「――最近、生徒に手を出してクビになる学生バイトが多いんですよ。学生は責任感が無いから、クビになっても痛くない。全く、若いって利点を無駄にしている!」

 火曜日。午後六時二十五分。生徒宅へお邪魔する五分前。歩きながら就業の旨を電話で報告すれば、営業所の人間が釘を刺して来た。

「はぁ……」

 薄い声で素っ気無い返事をした黛は、その後に続く愚痴を聞き流す。どうやら今日も一人、クビになった学生バイトが居るようだ。後任と穴埋めに奔走しているのだと言う。

「勘弁して下さいよ? 中学生と言えども、女性ですから。手を出したら、即クビですからね!! 訴えられても、私達は責任負えませんからね!!」

 ガチャリと切られた電話を耳から離し溜め息を付けば、今からダンジョンへ向かう気持ちになった。

 何せラスボスは、初対面の自分にキスをねだって来たのだ。――友人と足並みを揃えたいが為だけに……。お友達から『性交をした』と聞いた暁には、身体の交わりを懇願されそうだ。全力で己の貞操を守ろう。


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「――ごめんなさい、先生。なまえを買い出しに行かせたら、帰って来なくて……」

「はぁ……。まぁ、待ちます」

 母親が物腰低く謝って来た。丁寧に出されたスリッパへ足を通し、婦人に着いて部屋に向かう。

 今日もまた一人待つ羽目になった黛は、デスク上のノートパソコンに気付く。以前は無かった筈だ、生意気な……。立ち上げたまま出掛けたらしい。画面にスクリーンセーバーが掛かっており、何となくで中身が気になった。悪いとは思いつつ、勝手にマウスを動かす。指示に従ったパソコンは画面は切り替わり、最小化されていたウェブサイトのタブをこれまた勝手に開いた。

 横書きで文字が羅列されている。――小説を読んでいたようだ。何だよ、素人の書いた作品じゃねぇか……。鼻で笑った男は、書かれていた内容に目を見開いた。

 ――読んでしまった事を後悔する。小説は所謂"官能的なモノ"で、大層イヤらしいシーンが画面上で展開していた。前回の雑誌と言い、今回のコレと言い、彼女は欲望の過ぎたエロガキのようだ。

 「……ヤベェ」と呟き、腰を引く程に生々しい描写。グチャグチャにヒロインを蹂躙する登場人物の名は――自分と全く同じだった。書かれた"千尋"と云う二文字に、開いた目を丸くする。

「……先生、何してるんですか?」

 背後から声がして慌てた黛は、バチンとノートパソコンを閉じる。

 パソコンに背を向け俯いた彼は、なまえの顔が見れなくなっていた。珍しく眉を下げ、困った顔を見せた黛は、少女に小説の分類を問う。

「……ドッ、ド……ドリーム小説か?」

 そういう類いのモノがあるとは知っていた。登場人物の名前を変えられる小説だ。感情移入しやすいライトノベルの"進化版"だと思っていたのだが、改めて自分の名前が載っているのを見ると……恥ずかしさが段違いである。

 顔を真っ赤にして怒りを露にしたなまえは、前回に似た言い訳を始めた。

「友達が! 面白いから読んでみろって! 全然面白くなかったけど!!」

 ウニャウニャと言い訳を終了させたなまえは、見られた恥ずかしさに泣きそうな顔をし、直ぐ様素直に謝罪する。

「――男の人の名前、思い付かなくて……借りちゃいました。ごめんなさい」

「……別に。千尋なんて名前、そこらじゅうに居んだろ」

 ――いや、そこらじゅうには居ない。少女の周囲に"千尋"と云う名の男は、二人も居ないだろう。漢字まで一緒だとピンポイント過ぎて、恥ずかしさも覚える。

 室内に気まずい空気が流れた。見てしまったシーンが官能的だったせいか、これ以上話題にも出せない。咳払いをした黛は、とりあえず前回と同じ場所に座った。

 今日は大人しく勉強を始めたようだ。なまえは宿題のプリントを黙々と片付け、黛は持って来たライトノベルを読み出した。今までは表紙も剥き出しのままに読んでいたが、大学に上がってからはカバーを付けるようになっていた。革製の深紅色は、パッと見お洒落である。

