八月二十四日、日曜日。

 早朝は六時に協会のビル前集合。始発が無い人間は前日から近くのホテルに宿泊。そうして二十五名+αはバスに乗り込んだ。殆どの選手が、高速インターへ乗り上げる前に仮眠を取る。やがて車内は寝息で溢れた。


「……何でお前と同じ部屋なんだよ」

 施設に着いた選手らは、各々の荷物を持ち割り振られた二人部屋へ入室したのだが、火神は向かいのベッドに荷物を置く男を睨んだ。

「コッチの台詞だよ、馬ァ鹿」

 文句に文句を返した青峰は、スーツの上着を枕元に投げる。火神も同じように、上着を二つに折りベッド上に投げた。

「お前、イビキうるせェからヤなんだよ。寝言も言うしよォ」

 ウンザリした顔の火神が、青峰の騒音に愚痴を言う。言われた方も黙ってはいない。

「お前だって歯軋りヒデェかんな!?」

 ネクタイをほどきながら青峰が言い返す。以前火神のマンションで飲み会をした時、酔い潰れた火神は歯軋りで戦慄のメロディーを奏でていた。それ以来、青峰が火神宅に泊まる事は一度も無い。

「テメェよりはマシだ」

 ベルトを外しながら火神がそう告げれば、青峰も負けじと応戦する。

「いいや、オレの方がまだ良い。お前最悪だぞ」

 やがて顔を突き合わせガン飛ばす二人は、お互いに譲らない。こんな下らない事で喧嘩出来る程に、彼等は仲が良い。そんな仲良しな二人は部屋の真ん中に境界線を引き、その微妙な範囲の違いでまた喧嘩を始めた。

「っざけんな青峰! コレじゃお前の方が広いだろ!!」

「んな訳ねェだろ! 馬ァ鹿! よ・く・見・ろ!」

 ノックの後に入り口を開け、両手にシーツを抱えた笠松は「また喧嘩してんのか? お前らは」と、呆れた顔をするのだった。


 …………………


 笠松から日程を聞き九時まで暇だと知った二人は、部屋に留まる事にした。青峰はベッドに横たわり、早速にも寝始める。寝息が深くなって来た頃、火神はスマホを耳に当て通話を始めた。電話の相手はなまえで、彼女はしばらくコール音を響かせた後、応答してくれた。

『……ようございます』

「悪ィ、寝てたか?」

 寝惚けて呂律の回らない相手の声にニヤリとした火神は、壁に掛かっているデジタル時計が8:15を指しているのを見た。

『大丈夫です、起きてました』

 年下に気を遣わせてしまった男は、特徴的な眉を掻いて用件を口にした。

「ドコに居りゃ良いんだ? 駅か?」

『そうですね。……少し混んでるかもですが。大丈夫ですか? み、見られても』

 なまえは並んだ姿を見られる事を心配していた。そんな事気にしなくとも、まだ宣伝の始まらない自分を『プロプレイヤーだ』と気付く人間は居ない。

「気にすんな。……そ、それより今日は浴衣姿だろ?」

 彼女は約束通り、今日の為に用意してくれたと言う。火神は浴衣の似合う清楚な女が好きだ。仕草もグッと女性らしくなり、そこはかとない色気まで醸し出される。これ以上の妄想は止め、会った時の楽しみにしよう。

「夜の七時半で良いか? オレ、取材あるからよォ」

 遅れる理由を口にすれば、予想通り相手は驚いて褒め称えてくれた。自己顕示欲の高い火神は、照れながらも頬を緩ませる。

「じゃ、駅に迎え行くからな。なるべく遅れないようにする。楽しみだ」

 最後にそう挨拶をした火神は、通話を終了し飲み物を買いにベンダーへと向かう。鼻歌混じりに、ご機嫌モードへ突入していた。

 ――ドアが閉まる音を背後に聞いた青峰は、わざと閉じていた目を開け寝返りを打つ。





 夕方六時。初日である今日は、早朝からの疲弊も考慮し、練習は早い時間に終了していた。とは言え内容はトップアスリートらしくハードだ。昼食を戻した人間も少なからず居る。肉体の限界値と相談しながら、倒れないギリギリで全力を出すのがこの世界の住人だ。

