「……それで、ボクの所に来た訳ですか」

 シンプルな部屋は懐かしく、昔に訪れた時より大分様変わりしていた。大きな学習机が無くなり、代わりに炬燵テーブルが部屋の中央に置かれている。

 自宅までの終電を逃していた青峰は、結局黒子を頼る事になった。非常識な時間帯の来訪にも応じてくれた旧友には頭が上がらない。更には一杯のインスタントのコーヒーで、カタチだけの歓迎もしてくれた。

「お前ん家来るの、中学以来じゃねぇか?」

 中学二年まで度々黒子宅にお邪魔していた青峰は、昔を懐かしむ。

「そうですね。昔、祖母がキミを見て"外人さんだ"と興奮していました」

「今は更に驚くな。あん時からデカくなったし」

「検査入院中なんですよ。母も付き添いだし、青峰君を見せられなくて残念です」

 縦に伸びタッパも大きくなった青峰は、ワイシャツ姿で笑う。その笑顔も歳を重ね、渋くなっていた。

「……何したんですか? 喧嘩?」

 青峰の赤い頬を眺めながら、黒子は首を捻る。腫れは少ないようだが、どう見ても打撲痕だ。血気盛んな人間は大変そうだ……と、喧嘩に縁がない黒子テツヤは溜め息を吐く。

「火神に殴られた。綺麗な右ストレートだ」

「また怒らせるような事、したんでしょう? 青峰君は喧嘩を売る天才ですから」

 火神の肩を持つ訳では無いが、彼は意味無く人を殴るような性格では無い。八つ当たりなんてもってのほかで、どうせ諸悪の根源は青峰にあるのだろう。

「テツが心配してるぞって言ったら、コレだぜ?」

 まさか自分の名前が出るとは思わなかった黒子は、大きな水色の目を見開き、少しだけ驚いた表情を見せた。

「ボクのせいにしないで下さい」

 黒子の批難を聞き流した青峰は、上がっていた口角を少しだけ戻す。

「……オレは、自分が判らねぇ」

 ――正直に言ってしまえば……火神から【なまえが自分を待っている】と聞かされた時、迎えに行こうかとも思った。明るさと温かさに飢えている。今の部屋は暗くて冷たいだけだから……。でも、連絡先も知らない。往復している時間も無かった。――拒否されるのは、もう嫌だ。その数々の理由が、男をこの場に留まらせる。

 黙り込む青峰を見て、黒子はジトリとした眼差しを向けた。目の前の巨男は"自分の中"で、自分と議論をしているのだ。青峰大輝は後先考えず行動する癖に、少し考える時間を与えてやると、些細な事で"逃げ"に回る性格だ。

「素直じゃないのも、キミの専売特許ですから」

「オレ以外にも、素直じゃねぇ奴は沢山居るだろ」

 青峰は、俯き気味だった顔を上げコチラを見てきた。予想通り、彼は"自分"と葛藤していたようだ。

「キミ程素直じゃない人を、見た事が無いです」

「……あっそ」

 ツンケンした返事の青峰は、この場でも素直さを見せない。それはもう――徹底して核心に染み付いてしまった"保守的な部分"なのだろう。

「自分が強いからと言って過信していると、いつか一人ぼっちになってしまいますよ?」

 黒子のアドバイスさえも鼻で笑った青峰は、熱が引いた頬を撫でている。言葉に込めた本当の意味は、通じて無くても良い。何か青峰が動き出す切っ掛けにさえなれば、それで構わない。

「……強がりが、一番惨めだ」

 黒子はそう呟いて、斜め下へ目を伏せた。テーブルに乗った華奢なティーカップのコーヒーを啜った青峰は、その苦いだけのインスタントな味に馴染めずに、一口でソーサーへ戻した。





 八月二十二日。その日、代表の練習に変化が訪れた。笠松がアリーナへ誘導して来た二人の男性に、全員が興味を持つ。一人はスーツ姿に眼鏡。生真面目そうな顔立ちをしたアジア人である。その後ろを歩く卵体型な中年男性が、手に何かを持っている。機械のようだが、ソレが何かは直ぐに判った。

 突如アリーナの出入口から飛び出した赤いスポーツカーのオモチャ。モーター音を響かせ、笠松の足下をグルグル回る。不機嫌そうに眉を寄せた主将は、旋回するラジコンを手で掴み捕獲した。

