「殴れって……。ねぇ、ソレ……いきなり過ぎない?」 ヘラヘラした顔で自身を取り繕った葉山は、急な申し出に対する処置に困っていた。黛は、そんなベッドに座ったままの元チームメイトへ、追い討ちを掛けるように近付く。片膝をベッドに載せれば、体重分だけ軋んだ。 「葉山、オレは何者だ?」 「は!?」 黛は薄い顔を近付け、ギリギリの場所で止める。目に掛かる銀髪の隙から見えた瞳は、何を映しているのかも判らない。 「オレは今、一体何処に居れば良いんだ?」 真剣な顔に、真剣な言葉。大きな瞳を逸らした葉山は、後頭部と背を壁に付けたままズルズルと下がっていく。冗談を返す事も出来ず、初めて黛の気迫に負けた。 「……立っていて良い場所が、欲しい」 葉山から身体を離し、再度立ち上がって相手を見下した黛は、変わらずに無表情だ。 「――意味、判んないん……ですけど」 だらしない格好のまま相手に視線を合わせた葉山小太郎は、黛の思想が読めずに混乱したままで居る。そう言えば【黛千尋】は乏しい表情のせいで、元々何を考えているか判らない人間だった。 「面白くなきゃ、バスケなんかしたくない。……だから、逃げた」 理由を告げられた葉山は、『やっぱりそうか』と云う呆れた顔をした。 「……でも、オレはココに居たんだな」 足元を見た黛は、フローリングに突っ立ったまま片足を踏み鳴らす。パンパンと、スリッパの軽快な音が響いた。普段はよく喋る葉山も、何も言わずに黙ったままだ。 部室の写真を見た時……、嬉しさが全ての感情に勝った。自身の居た証が、ソコにあった。辛い心境を抱え、全員が強張っていて見るのも厭になる程の最悪な写真。――でも、黛千尋は"存在の証明"が出来た。生まれて初めて……ココが自分の居場所だったんだと悟った。 赤司が何を考え写真を飾るよう命令したのかは知らないし、そんなのどうでも良い。 単純に……飾ってある事実が嬉しかった。それだけだ。 「……こんな場所が、また欲しい」 その囁きを聞いた葉山は、上半身を起こすと右拳を自身の左の掌に打ち付けた。彼は、黛千尋の伝えたい事を理解したようだ。 黛が頼んだのは【過去を清算して、歩み出す切っ掛け】である。ソレを拳に乗せて、歩み出す後押しが欲しい。ソレは、葉山が"脳筋馬鹿"だから通じる理屈だ。 黛が歯を食い縛り目を瞑ると、立ち上がった葉山は後ろに引いた右腕を思い切り前に振りかぶった。 …………………… 一晩立って、ようやく腫れが痣になってくれた。葉山の野郎……容赦無く本気で殴りやがったな。思い出した骨と骨がぶつかる痺れと、目の前がスパークする感覚に少しだけ眉をしかめた。 ガタンガタンと揺れる電車は、夕日のオレンジで照らされている。車内は帰宅する企業戦士と学生で溢れ、座席は空いていない。私服なのは黛を含め十名程。 吊革に掴まり、近くの住宅街を眺める。屋根しか見えないが、その一つ一つに生活がある。そんな詩人めいた事を考えれば、クレバーな人間になった気がした。 オレは世界でひとりぼっちの、ソレが正しいと言い聞かせている人間だ。 ……そして、こんな自分を騙す方法は――酷く単純だ。 屋上で赤司征十郎に声を掛けられてから、ずっと"かくれんぼ"をしている気がする。もっと誰かに存在を認めて貰いたい。他人からすれば世界で一番簡単な事が、自分にとって世界で一番難しい。『もういいよ』の声は薄過ぎて、誰の耳にも届かない。 トンネルを抜ければ数分で自宅の最寄り駅へ着く。窓に映った自分の姿は、まるで幽霊だ。惰性で生きているからか、生気を感じられない。