八月二十二日。金曜日。

 何時も通りスーツに身を包んだ青峰は、アパートの自室前に佇む来訪者に驚き、複雑そうな顔をした。

「……何してんだよ、そんなトコで」

 声を掛けてやれば、客人は自分の髪型に驚き指を差した。

「誰だお前!!?」

 相変わらず無駄にうるさい高身長の男は、色素が薄い割りに生命力溢れた見た目である。名は若松孝輔。高校時代の先輩、チームメイト……そして桃井さつきの元恋人。青峰の【会いたくない人物トップ3】に、現在もランクイン中である。

「最近のゴリラは散歩すんのか」

 嫌味のひとつもくれてやれば、相手は頭を殴るつもりで拳を振る。青峰が寸でのワンモーションで回避した為、若松のパンチは宙を掻くだけになった。

「相変わらず生意気なんだよ」

 振り損ねた拳を下げ、現役スポーツ選手の素晴らしい動体視力へ憎々しさを込めた若松は挨拶を吐き捨てる。

「帰る場所忘れたのか? 動物園はココじゃねぇ」

「おまっ……!!」

「園に苦情の電話してやる」

 若松の白い額に浮き出た血管を無視し、青峰はガラパゴス携帯を開いて耳に当てる。画面は未だに待ち受けのままだが、その冗談は相手へ"センスの悪い嫌がらせ"であると伝えてくれたようだ。

「ふざけんな!!」

「怒鳴るなよ。近所迷惑だ」

 部屋の鍵を開けた青峰は、先輩に向かい顎で入室を促した。ドアを開ければ、誰も居ない部屋は薄暗く、生温くて雄臭い空気が二人の男性を歓迎した。

 青峰が床に腰を下ろし片膝を立てると、若松は正座をして膝に拳を置く。緊張した面持ちで口を開いた元キャプテンは、いつの間にか顔全面が赤くなっていた。

「……さつ……っ、桃井が世話になったな」

 普段は馴れ馴れしく『さつき』などと呼んでいるのか、若松はしどろもどろにお礼を言う。呼び方の変化が生々しく、青峰は舌打ちをした。桃井も若松を『孝輔さん』と呼んでいたし、若者らしくて初々しい付き合いだ。――だからこそ、苛々が積もる。

「近頃のゴリラは、飼育サービスにまで手を伸ばしたのか」

 青峰は若松を鼻で笑い馬鹿にした。わざと"恋人"を匂わせない単語を用いる。『お前だって、見た目ゴリラだからな!?』――そんな反論が返って来るのだと思っていた。しかし今の若松にはそんな余裕も無く、直ぐに本題へと持っていかれた。

「あー……。何っつーか、その。オレら、話し合って――」

 頭を掻いた若松は、視線を斜めに移動し唸る。

「婚約する事にした!」

 厭になる程大きな声で告げられた報告。そのめでたい話に、青峰は固まった。心臓が止まりそうになり、目眩がする。ショックで息苦しささえ覚える。

「就職先決まったら……結婚すんだよ」

 居たたまれなくなった青峰はリモコンに手を伸ばし、テレビを付けた。バラエティーが始まった直後らしい。最近人気のゆるキャラが、持ち味の躍動感ある動きでスタジオを湧かす。

「喧嘩した理由、アッチから聞いたか?」

 人気キャラ特有の甲高い悲鳴と、雛壇出演者の笑い声が部屋に響く。「コイツ、どこででも見るな」と話題を逸らそうとした青峰は、若松の真剣な表情に邪魔された。

「――聞かねぇよ。お前らのお付き合いになんか興味ねぇし」

 勝ち気の強い顔を曇らせた若松孝輔は、重々しい口振りで"きっかけ"を話した。それは二人が喧嘩する原因であり、不安定になった桃井が火神や青峰を頼った理由でもある。

「…………三ヶ月、生理が来なかった」

 その台詞が言い終わって直ぐ、青峰は若松の首元を掴んで捻り上げていた。ゴツい顔を突き合わせ、掴んだ襟元を持ち上げるように力を込めれば、若松は慌てたように弁論を始める。

