「大丈夫だ。変な事する気ねぇよ」

 ビジネスホテルのツインルームへ入室した火神は、ネクタイを緩め上着をベッドに放った。なまえは鏡台の前に立ち、赤毛の男から距離を取る事しか出来ずに居る。

「昨日は、青峰と会ったのか?」

 少女は火神を見て、すぐ顔を反らした。図星なのだろう。男の胸中は嫉妬心で焼けた。

「いや……。別に怒る気はねぇよ?」

 努めて良い兄役を目指す赤毛の男は、ワイシャツを脱いで肌着代わりのタンクトップを見せた。

「だけどなぁ、良いのか? なまえ……。お前また傷付くだけだぜ?」

「傷……付く?」

 顔を上げ視線を交わしたなまえは、瞳を揺らして明らかに動揺を見せた。

 ――教えてやれば良い。青峰が何故昨日『迷惑だ』とまで言い放ったなまえを迎えに行ったのか。理由を知らせてやれば、少女は青峰へ不信感を持つに違いない。

 火神の考えるソレは、恐ろしく打算的で、最高に醜い手段だ。

「何でもねぇ。コッチ来いよ」

 タンクトップを脱いで上半身の裸体を晒した火神大我は、逆三角の瞳で一人の女を貫いた。


 ……………………


 八月二十六日。火曜日。

 しばらく晴れの日が続き、人々は復活した暑さに茹で上がりそうになる。そんな在り来たりな日に、日本代表の親善試合が開催された。近辺の中高生は長い山道を走り、抽選に受かり他県から観戦に来た生徒達はバスで会場へ向かう。今日の試合は、中高校生の為の余興みたいなモノだ。

 ちなみに佐久間は前者で、アスファルトから茹だるような熱線を感じながら山道を走る。一年生は一番後ろで、レギュラーである彼も今回ばかりは学年を優先させられた。

 走りながらに肩を叩かれた佐久間は、怪訝そうな顔で馴れ馴れしい友人を睨んだ。しかし相手は遥か下の道路を指差し、こう耳打ちをする。

「……洛山。来たよ」

 エンジンの音を響かせ、大型バスが三台コチラへ向かって来る。フロントガラスの右上には【洛山高校】の文字が見えた。悠々と登る鉄の箱を、疲弊した県内の部員達が恨めしそうに眺める。

「……流石日本一だ」

 額から垂らした汗を拭う佐久間は、楽して施設へ向かう彼等を憎んだ。そんな風に怖い顔をした少年の肩へ遠慮無く腕を置いた友人は、ウキウキした声を出す。

「青峰大輝が好きなんだ、俺。ナマで見れる」

 息切れしながら友人は、施設で待つ国内スーパーエースの名を出した。

「あぁ、そう……」

 佐久間の脳裏に浮かんだ昨日の光景。少年はその後、なまえが気になり駅前へ向かった事を後悔した。

 何故、元彼女とそのスーパーエースが夏祭りの日に待ち合わせをしていたのか……。タクシーで姿を消した二人の行き先は、金を貰っても知りたくは無い。





「黛サン、久しぶり」

 ソコがアリーナであっても、何時もの様に読書をたしなむ男が顔を上げた。黛の前に立っていたのは、何年も前にチームメイトだった男だ。相手は猫のように爛々とした目を嬉しそうに細めるのだった。

「……葉山」

 薄い声で名前を呼ばれた元・無冠の五将は、旧友へ懐かしさを混めた言葉を掛けた。

「結局、バスケの世界に残ったのは黛サンだけかぁ」

 少しだけ苦々しい顔をした葉山は、遠回しに黛千尋を持ち上げた。彼も中々に負けず嫌いだ。片や日本代表。片や高校生の引率……。どちらの方が社会的優位に立っているかなんて、言わなくとも判る。

「オレはさぁ、コーチの方が向いてるみたい」

 しかし、葉山はそう言いながら嬉しそうに口角を上げた。昨年、大学の教育実習で母校を訪れた彼は、そのまま今日まで超強豪校のコーチを任された。恐らくは、来年から洛山高校へ体育教師として赴任する。

 そんな近状を聞いた黛は、栞を挟みライトノベルを閉じた。そして表情変えずに呟く。

「――そうか。なら、良い……」

 変わらぬ薄い態度も気にしない葉山は、周囲を見渡した。代表選手の、レギュラー達はまだアリーナへ姿を見せない。唯一居るのが、黛千尋だけだ。

「赤毛は? あの……名前、何だっけ」

 その問い掛けに小さく笑いを漏らした黛は、すぐに真面目な顔へと戻した。葉山は恐らく火神大我と戦いたいのだ。今度は自分の育てたチームで。しかし、目当ての男は未だ姿を見せない。黛はそれとなく誤魔化した。

