「……まぁたそのイメチェンか?」

 黛の前髪はカチューシャでバックに追いやられ、額を全面的に出していた。ソレを確認した火神は、ジロジロと舐めるように見る。少しだけ眉を怒らせ不快な表情を作った黛千尋は、躾のなっていないチームメイトに理由を教えてやる。

「前髪が邪魔になるからだ」

「だったら切れよ。女か、テメェは」

 男がナヨナヨして女みたいなファッションをするのに断固反対な火神は、自身の短い前髪をカットするような仕草をし、相手を批判した。黛だって馬鹿にされて黙ってはいない。ニヤリと口角を上げた色素の薄い男は、火神に好戦的な発言する。

「好きな女、寝取られたらな」

 噛み付くように唸った火神は、またしても氷室に攻撃の阻止をされるのだった。カチューシャ姿のまま肩を竦めた黛は、サッサとアリーナへ入って行く。歓声が無い事だけが、火神のフラストレーションを和らげた。

 アリーナ入口で待っていた笠松は、火神の首根っこを捕まえると質問を投げてきた。

「なぁ。青峰はパス回すと思うか?」

 ぶぅと口を突き出した火神は、襟首を捕まれたままに笠松へ返した。

「回さねぇだろうな。アイツが誰かに委ねるなんて、あり得ねぇだろ」

 火神は青峰を誰より知っていた。ソレは、プレイヤーとして性質が似ているからだ。火神だって自分がもしPGを任されたら、パスなど回さず自ら点を取りに行く。

「だったら、どうする?」

 手を離して腕を組んだ主将は、未だアリーナへ姿を見せない青峰を話題に出す。

「バックアップ用意しとけ。肩が限界なんだろ? スーパーエース様は」

 一番大きな歓声がアリーナに響いた。若々しい声援を盛大に受けるのは、たった今アリーナに姿を見せたスーパーエース様だった。

「ハーフなんてケチ臭ェ事せずに、オールで出すか?」

 余裕ぶった青峰は、細く鋭角な眼差しで笠松を貫いた。


 ………………………


 火神の復活は、チームに大きな貢献をもたらした。彼はディフェンスも得意とする。一対一ならほぼ確実にシュートを叩き落とせるのだ。ファールも一度出したのみで、出だしは好調。体調万全なエースが入った事により、激しいゴール下での攻撃を更に可能とした。紫原に付いていた二人のディフェンスは混乱する。結局、洛山の選手は内側へ入り込み氷室をフリーにしてしまう。葉山はベンチから立ち上がり、必死に指示を出していた。

「オレが居ると幸先良いだろ?」

 前半と後半のインターバル。息絶え絶えのスターティングメンバーは、渡されたドリンクを喉に通す。得点は【69‐26】で大きくリードした。やっと"大人対子供"らしい展開となり、メンバーの顔は和らいでいた。

「お前はすぐ調子に乗るんだな?」

 滴る汗をタオルで拭いた笠松は、夏用の薄いチームジャージを羽織り、後半戦出場しない意思を伝えた。それに代わって司令塔を勤める青峰は、ボンヤリと誰も居ないコートを眺めた。その横顔を指差し、笠松はオーダーを出す。

「青峰、お前はシュート打つな。今日は練習なんだから、パス回す事だけ考えろ」

「……テメェは監督じゃねぇだろ? オレに指図すんな」

 ジャージを脱いだ褐色肌の男は、置物のようにニコニコしているだけの監督に視線を流した。……そうやって座っているだけなら、白いスーツに身を包み、フライドチキン専門店の店先に立っていれば良い。

 ブザーが会場に響き、本日最後のクォーターが始まる。痛み始めた肩で、プレイの限界が"二試合"だと知った青峰は、こんな意気地の無い自分の身体を恨んだ。

「無茶はすんなよ?」

 火神が青峰の横に並び、センターサークルまでの歩幅を合わせる。

「じゃあ、お前にパスは出さねぇ」

 汗にまみれた両チームが揃う中、涼しい顔を崩さない青峰はジャンパーである紫原の後ろに立った。

 ――笠松の不安を他所に、青峰はオーダーを言われた通りにこなす。ベンチに座る控え選手は、天才は何をさせても天才だと実感して、嫉妬の感情さえ持った。……だが、青峰は徐々にフラストレーションを抱えていく。彼の理性と欲求の均衡は、砂の城のように儚く脆い。

