――愛しているとは思わない。

 甘えようとも思わない。

 ただ寂しい時、傍に居て欲しいとは思う。


 何時しかそう思った考えは、今も変わらない。でも、二人の関係性だけは変わってしまった。

 それなら何処まで時間を戻せば良い?

 今から、何て声を掛ければ良い?

 立ち止まったままの青峰は、目の前で泣いている少女に対し何も出来ずにいた。人目も憚らず顔を下げてメソメソしている、恥ずかしいガキ相手に……何でこんなに躊躇ってしまうのだろうか。

 気遣う言葉を掛けようと、口を開く。だけどソコから飛び出た言葉は、頭の中で考えていたモノとは真逆だった。顔を上げた少女は、彼の姿に驚いた顔を見せる。

「……どうしたんですか? その頭」

 男は随分と短くなってしまった青い髪を掻き、彼女の前に手を差し伸べた。


 …………………


 撮影の打ち合わせが終わったのは、予定を大幅に越えた二十二時前だった。撮影スタッフは、これから歓楽街に向かうようだ。誘いを断った火神は、下手な愛想笑いで失望を隠していた。

 自分のファンだと言うスタッフからサインをねだられ、ペンを手にする。チヤホヤされるのは好きだが、余裕が無い今は例えファンでも『邪魔』としか感じられない。

「火神選手大出世ですね! 選手権終わったら海外って話ですよね!」

 その賞賛の言葉に、手が止まる。口元だけ辛うじて笑っていた火神の顔から、完全に笑みが消えた。

「…………は?」

 特徴的な眉を潜める男は、サインも途中に記者へと視線を向けた。その威圧感ある逆三角の瞳に、相手はたじろぐ。

「ご存知……無いんですか?」

 予想外の反応を見せられたスタッフは、やってしまった……と云う顔を見せた。

「どう言う事だ?」

 海外なんて聞いていないし、時期早々だ。自分が他国のプロリーグに行けるレベルだなんて、思った事は無い。自国の選手なら、青峰か紫原が精々だろう。

 乱雑なサインを押し付け踵を返した火神大我は、ある男なら事情を知っているかもしれないと急いだ。

 その男の部屋をノックすれば、数秒後にドアは開いた。目当てである【笠松幸男】は顔を覗かせ、立っている火神の姿に驚きを見せた。

「――火神? どうした?」

「話がある」

 火神の"憤りを抑えた低い声"に、笠松は太い黒眉を片方持ち上げた。

「……ココじゃ駄目なのか?」

 火神は、ベッドに横たわり我関せずと文庫本を読む黛を視界に入れた。黙っていれば、本の虫である部分まで黒子テツヤと似ている男だ。

「二人で話がしてェ。廊下で良い」


 節電中なのかは知らないが何故か暗い廊下に出た笠松は、光の漏れるドアを閉めた。非常用ドアの緑ライトだけが、二人の輪郭を朧気に映し出す。

「……何で黙ってたんだよ」

「何をだ?」

「しらばっくれんじゃねぇよ。……選手権が終わったらの話だ」

 笠松は記憶を探り、火神の言う"選手権後"の予定を導き出した。――国際試合でのエースを経て、海外リーグに移籍。選手にとってはこれ以上に無い最高の待遇である。

 しかし、プライドが高い火神はニコリともしない。自力で切符を掴めず、嬉しくないのだろう。

「黙ってたんじゃなくて、許可が出なかったんだ」

 笠松幸男が情報を知っていた事を伝えると、火神の顔面は更に険しくなった。

「オレをプッシュすんのは……この為か?」

「皆でお前を送り出すんだよ」

「いらねぇよ、んなの」

 協会の推しを突っ跳ねた火神は、腕を組む。

「辞退すんに決まってんだろ? オレは、オレの実力でアメリカに行く」

 こう言い放った男は頑固だ。決め込んだら梃子でも動かない。だから笠松は、こんな事を口走ってしまった。コレを出せば、負けず嫌いの火神の闘志に火が付くと"誤算"してしまったのだ。

「青峰の決意を無駄にすんな」

「……何で青峰が出て来んだよ」

 火神の怒りは限界に近い。そこに突如現れたライバルの名前に、不信感を持った。まさか……青峰が火神に海外移籍の椅子を譲ったとでも言うのだろうか。

「――アイツは、お前を潰すから代表から漏れたんだ」

 笠松の答えは、火神の予測を突き抜けていた。衝撃が火神の頭に走る。

 自分を、潰すから……青峰は世界の舞台に立てない?

