早朝五時半。風も無く鳥の囀りだけが微かに聞こえる山中の総合施設前。一台のタクシーがエンジンを響かせ到着した。ジャージ姿の男がドアを閉める。思ったより大きな音が辺りに反響してしまい、慌てて周囲を見渡す。

 遠くに車がタイヤを転がす音を聞きながら、施設の壁に沿って張り巡らされた砂利道を歩く。気温も低く過ごしやすい。

 自室前に着いた青峰は窓が開いている事を確認し、軽々と桟へ飛び乗った。急に騒がしくなった窓際に気付いたのか、ベッドに横たわっていた火神が身動ぎをする。

「……はよ」

 シューズを脱いだ青峰は、ドスンと重い音を響かせ床へ着地した。そのまま空いたベッドに腰掛け、背中を丸めて火神を見る。

「――どこ、行っれら」

「は?」

 その舌足らずな質問へ青峰が雑なリアクションをすれば、寝惚けて舌が回らない火神は俯せのまま「んんー……」と拗ねた声を漏らす。数回の寝息の後、枕に顔を埋めた火神が呟いた。

「青峰、お前……オレに黙ってる事、あんだろ……」

 質問にドキリとした青毛の男はタクシーでコチラへ向かう間中、ずっと言い訳を考えていた。

 一度は捨てた女の元へ、会いに行ったのだ。だって、昨夜はそうでもしなきゃ耐えられなかった。……桃井さつきの事を考えるだけで、辛かったから。

「別に、黙ってようとか……――」

 殴られる覚悟で、青峰はなまえへ会いに行った事を知らせようと決める。しかし青峰の覚悟も余所に、火神はまったく見当の違う話題を出した。

「そんなんで、オレが喜ぶと思ってんのか?」

「……よ、喜ぶ?」

 ――いや、絶対喜ばないだろう。まぁ……彼女を救ってやったと言えば、確かに感謝されてもおかしくは無いが……火神は、そんな事で感謝する人間では無い。

「何で協会に潰された事……黙ってたんだよ」

 褐色肌の男は、その予想外の質問に驚愕した。彼は、何故ソレを知っているんだろうか。コチラからは言っていない筈だ。自身が協会の思惑の邪魔になると排除されていた事は、笠松幸男しか知らない。

 だがココで協会に対して弱気な姿勢を見せたら、火神大我は同情なんて下らない感情を持つかもしれない。それだけは、嫌だ。ライバルに同情されるなんて、男のプライドが許さない。