「お前の顔を見たくないみたいだ」

 その冗談を鼻で笑い飛ばした葉山小太郎は、自信あり気に宣戦布告をした。

「――まぁ、すぐ引っ張り出すけどね?」

 葉山はコーチになった。それも、教え子から信頼される素晴らしいコーチに違いない。教えるのが上手いかどうかは別として、ムードメーカーは必要だろう。彼のその余裕に乗っかり、黛も宣戦の言葉を返した。

「どうだろうな? 葉山」


 ……………………


 ――火神大我は走った。直射日光が肌に刺さり、熱気で肌を焼く。ワイシャツと荷物はホテルに置いて来た。彼はタンクトップのまま、長い坂道を走った。タクシーを掴まえる時間さえ惜しかった。時計で時刻を確認すると、もう一試合目が終わる時間だ。日は高くまで昇り、火神に色濃い影を落とす。

 口の中に鉄の味が広がった。ストレッチもせず、荷物置きの為だけに宿泊延長の手続きをした赤毛の男は、かれこれ二十分は走っている。コレを贖罪と言ったら笑われるだろうか? とにかく、火神は長い坂道でひたすらに足を動かした。


 ……………………


「……逃げたって、代表からですか? それとも合宿から?」

 八月二十五日の事だ。広いベッドになまえを組み敷いた火神は、そう聞かれて答えに詰まる。合宿から逃げるイコール代表から逃げる事だ。

「……判んねぇ。この先どうしたいかも……。そもそも、行き先なんかあんのかよ?」

 青峰は彼に『弱い人間に行き着く先など無い』と告げた。アメリカも、果たして日本代表から姿を眩ました男を拾う余地はあるのだろうか? そう考えた火神は、自身の浅さにゾッとした。青峰大輝は、強者なだけで無くバスケにも詳しい。

 火神は頭を撫でられた。愛しい相手が下に居るのに、性欲が全く湧かない。深い悩みがチンケな煩悩を打ち消した。絶えず男の頭を撫でる少女は、やはりアドバイスすらしない。小さな手が後頭部を滑るだけなのに、ソレが男の内部に安心を生んだ。





「……十七点差、か」

 午前に組まれた第一戦を終え、食堂に集まった代表選手は全員が俯き、端から見ればまるで通夜会場だった。

「高校生相手に、これだけかよ……」

 笠松は額に手を置き項垂れた。スコアシートは【98―81】を記しており、98点の殆どが青峰と紫原だった。次から相手は二人を徹底的にマークするだろう。そうしたら点差は更に縮まる。

「ディフェンスが弱い」

 笠松の前から忌々しいスコアシートを拐った氷室が呟いた。彼の発言は最もで、言い変えれば『高校生相手に81点も許してしまった』となる。由々しき事態だ。

「監督、何も言わなかった」

 アイスを舐めながら紫原はそうぼやく。代表の監督は、ニコニコしながら試合を眺めるだけだった。『好きにやると良い』そうだけアドバイスを残し、あとは全てを選手に任せていた。

 今回後半戦から出場した安達は、惨めな結果を誤魔化そうとする。

「ベストメンバーじゃ無かったし、仕方ないだろ」

「お前……本気でそう思ってんのか?」

 腕と足を組み鼻で笑った青峰は、発言者である安達へ軽蔑した視線を送る。その偉そうな座り方や年上への言葉遣いを注意しないのは、彼がチーム内で最強のプレイヤーだからだ。先程の試合……青峰大輝は前半の出場で、総得点の四割を決めていた。つまり、スーパーエースが出なかった後半から日本代表は失速した。

「青峰、止めた方が良い」

 氷室が青峰の発言を止めようとした。しかし、彼はそんな命令で止まる男では無い。引き続き肩を震わせ、笑いを堪える。そうやって、安達と云う選手を挑発し出した。

「……中国戦までに一人でも怪我したら、ベストメンバーじゃなくなるんだぜ? そしたらテメェらの出番だな?」

 顎でレギュラー以外の選手を指した青峰は、言葉と事実で彼等を追い込んだ。代表するかのように安達は立ち上がり、青峰を睨む。

「そん時負けても、その台詞言う気か? インタビューで」

 安達は「違う」と言うのだが、そのか細い声では説得力が無い。悪戯に青峰を付け上がらせるだけだ。

「下らねェ言い訳考える前に、少しは無い頭使えよ」

「言い過ぎだ」

 黙って聞いていた笠松が口を開き、刺すような目線を青峰へ送った。そんなモノにも怖じない青峰は、立ち上がりカウンターに備え付けられたクーラータンクへ向かう。

「心まで弱くなったら、恥晒しに行くようなモンだな?」

 彼はタンクからグラスにスポーツドリンクを注ぎ、そんな独り言を呟いた。ソレも室内の全員に聞こえ、挑発の材料になる。安達は我慢の限界だと拳でテーブルを叩いて威嚇した。