 攻撃の為にハーフコートへ上がったPGは、周囲を見渡し即座に解析を始めた。頭に何通りかの筋書きが浮かぶ。考えなくとも脳が過去の戦歴をサーチし、弾き出してくれるのだ。ドコに出すのが正しいか……青峰は選定を始めた。しかし、ふと足が止まり、左手のドリブルだけが足元を揺らす。

 ……誰かにパスを出すのが、一番正しいのか? センター付近までオレが突っ切れば、簡単にシュート決められるだろ? 点を取る。――オレはその為に、バスケをしているんだ。

 そう判断を下せば、ソレが最善策な気がした。青峰は再度足を踏み出すと、内側へカットインを始める。やはり読み通り……スーパーエースは独りで戦うつもりだ。紫原と火神が慌ててフォローに入る。二人は近くに居るディフェンスの進路を身体で止めた。

 センターサークルまで入り込んだ青峰は、自身のディフェンサーにマンツーマンを仕掛け、見事に抜き去る。彼からすれば、素人ひとりを抜くのは朝飯前だ。そのままシュートへ持ち込む――寸前に、背後からのカットを恐れた青峰は左手のボールを右手で持ち変え、ダンクを決める。その一瞬で魅せた鮮やかな動きに、会場のギャラリー全員が感激した。

「馬鹿野郎!!!」

 立ち上がり叫んだ笠松の怒号も虚しく、片手でリングを掴み体重分の重力に引っ張られた青峰の右肩は、ギチギチと悲鳴を上げた。僅かな痛みが腕の神経をよじ登る。

「あ゙ああぁぁぁ!!!」

 着地し痛みを咆哮で誤魔化した青峰は、目に入る汗をまばたきで払った。叫ぶ度に顔面は僅かに震え、ライトに照らされた汗が周囲に散る。

 ユニフォームの背を派手に濡らす青峰は、右肩を抑えたい弱さを必死に隠した。笠松はタイムアイトを催促し、主審が笛を鳴らしジェスチャーを取る。

「何考えてんだ!! 青峰!! お前はシュートに行くなって言っただろ!!!」

「じゃあどうしろって言うんだよ!!!」

 汗を撒き散らして青峰が反抗した。顔に纏う多量の汗を手のひらで拭った青毛の男は、尋常じゃない程に皮膚が濡れている。ソレは、身体が明確に"不調"を訴えているのだ。

「……氷室が居た。お前がパスで誘導して、フリーを作るんだよ」

「まどろっこしいだろ!! オレが行けば早い!! 五秒で決めただろ!?」

 二人の言い争いを聞いた黛は呟く。彼は、腰掛けたまま前方だけに視線を送っていた。

「肩を壊してまでも、五秒を大切にする気か?」

「っるせぇ!! 外野は黙ってろ!!」

 青峰は怒りを黛にぶつけ、オーバーヒートする感情を露見更にさせた。

「"シメンソカ"だな、青峰」

 空のドリンクボトルを床に放り投げながら、火神は笑う。その耳障りな程楽しそうな声に逆撫でされた青峰は、醜い八つ当たりを始めた。

「テメェがもっと外に出てりゃ、左手でシュート出来たんだよ!!」

「オレのせいにする気か? スーパーエース様よォ?」

 歪んだ笑みを戻さない火神は、『全てを奪う』と恐喝して来た青峰を嘲笑う。――奪えるモンなら、奪ってみろよ。そう言いたくて、火神の表面上には笑いが漏れた。

「なんにせよ、青峰はベンチに下げた方が良いです。コイツは駄目だ」

 パスとシュートは肩のモーションが違う。確実に痛めるのは後者だ。シュートを始めた青峰は、更に自分で得点を重ねに行くだろう。チームのバランスも考えずに……。

「……駄目って何だよ? だったらゴール下を三人にしろ! オレはポストプレイがしてェんだよ!!」

 息を荒くしたまま青峰は抗議を続ける。彼は、底を見られるのが嫌いな人間だ。誰かに自身の限界を決め付けられるのが不快なのだ。青峰大輝を『駄目だ』と決断するのは、青峰大輝自身で有りたい。

