施設のエントランスに中年男性の怒号が響いた。冷房も無いこの場所で、汗に濡れたポロシャツに社員証をぶら下げた男性は、チームの主将である笠松に喰って掛かる。 「どうすんだよ! コッチは火神大我を撮りに来てんだよ! 二軍で良い絵が撮れるかと不安になれば……体調不良って、一体何してんだ!!」 「ですから、火神は……」 対応する笠松幸男は、相手を宥めながら溜め息を吐いた。こんな騒ぎを起こされては、練習所の話じゃない。代表選手の皆がアリーナの入り口からコチラを見ている。大勢からの視線に、テレビ局の人間は更に怒りを倍増させた。 すると、今度は慌てて来たと言いそうに髪を乱したスーツの男が駆け足でやって来た。 「――火神選手、逃げたって……何なんですか……?」 片手で頭をワシャワシャ掻き乱したサラリーマンは、気が弱そうに文句を言い始めた。 「ウチは雑誌に原稿出しちゃったし、CMのコマだって押さえてるのに……賠償沙汰ですよ!」 「逃げたってどういう事だ!! 体調不良じゃないのか!!」 顔を真っ赤にさせ唾と一緒に怒号を飛ばすディレクターとは真逆に、インタビューの準備を止める撮影スタッフの顔色は呆れ曇っていた。火神と代表チームの印象は、地に堕ちた。笠松は威厳も元気も無い声で、こう伝える事しか出来なかった。 「……明日には、来ますから」 選手全員が食堂に押し込められ、早目の昼休憩へ入る。一時間も自由時間が延びた。こんな代表戦近い大事な時期に……。最悪のタイムロスである。 火神の部屋は荷物が無く、まるで不要物のように代表のジャージだけが置いてあった。ソレを食堂のテーブルに投げた氷室は、落胆して嘆く。 「何やってんだよ……タイガ……」 「アッチじゃ人気出るかもな。派手で、後先考えない"馬鹿"は好かれるんだろ?」 "馬鹿"を強く強調した黛は、珍しく感情を露にしていた。椅子に座り、貧乏揺すりでイライラを伝える。 「火神、バスケ辞めるの?」 マイペースに駄菓子を頬張りながら、紫原が尋ねた。氷室は何も言えず、代わりに青峰が苦々しく答えてやる。 「……どっちにしろ日本のリーグじゃ、もうバスケは出来ねぇよ」 紫原は食べる手を止めた。彼は火神の行動理由が判らないでいる。あの火神大我が己の実力不足を実感し、バスケを離れるようには思えない。だから何故逃げたのか、理由が思い付かない。実力も地位もある人間が、どうして逃げる必要があると言うのだろうか。……紫原は、それが"挫折した事が無い強者の考え"でしか無い事を知らない。 黛は誰に言う訳でも無く、己の過去を思い出しながら呟く。彼もまた、この世界から逃げた事のある人間だった。 「逃げたって、行き場なんか無ぇよ……」 そうだけ言って文庫本を開き、ろくに頭へ入りもしない"小説の世界"へと旅立った。 ………………… 今朝、なまえがホテルで起きた時には相手の姿は何処にも無かった。スヤスヤ眠っていた事を後悔し、シワ付いて冷たくなっていたシーツを撫でて溜め息を吐いた。現在は自宅に帰り、いつものベッドでゴロゴロしている。図書委員も無ければ、遊びに行く友人も居ない。 手に握ったメモは、青峰大輝が残したモノだ。彼にしては珍しく、汚く雑な字で十一桁の数字が記載されている。内心は飛び上がる程嬉しいのだが、謙虚で居たい彼女は連絡するのを躊躇っていた。時間はまだお昼前。掛けた所で、練習中だろう。 紙を眺めて幸せな笑いを溢したなまえを、スマホが流行りの曲で呼び出すのだった。 「――悪ィな、呼び出しちまって」 駅前のカフェチェーンで待っていたのは、スーツを着崩した火神大我だった。彼の近くにはキャリーケースが置いてある。これから出掛けるのだろうか。 