 ――だが、乱闘は起こらなかった。それは、このタイミングである人物が食堂に姿を見せたからだ。青峰は仰天した顔で、飲もうとした手を止めた。

「……遅れ……いや、あの……スミマセンでした」

 流れ出る汗を拭きもせず、その男は入口に立つ。タンクトップは水浸しに近く、顎からは玉粒の汗が滴り床に落ちていた。食堂に居た全員がその人物を見て固まる。まるで幻影を見ているかのような呆気に取られた表情だ。一人だけ表情変えない人物が居た。ソイツは読んでいたライトノベルをテーブルに伏せ、脱走者を睨む。

「何しに来た?」

 火神は部屋の中央へ足を運ばせた。瞳に宿る炎は消えず、意思の強さを見せる。他の選手達を代表するかのように、黛は彼に苦言をぶつけた。

「……どの面下げて、戻って来たんだよ?」

「コートに立たせて欲しい」

「舐めてんのかよ!!」

 テーブルを叩く音と、咆哮が部屋に響く。静まり返った部屋に消えたその怒鳴り声は、他でも無い。立ち上がった黛の口から出ていた。

「コッチがどんな思いして、この場に立ってんのか……!! お前に分かるか!?」

 怒鳴りに慣れていない黛は、喉を押さえて咳き込む。それでも影の薄い男は喋り続けた。声量は落ち、咳にまみれた言葉は火神を攻撃する。それでも赤毛の男は気迫に圧されず、顔を上げたままだ。

「潰れました。ツラいです……って、お前……今まで何人潰して来たと思ってんだよ……」

 黛は火神の行動にイライラしていた。何故か、数年前の自分が重なる。たった一回の敗戦と共にバスケの世界から逃げ、その姿を元チームメイトに誹謗された。……一緒じゃないか。だから簡単には許せないんだ。

『……黛サンさぁ、自分だけがツライとか思って無いよね?』

 ――勝てずに信頼を失っても、コートに立たなくてはいけない人間が居る。葉山にそう言われ、初めて己のを情けなさを知った。苦言を告げた葉山小太郎は、きっとこんな風に自分を見ていたのだろう。読書をたしなむ割りに愚かな彼は、本当は経験でしか理解出来ない人間なのだ。

「また喧嘩ぁ?」

 その場から退出しようと歩き出した紫原を、丁度近くに立っていた青峰が止めた。手首を掴まれた紫原は、青毛の男に下らなそうな視線を向けた。

「耳に痛くても聞けよ」

 中心になっている二人から視線を外さない青峰は、紫原にそう告げた。――紫原は喧嘩が嫌で逃げるのでは無い。黛の言葉から逃げようとしているのだ。青峰大輝だって、本当は逃げたい。彼も強者だからだ。

「強い奴は良いよな? テキトウやったって、頼めば元の場所に戻れる」

「テキトウって……そんな訳無いだろ?」

 火神を代弁したのは氷室だった。彼は大事な幼馴染みを馬鹿にされ、怒りを必死に我慢している。そんな兄貴分に目配せをした火神は、口を開く。

「……あぁ、その通りだ」

 火神の発言に怒った黛は、ライトノベルを掴んで投げた。脱走者の身体に当たったソレは床に落ち、軽い音を立てる。それでも怒りが収まらない黛千尋は椅子を掴むが、氷室が慌てて静止した。一触即発な雰囲気に室内は騒然とする。誰かが「……もう駄目だ。このチーム」と呟いた瞬間、ある男が動いた。

