屋の鍵と財布を手にして外に出た。通路から下を覗くが、火神の姿は無い。早足で階段を降りると、軽快な金属音が着いてきた。


「どうしたんですか? 急に」

 買い物袋を両手で握ったなまえは、青峰の気紛れに笑った。彼女は、好きな人と並んで歩けだけで嬉しい年頃だ。夕日は半分以上を山の向こうに隠し、オレンジを僅かに残すだけとなった。街灯は夜道を照らす。車通りの少ない住宅街を二人ただ歩く。

「……別に」

 コンクリートに埋められたマンホールを踏んた青峰は、少しだけ後悔していた。フラフラ歩くモンだから、隣の少女と腕がぶつかった。弾き返された相手はバランスを崩す。「悪ィ」と謝った青峰は、華奢な腕を掴んだ。

「今日は麻婆豆腐です」

「どうせレトルトだろ?」

「調理器具使うだけマシです」

 他愛の無い会話はすぐに終わる。男は、話題を弾ませるテクニックを知らない。頭の回転が早い方では無い。口達者な自分を想像したが、とてもじゃ無いけど良い奴そうには思えなかった。

 遂に、青峰は一番出したかった話題を口にする。

「火神がウチに来た」

「火神、さん?」

 ピタリと足を止めたなまえの動揺具合は、強く握りカサカサと音を立てるスーパーの袋が教えてくれた。今晩の材料しか入っていない、軽い手荷物だ。

「未練がましい男だよな? だからアイツはモテねぇんだよ」

 ポツリと火神を野次った男は、顔を上げて周囲が闇に溶けた事に気付いた。時計はまもなく八時を指す。

「……良い人です」

「だったらオレをフって、火神と付き合うか?」

 そんな意地の悪い質問をしながら、青峰は背後からなまえを抱き締める。息を詰めた少女は、急に濃くなった相手の香りに心臓を掴まれたようだ。

「私の、どこが好き……?」

 沈黙の後にされた質疑は、いかにも女らしいモノだった。女とは自身が納得出来る理由を求め、ついでに称賛なくては気が済まない生き物だ。そんなエゴに付き合う気も無いこの男は、疑問に疑問で返す。

「何だ? その質問」

「だって、気になるから」

「まぁ、オレのタイプとは真逆だな?」

 そう言って、腕の力を強くする。言葉とは裏腹なソレが彼の愛情表現だ。こんなにも分かりやすい手法なのに、相手にはイマイチ伝わらない。なまえは不満そうに唸った。

「お前、バスケの競技人口って知ってるか? 全世界での数」

 褐色肌の男はバスケットボールには詳しい。それも、オタクレベルでだ。あまり議論を交わしたいとは思わないが、知識をひけらかすのは好きだ。

「うーん……。一億人位ですか?」

 素人からしたら妥当な数字を口にしたなまえは、そう言いながらも自分と縁の無いスポーツにそんな多数の人間が関わっているとは思えなかった。彼女の高校だって部員は男女合わせて四十名程度だ。青峰は温い空気の中で、正解を教えてやる。

「四億七千万人」

「四億!?」

 大口を開けて仰天したなまえは、手で口元を隠した。日本人口の四倍。そんなに沢山の人間がプレイするこのスポーツは、世界でも最大規模だ。

「日本でも五百七十万人居るぜ? 殆どが学生だ」

 なまえの背後に居る男は、類い稀に見る才能で中学からトップに君臨していた。最強の選手だと持て囃され、また恐れられていた。強いのは楽しい。だけど、楽しくなければ強いのも嫌になる。青峰はそんな単純な理論で情熱を失う程に、弱い人間でもある。

「次に戦う相手は、四億人のトップに立つ男だ。片やオレは五百七十万人のトップ。……笑えるよな。戦うのが怖い相手は、初めてだ」

 対戦相手に弱気な感情を持った事の無い青峰は、桁や立つステージが違い過ぎる相手に少しだけ怖じ気付き、そうして自分は井の中の蛙なのだと知る。

 初めてだ。本当に、初めてなのだ。世界に立ちたい男は、その目指すべきステージの高さに足が震えている。武者震いだったらまだ良い。今のコレは……単純に恐怖だ。好戦的な彼がこれだけ取り込まれているのだ。他の連中なんか、足がもつれて立てもしないだろう。