「――せっ、先生。親には言わないで?」

 シャープペンシルをカチカチ鳴らしながら、なまえは願い事を口にした。章の切り替わり部分に目を通していた黛が、表情無い顔を上げて問い質す。

「何をだよ」

 うぅ……と肩を下げた中学生の彼女は、デスク上のパソコンを指差した。

「小説……見てた事。一回見付かって、怒られたの」

 あの内容は、明らかに"中学生の見て良いモノ"では無かった。小説に明確な年齢制限が設けられていなくても、アソコまで露骨な表現があったらレーティングが必要になるだろう。情緒も無くアンアン喘ぐだけのアレは、性に興味を持ち始める年代が緊張しながら読むのには丁度良い。

 とか考えつつ、そんな事……黛千尋からすればどうでも良い。エロガキが小説で興奮しようが、オナニーしようが、興味が無いのだ。例え自分の名前が使われていようとも、だ。

「……気持ち良いの?」

 ――ただし、"こう"さえならなければ……。

「教える義務は無い」

「経験無いの? 大学生なのに!?」

「あっても、ソッチには関係無い」

 今日も黛クンは生徒に冷たい。期待させるだけ疲れるからだ。晴耕雨読。悠々自適な生活を送る為に、無駄な事は一切しない主義なのだ。

「勉強しろよ」

 ライトノベルに視線を落とし、参考書を指差す。『お前の本業は勉強だ』と、サルでも判るように教えてやった。――なのに、なまえのオツムはサル以下のようだ。

「先生とだったら……良いよ?」

「何をだ」

 ウフフと送られる悩ましげな視線を、ラノベでガードして受け流す。小娘抱いてクビになるのは御免である。

「クラスの男子にでも頼め」

「だって、周りはガキばっかなんだもん」

 ……オレから見れば、お前だって十分ガキだよ。

 あどけない素っぴんを鼻で笑い、背伸びしたくて必死な四個年下を馬鹿にする。しかし、彼女も彼女でめげない人間だ。キャピキャピした声を弾ませた。

「やっぱ、オトナにリードして欲しいじゃん?」

「ドリーム小説で満足してろ」

 ノートパソコンを顎で指し、恥ずかしい話題を掘り返した黛へ、なまえは顔を真っ赤にさせて叫んだ。

「アレはもう良いの!」


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 自習に近い授業も、終わりの時間が迫る。今日もロールケーキを御馳走になり、最後の一口になった紅茶を啜った。

「志望校、決めたか?」

 志望校を知らなければ、今後の対応に影響が出るだろう。模試の判定によって出る"臨時ボーナス"を狙う黛は、彼女の志望校が偏差値の低い……サルでも入れる場所である事を願う。

「うーん、洛山にしようかって」

「は!?」

 よりにもよって、ここ一帯じゃ一番レベルの高い名門校の名を出され、黛は驚きを露にした。推薦や引き抜きで入って来る"脳筋馬鹿共"のお陰で偏差値自体はそう高くはないが、一般の倍率は他所に比べ十倍近く違う。

「だって、ユウちゃんの彼氏が洛山行ってるんだけど、バスケ部強いんでしょ? マネージャーなんて楽しそうだなぁって」

 彼女の脳みそはスポンジで出来ていて、生け花でも刺さっているのだろう。楽しい楽しい青春ゴッコを送りたくて、超絶強豪校に行きたいようだ。この生け花女がマネージャーを志願しても、赤司が弾く筈だ。

「恋愛禁止だ」

 苛々をなるべく表面に出さないよう、指先でテーブルをタップする。選手は異性交遊にうつつを抜かす暇など無いし、マネージャーだって何百人と居る部員のケアやら試合や業者への対応やらで、てんやわんやしていた。理想と現実のギャップに落ち込み、ツライと泣き出す糞女も居た。