「病院行けって言っても、行かなくてよ! 大丈夫だから、大丈夫だから、って」

 興奮で表情が読めない青峰は、息が荒く肩が僅かに上下していた。過去形だったのが唯一の救いだ。進行形だったら、怒りに任せて半殺しにしていたのかもしれない。

「――妊娠は、してねぇ。……外れたんだよ、その、アレが、えっとなぁ。だから避妊は……――」

 手を離した青峰は、拳でテーブルを強く叩く。ガァンと打撃音が響き、若松の釈明を打ち止めにした。

「……そんな事聞いてねぇよ」

 性行為を仄めかす言葉に、歯を食い縛る。そりゃ二人はカップルだ。セックスをしない方がおかしい。でも、こうやって改めて口にされると、厭な気分にもなる。

「お互い、身持ち考える良い機会になったんだよ」

「何で、オレに、ソレを……伝えるんだ?」

 憤りを堪える青峰は、言葉がぶつ切りになってしまう。この余裕の無さが、本当嫌になる。

「仲良いからだ、桃井と」

「……良くねぇよ。興味ねぇって……言ってんだろ」

 淡々とした会話が続いた。興奮しがちな二人は、出来るだけ自分を押さえていた。一種の意地でもある。――どちらがより"桃井を愛しているか"の我慢比べにも等しい。勿論、勝敗は決まっている。

「日曜、アッチの実家に挨拶に行く。忙しい週末になりそうだ」

 勝者はそう告げて、白い身体を起こした。敗者である黒い肌をした男は見送る事もせずに、テレビから視線を離さない。内容が頭に入らない癖に、自分が負けた事から必死に意識を逸らす。

 玄関が閉まった瞬間、青峰はその場に踞り、出来るだけ小さく身体を丸めて肩を抱く。一人しか居ないこの場所でも、泣くのだけは表に出したくなかった。自分の身体で顔を隠し、目元に押し当てた膝頭が濡れるのをズボン越しに感じる。

「……ずっと近くに居たんだぜ? 今まで、ずっと……」

 桃井が遠くに行ってしまう。物理的にでは無い、精神的にだ。ソレが一番辛い。触れられる距離に居るのに、彼女はもう自分のモノでは無いのだ。

 選択を間違えた。返すんじゃなかった。あの時、抱き締めたままキスをしてやれば良かった。苦しんでいたのなら、逃げ場所になってやれば良かった。

 ――素直になれば良かった。

 悔やんでも悔やみきれない。日曜日に挨拶をすれば、晴れて二人は婚約者同士だ。結納も行われるかもしれない。嫌だ、嫌だ、嫌だ……。もう、幼馴染みには手すら出せない。

 嗚咽にまみれ身体が震える青峰は、怒りを桃井さつきに向け始めた。

 こんな風に簡単に捨てんなら、最初から気に掛けるんじゃねぇよ。世話すんなら、最後までしろよ。中途半端に優しくすんなよ。期待させるような言動は止めてくれよ。

 野次る途中で、自身も桃井と変わらない事に気付く。……そう、青峰にだって、中途半端に優しくして期待させて、世話を焼いて捨てた人間が居る。

『私なら大丈夫です』

 ――それは確かに耳元で聞こえた。一週間と云う時間を経ても、鮮明に思い出される少女の声。

「うるせェんだよ!! 出て来んじゃねぇよ!! 殺すぞ!!!」

 亡霊のような少女の影にすがらないよう、青峰は声を張り上げ怒鳴る。――だって、今のは都合の良い妄想にしか過ぎない。『桃井が駄目なら、自分が居る』そう言って欲しい男の、汚い願望だ。


