「よォ、どいつを送ってけば良いんだ?」

 朝イチにやって来た男は、茹だる真夏日の暑さにも負けない位元気で太陽のような人物だった。低血圧で朝に弱い青峰は、タンクトップにボクサーパンツと云う恥ずかしい格好。それに寝癖だらけの乱れた髪も気にせず、来客に応対した。

 洗濯機の中ですっかり乾燥まで終えていた自分の服を着たなまえが、素っぴんのままにワンルームから出ると来客は驚いた顔をした。

「女かよ!」

「しかも16歳だ」

「…………」

 軽蔑した眼差しを向けられた青峰は、眉を怒らせ自身にフォローを入れた。

「オレが誘った訳じゃねぇ」

「火神大我だ。よろしくな」

 青峰の補いの言葉も無視し、【火神大我】と云うこれまた身長高く筋肉質な男は、なまえへと声を掛けた。その返しに少女は深々と頭を下げる。

「こちらこそ、ありがとうございます」

 火神となまえはアパートの二階にあるその部屋を退室する。道路ギリギリに路駐されていた大きなステーションワゴンは、洗車されたばかりなのか日光が反射しキラキラ輝いていた。車も含め、火神大我の全てが輝いて見えた。感じの良いこの人が自分を泊めてくれていたら、少しは楽しかったのかもしれない。そんな失礼な事さえ考えてしまう。

 アパートから眠たそうな顔をした青峰が出て来る。ビーチサンダルにタンクトップ、七分丈のジーンズと云う完璧にやる気の無い格好だ。黒いTシャツにジーンズ、ゴツい金ネックレスで外人セレブのような出で立ちの火神と並べば、青峰の背中が丸まって見えた。

 褐色肌の男が、車の持ち主に二千円を渡す。それは県外までのガソリン代で、まるで彼女の父親である。

「いらねぇよ」

「途中、二人でメシでも食えよ」

「はァ? お前行かねぇの!?」

 だらしない顔のまま、眠気で開かないのか目蓋を閉じたまま青峰は頷いた。溜め息を吐いた火神は「信じらんねェ……」とぼやく。そうしてなまえをチラリと見ると、横で半分眠りこける青峰の胸元を叩き、乱暴に起こした。

「青峰。お前16歳の夏休み、何してた?」

「お前をボコボコにした」

 記憶をボンヤリ辿れば、夏休み前の試合で青峰との実力差を感じた赤毛の男はベコベコに凹み、アレックスに鍛えて貰う為渡米していた。

「確かにオレはお前にボコボコにされて、不貞腐れてたな」

 ヒヒッと笑った"その後の勝者"は、未だ寝惚ける敗者の丸まった背中を手のひらで叩き「じゃあな」と別れを告げた。青峰はなまえに声を掛ける事もなく、ジーンズに手を突っ込みアパートへと戻ってしまった。

 それは別れにしては呆気なく――迷惑だったのかな? と、なまえは不安気に肩を落とす。

「乗れよ、家出少女」

 親切心とは言え、知らない男と二人きりでドライブする事になまえは複雑そうな顔をした。出来れば青峰にも着いて来て欲しかった。後部座席に乗った彼女に、火神は最寄り駅を尋ねナビへと打ち込む。二人がシートベルトをしている間にルート検索を終えたようだ。

「何だよ、お前ん家ココか。高速使えば、一時間ちょいで着くな」

 満面の笑顔で後ろを向いた火神は、まるで優しい近所のお兄さんのようだ。そんなたった数回の笑顔を見ただけで、なまえは火神をすっかり信用してしまった。

 首都高速に乗ったワゴンは、スイスイと走り始める。高校生の彼女からしたら、車を運転している火神の姿は凄く大人に見えた。男からすればただハンドルを左右に切り、ペダルを踏むだけの操作なのだが、なまえはその余裕綽々な姿と、自分の為に車を運転してくれる事へ感動した。