「いえ、大丈夫です。昨日会えなかったし」 「悪かった。結局終わったの十時過ぎだぜ?」 「忙しそうですね」 向かい合って座る二人の会話は、直ぐに途切れ沈黙が訪れた。ソファーに深く腰掛けた火神は、長い足を投げ出しなまえの行儀良く揃えたふくらはぎをつついた。テーブル下のコミュニケーションに、少女は小さく緊張した。 「――……アメリカに戻ろうと思ってよォ。オレの家族、アッチ居るから」 「アメリカ……?」 だらしなく座る火神は、だらしなく話題を提供した。情熱を無くした男は、全てが投げやりになっている。 「すげェ遠くなるな。もう、会えねぇ」 まるで今すぐに渡米しそうな言い方に首を捻ったなまえは、火神の話題に乗った。 「アジア大会……でしたっけ? 終わったら?」 「いや、早急に日本を発つ。コッチじゃもう、プレイ出来ねぇからな」 「……え?」 男の答えは、疑問を増やすだけだった。そして、僅か十何年しか生きて来なかったなまえのキャパシティを、軽々と凌駕した。 「ホテル行こうぜ? 思い出作りだ」 火神は席を立ち、混乱する少女の手首を握る。今日こそは、なまえの全てが欲しいと思った。どうせ彼はもう、アメリカへ逃げるのだ。今更彼女とどうなった所で、進みも戻りもしないだろう。 「でも、あの……私……」 優しく手首を掴まれ、強い視線を当てられる。 「嫌か? エースじゃねぇオレは……」 「そうじゃなくて、その……」 手を離し肩を震わせ含み笑いを始めた火神は、立ち上げた腰を再度下ろす。その平均より長い足を再度雑に投げ出した。 「笑っちまうよな? 偉そうな事散々言って……結局逃げてる」 「逃げてる?」 鞄を握り、なまえは神妙そうな顔をした。目の前の男は情熱的で真っ直ぐで、とてもじゃないけど逃げるような人間では無い筈だ。 「エースを降格させられた。二軍落ちだ」 吐き捨てた言葉を例えるなら"余りに醜いヘドロ"だ。ソレは火神の内部に張り付き、ドロドロと染み始める。 「でも、代表は代表ですよね?」 「そんな訳ねぇだろ……? ベンチにも座れねぇよ。逃げちまったんだから。笑えよ、みっともない男だって……」 額に手を当て尚も笑う火神は、少しだけ寂しそうだ。なまえは何も言えず、ただ震える肩を眺めた。 でも、火神はその姿に不満を持ったようだ。閑静な店内で目立つ程に激しくガラステーブルを拳で叩き、怒号を上げる。 「笑えって言ってんだろ!!!」 緊張漂う空気が、カフェの中に亀裂を生む。店員がコチラを見て相談を始めた。そのカウンター越しの姿で冷静になれた火神は、頭を振って八つ当たりを後悔し反省する。 「…………悪ィ。好きなドリンク買ったら……帰ってくれ……。呼び出したのに、本当……」 「――すみません、火神さん」 軽くお辞儀をして、彼女は男の前を後にした。泣きもせず怒りもせず、申し訳無さそうに消えたなまえの後ろ姿さえ……愛しく思えた。望み通り一人になれた火神は、また頭を下げる。 しばらく目線を下げていると、相席なのか何なのか誰かが前方の椅子に腰掛ける。てっきりなまえが戻ったのだと急いで顔を上げた火神は、ソコに座る予想外の人物に、顎を外すんじゃないかと思う程口を開き驚愕をした。 「ヘイ! タイガー!!」 火神の前には、紅く染まった頬肉を持ち上げる"愉快な代表チーム監督"が、嬉しそうに座っているのだった。 「監督が居ない。オモチャ買いにどっか行った」 信じられないと言わんばかりに、一人の選手が食堂に戻って来る。彼は朝から姿を見せない監督を呼びに部屋まで行っていた。しかし、誰も居ないソコには一枚のメモ書きが残されていた。通訳の車も無いから、真面目そうな彼を巧く騙したようだ。 「こんな時にか!?」 