「オレはまだ出来んだよ!! テメェが駄目とか決めんじゃねぇよ!!!」

「肩がもう駄目なんだろ!!?」

 笠松が怒鳴った後、タイムアイト終了のブザーが鳴り響く。羞恥と憤りと、哀しみと失望と絶望が青峰を襲った。笠松は乱暴にジャージを脱ぎ、ユニフォーム姿になるとコートへ足を進めた。他にメンバーの変更は無く、四人も後に続いた。

 紫原だけが、ベンチから動かない青峰の表情をチラリと確認する。汗にまみれ無表情のスーパーエースは、椅子に掛けていたタオルを掴むと、フラフラと歩き出した。右肩を掴む左手が震え、痛々しかった。





 電光掲示板は、第三試合の結果を【117‐50】と伝えていた。火神大我一人入っただけでこの結果だ。やはり彼の実力は、モンスター級だと知らされる。高い位置に掲げられた数字を見た葉山は、溜め息を付いて背後に立つ黛の方を振り向く。

「ベストメンバーはキツイよ」

「ベストじゃねぇだろ? 一人駄目になった」

 苦い顔をした黛は、試合も途中に姿を眩ませたスーパーエースを話題に出す。もし青峰大輝がベストコンディションだったら、百点差も有り得たかもしれない。火神が怪物なら、あの男は魔王だ。葉山は何も言わずに、ただ結果だけを眺めた。

「黛サン。まだソレ、やってるんだ」

 負けず嫌いな葉山は、話題を逸らすのに黛の額を指差した。先程と変わらず、カチューシャで前髪を上げていた。ソレは一緒に戦っていた高校時代にも、練習試合の度に見掛けた光景だ。

 黛は、赤司に命令されたからやっていただけである。最初は女みたいで嫌だったけど、前髪を上げる意味を知ってからは練習試合は必ず額を見せていたのだ。

「……赤司の征ちゃん、何してんだろうね?」

 葉山が赤司の所存を口にした。未だに忌々しい過去を拭いきれていない黛は、その名に不快な顔を示す。

「興味無い」

 並びのキレイな歯を見せた葉山は、自分より少し背の高い黛の背を叩いてケタケタ笑った。

「本番頑張って! 観に行くから。レオ姉誘ってさ」

 痛む背の熱から葉山らしい応援を感じた黛は、少しだけ口角を上げる。

「根武谷は仲間外れか?」

「アイツは隣で牛丼食いそうで、恥ずかしい」

 わざとらしく曇った顔をした葉山は、根武谷永吉のデリカシーの無さを野次った。でも中国戦当日は、三人並んで観戦するのだろう。

 再び電光掲示板を眺めて少しだけ切なそうな顔をした葉山を背に、黛はアリーナから退場した。カチューシャ外して、頭を数回振り前髪を下ろしながら。


 ………………………


「青峰、先に帰るってよ。手紙あった」

 荷物を全て駅前のホテルに置いて来た火神は、荷造りをする必要が無く、すぐに笠松の部屋へと戻って来た。歪で下手くそな字が並ぶメモ書きを手に。

「オレをリスペクトしたか? あの野郎」

 彼の笑えない冗談は、笠松に肩パンされ終了した。いきなりの暴力に口をとがらせた火神は、走り書きを主将に渡す。

「……今度は青峰かよ」

 スーツのネクタイを結ばず肩から垂らしただけの笠松は、手にしたメモを見て深い溜め息を吐いた。そう言えば代表に選考されてから、笠松の溜め息の回数は多くなったような気がする。

 同室の黛は未だに姿を見せないが、荷造りは済んでいた。まだアリーナで葉山と会話でもしているのだろう。そんな彼等だけの部屋に、胸にタブレットを抱えた選手兼マネージャーが入って来た。

「朗報です。中国戦が延期になった」

「は? 何で?」

 大きな目を見開いた笠松は冗談にしか聞こえず、頭の上にハテナを飛ばした。マネージャーはタブレットを操作し、今しがた届いたメールを二人に見せて説明した。

「中国スタッフの中に最近アフリカへ行った者が居て、高熱を出したそうです。全員アッチで隔離されてる」

 このタイミングで"ある感染症"の疑いを持たれた者が居るようだ。メールには該当のスタッフは直ちに隔離され、現在検査結果待ちだと記されていた。会場に中国代表が居たとなれば、彼等はどうなのだろうか?