 運転手から「メシどうする? お駄賃貰ったし」と聞かれたなまえは、眼下に広がる川辺を眺めながら半分寝ていた頭を起こした。

「寝不足か?」

「いえ! …………ハイ」

 目を擦りながら申し訳無さで頭を振る。それをバックミラーで見た火神は、苦笑いしながら「寝てろよ」と言ってくれた。

「青峰に変な事されたか?」

 車線を右側に移しながら、火神は彼女に問いた。

「へっ……変な事、ですか!?」

「あぁ、イヤらしい事とも言うな」

「何も! 何も無いです!!」

 その高校生らしい生娘のようなリアクションに、火神は笑った。なまえは両手を振り懸命に否定するのだが、それが更に生々しさを醸し出す。

「JKでも無理だったか」

「――え?」

 火神は真っ直ぐ前を向きながら、独り言のように呟いた。その言い方にはまるで【青峰大輝が性交の出来ない人間だ】と云うニュアンスが含まれているようだ。昨晩、行為を途中で取り止めたのは"己の行動の浅ましさを感じた為"では無く、そもそも"性行為が出来ない為"だったのかもしれない。

「青峰、アイツEDだからな」

 その疑問の答えは、すぐに火神が暴露してくれた。

「いー、でぃー?」

 聞き慣れない略称に首を捻ったなまえは、とある有名な宇宙人を頭に浮かべた。

「インポだ、勃起出来ない」

 その台詞の後にワハハ……と大声で笑った火神は、デリカシーも無く破廉恥で不様な事実を、ウブな少女に語り始めた。

「理由、笑えるぜ?」

「そんな事まで知ってるんですか!?」

「酔うとベラベラ喋る男だからな、アイツ。……ちなみに、理由は女にフラれたからだ」

 クックッと含み笑いになった火神は背を丸め、真に楽しそうである。その理由にポカンとしたなまえは、無意識に窓の外に広がる景色を眺めた。ジャクションも近く、螺旋のように絡んだ首都高の隙間から青々しい空が覗く。全てが色鮮やかに見え、隣の赤いスポーツカーが太陽の光を反射する。

 運転席から「……言って良かったのか?コレ……まぁ、良いか。青峰だし」とブツブツとした呟きが聞こえる。どうやらこの火神と云う男と青峰は、ある意味"遠慮の無い仲"のようだ。

 フラれた話をして寂しそうにした青峰の声を思い出す。自分には交際相手が居る。向こうから想いを告げられ、何も考えずに許可した。――もし交際を拒否していたら、あの人もあんな風に嘆くのだろうか……? 丁度そんな事を考え始めたその時、火神が口を開く。

「他の女じゃ勃たなくなる位誰かを好きになんのって、どんな感じなんだろうな?」

 その言葉について考えている内、少女は睡魔に襲われる。あんな堅物で愛想も無い男が身体に変調をきたすまでに惚れた女性とは、一体どんな人物なのだろうか?

 考えて浮かぶのは、今テレビで巷を騒がせている背の高くオリエンタルに綺麗な女優だった。あぁ……男がもう少しバシッと決めれば、きっと凄くお似合いだ。まるで映画やファッション誌の世界だ……――。


 ――身体を揺すられ起こされた時には、見馴れた場所へ到着していた。車から降りると、蒸し暑さに身体がダラリとした。運転席から出た火神も「暑ィ……」と顔を歪ませている。濃厚な影が男の逞しさをより強調させる。彫りが深い目元は暗く、火神と云う男性は顔付きまで日本人離れしていた。

「じゃあな、もう会う事は無ェだろうから元気でな」

 あっさりとした別れの言葉に寂しさを感じたなまえは、背中を見せた火神に声を掛けた。

「あの、二人の連絡先聞いても良いですか……? 青峰さんに、お礼言いたいし」

「オレから言っといてやる」

 歯を見せ爽やかに笑った男の笑顔には、夏がよく似合う気がした。

「…………ありがとうございました」

「やるよ。餞別だ」

 火神は彼女に二千円を渡した。受け取るのを拒否しても、男は強引に握らせた。ボンヤリ頭に浮かんだのは『これでまた青峰に会いに行ける』と言う事だった。最も、変に乗り継いだからまたあの駅までの乗り方を探さなくてはいけないが。