 再び青峰は腕に力をこめた。早く離れた方が良い。周囲に誰も居ないとは言え、いつまでもラブシーンを晒す訳にはいかない。だけど、両腕が言う事を聞いてくれない。ずっとこうして、小さく頼りない身体を胸に押し付けていたい。

 そんな弱気になった青峰は、頬に僅かな何かを感じた。痙攣を起こしたようにヒクリと動くのは、視線を感じたからだ。首を捻り横を向いた男は、アパート横に併設された駐車場を眺める。数台の車が停まっていたが、暗闇じゃ車内の様子は判らない。エンジンの付いているモノは無い。訝しい顔した青峰を見たなまえは、小さな手で男の手をほどくと、首を傾げた。

「どうかしました?」

 視線を一台のセダンから外さない青峰は、てっきり火神が居るかと思ったのだが、その姿は何処にも居ない。気のせいだと言い聞かせ、彼は少女を再び抱き締めた。今度は正面から、向かい合ったカタチで……――。

「……何でもねぇよ」

 青峰がそう呟いたのと、シャッターが切れたのはほぼ同時だった。


 ………………………


 八月二十八日。木曜日。

 青峰が代表選手の練習場に姿を現したのは昼過ぎだった。わざとらしくタンクトップから覗かせた肩には包帯が巻かれており、キチンと病院へ行った事を伝えた。

「腕は大丈夫か?」

 アリーナ入り口に立ち、ボールを抱えた笠松が青峰の心配をした。包帯を巻いている以外に外傷は無く、いたって健康そうだ。

「炎症だ。二、三日安静で居りゃ治る」

「……なら、ゆっくり休め」

 練習へ顔を出した事に安堵した笠松は、男を労る。そして彼は、一昨日最後の試合を思い出して苦い顔を作った。

「お前、まだオレをPGにするつもりか?」

 そう聞いたのは青峰で、逞しく露出した腕を履いたジャージのポケットに突っ込んだ。

「さぁな、迷ってる」

 諦めも肝心だが、出来る事ならばこれ以上青峰を苦しめたくは無い。今の笠松は、目の前の選手の扱い方に困惑していた。自愛させやりたくないポジション無理矢理任せるのと、肩を無理させてまで自由にプレイさせるのと……どっちが正しいのかさえ、判断付かない。

 主将の優柔不断具合を溜め息で飛ばした青峰は、笠松に向かって口を開く。

「オレに時間をくれ。三日だ」

 ポジションに関して、青峰は既に答えを出している。男は三日の猶予の理由をこう述べた。

「三日ありゃ、お前らの癖も全部覚えられる。そうすりゃパスだって、楽に出せんだろ」

 笠松は神妙な顔で青峰を見た。青峰大輝は根っからの目立ちたがり屋である。試合中に暴走しないとは言い切れない。

「信じて良いのか?」

「勝手にしろ」

 クールに笑った青峰は、笠松の眼差しから逃げるようにアリーナ前を脱出しようとした。そして、ある男が笠松幸男の隣を過ぎ、エントランスを歩く青峰大輝を追い掛ける。

「挨拶位しろよ! チームメイトだろ?」

 響いた声はダミ声寄りの、今一番話したくない人物のモノだった。

「何の用だ?」

 振り返った青峰は、背後に立ち腕で額の汗を拭っている火神を見た。

「どうだった? 肩は」

 今までハードな練習をしていた火神は、息も荒く質問をした。チラリと彼のバッシュを確認した青峰は、綺麗なソレに安心する。どうやら赤毛の彼は認められたようだ。本番も近い、今頃になって。