「先生、部活やってた?」

 その名門校に通い、日本一強豪な男子バスケットボール部に所属し、何百人と居る部員を押し退けレギュラーとしてコートに立っていた黛は、無気力な顔を綻ばせたりはしない。

 華々しい思い出なんかじゃない。
 忌々しい過去だ……あんなの。

「洛山行きてぇなら、余計な事考えず勉強に励め」

 だから男は自慢する事も無く、少女に学業を進める。

「……ケチ、いけず」

 文句に口先を尖らせたなまえは、テーブルに身を乗り出しまた質問を始めた。

「高校は? コレなら良いでしょ? 先生の学力を知るのも、教え子の権利だよ!」

 生意気な教え子へ『洛山高校』と自慢してやれば、少しは敬意を払うかもしれない。……しかし、根掘り葉掘り聞かれるのが面倒な黛千尋は、自宅から一番近くの高校名を告げた。

「西高」

 偏差値は洛山とそう変わらない。だから嘘は付いていない。

「えぇー……。アソコ地味な人間が行く場所じゃん。スカート丈長いしさぁ」

 何とでも言えよ、オレには関係無い高校だ。心の中でそう高笑いする黛だが、なまえの「でも、先生は西高っぽいね」と云う台詞にだけは傷付いた。

「先生、キスして?」

「嫌だ」

 無茶な要求にも、親切丁寧に即答してやる。

「この前したんだから良いじゃん! 勉強だって、ちゃんと頑張ったんだから!」

「頑張る為にオレが来てんだよ」

 サッパリ頭に入らなくとも、ライトノベルから目は離さない。

 何度懇願しても答えは変わらないのに……。なまえと云う人物は、無駄の多い人生を消費しているようだ。自分だったらゾッとする。

「チューしてー!!」

 テーブルを叩きワガママを叫ぶ。そんな中学生を尻目に、黛は腕時計で時間を確認した。現在二十一時半。拘束が終了した。直ちに帰還して営業所へ連絡しなければ、担当者に怒られる。

「時間だ、帰る」

 リュックを肩に掛け本日の業務終了を告げると、少女は男のジーンズを掴んだ。

「離せよ」

 凍てつく視線を投げてやれば、挫けないなまえは誘い文句を言い出す。

「少し位良いじゃん! 今日、可愛いブラしてるんだよ!」

「あぁ、そうか」

 エロガキ風情がハードなブラを身に着けていても、全く興味がそそられない。足を止めない黛は、部屋から脱出しようとした。

「……先生、ホモなの?」

 しかし、その"いきなりの単語"には振り返ってしまう。何故にエロガキの相手をしないだけで【同性愛者】にされなければいけないのだろうか? 愚考が過ぎる。

「だって、構ってくれないんだもん」

「無駄な事はしたく無いんだ」

 黛はなまえとの色目気立った世界を、『無駄』と斬って捨てた。

「無駄って、何それ!」

「洛山行けたら格好良いバスケ部掴まえろよ」

 まぁ、無理だろうがな……? 黛は心中でほくそ笑み、愚かな努力を推奨してやる。

「今キスしたいの!」

「何でオレなんだよ」

「……大学生だから」

「だったら、駅で大学生でも掴まえてろ!」

 意味の判らない理由に声を荒げながらスマホを引っ張り出した黛は、終了の連絡を入れなければいけない時間に差し掛かり、焦る。ロックを解除すると、着信のお知らせにメールが一件届いていた。

 ぼっちが故に、友人は少ない。こんな何も無い日に着信とメールが、同時に来るのも珍しい。

 何気なく開いたメールの差出人は――赤司征十郎。

 その名前に、突然頭が揺さぶられ手が震えた。


【今年も優勝を逃しました。これも単に、僕の甲斐性が無い為でしょう。】


 素っ気無く、手記のような書き方だが、内に秘めた感情は黒く醜いモノなのだろう。赤司は自分にも他人にも厳しい。勝者で居なければ価値が無いと考えている。……怒り・哀しみ・嫉妬・動揺。全てが現在の彼を襲っている筈だ。

 だからって、今更何だ。オレには関係無い。

 しかし、その僅か下に書かれた問い掛けで、黛の顔は一気に青ざめた。


【何故バスケを辞めた。】


 口調が著しく変化し、まるで「お前は弱者であり卑怯者だ」と責め立てるような物言いである。いつの間にか半開きになった口から呼吸を繰り返していた黛は、なまえの「……先生? 大丈夫?」と云う心配そうな声に意識を救われた。