 夕食後、笠松がエントランスロビーの一角へ姿を見せる。そこにはスタメン……所謂"一軍メンバー"が揃っていた。同じレベルが集ってしまうのは、人間の性なのだろう。加えて彼等は学生時代からの知り合いだ。唯一、黛千尋だけはその限りでは無く、一人きりのテーブルで他の一軍へ背を向け本を読んでいた。

「青峰、氷室。お前ら明日インタビュー撮るってよ。コレ、原稿だ。今日中に覚えてくれ」

「はァ? インタビュー? 火神だけで充分だろ」

 氷室はクリアファイルに挟まった数枚の台本を眺め、その内容を確認しニヤリと笑った。

「あぁ、成る程ね? 了解」

「何だよ。イケメン選手の特集か?」

 図々しい特集を組んだ青峰は、クリアファイルから紙を出し二枚目を捲る。すると、ソコに書かれた文章に鳥肌が立った。

 ――内容は、火神大我に対する賞賛文だった。【火神選手は、自分の最高であり永遠のライバルです】で締め括られた讚美に、青峰は短い髪の毛が逆立ち、毛先までビリビリ痺れるのだった。

「……こんな思ってもねぇ事、どんな顔して読みゃあ良いんだよ」

 絶望に近い顔を見せる青峰の手から原稿を奪った紫原は、「うわ、見たーい」と呑気な事を言い出す。火神も青峰の口からこんな褒め言葉が出るのは気味が悪いらしく、神妙な顔になった。

「火神さーん、ちょっと良いですかー?」

 ロビーの向こうから社員証を提げたアシスタントが主役を呼びに来た。

「……打ち合わせだ」

 つまらなそうな顔して口を曲げた火神は、打ち合わせやミーティングの類いが嫌いだ。約束が無くとも、早急に終わらせたい。

「オンエアが楽しみだ、アレックスにDVD送らなきゃ」

「……やめろよ、こっ恥ずかしい」

 ニヤニヤする氷室に困った顔を向けた火神大我は、彼の提案を割りと本気で嫌がっていた。リアクションがオーバーなアレックスがどんな感想を送るのか、考えただけで恥ずかしい。

「っつーかここまで打ち合わせばっかだと、面倒臭ェな」
 照れ隠しにそう言って立ち上がる火神へ、文庫本から目を離さない黛が言葉を投げた。

「……お前、こういう目立つ系好きだろ」

 質問の意図が見えない火神は、猜疑心を持ちながら黛の相手をした。

「別に嫌いじゃねェけど……」

 小説から視線だけを外し横目でエースを見た黛千尋は、薄い唇の端を僅かに持ち上げた。

「猿回しみたいだよな?」

 その嫌味を含んだ言い方に、カチンとした火神は努めて冷静に言い返した。

「テメェは苦手だろうな」

「当たり前だろ。オレは人間だ」

 完全に喧嘩を売られている。反論しようとした火神を、笠松が止めた。

「火神、早く行け」

「でも、コイツ……」

「約束あんだろ? 先方を待たせるな」

 再度口を曲げながら、火神はロビーを後にする。先に告げた笠松幸男の言葉に興味を持ったのは、火神大我の幼馴染みである氷室辰也だった。

「約束?」

「この後、何かあんだってよ」

 詳しい事は知らないと肩を竦める笠松に、青峰が詳細を教えてやる。

「夏祭りデートだ。女子高生と」

「引くわー……」

 眉に皺を寄せた紫原が、棒付きキャンディーをガリガリ噛みながら『火神はロリコンだ』と決め付け、呆れる。

「タイガは年下が似合いそうだ。面倒見良いから」

 そんな氷室のフォローを聞きつつ、原稿を縦に丸め細長くした青峰は、軽く貧乏揺すりを始めた。何だか判らないが、苛つく。

「あんな喘ぎも下手なクソガキと付き合って、何が楽しいんだろうな?」

 そう呟いて腕を組んだ青峰は、今自分が"爆弾発言"をした事に気付かないでいる。周囲も、うっかり飛び出た事実に突っ込む事はしない。

 その後も誰一人青峰に問い質す事はせず、男の呟きは無かった事にされた。


 …………………


 夏祭り開場の近い最寄り駅は露店も幾つか出ている為か、大勢の人で賑わっていた。母親に可愛く髪を纏めて貰い、重たく感じる頭になまえの顔から笑みが零れた。浴衣も群青に黄色い帯。理由はコレが一番大人っぽかったから。外見が派手で目立つ火神の横を歩くのだ。後ろ指差されないように化粧も少しだけ頑張った。