 体格良い中年男性は、オゥ……と残念そうな声を出して笠松からラジコンを受け取った。それと同時に、代表選手へ集合が掛かる。

「何だ? あのオモシロ外人は」

「監督じゃ無い事を祈る」

 青峰が独り言のような疑問を口にすると、隣に立った黛がこれまた独り言のような返事をした。しかし、彼等の些細な願いは一瞬にして砕けるのだった。

「今日から着任する代表の監督と、その通訳だ。監督はポルトガル人だが、英語での会話が可能だ。」

 二人は各々に自身の名を告げ、頭を下げる。最悪な事にラジコンを床にセッティングしているデブが、日本代表監督のようだ。氷室なんかは信じられずに目を見開いている。

 走り出した赤いラジコンカーは、並ぶ選手の足下をジグザグに走り、最終的にある男の周囲をグルグルと回り始めた。

 青峰は、ラジコンが足回りを激しく旋回するのに苛立つ。更には「オゥ、タイガー? タイガー?」としつこく聞いてくるオモシロ外人。怒りを逃がすのに、丁度前を走るラジコンを蹴飛ばし床に転がした。小回りが利く分、繊細なソレは、可哀想な事にタイヤの軸が折れてしまっていた。

「オレはダイキーだ」

 オモチャを破壊した青峰がそう言えば、隣に立つ黛の喉が「グッ……」と奇妙な音を立てる。

 転がった方が速そうな身体で前屈し、壊れたラジコンを拾った監督は急に真剣な顔をして何かを話し始める。彫りの深い目元は、途端に迫力を醸し出した。

「カガミタイガは何処ですか?」

 通訳の男が、笠松へとそう聞く。監督が真剣になったのは、チームのエースである火神大我の動向を知りたいが為だった。

「か、火神は今日CMの撮影で居ないっス、一日中……」

「彼の動きを観ました、ビデオで。高校のIHから、ずっと」

 ヒアリングで意味が判るのは、氷室以外に若干名。早口で捲し立てる監督の言葉は理解出来ず、通訳を介して初めて分かる選手が殆どだ。笠松も青峰も、後者だから質が悪い。

「――何故、彼は弱くなった?」

 その問い掛けに、笠松は答えられなかった。――そう、火神大我は明らかに弱くなっていた。それは、つい最近のゲームで笠松自身も感じていた。最後のW.C.で戦った彼とは何かが違う。まるで鎖に繋がれ、自己を押さえ付けているようにも見える。

 ……信頼出来る仲間が居ない。たったソレだけで、火神の実力は半減している。本人は、この事に気付いているのだろうか。

 監督の興味が、また違った人物へと向けられる。

「貴方は強いのですか? カガミタイガと戦っていた。大分自由な選手のようですが……」

 監督が壊されたラジコンを撫で、小さな声で「マザーファッカー、ダイキー」と呟けば、黛は顔を真っ赤にし肩を震わせる。どうやら彼のツボに嵌まったらしい。笑いを堪えるのに必死だ。ついでに通訳は「ダイキはクソッタレです」と、ご丁寧に悪口まで訳してくれた。

「ダイキ、ポイントガードの経験は?」

 監督の質問へ、クソッタレは毅然とした態度で答えた。

「ねぇよ。オレはポストプレイヤーだ」

 するとポルトガル人の監督は、突如ハハハハと笑い出した。大きな瞳に大きな口、笑い声まで大きいなんて、パニック映画なら真っ先に死ぬだろう。

「ならば、ポイントガードをやれば良い。自分の為に、挑戦すべきだ」

「パスを回すのは好きじゃねぇ。オレはスコアラーで居たい」

 ニヤニヤした顔で異国語の会話を続ける監督。次に通訳が告げた"彼の言葉"は、男の自信を叩きのめすのに充分だった。

「――世界の舞台に出れば、体格差で負けるでしょう」

 青峰の表情が瞬く間に変化した。告げられた一言にショックを隠せないようだ。――そうだ。NBAでの190cm台は、決して大きいとは言えない。ココ日本と違って、身長がアドバンテージにはならない。紫原レベルで、やっとパワーフォワードやセンタープレイに食らい付けるのだ。

《タイガーも、アッチでは苦労するだろう》

 ……タイガが?

 通訳されずに消えた監督の囁きへ反応したのは、前列に立ち、且つ英語の理解出来る氷室だけだった。

 アッチとは海外を指しているのか? それならタイガは国外移籍も視野に入れられているのか? ……そして、何故今の言葉が通訳されない?