 ……強がりが、一番惨めだ。


 中学からの友人は、独り言のようにこう呟いていた。その通りだ。青峰は、世界で一番惨めな男になってしまった。

 ――彼の小さな世界で、一番の哀れな男。




 八月二十三日。土曜日。

 合宿に備えてなのか、早朝から姿を見せたのは火神と青峰の二名だけだった。更衣室でエンカウントした火神は、気まずそうな顔をして先客の名を口に出す。

「……青峰」

「今日から午前も参加か」

 着替えも終え、黒いTシャツにブルーのバスケットパンツになっていた青峰は、ベンチに足を載せ靴紐を結んでいた。

 上のTシャツは自前だが、パンツは代表選手に配布されたモノだ。ユニフォームも青と白。黒いラインが横に一本。火神もコレを履いて練習に臨む。

「――なぁ、青峰。オレ殴ったの、目元だったか?」

 腫れた目蓋を隠しもしない青峰は、舌打ちしてベンチから足を退けた。ロッカーの前で荷物を下ろした火神は、青峰の顔も見ずに謝罪を述べる。

「……一昨日は悪かったな」

「自分棚に上げて、よく殴れたよな?」

 冷たい台詞に、鍵を握る手に力が入る。二十一歳の誕生日に己がした事を、忘れた訳では無い。男は青峰より先になまえへ手を出そうとした。しかも無理矢理にだ。性癖に託つけて、嫌がる相手に自身を当てがった。

 ――なのに火神大我は、先日青峰大輝を殴ったのだ。それは正義感からじゃない。浅ましい嫉妬からだ。二人は各々、拳に込めた理由が違う。自分が情けない。火神は溜め息で失望を飛ばして、悪戯が無くなったロッカーを開けた。


 …………………


 同日、午前十時。代表選手らは、何時ものように体力造りに励んでいた。明日からは実践に実戦を重ねる日々だ。監督が現れた事で戦略だって立てられる。合宿最終日には親善試合もある。相手は国外のアマチュアチームか、自国のユースか? と噂が立っている。

 ソレは25Mのインターバルを終え、一息付いている時だった。

 「オゥ、ダイキー! ダイキー!!」と言いながらラジコンを操縦するオモシロ外人が、アリーナへその恵体を見せた。吐くまで走らされグッタリした選手達は、入り口へ目を向ける。日本代表監督は昨日の教訓を受け、今日は空飛ぶヘリコプターのオモチャを自由自在に動かしているようだ。

「誰だ? あのオッサン」

 初めてそのポルトガル人を見る火神は、部外者だと思っているのか、迷惑そうな顔をして立ち上がる。

「監督だ」

 その答えを聞いた火神の目と口元が、僅かに引き吊った。

 ブンブンと小うるさい音で青峰の頭上を旋回し出したラジコンヘリは、掴もうと手を伸ばしても宙に逃げてしまう。大気を掻くだけになる腕を見て、監督は愉快そうに爆笑をする。

「あんな高く逃げられたら、叩き落とすのは無理だろ」

 火神が天井スレスレを器用に飛ぶヘリを眺めながらそう呟く。喧嘩を売られた青峰は、怒りのままに立ち上がり、監督の方へ歩み出した。

 オモシロ外人の手からリモコンを強奪した男は、力に任せ左側のレバーをへし折ってやる。左右上下の指示を出せなくなったソレを、後方に投げると機械は床に落ちガチャンと嫌な音がした。ついでにラジコンヘリは、壁に激突して墜落した。監督はオモチャを壊されたショックで、顔面の重力を忘れたかのように皮膚を垂れ下げた。

 ちなみに黛が顔を下げ踞っているのは、笑っているのを周囲へ悟られないようにである。

「やり過ぎだろ」

 火神が半笑いで青峰をたしなめると、鼻で笑った青峰は八つ当たりを白状した。

「昨日から虫の居所が悪ィんだよ」


 …………………


 午前の練習と昼食を終え、食堂で惰眠を貪る青峰に主将である笠松が声を掛けた。褐色肌の男が突っ伏すテーブルに手を置き、要項を差し出す。

「合宿の最終日、火曜はIH優勝校と親善試合だ」

 ノソリと顔を上げた青峰が、目の前に置かれたプリントに目を通し、寝惚けて掠れた声を出す。

「こんな時期に高校生とバスケしてどうすんだよ。慈善事業じゃねェんだぞ」

「慈善事業だ」

 その会話に、同じく目を覚ました火神が混ざる。額を掻き、大きく欠伸をしながら。

「今年は洛山だろ? 秀徳との一騎打ち。テレビで見た」

 今年のIHは、歴史深い強豪校同士の決勝戦だった。大盤狂わせの無い、見立て通りの流れだ。

「誠凛は散々だったな」

 青峰が自分達世代を狂わせた高校の名を口にすれば、出身者である火神はムスリとする。母校である誠凛は、地区の予選で敗退していた。当時、記事で結果を見た火神の落ち込み様は、可哀想な位に判りやすかった。