 ソレは火神大我の実力が、青峰大輝より激しく劣る事を意味していた。……抑えていた怒りは、理性の限界を超えた。

「馬鹿にしてんのかよ!!!」

 笠松はシャツの胸ぐらを掴まれ、身体を揺すられる。興奮して怒鳴り付ける火神の唾が顔面に降るが、ソレを拭う余裕も無い。

「やりたくもねェPGやらされんのも、全部オレのせいか!!??」

 氷室が勢いよく隣室の扉を開け、乱闘を始めた男を止めに走る。同時に多数の部屋の扉が開き、選手達は野次馬のように喧騒の中心を気に掛けた。

「タイガ! 何をしてるんだよ!!」

 横から茶々を入れられ笠松を突き飛ばした火神は、止められない感情を叫びで発散させる。

「だったら青峰行かせろよ!! 適任だろ!!」

 掴まれ伸びた襟口を握った笠松が、火神にソレが出来ない事実を正直に伝えてやる。誤魔化しや、嘘が効く段階では無くなっていたからだ。

「アイツには……行けねぇ理由が、あんだよ」

 青峰大輝は、国内で飼い殺される運命になっていた。フォームを無視したスーパープレイの代償が、より高みを目指す男を苦しめている。

「…………肩か? だからオレに話が回ったのか?」

 以前に見た診断書を思い出した火神は、答えの解りきった質問をした。どうやらソレはどちらも正解のようで、笠松は遂に黙ってしまった。

「それじゃオレはスペアじゃねぇか!!!」

 その通り。火神大我は所詮"身代わり"でしか無い。だから彼はMVPが貰えた。CMや宣伝素材の話が舞い込んで来た。

 ――そうでもしないと、実力が不足している部分を補えないからだ。大衆の興味を惹けないからだ。

 青峰のような人の目を惹くプレイが出来ないから……自身にカリスマ性が兼ね備わっていないから、男はココまで推されなくてはいけない。その事実が、火神の身体を自尊心ごと呑み込もうとする。

 部屋の入り口で二人の話を聞いていた黛も、鼻で笑い己の立場を自覚した。

「……オレら全員、お前の引き立て役だ」

 チームのエースにそう告げ、凭れ掛かるドアに頭を軽く打ち付け、失望する。

 ……また利用されるだけかよ。高校時代の自分を振り切りたくて、プロの世界に立った筈なのに……忌まわしい呪いのように、同じ境遇が纏う。

 火神は、そんな男の態度が気に食わなかった。自分は喚いてでも納得いかない意思を伝えているのに、彼は甘んじて受け入れているように見える。

「ソレで良いのかよ!!!」

 今度は黛に喰って掛った火神は、彼の薄い体躯に手を伸ばした。

「タイガ!!!」

 幼馴染みが乱暴に走る前に、氷室はその名を怒鳴る。もし火神が黛に暴力を奮うのなら、氷室も拳で以てソレを阻止するつもりだ。足の固まった黛は、奮われた右拳の軌道を眺める事しか出来ずにいた。

「止めろォォッ!!! 火神ィ!!!」

 廊下に響いたのは笠松の怒号だった。初めて声を荒げたチームのキャプテンは、喉が痛む程に怒鳴りを轟かせた。

 途中に手を止めた赤毛の男は、そのまま膝から崩れ落ちる。絶望に押し潰された彼は、身体を丸めて床に踞って泣き叫んだ。

「舐めんじゃねぇよォォォォ!!!」

 偽りのエースは悲痛な声を上げ、館内に響いたその嘆きに全員が黙り込む。

 氷室が泣き崩れた火神に寄り添い、丸まった肩に手を置く。しかし、火神は肩を回して拒否した。

「…………一人にしてくれ」

 立ち上がった火神大我は、涙の筋を拭きもせず、フラリフラリと自室へと歩み出した。その後ろ姿は全ての感情を抑えているようで、拒絶の意思を明確にしていた。


 ――笠松は誰も居なくなった廊下に座り込み、自力では立てずに居た。少しでも身体を動かせば、何もかもが嫌になりそうだ。緊張感と云うチェーンが外れ、歯車をバラバラにする。

 ……涙は人に見せるモンじゃない。我慢で顔を真っ赤にさせた男は、掠れる目を閉じ鼻を啜る。

 そんな笠松と同室の男は、手に財布だけを持ち二人部屋を出た。開いたドアから明かりが漏れ、消灯後の暗い廊下に白い筋を作った。

「――飲み物買ってくるから、一時間位外す」

 逆光で顔は見えないが、どうせいつものポーカーフェイスだろう。コイツは怒りを覚えても、悲しくても嬉しくても、貼り付けた表情を変えない。

「自販機、あんだろ……」

「欲しいのが、無い」

 そう言って、門限過ぎにも関わらず外出をしてしまった。しかし、笠松は黛を引き止める事が出来なかった。だから、彼の行動に甘んじて誰も居ない部屋で枕に顔を埋めて、感情に飲まれた。