「いい加減にしろよ!!!」

 テーブルを拳で叩いた笠松は、立ち上がり火神と黛の元へ向かった。顔面は怒りに満ちていて、太い眉が吊り上がる。

「火神!! お前自分が何したか、本気で判ってんのか!!?」

 まず笠松は、逃げて周囲に迷惑を掛けた火神を怒鳴った。叱られた男は何も言わない。

「なぁ!! 誰も信じない奴を、誰が信じるって言うんだ!!? そんな奴にエース任せられるか!!?」

「……スミマセン……っした……」

 言い返す言葉も思い付かず、火神は目の前が潤むのを感じた。目頭が熱い。それでも泣きたくない男は、上を向いて目尻から溢れるのを防いだ。

「今までの実力程度で一軍に戻して下さい、なんて甘えた事言えねぇ立場だぞ!!? 自分で自分の首絞めてんだよ!! 判ってんのか!!?」

 唇噛んだ火神は、顔を真っ赤にさせていた。笠松の言葉は重い。主将と云う役割を背負った男は、誰よりもプレッシャーの下に居るからだ。

「今日一日で、這い上がって来い。自分のした事だ。何とかしてみせろ」

 そう言って火神から目線を外した笠松は、反対側を向いて今度は別の人間を叱咤する。

「黛! お前、コイツ居ないでどうやって紹豹孚止めんだよ!! 止められんのか!? お前が!!」

 黛も、その問い掛けに言い返せない。絶対無理だと判っているからだ。体格差が有り過ぎる。中国のスーパースターはNBAイチのプレイヤーでもある。たかだか日本で燻っている程度の人間、相手にもならない。またも立ちはだかる弱者と強者の壁は、きっと永遠に乗り越えられない。

「黛だけじゃねぇよ!! ココに居る奴で紹を止められる自信ある奴居んのか!!?」

 笠松は、周囲の選手を怒鳴る。誰一人手を挙げないし、名乗り出る人間も居ない。もしこの場に対等に戦える人間が居るとしたら、たった三人だろう。ソレすら不明瞭で、勝てると胸を張って言えない。

「火神と紫原使って、やっと対等なんだよ!!! お前ら誰と戦ってんだよ!!!」

 怒号が震え出した。笠松は目元を押さえながらも説教を止めない。

「オレは勝ちてぇから代表選手やってんだよ!!! 何の為にコート立ってんだよ!!」

 誰も何も言わない。数十名の視線は全て笠松幸男に向いていた。だが、彼の目は誰も映していない。何故なら、視界がぼやけて何も見えないからだ。笠松が瞬きをすると、数滴の涙が溢れた。

「戦う相手、間違ってんじゃねぇよ……!」

 小さく泣きながら机に伏せた笠松は、胸に抱えた想いをぶちまけてしまった。男はただ勝ちたいのだ。勝利こそが自分に与えられた使命だからだ。代表選手とは、選ばれたから偉いのでは無い。他国に勝てるようになって初めて偉いと評されるのだ。大半の人間がソレに気付けないのなら、チームが弱くなるのも当然の結果である。

 説教の後には静寂だけが続いた。タイミング良くやって来た通訳の男性は、入口から選手達へ声を掛ける。彼は、火神が居る事や笠松が泣いている事に驚きもせず指示を出した。

「後半戦、始めます。タイガー、早くユニフォームに着替えて下さい。選手は五分後に、ココへ」

「ホラよ、火神。お前のユニフォームだ」

 カウンターに置かれた段ボールからユニフォームを取り出した青峰は、火神の場所まで足を運び差し出してやる。白目まで真っ赤な目で相手を睨んだ火神は、そのユニフォームを奪うように拐った。

 渡されたソレの背番号は7だ。エースの番号をただの飾りにしたのは、彼自身。しばらくユニフォームに書かれた数字を眺めた火神は、何も言わずに食堂を退出した。





 その後、部屋を出たのは黛千尋だけだった。彼は五分だけでも独りになりたくて、自販機のある休憩コーナーへと向かった。照明は消され、窓から入る僅かな日の光だけがその場を照らす。長椅子に腰を下ろし、両手で顔を拭う。笠松の言葉だけが頭の中で反芻される。

「何時からそんな熱血になったの?」

 角から葉山が姿を現した。彼は今の修羅場を聞いていたのだろうか。表情変えない黛は、声を掛ける。

「関係者以外、立ち入り禁止だ」

「知り合いに、会いに来たのに?」

 いけしゃあしゃあと理由を述べる葉山は、ドヤ顔で笑う。理由になっていないのに、堂々としていた。脳筋馬鹿は健在のようだ。

「怒鳴る位熱血な黛サン、見たかった」

 痛む喉から咳が漏れた黛は、もう怒鳴らないようにしようと決めた。葉山は自販機に硬貨を落とし、ミネラルウォーターのボタンを押す。

「スッキリした。あんがとね」

 渡されたペットボトルと素直な言葉に、黛は少しだけ口元を緩めた。