……今日も、誰とも会話しなかったな。寂しい一日を振り返っていた、その時だった。 「先生!!」 いきなりシャツの裾を引っ張られ、少し身体の軸がずれた。握っていた吊革が、倒れるのを防ぐ。自分の世界に浸っていた男は、引っ張った犯人の顔を見て驚く。 「……何、してんだ」 周囲の人間がコチラを眺めている。沢山の瞳が自分達を気に掛け、暇潰しと云う傍観を始めた。他人と関わり合いを持ち、初めて黛は周囲の前に存在を現せる。 「やっと見付けた! 何も言わずに居なくなるんだもん! この電車乗って良かったぁ……」 どうやら"かくれんぼ"は、たった今終わったようだ。彼を見付けたのは、身体の交わりを持とうとした"元教え子"だった。 「新しい先生、来たんだろ」 驚いた黛の口から飛び出したのは、そんな言葉だった。 「家庭教師なんかやめたよ! 塾にした!」 なまえはこれから二駅先の学習塾に行くと口を尖らせる。 「……そうか」 フイと窓に目を向けた黛は、ふと思い出したかのように、裾を掴んで離さないなまえに「離せよ」と命令をした。――本当は、そんなに嫌じゃなかった。他人と繋がれる証は、"ソレ自体"が存在していて良い証明になる気がしたからだ。 「ヤダ。……やっと見付けたんだもん」 更に強く握られ、布地はクシャクシャになる。 「離したら、また……居なくなる、じゃん」 鼻を啜る音が滑車の音に紛れた。泣くのは構わないが、出来れば自分を巻き込まないで欲しいと思った。これじゃ、虐めて泣かせたみたいじゃないか……。黛は、相手を宥めようと静かに口を開く。 「……居なくならないから、離せ」 「もう信用しないもん……」 しばらくすると寂れた小さなホームが見え、やがて電車はゆっくりと停車した。黛の目的地はココだ。灰色のコンクリートに足を差し出して下車をすると、相手も裾を握ったまま降りる。自分達以外には誰も降りず、乗車したままの人々は興味を無くしたように彼等から目を離した。 「電車の中で、声を掛けられたのは初めてだ」 遠ざかるレールが軋む音に、黛の小さな声が重なった。 「何でいきなり辞めたの!?」 「クビなんだよ。生徒に手出したら」 「一回だけじゃん!!」 一回も百回も変わらない。肝心なのは"何をしてしまったのか"だ。たったソレだけの事……。少女が問題に気付けないのは、人生の経験が浅いからだろう。 引っ張られ伸びた裾を見た黛は、その小さく白い手に再度文句を言う。 「離せよ」 ようやく手を離した相手は、その指で濡れた目元を拭った。 「――好きなんです。先生が……好き……」 コンクリート剥き出しな静かなホームに、愛の告白は似合わない。ラノベだったら、有り得ないシチュエーションだ。年代を感じるベンチに、日焼けで薄くなった時刻表。ひび割れたコンクリートの床。……告白の舞台にしては寂し過ぎる。 少しシチュエーションを良くしてやろうと、少女の身体を引き寄せて胸の中で抱えた。一瞬息を飲んだなまえは、すぐに両腕を腰元に回した。 「よく、気付いたな。オレだって」 「気付かない訳、無い……じゃん」 グズグズした言葉が返ってきた。僅かに揺れる少女の身体が、アチラさんの感情の高ぶりを教えてくれる。 「オレを見付けたのは、お前で二人目だ」 周囲に誰も居ないのを確認した黛は、相手の頭に顔を埋めた。そうして、何処と無く甘い香りに思わずドキリとする。 「もう一回、見付けられたら……連絡先、教えてやるよ」 黛は、再度"かくれんぼ"を提案する。