「もし彼氏居んなら、深く関わるのは止めとけ」

 彼女の考えを読んだかのように、火神は注意を促した。顔を上げ赤毛の男を見れば、笑顔のままに男は少女を言葉で突き放す。

「正しく子供の相手出来る程、オレらは大人じゃねぇんだよ」

 ――『大人じゃない』。その台詞が逆に大人らしく聞こえた。同時に子供扱いされた事に複雑な想いを抱えたなまえへ、男は最後にこう告げた。

「青峰だったら、絶対こう言うだろうな」

 火神は肩を竦めながらステーションワゴンに乗り込む。運転席からなまえに手を上げると、ハンドルを回しゆっくりと発進させた。

 駅に取り残された彼女は、肌に刺さるような直射日光、サウナのように蒸した空気、コントラスト強く明るく照らされた町並み、蝉の鳴き声を聞いて夏を実感した。

「…………子供の相手、かぁ」

 彼の言う通り、火遊びだったと思うのが一番なのだろう。夏は人を大胆にさせる、ただそれだけだ。熱に浮かされたまま彼と関わって火傷をするよりも、自分には素晴らしい世界が待っている。

 スマホを取り出した少女は、彼氏へメッセージを飛ばした。





 ――帰宅してあれから三日が経った。登校日でも無いのに制服に身を包んだ二人は、学校近くの公園で恋人らしい時間を過ごしていた。二人の間に僅かに距離が開くベンチ。それでも付き合いたての頃よりは、距離が縮まっている。

「……こないだは、ごめんね? 熱中症らしくて」

 彼氏はなまえにそう謝った。こういう所が大人びて見える。ソチラが悪い訳では無いのに、毎回謝ってその場を治めるのだ。

「悪いのは、私だよ?」

 未だ首筋に残るキスマークは絆創膏で隠した。髪の毛のお陰で、彼氏はソレの存在にも気付かない。約束の初デートは映画鑑賞だった。話題の恋愛映画を観たいと言ったのは彼女で、相手は興味もないのに了承してくれた。

「……デートってさ、何をしたい?」

 少女の質問に、優しそうな少年が答える。

「なまえちゃんと居られれば、幸せだよ」

「――お家で二人きりでも?」

 その台詞に、彼氏は手をピクリと反応させた。

「どういう意味?」

 彼の眠たそうに下がった目尻が好きだ。決してイケメンでは無い。でも身長は178cmと理想的で、スタイルも全体的に細長い。終業式前にクラスメイトから告白されたと恥ずかしそうに教えてくれた。

「……考えてる通りで、良いよ?」

「それは、早過ぎるでしょ?」

 ――彼氏は優しい。友人は皆口を揃えて『アンタには勿体無い』と言う。自分でもそう思う。夏休みだって、所属しているバスケ部の活動で忙しい筈なのにこうして時間を作ってくれる。

「大人は、そう云うデートをするって……」

 相手が怪訝そうな顔で覗き込む。二人の距離は近く、このまま唇を合わせてもおかしくは無い。――しかし、彼氏は何もせず顔を離した。

「……なまえちゃん、どうしたの?」

「…………ごめんなさい」

 そうとだけ答えたなまえは、頭の中に居続ける"ある男"が消えてくれない事へ罪悪感を覚えた。それ程に衝撃的な体験だった。

 ――きっとこんなに焦がれるのは夏のせいだ。会いたいのも、忘れられないのも、きっと全部夏の暑さが悪い。

「私! 明日からしばらくは東京に行くの!!」

 思い立ったように少女は大声を出した。そうだ――。もう一度会いに行こう。家族には友人と別荘で勉強合宿があると嘘を付こう。彼に会って、もう一度"刺激的な体験"をしてみたくなった。大人な世界へ混ぜて欲しくなった。