 海外の事も青峰の件も、何時かは言わなければいけない事だった。でも、きっと伝え方を間違えたんだ。下手くそな意見は、火神を傷付け地に落とした。

 全部、全部全部全部……主将である自分が不甲斐ないせいに決まっている。どれだけ頑張って繋ぎ止めようとしても、次々にトラブルが選手を引き離そうとするんだ。上手く対処も出来ない。

 抗うのも疲れた。
 休ませてくれ、たまには。
 ……早く終わってくれ。

 バラバラになりつつあるチームを好転させる策は無い。自身の情熱も、失いつつある。

 ……こんな状態を好転させる事が出来る人物は居るのか?

 居ると云うのなら、オレはソイツを神と呼ぼう。


 ――……このチームにとっての神とは、一体誰だ?





 日曜且つ、祭りの夜にラブホテルの空きは無い。仕方無しに駅前のビジネスホテルへ入室した二人は、微妙な距離を空け座っていた。座椅子に座ってテレビを眺めていたなまえは、着ている浴衣のせいか姿勢が正しい。逆にベッドへだらしなく寝そべった青峰は、日中の練習により疲れきっていた。

「青峰さん、何座ですか?」

 ウトウトした意識は、なまえの質問を半分だけ理解させる。「はァ……?」と雑に聞き返せば、相手は嬉しそうにまた質問をした。

「星座です。占いやってるから。……何座?」

 青峰の方からテレビへと視線を向けたなまえは、彼の星座を知りたがる。学生とは、神からの御告げに興味深々になる年頃らしい。ふと、緑の頭を思い出した。あの男は、今も朝の占いに一日を委ねているのだろうか。

「言わねぇよ、お前笑うから」

 自身の腕を枕にした青峰が、質問に答えない意思を見せた。また男の方を向いたなまえは、眉を困らせる。

「乙女座とかだったら笑うけど、ソレ以外なら……――」

 青峰の表情で答えを悟った少女は、視線を泳がせてテレビを見始める。

「…………何だよ、駄目なのかよ」

 フフフと声を漏らしたなまえは、厳つい顔した男がフェミニンな響きの星座である事を笑った。そのタイミングで、明日の運勢を告げる占いは十二位を発表した。

『最下位は、ごめんなさい! 乙女座の貴方! 素直になりましょう。閉ざされていた道が開けます』

 身体を曲げてケタケタ笑う女子高生と占いの結果に、口を曲げた青峰は「くっだらねェ」と負け惜しみの台詞を吐いて捨てた。

「青峰さんは、何時でも素直ですからね」

「あぁ、そうだな」

 ベッドから身を起こした青峰は、座椅子とサイドテーブルが並ぶ窓際へ異動する。お利口にCMを眺めているなまえと反対側の座椅子へ座ると、長い足を組んだ。

「なぁ、ソレ脱げねぇの?」

 大人っぽい浴衣を指差しながら、青峰はボンヤリと花火大会の日を思い出した。彼女を帰した翌日の花火。鮮やかなソレは、すぐ騒音になった。その時に想像したなまえの浴衣姿は子供らしくて笑えたのだが、今隣に座るその姿は、妙な色気があってムラムラした。

「着付けは出来ますよ。飾り帯は出来てるヤツですし、簡単でした」

 飾り帯の部分を、巻くだけワンタッチの帯から抜く。既に形作られている出来合いを差し込むだけのお手軽浴衣だ。値段も安くて有り難かった。

「……脱いだ方が、良いですか?」

 なまえがそう聞けば、ダブルベッドを一瞬見た青峰は、少女の頬に手を伸ばした。そして猫の喉元を擽るように、相手の顎下を擦る。

「いや、着たままで良い」

 指先だけで相手をあやしながら、青峰は呟いた。そうして首を傾けるなまえへ、下手な笑顔を向けてやる。

「脱がすのは、オレの仕事だ」

 そう言って立ち上がった青峰は、キチンと座ったままの少女を持ち上げた。お姫様抱っこに驚いてバランス崩したなまえは、慣れない宙吊りに青峰のTシャツを掴んだ。

「重ェな……お前」

 デリカシーも無い言葉に、叩くと云う暴力が降ってきた。乱暴を始めた相手を放り投げるようにベッドへ寝かせ、自分の巨体も上から覆い被せる。乱れた裾元から白い太ももが覗いた。血管が透け、酷く綺麗だと魅とれた青峰は、赤と青の管を皮膚の上からなぞる。