「安静、三日間」

 少し間を空けて質問へ答えた青峰を、歩み詰めた火神は笑った。

「あぁ、丁度誕生日と被んのか。バーベキューでもするか?」

「一回やりゃあ十分だ」

「ケーキ食いに来いよ」

 三日後のバースディパーティーを提案する火神に、面倒そうな顔をした青峰は疑うような口振りを向ける。

「今年は優しいんだな? どうした?」

「チームメイトだからな」

 火神は適当そうな答えを口にし、青峰の右肩を叩いた。馴れ馴れしいその手を払った青峰は、彼に背を向けて歩み出す。向かう先は、Tシャツと貴重品を預けたロッカーだ。

「三十一日は忙しいんだ、悪ィな」

 右手を上げて火神に別れを告げた青峰の背に、火神は乱暴な言葉を当てる。

「どうすんだよ! 次の日学校だろ!」

 奇妙な台詞に足を止めた青峰は、肝を握られたように背筋から冷えていくのを感じる。数回頭を軽く振り、最後に火神の方へ首を捻った。

「火神ィ、オレは学生じゃねぇぞ。お前一体どうした?」

「……別に」

 疑い睨む火神の眼は鋭く、突き破られそうな青峰は目を逸らした。


 ………………………


 雨の中傘を差し、水溜まりでジャージの裾を濡らした青峰は、畳んだ傘から雨を滴らせ階段を上がった。角の先に一人の男が立っていて、黒いポロシャツにストローハットが似合う。青峰は、男から陰気な空気を感じた。

「こんにちは」

 ヌルリと笑う男は、クタクタの帽子を脱いだ。髪の毛は薄く、目がギョロギョロした不気味な男だった。自室前に立たれ、如何にも帰りを待っていたかのような姿に、青峰は溜め息を吐いた。

「受信料なら払ってる。新聞は読まねぇ。宗教に興味ねぇ」

 青峰は、考えうる全ての可能性を矢継ぎ早に潰す。しかし、男は相変わらず気味悪く笑うだけで扉の前から離れない。

「違いますよぉ。見事な返しですね」

 相手は苛立たせるのが得意なのか、テンポの狂う話し方に青峰の神経は逆撫でされる。

「あぁ、じゃあ引っ越しの挨拶か」

「……恋人、随分と若いんですね」

 差し出された写真を見て、青峰の表情は瞬く間に変化した。暗い夜道、街灯に照らされた二人の男女が写った一枚。見覚えがあるその姿は……昨日の自分となまえだった。

「制服プレイかぁ。隣県の公立高校ですね、この制服」

 息が荒くなるのを必死に抑えた青峰は、鼻でゆっくりと息を吐く。息苦しさに負けそうになるが、あくまで冷静を装う。

「……デリヘルだ。女に縁がねぇからな?」

 真っ青な顔で無表情を貼り付けたその青年は、写真の少女を風俗嬢だと説明した。金で買った女と言う割りに、スナップに写る二人は親しげで、少女が抱えたビニール袋が生活感を醸し出す。

「男前なのに勿体無いですねぇ」

 ヌタヌタ笑う声が、青年の身に纏わり付いた。そんな男に褒められても、嬉しくも何とも無い。睨むような顔をした青峰は、視線で男を威嚇する。

「コレ、読んでみて下さい」

 胸ポケットから四ツ折りのコピー用紙を出した男は、笑いながら青峰へ差し出す。剥ぎ取ったソレを開くと、新聞の小さな記事が印刷されていた。……青年からしたら最悪な記事が広がっていた。

【高校教諭、生徒と淫交で書類送検】

 表情強張る青峰は記事の詳細を見る事無く、ガチガチ言う奥歯を噛み締めた。

「……何が言いてぇんだよ」

「貴方若いから判らないでしょうが、高校生に手出すのはマズイですよぉ」

「デリヘルだって言ってんだろ!!」

 怒りに任せてコピー用紙を破り、粉々にした。雨に濡れた床に落ち、ソレらは塵と化した。雨足は強くなり、地面を大量の水滴が叩き、まるでオーケストラだ。指揮者が居ないから音は全てデタラメ。