 こんな風に考えてしまうのも、全部全部全部夏が悪いのだ。

 彼氏は立ち上がった彼女の姿を見て「……え?」と、戸惑った。

「帰ってきたら、また連絡するね!!」

「あぁ、うん。俺も、部活あるし……」

 この優し過ぎる彼氏は知らない。なまえの決意が、自分を深く傷付けるモノである事を。

 彼女は若い。

 若いが故に正しい判断を知らない。

 恋が何かも知らない。

 モラルと云うモノを知らない。

 それは全て彼女が若く、経験が浅いせいだ。

 夏は、少女を大人にしたがる。





 決意した次の日、なまえは早速にも行動へ移していた。火神から貰った二千円と貯金通帳。そしてキャリーバッグに姉から無断で借りた物含め、お気に入りの衣服を詰め込んだなまえは、再びあの辺鄙で寂れた駅に立っていた。

 前回は怒りに任せ何となく乗っていた為に早く感じた電車も、目的地がある今は乗り継ぎ含め二時間弱も掛かっていた。――これが、あの人と自分の距離だ。年齢と一緒で、埋めたくとも埋められない。

 キャリーを引き、二人で通った道を思い出しながら一人歩く。大きな通りをひたすら真っ直ぐ。一緒に食べた牛丼屋を過ぎ、レンタルショップの角を曲がり、コンビニの前を三分程歩けば懐かしい場所へ着く。この電柱の前に火神と云う男のワゴンが停まっていて、右手側には一晩だけお世話になったあのアパートが見えた。

 その二階の奥から四番目が、彼の部屋だった。しかしベルを鳴らしても相手は出て来ない。今は夕方だ。家主は仕事や用事で出掛けているのかもしれない。意気込んで出てきたものの、連絡先も知らない彼女はこうやって何時に帰るのか判らない相手を、ずっと待ち続けなくてはいけない。

 溜め息を吐いて通路から街並みを眺めた。国道は帰宅ラッシュの車で溢れ、遠くの夕日は空をオレンジに、雲をピンクに染める。まだ十分に明るいのに、街のアチラコチラでライトアップが始まり幻想的だ。それらが余りに綺麗だと、なまえは感嘆する。鼻を付くどこか焦げた香りが、夏らしくて好きだ。

 しばらくすると、階段の方からカンカンと足音がした。思わずソチラを確認するのだが、出て来たのは知らないサラリーマンで――彼女を一瞥して部屋に向かう。肩身狭い思いになったなまえは、青峰宅の前に座り込んだ。

「いつ帰って来るんだろ……?」

 スマホで時間を確認する。訪ねてから僅か十五分しか経っていない。雑誌でも持って来れば良かったと、首筋に汗を感じながらなまえは肩を落とした。膝を抱え、体育座りのままに頭をもたげれば自分が酷く滑稽に思えた。旅立つ前に買った汗拭き用シートで肌を汗拭く。それは今の彼女に出来る精一杯のエチケットだ。

 また誰かが階段を登って来たようだ。陽気な鼻歌が聞こえ、その声に少女は顔を上げた。

 角を曲がり通路を見た男は、玄関に座り込む少女の姿を見た瞬間に驚き、「うおっ……」と情けない声を出した。ビタリと足を止め、額を抱え考え込む。

「……青峰さん!!」

 起き上がった相手から声を掛けられた青峰は、手に持っていたレンタルショップの貸出袋と、ついでにコンビニの袋を背中に隠した。袋の中の雑誌は成人指定モノで、カバーには【女子●生】の文字とセーラー服を着ている美少女が微笑んでいる。

「何してんだ……? お前」

 質問へ答える代わりに彼女は、待ちに待った青峰の元へ駆けた。

 『こんにちは』も『さようなら』も言わずに始まった二人の出逢いは、こんな風に「お久しぶりです!」でまた始まる。

「あの! 泊めて下さい、一週間だけ!!」

 少し上を向いて再び困った顔をした青峰は、胸元で嬉しそうに飛び跳ねるなまえへ面倒そうにこう告げた。

「玄関しかねぇぞ、お前が寝るトコなんて」


 この時期は海から大陸へ季節風が吹き、生暖かい風が気温を上昇させる。現象が顕著にみられる東アジア地区。そこに位置する日本列島も例外無く、今年は蒸し暑くなりそうだ。