 駅前に立つ丸時計が七時二十五分を指す。ソワソワする身体を落ち着かせようと、鏡を取り出し髪が崩れてないかを確認する。――その背後から、声を掛けられた。電車が発ち、多数の人々が改札から出てきたようだ。

「……なまえちゃん?」

 鏡を手に持ち固まったなまえは、自分の後ろに佐久間が立っているのに驚いた。彼もまた、誰かとお祭りに来る約束があるみたいだ。慌てた少女は、少しだけ後退りをした。

「……浴衣、可愛いね。友達と?」

 佐久間は、元彼女の大人びた格好を褒めた。

「あ……あのね、佐久間君」

 周囲を見渡し、火神の姿が見えない事を確認する。彼は未だに撮影が終わらないのか、連絡も無しに遅刻スレスレだ。でも今は、逆にソレが有り難い。

 火神大我と元彼氏が、エンカウントしないよう願う。なまえが一人緊張する中、佐久間の背後に誰かが立ち、その肩に手を回した。

「オイ! 佐久間聞いたか? 火曜日の部活は全員で試合見学だってよ!」

 茶髪につり目のその少年は、二人の同級生で男子バスケ部に所属していた。名前は知らないが、佐久間の話題に何回か出て来た記憶はある。

「……どうも。邪魔した?」

 口元を引き吊らせた茶髪の彼は、佐久間の肩から手を外して二人に気を遣う。

 佐久間が気まずそうに「いや、別に」と答えれば、友人は不穏な空気を飛ばすが如く捲し立てた。

「洛山来るってよ! 相手ドコだと思う? 日本代表だよ、ユースじゃねぇ方!!」

 "日本代表"と云う単語に佐久間の顔が暗くなる。今となっては尊敬出来なければ、見たくも無い選手が居る。彼が載っていた月刊誌も、全て捨てていた。お陰で棚がスッキリした。浮かない顔のまま、佐久間は友人の話題に答える。

「……そりゃ楽しみだね」

「こないだ合宿した山ン中の体育館だってよ。まぁた麓から走らされるぞ」

「うわ……。たった今、楽しみじゃなくなった」

 佐久間の冗談にワハハハハ……と豪快に笑った茶髪の同級生は、彼とこの場で待ち合わせをしていたらしい。勿論、お祭りに行く為だ。

「女子も着いたってよ」

 スマホを振り、軽快に話すフランクな友人は、改札に向かって大袈裟に手を振った。

 その方向に目を向けたなまえは、やって来た相手に身を縮込ませるのだった。その相手は、夏休み中頃に仲違いした親友だった……――。

「……ねぇ、何で居るの?」

 厳しい口調で敵意を向けられたなまえは、唇を噛む。視線を泳がせた彼女は、『一緒に行動する気はない』と伝える為に口を開いた。

「淳子、やめな? 別に良いじゃん」

 なまえより先に重苦しい空気を作り出した"淳子"を宥めたのは、一緒に来た女友達だった。だが、彼女もまたこの場に居るなまえを迷惑に思っているのか、コチラを一度も見ない。そりゃあ二対二のダブルデートに女子が一人増えれば、同性から邪険に扱われても仕方無い。

「……わ、私……約束あるから」

 胸の前で手を振り、四人との合流を拒否する。例え火神に約束をすっぽかされても、彼等と行動するのは嫌だ。

「え? 佐久間の彼女っしょ? 良いの? 浮気だよ?」

 三人の友人は、なまえと佐久間が別れた事を知らない。口にして良いかも判断出来ずに元彼氏の顔を見れば、相手は毅然とした態度で周囲に言い触らした。

「別れたから、俺ら」

「ウソ……。マジで?」

 茶髪の友人は、わざとらしく両手で口元を隠した。そのカマっぽい仕草のお陰で、空気が軽くなった。そして親友がコチラを見て、少しだけ申し訳無さそうな顔をした。だが、彼女も意地になっている部分があるのかソレだけで顔を背けてしまった。