「「選手は?」」

 笠松と火神がタブレットから目を離し、マネージャーを見て口を開いたのは同時だった。

「さぁ? どっかに集められているでしょう。該当のスタッフとの接触は無いと思いますが」

 延期の期間は最短で三日。タブレットを返した笠松は、また溜め息を付いて両手で顔を拭う。

「……何にせよ、助かった」

 青峰の肩が駄目なら、日本代表は終わりだ。火神が輝きを取り戻したとは言え、現状"紹豹孚"へ太刀打ち出来るのは、あの青峰大輝しか居ないのだから……。

 いざとなったら、ポストプレイを任せる気でも居るが、もうフォームレスやダンクシュートは無理だろう。見せ場を奪われて淡々としかシュートを打てない状況が、青峰にどれだけのストレスを与えるか全く読めない。そして苛立ちに負けた彼は、また暴走するのだろうか。

 青峰は最強のプレイヤーだ。だが自惚れと慢心が強い。肩を壊しつつある今、ソレが一番彼を苦しめていた。





「……青峰さん、お疲れ様です」

 タクシーで最寄り駅に降り立った青峰を労ったのはなまえだった。彼女の格好はさっき試合を観戦した時のままで、急に入った連絡の為に制服のまま急いで駆け付けたのだ。運動と暑さのせいで肌が汗ばみ、手をうちわに必死に火照る顔を扇いだ。

「クタクタですか? 疲れてる」

 雑にスーツを着た青峰は、タクシーの運転手からキャリーバッグを受け取り、グッタリした顔を見せた。シャツの裾がパンツスーツからはみ出し、ジャケットもボタンを外したまま。ネクタイも適当に緩められてガサツな印象を持たせる。それでも色気があり格好良く見えるのは、日本人離れした体型のお陰だろう。

「三試合もすんの、久々だからな」

 スーツの腕を捲った青峰は、両手で顔を擦って疲弊を和らげようとする。そのまま顔を隠した男は、独り言のように呟く。

「……オレ、もうバスケ出来ねぇかも」

「昨日も聞きました。その台詞、違う人から」

 彼の代わりにキャリーを引きながら、なまえは昨日の出来事を思い出す。平凡な彼女は、代表と云う重荷がどれほどのモノなのか分からない。必死に戦い絶望し、嘆いた火神の姿がフラッシュバックした。

「……オレは違う。肉体的な理由だ」

 青峰は肩を押さえた。今は痛みこそ無いが、きっと負荷を掛ければすぐに悲鳴を上げるだろう。たった一本のダンクシュートであのザマだ。ひょっとしてひょっとすると……スコアラーである道は、閉ざされてしまったのかもしれない。

「こんな日は、女遊びでもすっかなァ?」

 全てを投げ出し忘れたい青峰は、こんな時の遊び方を知らない。結局、温かい人肌を欲しがるだけなのだ。シャツの胸元を掴んだなまえは、苦しそうに顔を歪めた。

「お前も来るか? ウチに」

 そんな彼女に、青峰は帰路と一晩のお共を提案する。温もりさえあれば、誰でも良いのだろう。本物も偽りも、きっと彼には関係無い。

「……私も、一緒に女遊びするんですか?」

「お前が来れば、金出して女呼ばなくて済む」

 青峰はわざわざデリヘル呼ぶよりも、身近な女で済ませるつもりらしい。なまえは、性処理の道具にしかなれない己を悔やみ恨んだ。

「大人って、酷いですね」

「来たくねぇなら、来んな。二万払って女呼ぶだけだ」

 少女は、キャリーバッグの持ち手を強く握る。まるで差し出され掴んだ青峰の手を離さないように。

「……それは駄目」

 答えを聞いた男はニヤリと笑みを作ると、財布から万札を一枚取り出した。

「切符買って来いよ。二枚」

 ソレを少女に向かって突き出し命令をするのだが、キャリーと制服を握ったままのなまえは動かずに要望を告げた。

「一回ウチ帰って、準備したいです」

 彼女の意見を無視した青峰は一万円札を無理矢理なまえの胸元へ押し付け、ついでに膨らみを揉んで悪戯に唇で弧を描いた。

「駄目だ。オレは早く帰りてェ」