笠松は怒りで壁を叩いた。青峰は歯を食い縛り、物騒な台詞を口にする。 「あンのクソデブ……。次会ったらクルミ割り人形にしてやる」 自身の監督を"クソデブ"呼ばわりしているのに、周囲は誰も咎めない。 「オレ、探してくる。クソデブは、まぁ……気が向いたらデパート行ってみるぜ」 モヤモヤが晴れない青峰は、珍しく自分から火神の捜索を志願した。最後に赤毛の彼を見たのは青峰だ。このまま火神を帰せばチームは空中分解する。そうなってしまえば、後味が悪い。 笠松は不安そうな顔を隠せないでいた。 「一人で大丈夫か? 青峰」 「優しい兄ちゃん連れてくか? アイツは今、反抗期だ」 チラリと氷室を見た青峰は、首を横に振る。優しい兄貴分は自分も火神を探しに行きたいようで、タクシーを呼んでいた。氷室辰也が行けば、この場は何とかなるだろう。ああ見えて火神は流されやすい。しかし根本を解決しなければ、また同じ事を繰り返す。 「氷室サンが行くのは駄目だ。行きそうな場所位、オレも見当が……――」 テーブルに乗った青峰のガラパゴス携帯が震えた。着信だ。火神かもしれないと慌てて取った持ち主は、通話の許可と同時に説教を始める。 「火神! テメ、今どこに……――」 『あ、青峰さん……。あの、今……』 聞こえたのは小さな女性の声だった。肩を落とした青峰は、テーブルに臀部を載せながらなまえに告げる。 「悪ィ、今立て込んでる」 電話があったのは嬉しかったりもするが、欲しかったのはこのタイミングでは無かった。切ろうと考えた瞬間、ふと火神が彼女に惚れていた事実を思い出した青峰は、駄目元でこんな事を聞いた。 「……お前さ、火神から連絡来なかったか?」 『来ました! ……さっきまで会ってました』 「はぁぁああ? なんじゃソリャ!」 思わず変な声を上げてしまった青峰は、すぐに顔を真面目なモノにする。収穫はあった。火神が単純な馬鹿野郎で、本当に良かった。けれど、その後になまえが告げた言葉は、男の焦りを加速させた。 『あの……。火神さん、今すぐアメリカ行くって……』 やはり火神はアメリカに国籍を移す気でいる。フットワーク軽い彼は、飛行機が取れ次第すぐに渡米するだろう。 「火神の場所教えろ! 早く!!」 全員が青峰を見ている。受話から微かに漏れる声は女性のモノであるが、誰もからかう気は無い。やがて神妙な顔をした青峰は、テーブルから立ち上がる。 「オレ、駅前行ってくる。火神が電車に乗ったらアウトだ」 青峰が耳から携帯を外し、笠松の方を見た。緊迫した顔の主将は、黒い頭を縦に振る。彼に説得されたのか、氷室が青峰の肩を叩きながら、手配した駅前までの移動手段を譲ってくれた。 「タクシー、すぐ到着する」 「サンキュー」 苦い顔をした青峰は、拗ねた火神をどう説得するかだけに集中する。 ――あのライバルを、この素晴らしくも儚い世界から"脱落"させる訳にはいかない。その理由がエゴにまみれていても、青峰は火神と云う選手を失いたくは無かった。 …………………… 《鬼ごっこか?》 ぬいぐるみを膝に乗せた監督は、火神に問い質す。日本語が不自由な彼は、英語でしかコミュニケーションが取れない。しかし、幸いにも火神は帰国子女だ。何ら問題は無い。 《いや……。そうかもしんねェな》 否定しようとした火神だが、少し考えて監督の冗談に賛同した。自分がこうしてカフェに居るのは、鬼が来るのを待っているだけなのかもしれない。 《コレで明日、ダイキーをからかう予定だ》 大きな地縛霊猫の頭を愛しそうに撫でる。確かにコレなら壊されないし、サイズ的にゴミ箱に捨てられもしない。……但し、頭から醤油を掛けられるだろう。 