「お前に言って、メリットあんのか?」

 青峰は弱気だった過去の自分を鼻で笑い飛ばし、余裕すら感じられるニヤニヤした表情で、俯せになっている火神を見た。

「……オレのアメリカ行きは、知ってたのか?」

 火神も、逞しい腕の力で上半身を起こす。髪で目元は見えないが、口元は真剣そのものだ。

「お前と協会で会った日に全部聞いた。コート立つのに、土下座までしたんだぜ?」

 屈辱に耐え難い日の事を思い出す。スーツ越しに感じたカーペットの固さ。隣で頭を下げる笠松の背中……。出来るのなら、全部忘れたい位だ。

「じゃあよォ、青峰……オレが憎いか?」

 その質問は酷く馬鹿馬鹿しいモノだった。そしてそんな疑問を抱く火神を、心の底から軽蔑した。

「別に? 大変なモン背負い込んでんな、って程度だ」

「――本当か?」

「あぁ、でも……」

 ベッドから立ち上がった青峰は、ジャージのポケットに手を入れ威圧するような態度を見せた。そうして口角を上げて意見をぶつける。

「ヤル気ねぇなら退け、とは思うな?」

 同じく立ち上がった火神は、寝起きにも関わらず怒りを露にする。拳を握り、特徴的な眉を上げた。

「――ヤル気ねぇ?」

「ひっでェプレイばっかだぜ? 最近のお前」

 笑みを見せる青峰へ、火神は歯を食い縛った怒りの形相を見せる。

「ヤル気ねぇんだろ? ……正直に言えよ」

「青峰ェェェ!!!」

 飛び掛かろうと足を踏み出した瞬間、今度は向かい合った相手が怒鳴り声を上げた。

「火神ィィ!!!」

 ビリビリと空気を裂くような声に、火神の足が止まる。青峰大輝が試合以外でココまで怒鳴る事は、滅多に無い。だから火神は思わず萎縮してしまった。

「……ライン越えんじゃねぇよ」

 顎で彼の足元を指した青毛の男は、相手が昨日定めた境界線を越えようとしている事を咎めた。


 ……………………


「……火神はどうした?」

 朝七時。朝食は食堂で支給される。青峰一人の姿しか見えない事に箸を置いた笠松が問い掛ける。

「寝てんじゃねぇの? 拗ねちまった」

 トレイをテーブルに置き、椅子を引いた青峰が答える。喉の乾きを覚えた青峰が麦茶で潤しながら席に着くと、困った顔を隠さない笠松へ氷室が話し掛けた。

「タイガには、後でオレがご飯持ってきます」

「悪ィな、助かる」

 直ぐに安堵の表情へと切り替えたチームの主将は、温かい味噌汁を口に含んだ。出来れば……火神には会いたくなかった。どんな顔をしているか、考えただけで笠松の胃は悲鳴を上げる。

「ありゃ大好きな兄貴分の言う事しか聞かねぇぞ」

 塗り箸を手に取り、鮭の切身を雑に解した青峰が火神の状態を呟く。

「ナンパ、成功したの?」

 四人掛けテーブルへ、緊張感の無い声が流れた。首を傾げた紫原が、気の抜ける質問を繰り出したからだ。

「紫原、お前なァ。空気察しろよ」

 箸で紫原を指し『煩わしい事を聞くな』と遠回しに伝えた青峰は、誤魔化す為に鮭と白米を口内へ放り込むのだった。

 しかし、そんな青毛の男に優雅な朝食は訪れないようだ。食堂の入り口に立った球のような初老の男性が、大声で目当ての選手名を呼んだ。

「ダイキー!!」

 ドタドタと短い足を動かし、玉子のような巨体がやって来た。右手には変なマスコットのパペットを付けており、横に大きく裂けた口を開閉している。

「飯食ってんだよ。邪魔すん……――」

 日本語が通じないポルトガル人は、ご飯茶碗を手にした青峰の頭をパペットの口で噛み付いたりして嬉しそうな顔をした。食事の邪魔をする老人に、彼はとうとうキレるのだった。

 青峰は監督の手から無理矢理パペットをもぎ取ると、ゴミ箱へロングシュートを決める。綺麗な放物線を描き、奇妙なぬいぐるみはボックス内に消えた。

 オモチャを捨てられた監督の、「オォォーウ!!」と云う叫びが食堂に反響した。

 すこし遠くで集団を眺めていた黛千尋は、特に笑う事も無く朝食を口に運んでいる。どうやら彼は、破壊行動に対して笑いを見出だしているだけのようだ。中々に性格が歪んでいた。しかし監督がゴミ箱を漁り、頭部がコーヒーまみれとなったパペットに絶望しているのを見た瞬間、お椀の中に味噌汁を吹き戻した。

