――黛千尋は目立たない。

 女だか男だか、見分けの付かない名前。

 顔立ちは薄く、色素もやや薄め。

 182cmと云う高い身長さえも、存在の証明にはならない。

 スマートと言えば聞こえは良いが、BMIは20.83。痩せ気味だ。

「――千尋、今日バイトでしょ!?」

 一階から母親の声が響いた。自室のベッドで横になっていた黛千尋は、シリーズの長いライトノベルから目を離す。可愛い女が描かれた栞を挟み「分かってるっつうの……」と、文句を言う。

 彼は今日から家庭教師だ。塾の講師は出来そうに無い、不特定多数の人生には関わりたくない。肉体労働も嫌だ、時給の低いバイトは嫌だ、拘束時間の長い仕事は嫌だ……。そうやって消去法で選りすぐれば、いつの間にかこの仕事に辿り着いていた。現在、晩夏。丁度受験シーズンまっ最中である。

「ホラ、シャツ出すか入れるかしなさい!」

 母親が彼のTシャツに文句を言う。黛はチノパンへ中途半端に捻り込まれたソレを、引っ張って外に出す。「行ってきます」も言わず、十八歳の存在感が薄い男は家を出た。約束の時間まであと三十分。隣駅の住宅街だ。

 読み掛けの本を持ってくれば良かった。オレは、自分に対しても気が利かない……。

 そんな感じに面白くも無い自虐をするようになったのは、何時からかも覚えて居ない。シビアな癖に、彼は『自分が自分を一番理解している』と"誇り"も持っていた。何だかんだでプライドが高いが故の、複雑な性格だ。

 ニヒルが似合う年齢じゃあ無い。クールが格好良いと夢見る年頃は過ぎた。大人一歩手前の黛千尋は、絶妙で複雑な年代をそつなく生きていた。

 今時紙に印刷された地図を眺め、一軒の家に立つ。自転車屋の角を左折し、隣は月極駐車場……――ココだ。左腕にはめた腕時計で時刻を確認し、五分前と云う優秀な時間に口角だけを上げる。


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「――まぁ、先生が今日からの家庭教師で?」

「よろしくお願いします」

 何時もの無表情で頭を下げる黛。応対する婦人は、その愛想の無さに驚いた顔をしている。特徴の捉え辛い薄い顔に、すぐ忘れてしまいそうな声。服装も、そこら辺に居る大学生と同じ。【黛千尋】と言う女のような名前だけが、彼の存在を醸し出す。

「なまえー? 黛先生見えたわよー!」

「えぇー? 今、髪乾かしてるんだけどー!!」

 廊下の向こうから甲高い声が響いた。微かにドライヤーの音がする。ソチラの方を眺めて立ち尽くす大学生に、母親が声を掛ける。

「すみません。ウチの子、お風呂に入ってて。先に部屋へどうぞ」

 クリーム色のスリッパを差し出され、スニーカーを脱ぎなるべく綺麗に揃え、またお辞儀をする。隣に立った黛の背は意外に高く、婦人は口元を手で隠した。

「今、飲み物用意しますから」

「いや、大丈夫なんでお構い無く」

 感情の読めない無の表情で、もてなしを拒否された婦人は困った顔をして娘の部屋を後にした。

 部屋に一人きりにされた黛は、周囲を見渡す。芳香剤の甘い香りがする。ベッドカバーもカーペットも薄いピンク。学習机の上には教科書や参考書。学習していた形跡は無い。低いテーブルの上にはマグカップに雑誌。何気無くページを開き、黛は固まった。

【成功? 失敗? 私の初体験!】

 細目の瞳を最大級に開き、驚愕の感情を顔面に張り付ける。――最近の中学生は、こんな本を読むのかよ!! まだ見ぬ教え子を心の中で叱咤しておいた。雑誌をベラベラ捲れば、全てが恋愛に関係した記事で、SEXのテクニックやハウツーまで載っている。

 ――馬ッ鹿じゃねぇの!?