そのオレンジのフォルムを気に入ったのか、酷く可愛がる外国人へ、頬杖を付いた火神は質問した。 《――何でそんなに、青峰を構うんだよ?》 監督は真剣な眼で火神を見る。怖い位に真っ直ぐで、火神は顔を逸らした。 《彼はチームのキーパーソンだ》 その答えに拳を握った火神は、パンツスーツのポケットに隠した。悔しさが彼を襲う。"キーパーソン"だなんて大事な役を任された青峰は、自分よりもずっと天才だ。周囲から『重要だ』と持て囃されても納得がいく。……だから余計に悔しい。それなら、エースなんか飾りでしか無い。 《……タイガー。エースに必要なモノとは、何だと思う?》 いつぞや聞かれた質問が、今度は違う人間の口から飛び出した。何回聞かれても、火神の答えは変わらない。だって、彼は"コレ"が己の全てだと思っているから――。 《強さだ。誰にも負けねぇ強さ。……精神的にもな》 最後に付け足した言葉を鼻で笑い自虐した火神は、どうだと言わんばかりに監督を見返した。しかし、でっぷりした顎を静かに振った中年男性は、舌打ちに似た音を弾きながら口を開く。 《――だから、キミを二軍に落とした》 白人特有の大きく青い瞳がエースを貫く。口を半分開いた火神は、降格した理由をようやく知った。 ソレは、高校から背負っていた"エース"と云う役割を、正しく知らずにここまで来た事と同意義である。 《根本的に間違えている。キミ達は充分に強い。そんなモノを大事にする必要は無い》 ぬいぐるみの頭を再度撫で、余程気に入ったのか目を細めて笑みを作る。その穏やかな顔でショックに打ちのめされる火神へアドバイスを掛けた。 《ダイキーが答えを知っている。聞いてみると良い》 《……今更、合宿場に戻れってか?》 掠れ小さな声が、火神大我の声帯を震わせる。 《いや、キミには迎えが来る。私は退散させて貰うよ? コイツは明日の楽しみだ》 立ち上がりぬいぐるみを抱えた監督は、上気した頬をニコリと持ち上げる。彼からの別れの挨拶は、こんな質問だった。 《さっきの可愛い女の子は、タイガーの彼女か?》 《彼女じゃねぇよ……》 そっぽを向いた火神が大きなオモチャを抱えた外国人の背中を眺める事は、最後まで無かった。 ――迎えが来ると言う言葉に焦りキャリーを手に取った火神は、一歩遅かったようだ。カフェの入り口が開き、背の高い男が姿を現した。そのTシャツ姿は、さっき施設で見た時と変わりは無い。店内をグルリと見渡した男は目当ての人物の姿を捕らえた瞬間、ダルそうに溜め息を吐く。 ――鬼ごっこは、たった今……終わった。 「火神! お前何してんだよ! 本気で帰んじゃねぇよ!」 「青峰……」 狭い店内を器用に進み、Tシャツ姿の鬼役がコチラへ向かう。その大きな発声に客の視線が刺さる青峰大輝は、全く気にせずに足を進めていた。 「馬鹿だろマジで。練習どころじゃ無ェよ、馬ァ鹿」 キャリーを握り立ち尽くす火神の前にやって来ると、つい数分前まで監督が座っていた席に腰を掛けた。カウンターを親指で示した青峰は、上目で火神を睨む。 「何か奢れよ。昼飯も食ってねェ」 「……あぁ」 立ったままの火神は青峰によりパシらされ、本日二回目の注文会計へ向かった。 「もう電車に乗ったのかと思った。『早くしろ』って、タクシーの運ちゃん怒鳴るのに疲れたぜ」 青峰は目の前に置かれたショートケーキとホットドッグ・アイスカフェラテに手も付けず、まず火神へ愚痴を吐いた。愚痴を受け流した赤毛の脱走者は、今しがたまで何をしていたのか、鬼役に教えてやる事にした。 「監督に会って、話してた」 「クソデブ? 何で」 ストローも差さずにカフェラテを口にした青峰は、甘くないソレに顔をしかめた。 「知らねェ。