次、もし自分を見付ける事が出来たのなら……その時は彼女の気持ちを信用してやろう。 日が落ちれば、少し肌寒い。薄暗い中、外灯が寂しいホームを照らす。黛は、泣いているなまえの頬を両手で覆う。きっと冷たい筈だ。肌を合わせただけで、相手の熱が伝わる。上半身を屈め、自分達以外に誰も居ない小さな駅でキスをした。祝福も何もない、鼻を啜る音だけが男の勇気を讃えた。 ………………… 短大キャンパスに併設される部室練。洛山高校のモノよりは小さく、プレハブ二階建ての質素な建物だ。男子バスケ部と書かれた札の前で立ち竦んだ一人の男は、内部から聞こえる笑い声に気落ちしていた。 やがて一人の部員がドアを開けた。その図体の大きな男は、幽霊のように佇む黛の姿に驚いて肩を上げた。 「……入部希望?」 何も言わずに差し出した入部届け。部長らしき男性が呼ばれ、そこに書かれた名前に目を細くした。 「……何て読むの? コレ」 珍しい漢字が読めなかったようだ。ソレは、彼の見た目を表すように特徴の無い薄い字だった。 「…………まゆずみ」 「黛君かぁ。バスケはやってた?」 バリバリと顎を掻いた相手は、こんな時期の入部希望者を怪訝そうに見つめる。只でさえ活動が二年しかないのに、冬の大会も近い。不可思議な時期の入部だと思った。 「……洛山高校で、三年間」 線の細い、如何にも"初心者"な男の口から出た超強豪校の名前にキョトンとする主将は、冗談のような言葉にフヘッと笑った。 「スターに憧れた、坊っちゃん組か?」 黛は、証拠として一枚の集合写真をジーンズから取り出す。受け取った相手は真ん中に写る有名な四人へ目を通し、写真が洛山高校のモノであると悟った。主将はサックリと後ろに並んで写る部員の群に目を通し、口を開く。 「んで? キミは?」 黛は細い指で自分を指した。丁度、赤司征十郎の横に立つ、ユニフォームに身を包んだ己の姿を。……ソレを見た相手は、入部希望者を置いてきぼりに部室へ駆け込んだ。 すぐに部員が主将の元へ集まり一塊になる。騒がしくなった部室の外で、黛はゆっくりと口角を上げた。部室内に掲げられた【地区大会四位】と云う結果を眺めながら……――。 + + + 『信じらんない!! ナンパって何ですか!? 只でさえ遠距離なのに!!』 "数年前"に決着が付いたかくれんぼの勝者は、日本代表に選ばれた一人の選手を電話越しに叱る。 「……だから、してねぇよ」 彼が怒られているのは、近場で行われていた夏祭りへ"チーム内イチの美形"を連れて繰り出そうとした事を、正直に伝えたからだ。その代表選手……黛千尋は、アレ以来彼女に嘘や偽りを止めた。 『ソレは結果でしょ! 私も浮気してやる!!』 「勝手にしろ」 いつものように冷めた黛の言葉に、なまえはたじろぐ。 『な、泣いたって知りませんよ』 黛千尋に脅すような言葉を告げてやると、相手は黙り込んでしまった。長い沈黙の後、薄い声が二人を繋ぐ電波に乗る。 「……グレーだ」 『は?』 「今日のパンツはグレーだ」 先程、挨拶代わりに興奮した口調で本日の下着の色を問い質し、ガチャ切りされていた変態少女は、思い出して顔を真っ赤にした。 『今その話してないでしょ!!』 黛は、こうやって時々会話がずれる。それは口数が少ないが故の弊害だが、交際歴が長いなまえは『今更だ』と慣れた態度を見せる。 「お前が好きだって言ってたから、グレーにした」 膠着状態となった彼女の怒りを静めようと、わざとらしい理由を口にした黛。彼は、コレで相手の機嫌が良くなるだろうと計算をしていた。 