「あの監督、大丈夫なのか?」

 同じ様に監督の悲壮な姿を見ていたレギュラーの四名は、心配そうな顔をする。青峰が不満そうに"オモシロ外人"への不満を口にした。

「監督は女バス専門だ」

 食事を終えた笠松が手を合わせながら、監督の経歴を口にし始めた。

「ポルトガル女子代表を、オリンピックまで引っ張ってった実力がある」

「アレでぇー?」

 信じられない紫原は、如何にも不満そうに口を尖らせる。

「アツシ、失礼だ」

 氷室が紫原の失言を注意するのと同時に、青峰は笠松に文句を言い始めていた。

「オレら、女子じゃねぇぞ?」

 鼻から深く息を吐いた笠松は、腕を組んで椅子に深く腰掛ける。

「ゴリゴリなプレイ出来ない分、女子の方が戦略に秀でてんだよ」

「そう言う事ね?」

 氷室は今の言葉で"何故あの監督が任命されたのか"を悟った。だが青峰は理解出来なかったようで、首を捻っていた。

「フィジカルだけじゃ、アジアにも勝てねぇって事だよ。青峰」

 キャプテンが直々に、嫌味臭く"事実"を教えてやる。欧米はおろか、今のままでは中国やイランにも勝てない。何か身体面を上回る対抗策が無ければ、無駄に弱さを見せるだけだ。

「エースに言ってやれよ。その言葉」

 青峰がその場に居ない火神の事を仄めかせば、全員が黙り込んでしまった。心配していない訳じゃあ無い。彼の心境を考えると、問題が複雑過ぎるのだ。

 中途半端に残したまま食事を終え、トレイを手にした黛が彼等のテーブル近くに立ち、言葉を掛けた。盗み聞きしていたのか、黛千尋も監督への見解を述べる。

「天才には、奇人が多いって事だ」

 四人は納得したように小さく頷いた。今まで沢山の"天才"を見てきたが、確かに変な奴が多かった。

「ま、オレは奇人じゃねぇけど?」

 青峰の図々しい冗談に笑う事無く、見下した目線を送った黛は呆れたような声を出す。

「お目出度い頭だ」

 軽く青峰を野次った影の薄い男は、トレイを返却口まで運び食堂を後にした。





 九時五分前。ようやくアリーナに姿を見せた火神は、揃い並ぶ選手達に混ざり一番前に整列をする。彼にすぐ声を掛けたのは氷室だった。一時間前に食事を運んだ時、赤毛の彼はまだ寝ていたのだ。それでも睡眠が浅いのか、火神は疲れきった顔をしていた。

「タイガ、大丈夫か?」

「……あぁ」

「プライド高過ぎんだよ」

 隣に立つ青峰が火神の事を野次った。朝の確執は未だに続いているようだ。

「お前が言うなよ」

 火神が青峰を一度も見ずに野次を返せば、笠松がバインダーを開きながら全員へスピーチを始める。

「明日の練習試合、先方は二チーム用意出来るそうだ。一軍と二軍に分けるから……な……」

 歯切れ悪く言葉に詰まった笠松は、監督から預かった明日のチー分けに驚愕の顔をした。選手達に緊張が走り、ヒソヒソと声が漏れる。何か異常な指示が出たらしい。全員が身構える。

 ゆっくりと口を開いた笠松幸男は、一人の男に目を向けた。対象の人物は、緊張で身体を震わせる。

「火神……お前は、二軍だ」

 目を見開いて顔を強張らせた火神大我は、反論しようと足を踏み出した。何故エースが一軍を外れなくてはいけないのだろうか? ただその答えを知りたがったのだが、ソレを氷室が腕を伸ばし阻んだ。笠松はチームのエースから視線を外し、振り分けの詳細を伝える。

「紫原と青峰でゴール下を固める。黛は右方向のSGに上がれ。スローインもお前の仕事だ。オレか氷室に出すように。安達、お前もウォームアップしとけよ。後半、青峰と交代させる」

 バタンとバインダーを閉じ、固まったままの青峰を見た。

「青峰、お前をフルでは出せない」

「いや……、オイ……」

 "そんな事"より他に聞きたい事がある青峰は、主将に向かって手を伸ばそうとするが、途中で止めて直ぐに下ろす。

「滅茶苦茶だ……」

 氷室が小さく呟いた。隣の火神は目線を一ヶ所に定められずに居る。

 ――こんな事態初めてだ。本番前の大事な時期に一軍選手として出られない。これは温存では無い。意味するのは、そう……降格だ。火神はエース処か、一軍からも引き落とされた。理由は判らないが、心辺りが有り過ぎる。


 また座り込んだら、どうすんだよ?