 全体的にイヤらしい雑誌を手に取り、体験談形式の記事を凝視した。伏せ字がアチラコチラに見られ、可愛らしい挿絵も挿入されている。女目線の生々しい話に、唾を飲む。

「…………何してんですか?」

 顔前で刮目していた雑誌を手から落とした黛は、バサリと足元に落とした。特徴無い顔は無表情のままで、口は間一文に結ばれている。

「家庭教師の先生ですよね?」

 部屋の入り口には今日から世話しなくてはいけない生徒が立っていた。ピンクのキャミソールに、ホットパンツ。生足がスラリと伸び、マセた印象を持たせる。

「黛、千尋だ」

 自己紹介をしながら足元の雑誌を拾い、テーブルに投げ戻す。

「先生も興味あるんですか? そう言うの」

 "先生"と呼ばれるのに慣れない黛の意識は、不思議な感覚に揉まれる。しかし、早急に少女の誤解を訂正しなくてはいけない。――そう、オレは雑誌に夢中になってなんかいない。文字の羅列に目を通していただけなのだ。

「ソレはコッチの台詞だろ」

 エッチな雑誌を所持しているのが恥ずかしいのか、目の前の少女は「だって、読んでたのは先生じゃん!」と責め始める。

「持ってんのは、ソッチだ」

「違う! 友達から借りたの!」

 お決まりの言い訳で応戦する中学生は、絶対に退かないだろう。利にもならない言い争いが面倒になった黛は、早速本題へと入った。

「……何が苦手なんだよ」

 腕を組み相手を眺めると、後ろ手にモジモジし始めた少女はボソリと呟いた。

「……女の先生にしてって、お願いしてたの」

「は?」

 微妙ながら眉を潜めた男は、目の前の少女の文句に困る。投げ掛けた質問に対し、明後日過ぎる答えが返ってきて困惑したのだ。

「男の先生が来るなんて、聞いて無いんですけど!」

 少女はそう吠えた。八つ当たりに似た威嚇へ、年上である黛はたじろいでしまう。

「い、言われたから来ただけだ」

「……どうせならイケメンが良かった!」

 軽いジャブを喰らい、心の中で「クソガキが」と悪態付く黛千尋は、感情を面には出さず大袈裟に溜め息を吐く。そしてローテーブルの前のクッションに、片膝を立てて座った。

「不細工とでも、勉強は出来んだろ?」

「別に、そんな事は言ってないじゃん」

 投げやりで自虐らしい台詞を吐かれ、なまえは戸惑った。不細工とは言っていない。イケメンでは無いと攻撃しただけだ。女の子らしく唸った少女は、テーブル挟んで黛の正面に正座をする。

「何でも良いから、苦手な教科を言えよ」

 視線を下げて履いている靴下を眺めながら、黛は業務を始めた。地頭はそこそこ良い。秀でて良くは無いが、高校受験の範囲なら教えられる。こう見えて現役合格の大学生だし、バスケットボール日本一の強豪校で倍率の高かった【洛山高校】にも、一般入試で入れた。

「…………数学」

 なまえが苦手科目を口にすると、黛は教師らしく勉強の指示を出した。

「教科書と、参考書出せ。問題集あんならソレも」

 家庭教師と言っても、ただ付き添って分からない部分を解説してやるだけだ。頬杖付いた大学生は、難しい顔をして勉強をする女子を眺める事しか出来ず退屈する。優秀な生徒らしく、質問が一切出ない。次回からは本を持って来ようと、暇潰しの方法を考えている途中……なまえが疑問を投げた。

「――先生さ……彼女居るの?」

 普段からポーカーフェイスの男は、挙動が不審になる事無く質問に答えてやる。

「そのページ解けたら、教えてやるよ」

「居ないでしょ?」

 目線だけを少女に向けると、相手はニヤニヤしていた。指をクロスさせ、その上に顎を載せる仕草はまるで大人の真似事だ。

「だから何だよ」

「今まで一人も居なかったの?」

 大将首を討ち取ったような表情で、なまえは更に突っ込んだ話を始めた。下らないと言いたげに、黛は口を開く。

「目立つような人間じゃ無かったからだ」

 ふぅん……? と囁き、家庭教師の特徴を捉えたいなまえは馴れ馴れしい口調のまま四つ上の黛を嘲笑する。

「だからあんな本、夢中で読んでたの?」

「夢中じゃない」

「こうやって読んでたじゃん」

 参考書を顔の前まで近付け黛の真似をしたなまえは、多少の脚色を加えながら男を馬鹿にした。

「読んでねぇ」

 男の口調が少し荒くなる。指先でテーブルを叩き、苛々を逃がし始めた黛へ、首を傾げ大人の女性ごっこを始めたなまえは問う。

「…………キスした事も、無いの?」

 なまえは、黛に向かってグッと身を乗り出した。わざとチョイスしたのか、キャミソールの胸元は開け広がり、ヘソ元まで見える。勿論、その間にある発展途上の乳房も、重力には逆らえずに存在を主張する。胸の先は色が薄茶色……――。