 怒っていた筈のなまえは、クスクスと笑い声を漏らした。寝転がるには固くて邪魔な帯を腰から外し、ベッドの下に落とす。

 締める部分が無くなり、一気にだらしなくなる浴衣。細紐をほどくと、布地の前が開かれる。下着代わりのキャミソール。色は黒で、胸元がレース装飾だった。火神が見たら、きっと目を逸らすだろう。

 尚も漏れ出るなまえの笑い声に、青峰は不機嫌そうな質問をする。

「何がおかしいんだよ……」

「なんか……オヤジ臭いですね? 青峰さん」

 思わぬ台詞を鼻で笑った青峰は、照明を落として部屋を暗くさせる。どちらかが唾を飲み、喉を鳴らす。

 軋んだベッドが、甘い時間の始まりを告げた。





「……タイガ、入るよ?」

 氷室辰也がノックの後に扉を開けると、部屋の中央に黒いベルトが二本並んでいた。ソレは今朝に青峰と火神が喧嘩の末に決めた"境界線"なのだが、片方が居ない今は何の意味も無くなっていた。

 部屋の主は左側のベッドへ横になっていた。練習着のまま、背中を向けている。

「どうしたんだ、あんなに荒れて。今日は厄日か?」

 励まそうと幼馴染みへ近付くのだが、火神は壁を向いたまま動こうともしない。完全に氷室を無視している。

 子供のような態度に眉を怒らせた氷室は、火神の肩を掴んで振り向かせようとした。

「タイガ、子供じゃないんだ。拗ねてないで、笠松サンに謝れ」

 強情に動かない火神に向かって笠松の名前を出せば、肩を揺らし嫌々していた相手がコチラを向く。

「――ほっとけって……言ってんだろ?」

 その、怒りに燃え威嚇を見せる冷めた視線にも、氷室は戦き怖じ気付いたりしない。

「彼は関係無い」

 毅然とした視線を火神大我に向けた氷室辰也は、説教を始めようとした。ソレが面白くない火神は、氷室に向かって声を荒げる。

「ウゼェんだよ!!! 出てけよ!!!」

 火神が上半身を起こして怒鳴ると同時に、氷室は彼の頬を拳で殴った。力一杯に、容赦無く。

 反動で赤い頭が壁にぶつかる。遠慮の無い暴力に、火神は頬に手を置き黙ってしまった。

「エースなんだよ!! タイガ!! お前が!!」

 Tシャツの首元を捻り上げ、キレた氷室は火神へと怒鳴り始めた。目の前で目元を痙攣させる黒髪の男は、口元を半笑いにさせ火神に"最悪の手段"を突き付ける。

「アメリカに国籍移して逃げるか? なぁ、簡単だろ? 誰もタイガを引き戻せない」

 その提案に対して、火神は首をゆっくりと左右に振る。そんな卑怯な手で逃げるのだけは嫌だった。もう、正しい方法での後戻りは出来ないのだ。運命の中国戦まで、あと十日……。

「甘ったれんな」

 氷室から冷たく言い放たれ、捻った襟を突き離された火神は、再度身体を丸めて泣き始めた。

「…………こんなん、望んでねェ……よ」

 情けなく泣きじゃくるチームのエースもとい幼馴染みは、嗚咽に紛れて待遇の不服を漏らした。

「どんな経緯でも、チャンスだ。モノにしなきゃ……もっと、みっともないぞ」

 泣き出す火神を引き寄せて、胸を貸し頭を撫でてやれば、遠い昔を思い出す。ココでは無い、海を越えた大地で一緒にバスケをしていた頃……。

 小さい頃の火神は泣き虫だった。転んで膝を擦り剥けば泣き、バスケで氷室に勝てなければ泣き、地団駄まで踏んでいた。

 そう、彼は常に全力なのだ。手を抜く事を知らない。鍛えた目元は何時しか涙を流さなくなった。それでも、本質は変わっていない。火神は今でも、泣きたい時は全力で泣く。チームのファイナルで見せたあの泣き顔と今は、小さい頃と同じだった。

 アレックスにおんぶされ、鼻を啜りながら背中に顔を付けていた当時と、何も変わらない。――氷室は優しく微笑み、火神の固く短い髪を何度も撫でた。Tシャツの胸元は、相手の涙と鼻水でドロドロな筈だ。

 タイガは、子供時代と何も変わらない。

 …………それが堪らなく嬉しくて、少しだけ悲しかった。