「じゃ、じゃあ……良いのね? 行こっか」

 男友達が他の三人を誘導するのだが、佐久間だけはその場を動かずになまえを見ていた。

「――あのさ、約束の相手って……」

「違うよ! ……女友達」

 そう答えれば、彼は何も言わずに去っていった。――時計の長針は、八と九の間を指していた。





 時刻は八時を回った。立ち疲れたなまえは、運良く空いていたベンチに腰掛ける。スマホを確認しても、火神からの連絡は未だに無い。一度だけ電話を掛けたが、向こうは出なかった。――きっと撮影が遅れているに違いない。

 スマホを打ち込みメッセージを飛ばした。帰ろうかどうか悩んだが、せっかくのお洒落を見て欲しかったし、あわよくば褒めて貰いたかった。だから、彼女は留まる事を選んだ。気持ちだって伝えなくてはいけないし、火神も何か言いたい事があると言っていた。

 ――充電が切れたのは、八時を三十分過ぎた辺りだった。これでもう、相手からの連絡は受けられない。機嫌悪くなったと勘違いされるのは怖かったが、どうせ今日で終わる関係だ。これで嫌われても、構いはしない。

 そう思うと、涙が溢れて視界を滲ませた。火神を嫌いな訳じゃない。幸せになって欲しいと思う。優しくて包容力があって、頼りになり、不器用成りにも心の底から愛してくれる。――でも、自分には勿体無い人物だ。

 彼には、彼に似合う世界があるのだ。一般市民の自分にまでレベルを落とす必要なんか…………何で私は、普通の高校生なんだろうか?

 己の普遍さが悔しくて、惨めな気持ちをソレにぶつけた。周囲を歩く人々は、祭り帰りで楽しそうだ。なのに自分は、涙を流している。そのコントラストが明白過ぎて、恥ずかしさすら忘れなまえは泣き出す。

 背中を丸め、首を下げて一人の世界に入り込み、周囲から自分を隔離させた。そんな事をしても誰も彼女を気に止めないし、待ち人は現れなかった。露店は次々と店じまいを始め、もうすぐ華やかな時間が終わりを迎える。

 やがて目の前に現れた黒いスニーカーだけが、なまえの前で歩みを止めた。この靴の持ち主を彼女は知らない。火神が来たかと思ったが、それなら直ぐに謝り始めるだろう。ナンパかもしれない。それでも、彼女はその場から逃げたりはしなかった。

 目の前で立ち止まった人物は何も言わない。本当に、立っているだけだ。泣きながらでも顔を上げようとしたその時、ようやく相手が口を開いた。


「…………こんなトコでメソメソして、恥ずかしくねェのか? お前は」

 ――その声に、なまえの涙腺がまた刺激される。心のどこかで、立ち止まってくれた相手が"彼"じゃないかと期待していた。これが夢なら早く目覚めて欲しいと願う。

「火神、今日は無理そうだ。打ち合わせが長引いてる」

 顔を上げると、ソコには"彼"が居た。浅黒い肌に黒いTシャツ、髪とジャージは青色だ。着の身着のままで脱出して来たのか、お洒落さが全く無い。でも、"彼"は世界で一番格好良い。

 化粧崩れたなまえの顔を、青峰は小さく笑って馬鹿にした。彼とは一週間振りの再開だが、最後に会ったのは何だか随分昔のような気がした。

「ヒッデェ顔だな」

 何で居るの? 何しに来たの? どうして待ち合わせを知っているの? 火神さんは本当に来れないだけなの? ……あの美人さんとは、どうなったの?