「――どこ見てんの?」

 薄紅色の唇が、色気付いた声を出す。誘惑に負けじと、毅然とした態度を見せた黛は女子を叱咤する。

「大人をからかうな」

「……触っても、良いよ?」

 いきなり始まった誘いへも動揺せず、"話の通じない相手"だと悟った黛千尋は、テーブルを拳で叩いた。

「――勉強する気ねぇなら、帰る。居るだけ無駄だからな」

 そのままリュックを掴み肩に掛けた家庭教師の男は、腰を上げ帰宅の意思を見せた。ソレに慌てたのはJCのなまえで、自らも立ち上がり黛の前へ立ち竦む。中学生の平均身長程しかない彼女からしたら、男の高さは驚異である。

「試しただけじゃん……。先生が安心出来る人間かどうか」

「あぁ、そう」

 黛の口からは『貴方に興味などありません』と、少女を突き放す台詞が飛び出す。

「先生が帰ったら、お母さんに怒られる!」

「あぁ、そう」

 呆れられたと気付いたなまえは、キャミソールの胸元を強く握る。

「だって不安じゃん! 男の人と二人きりなんて! 先生は大人だし…………その本にも、そういう話載ってたし」

 言い訳を並べ始めたなまえは、やり過ぎを反省したのか鼻を啜った。だから、男は冷静になれた。

 ――この位のガキは、大人が相手だと優位に立ちたがるんだ。冷めた表情のまま少女を見下す黛は、薄い口を開く。

「帰って欲しくねぇなら、真面目に勉強しろよ」

 ……生憎オレは、ガキに舐められるような性格してねぇんだよ。

 そういう自信があるからこそ、強く出れる。黛千尋は狡猾だ。他人の動向を感じ取るのに秀でている。経験浅い中坊の考えている事なんか、簡単に把握出来るのだ。

「オレが手ェ出してたなら、親呼んでただろ」

 聞かなくとも、きっとそうだ。もしくは――脅しの材料にし、動揺する大人を見て愉悦に浸るかのどちらかだ。憎らしく、そして可愛い事を考えるモンだ。

「――……」

「そう言うの止めろ。自分を安く見せるだけだ」

「サイテー……」

 座り直した黛は、ご丁寧に自分の給料形態を、クライアントに話し始めた。

「時給1550円。生意気な中坊の相手を三時間するだけで4650円貰える。オレはこの賃金以上の働きはしない。無駄だからだ」

 凄い顔して睨まれるが、自分は好かれに来た訳じゃない。コイツが志望校へ合格出来るように指導しに来たんだ。

「さっさと勉強に戻れ」

「…………キスして」

 話を聞いていないのか、勉強とは関係無いお願い事をされ、黛は心の中で苛立ちを抑え我慢する。

「先に親呼んでおくか?」

「呼ばなくて良い!!」

 面倒臭いマセガキの相手は、骨折り損のくたびれ儲けだ。

「友達の中でキスした事無いの、私だけなの!」

 はぁ? と、接吻をねだる理由を聞き返す。ソレは余りに下らなく、勝手な理由だった。

「グループに居るには、キスしなきゃなの! 私だけした事無いなんてバレたら……仲間外れになっちゃうじゃん!!」

 "仲間外れ"と言う言葉に恐慌した黛は、意識が勝手に自身の学生時代を振り返り始めた。

 慌てて中止を申し立てても、もう遅い。彼の薄暗い記憶は、リバイバルを始める。


 ――良い事なんか何も無かった。友人とつるんだ事も無い。いつも一人で"本の世界"に身を置いていた。

 屋上が好きだった。だって……一番解放感があるから。学校は小さな戦場だった。武器も爆破も無い。失い、磨り減るのは己の自尊心だけ。誰も気付かない。誰も知らない。誰も気に掛けない。