 男はもう一枚の写真を取り出した。コチラも夜の写真だ。一人は浴衣で、一人はジャージ。

「九月一日、高校へ張り込んでみます。代表合宿で知り合ったんですか? ナンパで」

「やめろ!!」

 青峰は相手の手から二枚の写真を奪い、真っ二つに裂く。震える手で破いた写真を見るが、やはり被写体が自分だと鮮明に判る。そうやって自分のラブシーンを見せ付けられた青峰は、写真を握ったままに両手で目元を隠した。食い縛った歯が、今更ながらに後悔を生む。

「ジャーナリストですからねぇ、私も。すみませんねぇ。コレでご飯食べてるんですよ」

 キシシ……と汚い歯を見せて笑う男は、情報を聞き出す為には何でもするのだろう。人生経験の浅い女子高生なんぞ、容易く扱える。

「ふざけんな……」

「ふざけてんのは、ドッチだよ?」

 その口調変わった言葉を聞いた青峰は、相手のポロシャツを捻り掴んで、右ストレートを決めた。――……頭の中で。

 暴力事件は起こせない。それこそ相手の思う壺だ。現実世界じゃ何も出来ない己を恨む。……このまま選手生命はおろか、人生さえも終了しそうな事に膝から力が抜けて、青峰は通路に座り込んでしまった。膝が濡れる。

「――五百万だ」

 お情けと云う名の強請を掛けられた。青峰は、座ったままに男の顔を睨む。彼等は儲けられれば何でも良いのだ。ジャーナリズムも、生きて行く為の活用術なのだ。

「五百万で売ってやるよ。もしくは、同じ位のスキャンダル用意しろ。誰か居ねぇのか? 似たような事やってる野郎は」

「……腐ったジジィだ」

「こんなしみったれた場所に住んでんだ。貯め込んでんだろ?」

 アパートの扉を指差された青峰は、睨む顔だけは崩さない。握った二枚の写真は、強く力を込めた手がクシャクシャにしていた。

「中国戦まで待ってやる。サッサと片付けた方が良いかもな? 心身共に健康なままで試合出たいよな?」

「……ろくな死に方しねぇぞ、アンタ」

 低く重圧的な声で唸った青峰は、気持ちだけでも負けたくは無かった。例え両膝を床に着き、顔面を真っ青にして震えていても……。

「人の人生潰して食うメシの不味さには、慣れたよ」

 そう言ったポロシャツの男は、青峰の隣に投げ出された傘を勝手に掴み階段の方向へ進んだ。途中で思い出したかのように振り向き、自分の名刺を指で弾いた。

「腹が決まったら、連絡して下さいねぇ」

 威圧的な言葉遣いはまたネットリしたモノに変わっていた。そして床に落ちた男の名刺は、濡れて汚物のようになった。


 部屋に戻った青峰は、誰も居ないワンルームで汗に濡れた顔を擦った。なまえなら今朝の電車で帰した。その判断が正しかった事に安堵した男は、息を大きく吐き、ポケットから取り出した前時代的な携帯を手にする。履歴からある人物を選択し、着信を始めた。――そこで、昨日と全く似たような展開になっている事に気付く。

 歓迎出来ない人間が訪ね、自分を掻き乱す報告をして帰って行く。二日連続でだ……。肩も不調だし、まるでツイていない。運気が滞ったようだ。

 呆然とする青峰は、受話口から女性のアナウンスが聞こえてからすぐ、通話を終了させた。相手は不在のようだ。電話を掛けた所で、何を話せば良いかも分からない。代わりに男は、アドレス帳の中で最も信頼出来る人間の名を探した。

『はい、どうしましたか? 青峰君?』

 ベッドの上に体育座りをし、震える身体をなるべくコンパクトにした青峰は、鼻水を啜って気持ちを落ち着かせようとする。

「テツ……。オレ、どうしたら良いんだ?」

 生まれて初めてのパパラッチの存在に対処する術の無い青峰は、こうして震えを止める事さえ出来ずに居た。