「――キス、して欲しいんなら、オレ以外の奴に……しろ」

 襲い掛かる緊張の下、息苦しさの中でそう生徒へ指示を出した黛は、その後どうやってなまえ宅を出たのかすら覚えていない。


 次の日、黛は着信履歴・メールボックス、そしてアドレス帳から赤司の名を消した。そうやって全て無かった事にする。彼の存在から目を逸らし、ついでに地面に這う"過去の自分"を蹴り飛ばす。

 ……今更、何なんだよ。

 本日の講義を確認し、一人きりのキャンパスライフへ意識を向ける。

 食堂は一人じゃ使えないから、中庭のベンチで昼食を食べ、時間まで独りでボンヤリするのだ。ソレが楽しいかと聞かれれば、首を縦には振れない。一人きりの大学生活は、単なる"日常"でしか無い……――。


 …………………


 金曜日。週に二回家庭教師を受け持つ黛は、今日もまたなまえ宅を訪れた。今回は無事部屋でスタンバイしていたようで、部屋へ足を運べばなまえが出迎えてくれた。

「良かった! 来てくれた!」

「……そりゃ、来るだろ。仕事なんだから」

 顔の半分を覆うマスク姿の黛へ、なまえは心配そうな眼差しを向けた。

「風邪引いたの?」

 ――違います、コレは貴女からの攻撃を防御する"シールド"です。心の中で、嫌味ったらしくも丁寧な説明をしてやる。最早"敵"と見なされたなまえだったが、今日は珍しく大人しい。

「あんな事言ったから……もう来てくれないかと思ってた」

 シュンと肩を落とすなまえの姿に、罪悪感が芽生えた黛は髪を掻いた。

 考えてもみれば……自分が来るのを、こうやって待ってくれる人間は居ない。

 求められない事が"当たり前"だった少年は、高校三年生で生まれて初めて差し伸べられた手を握った。ソレが後にどんな後悔を生むかも知らずに……。黛は、モヤモヤした鬱憤が皮膚の内側に広がるのを感じた。

「ねぇ、こないだのメールさ……好きな人から?」

 今まで以上に口数少ない黛へ、なまえは申し訳無さそうな口振りで疑問をぶつけてきた。赤司を好きになった覚えは無いが、面倒なのでその誤解に乗ってやる。

「あぁ、そうだ。好きな奴からだ」

「フ、フラれたの? だから青い顔してたの?」

「関係無ぇだろ」

 深い溜め息を吐いた黛は、感情少ない眼差しで相手を見据える。本人は睨んでいるつもりでも、主張が見えない目元じゃ全く怖くない。

「大丈夫だよ。先生よく見ると格好良いし」

 容姿を褒められたのに顔面を全く変えない黛は、リュックから文庫本を取り出す。ちなみに今日から別のタイトルへ手を出していた。

「よく見ないと、印象残んないけど」

「……あっ、そ」

 不要な補足を受け流した男は、カラー口絵の挿し絵を眺める。綺麗で清楚な少女が、バイオリンを弾いていた。どうやらコイツがヒロインらしい。どこにでも居る、量産型ヒロインだ……。

「そっかぁ、好きな人かぁ……。居るんだ」

 教え子のその呟きに肯定も否定もしない黛千尋だったが、次に彼女の口から飛び出した"言葉"には反応してしまった。

「だから先生とのキス、あんなに気持ち良かったんだぁ……」

「は!?」

 なまえの目が輝く。あんなくっ付けて離すだけのキスが気持ち良かったらしい。テクニックの無い、柔らかいだけの口付け……――。思い出した黛の頬が熱を持つ。

「経験無いかと思ってたら、結構豊富なんじゃん! やっぱ大学生って、そうなんだ! ユイユイの言う通りじゃん!!」

「……いや、オイ」

 彼女の口からまた知らない友人の名が出た。コイツは友達が多いのか? その殆どがマセていて、目の前の少女に"恋愛への夢"を抱かせているのだろう。

 訂正する間も無く、少女は妄想を爆発させた。どこから得た知識なのか、スケベな属性が【黛千尋】に付加されていく。

 黛千尋、大学一年生。
 乱交サークルに所属し、男根乾く暇も無い程にヤリチン。
 ついでに超絶テクニシャン。

 ――耳年増ななまえの中でそのような設定になってしまった男は、マスクの内で『そんな訳あるか!』と云う言葉を飲み込むのだった。