「言うなよ、ソレ。……お前ントコもだろ」

 同じく桐皇も、IHの第一戦で敗退していた。神奈川の名門、海常相手に巧く立ち振る舞えなかった。

「たかだか最近力入れた高校が、天才も無しに勝てるか? 勝てねぇよ」

 青峰は、まるで自分が桐皇を一人で全国レベルに持ち上げたかのような口振りで話す。ソレはあながち間違いでも無く、彼は圧倒的なセンスとパフォーマンスで高校バスケ界へ君臨した"スーパーエース様"だ。

「ソレ言ったら、オレも天才だろ?」

 火神が負けじと自分を持ち上げる。彼もまた、荒削りながら成長を続け現在の地位を手に入れた。賛否両論はあるが、やはりコートの中の火神は他者の追随を許さないオーラがある。しかし、青峰はそんな自国エースを見下し、鼻で笑った。

「馬鹿は扱いが楽だ」

「馬鹿って何だよ! 阿呆」

 レベルの高い二人が、レベルの低い争いを始めた。笠松は溜め息を吐いて目を細める。

「高校生だからって舐めたプレイすんなよ。結束力で負けんぞ、お前ら」

「「結束力ねぇ……」」

 二人の台詞はタイミングが被り、「真似すんな」「真似してねぇ」の応酬が始まった。まるで子供の喧嘩だ。呆れた笠松は二人から離れようとする。

「……っと、火神。お前日曜は夕方から開けとけよ」

「はにゃっ!?」

 思い出したかのように火神への用事を告げた笠松。火神は奇妙なリアクションと共に固まった。

「密着取材のインタビュー撮るって、テレビ局の連中が」

 真っ青な顔になり、その後顔面を赤らめた火神は断固拒否する。チームの練習ならともかく、そんな受けたくも無いインタビューで楽しみにしている約束を潰されるのは嫌だ。【よく食べ、よく遊ぶ】――火神大我が掲げる座右の銘だ。

「無理だ! その日は忙しい!」

「はァ? 田舎町でナンパでもすんのか?」

 その我が儘に、笠松は困った顔をした。太い眉を潜めて理由を聞くが、火神は答えない。

「とにかく忙しいんだ! 後日にしてくれ」

 首を激しく左右に振り、スケジュールの変更を申し立てる火神へ、理由に気付いた青峰が問い掛ける。

「ガキのお守りか?」

「テメェには関係ねぇだろ」

 火神は牽制するかのように、低くドスの効いた声を出した。表面上では仲が良くても、この部分だけは敵意を剥き出しにする。

「五分程度のインタビューだ。一時間も掛からねぇだろ?」

 笠松が『面倒事は止めてくれ』と言いたげに説得する。火神も【拘束が一時間程度なら祭りにも行けるだろう】と踏み、拘束への承諾を出した。

「……だったら、良いけどよォ」

 そうして縦に頷いた笠松は、氷室と紫原の元へ向かった。こうやって全員に伝え激励するようだ。主将業は大変である。自分なら死んでもやらないと再認識し、青峰は再び突っ伏した。……のだが、思い出したかのように火神へ声を掛けた。

「……さつきが結婚する」

 コップから口を離した火神は驚き、「若松サンと、か?」と問い質す。顔を上げない青峰は、弱々しさを醸す声で呟いた。

「趣味の悪い幼馴染みだ」

「……元気出せ」

 何て声を掛ければ良いか分からない火神は、青峰の肩を数回叩く。

「日曜日に挨拶だとよ。野郎、タイミングに恵まれたな? 暇だったら邪魔しに行ってたぜ」

「なら麻酔銃が必要だな? 捕獲すんのによォ」

 若松を動物扱いした火神がそう言ってライフル銃を構える格好を取れば、青峰はククク……と笑った。