気付いたら居た」 何を話したのか教えてくれない火神を睨みながら、青峰はホットドッグを掴んだ。指先で潰して食べやすい大きさにしたジャンクフードは、予想以上にピクルスの香りが鼻へと抜ける。 「青峰……、エースに必要なモンって強さ以外にあんのか?」 答えが欲しくて、火神は素直に聞いた。青峰に肯定して欲しかった。ずっと情熱を突き動かして来た"己の信念"を。チームの全てを背負うつもりでコートに立つ自分が、間違って居ない事を――。 「笑わへんな」 青峰は口一杯に食物を入れたまま喋る。手を紙ナプキンで拭く彼の表情は、怒りに溢れていた。 「オレは、お前をエースだとは思ってねェよ」 辛辣な言葉が火神を攻撃した。今の彼は、青峰の怒りを受け止める程精神的に余裕が無い。 「エースはオレだ」 「……ソレが正しいんだろうな」 青峰の言い放った台詞は、自信に溢れていた。例えばソレが虚像であったとしても……。コレこそがチームの光だ。火神はソレが眩しくて、顔ごと目を伏せた。 「例え、頭に『堕ちた』が付こうが……オレこそがエースだ」 その台詞に、俯いていた火神は固まった。 ――青峰は一度日本代表の選考から漏れていた。世間からバッシングもされ、"堕ちたスーパーエース"なんて無様な書かれ方もした。 しかし彼は潰れる事無く、その後のファイナルで圧倒的な強さを見せ付け、スーパーエース復活を遂げたのだ。火神は、一番間近でソレを見ていた。 「逃げて……どこ行くんだ? アメリカってのは、んな弱い人間も受け入れてくれんのか?」 顔を上げれば群青色した瞳は深く、監督のモノと殆ど同じだった。彼等は信念に歪みが無い。きっと誠凛に居た時の自分も、同じ目をしていたのだろう。 「自分の中だけでも、エースで居ろよ。それが出来ねぇならバスケの世界から消えろ。潰れるだけだ」 ずっと"エース"で居ろ。 それが、青峰大輝の答えであった。彼はベンチだろうが二軍だろうが、死ぬまで"エース"で居るつもりだ。一度エースを任された人間は、コートに立たなくなるまでエースで居るべきだ。 例えソレが周囲から認められなくても……『エースは自分だ』と胸を張って言い続けるのだ。――青峰の信念は、火神よりも深く強い。 同時に、彼は火神を激励していた。『逃げるな・困難に立ち向かえ』――そう言うのは簡単だ。何か感動的な事を言って心を揺さぶるのも、ドラマには必要な事だ。 でも、コレはドラマじゃあない。ライバルの人生を"ドラマ"に仕立て上げ誤魔化してやる程、青峰大輝は野暮な人間では無いのだ。現状と事実を突き付けてやるのも、一つの優しさだ。火神とは真逆の――素直じゃない彼らしい、冴えたやり方。 「ホラ、戻んぞ。ウジウジしてんな」 ケーキを鷲掴みにし、行儀悪く立ち食いする青峰は火神を急かす。午後の練習が始まりそうだ。脱走したエースを連れて行かないと、彼の来た意味が無い。 「……一晩だけ、考えさせてくれ」 「火神ィ……」 尚もウジウジを続けようとする相手を、青峰は面倒臭そうに宥める。しかし火神の意思は変わらない。彼には、彼の"戻らない理由"がある。 「悪ィ……。このまま行っても、同じ事繰り返すだけだ。冷静になる時間が欲しい」 天井を向いて大袈裟に溜め息を吐いた青峰は、視線だけを火神に向けて微かに笑った。 「少しは賢くなったな。……悪い意味で」 青峰が退店してからまた十数分後。別の人物が火神の前に立った。今日は来客の対応に忙しい日だ。ソファーから動かず顔だけを上げた火神は、少しだけ微笑んでいた。 「火神さん……、あの……」 「なまえ、今晩……空いてるか?」 一人になりたくない男は、自分より圧倒的に弱い存在へ、救いを求めた。 |