 そんな自分の居場所に足を踏み入れ、声を掛けて来たのは……。あぁ、覚えている。忘れはしない。

 赤い髪の……――。


「――イケメンが良かったけど、我慢してあげる!」

 意識を、灰色掛かった空が広がる屋上から少女の部屋に戻した男は、動悸に胸が締め付けられる。深呼吸で意識を落ち着かせ、手のひらで目元を覆う。

「…………帰るわ」

「何で!? キス位良いじゃん!!」

「オレにメリットが無い! 利害関係が一致しないだろ!!」

 声を荒げた黛は、表情に怒りを見せた。イケメンで無い事へ憤りを感じた訳では無い。過去の自分が、今の自分に情けなく覆い被さってくるのだ。

「…………初めてなんだよ?」

 ……泣きそうな声で同情を誘うのが明け透けて、ムカつく。だから黛は素っ気無い台詞を返してやる。

「そうか、大事にしろよな」

「馬鹿!! ケチ!!」

 そう駄々を捏ね出すなまえへ、部屋の外から声を掛ける人物が居た。

「なまえちゃん? 先生にケーキ買って来たけど……紅茶で良いかしら」

 いつの間に近くに居たのか、ドアの向こうから母親の猫なで声が聞こえ、なまえはギクリとしていた。

「……置いといてよ」

 階段を下りるスリッパの音を聞いた少女は、ドアを開けて大きなトレイを抱える。

「ケーキあげるから、キスして」

 目の前に大きなショートケーキと紅茶を差し出される。交換条件のようだが、黛は無視してケーキにフォークを入れた。

「次回は、キスしてくれるイケメンでも希望しとけ」

「何でそんなにつまんなそうな顔するの!?」

 もてなしに顔を綻ばせもせず、無表情でティーカップを啜る。

「こういう顔なんだよ」

 薄く無感動な顔を野次られても、痛くも痒くも無い。そう言えば……中学の美術の時間、隣の席の奴が描いた自分の似顔絵は、のっぺらぼうだった。

「千尋って名前だけじゃん、可愛いの……」

 カチャンとソーサーにカップを戻し、黛は再びケーキを口に運ぶ。スイーツの感想も告げない無口な彼は、苺をわざと残す。しかし、その赤い果実はなまえが摘まんで口に含んでしまった。ほんの少し目を見開くと、やっと見せた表情の変化に少女は悪戯に微笑む。

「ねぇねぇ、キスしなくて良いから……ソッチ行って良い?」

 苺を失ったケーキを惰性で口に運び、黛は生徒に告げる。

「好きにしろよ、もう」

 どうにでもしてくれ、と自棄になった黛の元へ寄り――なまえは、胡座を掻いていた男の膝の上へ座った。

「……何でソコに座るんだよ」

「"好きにしろ"って言ったから」

 可愛らしい声を出し、胸元に擦り寄る姿は猫のようだった。さっきまで『男と二人きりは不安』と言っていた彼女は、何処へ行ったのやら……。

「母親呼ぶか? ケーキのおかわり下さい、って」

「呼ばないで! コレあげるから!」

 自分のケーキから苺を摘まみ、口元へ持って来た。口を開きもせずに固まった黛は、なまえの指に支えられた果物をただ凝視する。

 ――弄ばれてるのか? オレが? 中学生に!?

 口を結び、驚いたままで居ると少女は苺を食べてしまった。咀嚼の間、頬と唇が動く。その光景に、黛は少しだけ性欲を扇がれた。

 それでも黙っていると、人差し指で掬ったクリームを唇に塗られる。わざと眉根を寄せ嫌な感情を表面に出すのだが、相手はその変化に気付かない。それ所か、目を閉じて顔を近付けられ……――。

 気付いたら相手の唇で、自分の唇を優しく包み込まれる。

 黛千尋、十八歳。生まれて初めて女性とキスをした。

 保健体育の実習で変な人形にした人工呼吸を抜かせば、唇を重ねた経験は無い。手を繋いだ事もない。女子から話し掛けられるのも、年に片手で数えられる程度だった。――そんな男が、初めて会った年下の女とキスをした。中々離れない感触に、心臓が跳ねる。床に着いていた手をどうして良いかも分からず、彼は石になった。

 一度離れた唇が、再度付く。床から手のひらを剥がし、なまえの頬を撫でようとした時、目の前で咲いた中学生の笑顔に目を丸くする。

「ふぁーっ! コレがキスかぁ……!」

「は!?」

 膝から退けた少女は、口元に移ったクリームを舌で舐めとる。その動きにまた扇情された。

「何だ、こんなモンか。ユミちゃん大袈裟じゃんね?」

「……は!?」

 四つん這いのままハイハイで元の位置に戻り、正面切って笑顔を見せるなまえは、スッキリした顔をしていた。

「ありがとう! 先生!」

 なまえは、まだ中学生三年生だ。性の知識も浅い。キスと言われれば、唇を合わせる単純なモノを想像しても無理はない。あのいかがわしい雑誌は、何の意味も無かったようだ。

 呆気に取られた黛は、テーブルに額を打ち付けた。期待してしまった自分へ、激しく激情的な羞恥心が襲う。まだ心臓が跳ねている。顔を伏せ、明らかに挙動不審な顔を隠した。

 表情乏しい彼でも、いきなりのキスにポーカーフェイスを貫ける程、経験豊かでは無かったようだ。

 黛千尋、大学一年生。
 彼女いない歴=年齢。
 初キスの相手は、中学生だ……。