 聞きたい事は沢山あったが、口元が緩んだ彼女は涙を流しながら笑顔を見せ、彼にこう聞いた。

「……どうしたんですか? その頭」


 ……………………


「――では、一服しますか」

 そう告げ、テレビ局と協会の人間は煙草を吸いに席を離れた。

 額に手を当て項垂れた火神は、時計が八時半を過ぎている事に絶望した。せめてスマホを持てば良かったが、推されている大事な時期に『態度が生意気』だとは思われてはいけない。スタッフに肩に手を置かれ体調を心配されたが、下手な笑顔で応対し部屋を退室した。

 直ぐ様自室に戻ると、部屋は暗く青峰の姿が見えない。まだエントランスロビーに居るのだろうと決め付け、ベッドサイドに置いたスマホを手に取る。着信は十九時五十分に一回だけで、二十時七分にメッセージが入っていた。

【お仕事ですか? 撮影頑張って下さい】

 その内容はなまえらしかった。そう言う部分を好きになったのだが――今はただ、その健気さが心苦しい。

「……こんな時に気ィ遣うなよ」

 履歴から電話を掛けるが、通話不可で留守電に切り替わる。終話ボタンを押し、切った火神は一人の部屋で泣きそうな顔をした。

 ――トボトボとロビーに向かうと、一角だけを蛍光灯が照らし、その明かりの元に三人の知り合いが座っていた。

「何やってんだ?」

 声のした方を向いた氷室は火神に「お疲れ」と労いの言葉を掛ける。彼の正面に座る黛が白面の駒を打ち、黒かった面を数個ひっくり返した。二人はオセロに興じているようだ。近くに座り、スナック菓子を口に頬張る紫原が代わりに答えた。

「ナンパを掛けてオセロ。室ちんが勝ったら体育館で自主練」

 どうやら影の薄い黛千尋は夏祭りに繰り出し、秀麗な氷室辰也を囮にナンパを仕掛けたいようだ。性欲無さそうな顔をしている癖に、隅に置けない男である。何気に盤面は白が多く、色素薄い男は勝利を見据えていた。

「タツヤに全部持ってかれるぜ?」

「一人で行くよか、マシだろ」

 火神の嫌味にも素早く返し、黛は次の手を打つ。軽い音が広間に響いた。辺りを見回し、ある男の姿が見えない事に気付いた火神は、三人に質問する。

「青峰は? まさか自主練か?」

 盤面を睨む二人は無言を貫く。だから今度も、紫原敦がダルそうに答えた。

「夏祭り。ナンパするってさぁ。つい三十分前に出てった」

「――ナンパ?」

 怪訝そうな顔をして目を細めた火神に、駒を手にした氷室が声を掛けた。

「……タイガ。相手を出し抜くには、チャンスを見逃さない事が大事だ」

 そう言って彼は、盤に黒い面を打ち込む。状況を圧していた黛の顔が、瞬時に曇った。

「こんな風に……」

 綺麗な指でパチン、パチン……と駒を裏返していく。その数は多く、思わぬ穴を見落としていた対戦相手の顔は、表情乏しいながらに険しくなっていった。

「逆転勝利の、盤狂わせだって出来る」

 気付いたら黒が増え、形勢逆転していた。「はぁ?」と呟いた黛は次の最善策を考えるが、見付からないようで髪をグシャリと掻き乱した。どう頑張っても、ココから白を増やすのは無理だった。

「さ、自主練だ」

 立ち上がった氷室が涼しげな笑顔で体育館へ誘う。拳でテーブルを叩いた黛は、渋々立ち上がる。紫原も二人と共にエントランスを後にした。

 三人の中で一番背が高い男が、最後に口にした「室ちんってさ……格好付けだよね?」と言う台詞だけが、ロビーに余韻を残した。

 火神は誰も居なくなったソコで、氷室が逆転したオセロを眺める。黒が白より微量に多い。ソレが今の自分と青峰のようで、ムカムカする。

 ――アイツはナンパになんか行っていない。会いたい人間に、会いに行っただけだ。チャンスを見逃さなかった男は、形勢を逆転させに向かった。朝の電話を聞いていたのなら、待ち合わせの場所も時間も判る。聞かせるなんて、迂闊過ぎた……。

 今更追い掛けても遅い。二人が出会ったら、自分の恋は呆気無く終わる。最悪、なまえが自分を諦めて帰り、待ち合わせ場所に居なければ……まだ勝算はある。

 何にすがれば良いかも分からない火神は胸に燻る苛々を逃す為に、紫原が引いたまま戻さなかった座椅子を蹴り飛ばし、激しい音を響かせた。