 猿回しみたいだよな?

 ヤル気ねぇなら退け、とは思うな?

 皆でお前を送り出すんだよ。

 ……オレら全員、お前の引き立て役だ。

 ひっでェプレイばっかだぜ? 最近のお前。

 アメリカに国籍移して逃げるか? なぁ、簡単だろ?


 誰に言われたかも曖昧な言葉が頭の中で洪水のように溢れ、反響した。その衝撃は目眩にも似ている。耳を塞ぎ、その場に座り込みたくなった。

 ……呼吸が整わず、心臓の音が耳のすぐ傍で響く。火神は"全ての感情"をギリギリで抑えていた。いつ爆発しても可笑しくない。

 パンパンと両手を叩いた笠松は、解散を言い渡した。各々が練習の為にウォーミングアップの列を作る。ただ一人、顔を真っ赤にさせ小さく震え、憤りに飲まれないように堪える火神大我だけが一歩も動けずに居た。誰も彼に声を掛けない。背後のコートからシューズの擦れる音が聞こえた。

 火神は、それでも動かずに立ち止まったままで居た。


 …………………


 荷物の全てを纏め終えた火神大我は、施設の廊下を歩いていた。代表のジャージは見るのも嫌で、部屋に置いてきた。スーツ姿でキャリーケースを引く自分を誰かが見たら、引き止めるだろうか。……どちらにしろ、もう誰にも会いたくない。静かな館内から、一人ぼっちでエスケープする。

 皆が気付くのは、何時だろうか。自分が姿を消したのに、施設内は静かだった。結局、誰も必要としていないのに、ただ御輿に担がれていただけだった。……完全に自惚れていた。

 実力じゃなかった。運が良かっただけだった。アレックスと云う素晴らしい師匠に出会い、高校ではチームに恵まれた。ライバルだって沢山居た。日本代表だって、青峰が肩さえ壊さなければ自分が引き立て役になる筈だ……。

 今は、ただ恥ずかしい。笑う事しか出来ない火神は、背中を丸め肩を震わせた。

「……よォ、火神。散歩か?」

 タイミング悪く、渡り廊下から"ある人物"が火神の姿に気付く。片手を上げた青峰は、火神を呼び止めた。練習も途中にトイレだと抜け出した褐色肌の彼は、首から下げたタオルで首元を拭った。

「……いや」

 どう見ても散歩には見えないのに、青峰は格好に対して見て見ぬ振りを決め込んだ。ソレが、彼なりの不器用な優しさだった。

「ウンコなら、トイレはソッチじゃねぇぞ?」

 青峰は、ウエストまである渡り廊下の壁に肘を置いた。動向を探られていると悟り、顔を伏せた火神が、小さく口を開く。

「オレはもう……必要、無くなったみてぇだからな?」

 寂しそうに首を下げ横顔に哀愁を漂わせる火神は、逃げる理由を口にした。

 興味無さそうな顔をした青峰は、引き止める事もせずに別れの挨拶を口にするのだった。

「あっ、そ。じゃあな、火神」

 降格を言い渡された男は、まるで『最後に会えて良かった』と言いたそうに柔らかに微笑む。

 火神はライバルへ背を向けて、静かにキャリーケースを転がし始めた。青峰は、ゆっくりだが着実に会場を後にする相手の姿を眺める。

 門を通りタクシーを呼べば、彼は日本での選手生命を絶たれるだろう。……この場を逃げるとは、そう云う事だ。青峰はライバルがまた一人この世界から居なくなる喪失感を、胸の奥深くに覚えた。

「――ふざけんな、バカ神」

 あの赤毛が施設の敷地外に出るのを見たくなかった青峰は、真っ直ぐ前を向いて渡り廊下を再び歩み始めた。