『ソレを他の女の人に見せようとしたんですよ!?』 …………あぁ、どうやら地雷を踏み抜いてしまったようだ。男は更に無口を加速させ、脳内でシミュレーションを立て始める。 『夏休み一回も会えないんですよ!』 「代表召集だからな」 新たな"活躍の場所"を与えられた黛千尋は、また素っ気ない返事で愛を打ち返した。彼は一ヶ月程前から日本代表選手として都内に呼ばれ、アジア選手権に向けて猛練習に励んでいた。プロ選手にコマを進めた男は、これまでも遠征試合なら多々あった。しかし、こんなに長くホームを離れるのは初めてだ。だからなまえも心配している。 『早く会いたい!!』 「中国戦は埼玉だ」 微妙にズレた返事で、なまえの我が儘を誤魔化す。 『…………遠いよ』 「チケット送る」 観戦チケットと東京までの新幹線切符を手配する旨を伝えれば、相手は不満そうな声を漏らした。 『日帰りィ〜?』 「地図と、マンションの合鍵も一緒に送る」 彼女の泊まる場所をそれとなく仄めかせば、なまえの声質が軽く弾む。 『一人で不安ですが、頑張って埼玉まで行きます!』 扱いやすい女だと、黛は心の中でほくそ笑んだ。勿論、外部からは判らないよう表情は固定されたままだ。 『……早くコッチ戻って来て下さい』 「選手権終わったらな」 『早く終わって』 終わる=敗北だと関連付けられない彼女は、無茶を言う。しかし黛はソレを無知なだけだと知っている。だから「負けなきゃ戻れねぇよ」と教えてやった。 『じゃあ、しばらくはずっとソッチじゃあん……寂しい!!』 黛は、とうとう外側までニヤリと笑わせる。そして大学生の癖して未だ頭の軽い彼女を、心の中で馬鹿にした。 少しだけ、素直になってやろうと思う。ナンパを仕掛けに行こうとした、せめてもの罪滅ぼしだ。 薄い唇を開いた黛は、特徴の掴みにくい声質で、何気無く今の気持ちを伝えてみた。 「オレも会いたい。なまえに」 ――きっとなまえは、その思いがけない台詞に目を丸くした。そうに違いない。その証拠に、受話口の相手は黙り込んでしまうのだった。 Just the way I am - END - ――四年前。十二月二十五日、W.C.決勝戦会場。 「……黛サン、大学のリーグで地区優勝だってさ。全国行ってる」 ゾロゾロと通路を歩く集団。その先頭の一角に立つ少年が、軽い調子で口を開く。決勝戦前だと云うのに、緊張感を全く感じさせない飄々とした口振りだ。 「はぁ? ここいらの大学は、そんなにレベルが低いのか?」 彼の言葉に反応させた巨体の男が、褐色の頬を持ち上げて勝ち気に笑う。 「コタ、アンタ何時から黛サンとそんなに仲良くなったの?」 一際綺麗な男が、茶髪の少年に質問をする。口元に指を当てる仕草が、彼の性別を不明確にしていた。 「――他人の勝利は、所詮他人事だ。今は、自分達の勝利を手にしろ」 集団を引き連れる赤毛の少年が、悠長に無駄口を叩く三人を叱咤する。 「ヤダ、征ちゃん。強がっちゃって」 その皮肉めいた言葉を最後に、栄光への扉を開けた洛山高校男子バスケットボール部は、高まる喧騒の中へと踏み出した。 天井に吊るされたライトが、いつもより眩しく感じる。興奮が生む"多数の声援"が選手の背中を押し、同時に向かい風のように行く手を阻む。前進も後退も出来ない緊張感は、決勝と云う場に相応しい。何度立っても、慣れる事は無い。ここが夢の最終舞台だ。 三人の人物が背中を叩く。容赦無い痛みが激励となる。涼しい顔を崩さない赤司は、汗ばんだ手のひらを強く握った。 |