 勘の鋭い氷室の頭に幾つかの疑問が湧いた時、選手達は解散を言い渡された。






 ――十コールの後、目当ての相手が電話口に応答した。ミッドナイトコールに近い時間でも、向こうは起きていたようだ。

『――練習お疲れ様です。火神さん』

 肩に力が入り、緊張気味な赤毛の男はスマホを耳に付ける。意味無くベッドの前を歩き回るのは、電話の相手を"自慰のオカズ"にしてしまったせいだ。デリカシーの無い火神でも、申し訳無さは感じる。

「おぉ、元気だったか? ふ、二日しか経ってねぇけど……」

 なまえへの挨拶を済ませた火神は、ベッドに腰掛け頬を掻く。彼女とは何度話しても、やはり最初の言葉がどもってしまう。

『…………彼氏と、別れました』

 受話器から寂しそうな声が漏れ出す。その報告を聞いた火神の心臓は、期待で大きく跳ねた。

「そうか。頑張ったな」

『ありがとうございます』

 ――これで彼女に恋人が居ない。今すぐ自分を彼氏に迎えるべきだと説得したいが、二人が付き合うには年齢がネックになる。あと二年半、少女が十八歳になるのを待たなければだ。恐ろしく先は長い。

「あぁ、そうだ。オレ、今日CM撮影だったんだぜ?」

 話題を変えた火神大我は、本日都内の某スタジオでCMの撮影を行っていた。ソコで驚いたのが、待ち時間の長さだ。たかだか三十秒の映像二本撮るだけでも、数時間平気で待たされる。

「……顔にケショーされた」

 ウンザリした声でそう言えば、向こうは興味深そうな声で笑い出す。

『お化粧ですか?』

「ドーランとか言ってたな。頬触ったら怒られたんだぜ?」

 顔色を調整するのにドーランを顔に塗られた火神は、慣れない息苦しさに頬を擦ってしまう。そうしてメイク担当に嫌味を言われながら、イチから塗り直しをされた。

『でも、火神さんって肌綺麗ですよね』

 なまえが前触れも無く言い出したその褒め言葉に、首を左右に振りながら火神は全力で否定した。

「いやっ、いや……! ソレはねぇ! ねぇよ! おまっ、お前の方が……!!」

 まるで相手が目の前に居るようだ。火神は目蓋を最大まで開け、口をモゴモゴさせた後に恥ずかしい程"直球な台詞"を口にする。

「――……お前の方が、キ……綺麗だ」

『あのっ、そんな……。ありがとうございます……』

 褒め合った二人の会話に沈黙が訪れる。変な空気を作り出した己を深く誹謗したい火神は、額を押さえ首をもたげる。

「……あのよ、今週日曜から火曜まで合宿なんだよ! オレら代表の」

 いたたまれない男は、週末から始まる合宿を話題に出す。

「場所、どこだと思う? お前ん家近くの複合施設だ。山ん中の!」

『えぇ〜!? アソコなんですか!? 結構山登りますよ!?』

 驚いた声を出したなまえは、会場の場所を知っているようだ。鳥頭で且つ臆しない火神は、また変な空気になりそうな台詞を吐いてしまう。

「う……う、う……運命だな!!」

 その言葉に相手は黙り込んでしまった。それはそうだ。コレで運命を感じてしまうのなら、同じ日本代表である青峰大輝にだって『運命の相手だ』と言えるのだから……。火神は、頭に置いた手のひらの中で毛髪をぐしゃりと握った。

『……日曜日、近くの神社でお祭りあるんですよ』

 無言の後、少女は今週末の催し事を教えてくれた。その情報に、火神は直ぐ様反応を示す。

「祭り!?」

『行く人居なくて。……でも、忙しいですよね』

 ガッツポーズ付きで「ッシャオラァ!」とバレバレの気合いを入れた火神は、合宿夜の予定を大袈裟に伝える。――勿論、彼は夜の予定など全く知らない。

「暇だ! 夜は暇!! 山道走るしかする事がねぇ!!」

『本当?』

 嬉しそうな声を聞いた火神は、相手の笑顔が頭に浮かんだ為恥ずかしそうに頭を掻く。

「ゆ、浴衣! 浴衣着てんの……見てみてェ」

 その我が儘に乗ってくれたなまえは『可愛いの買います』と、自分の為に浴衣を用意してくれると言う。幸せ過ぎて、明日頭に鳥のフンが落ちて来そうだ。

「おぉ! サッ、サンキュー!」

 神へ感謝を捧げる火神は、片想いの相手から誘われた事に浮き足立つ。もし二人の関係を周囲に聞かれたら、青峰のように『従妹だ』と誤魔化すつもりだ。ソレが間違いだと知っているのは、なまえの家族と青峰と氷室だけなのだから。

『…………火神さん、あの……』

 少しだけトーンを下げた声が聞こえた。脳内の花畑から自室のベッド前へ意識を戻した火神は、そんな少女の様子を気遣う。

「何だ? 大丈夫か?」

『……何でも無いです。お祭り当日に、お話します』

 不吉な展開にギクリとした男は、なるべく気にしていない様を作った。

「何だよ、気になんなァ……」

 そう気さくにツッコむのだが、再び訪れた沈黙に不安が加速する。だから火神は口を開いた。

「オレも、お前に教えておかなきゃだ」

『やだ、何か怖いんですけど』

 本当は、今日の電話で青峰の事を教えるつもりだった。隠していても良いが、相手が事実を知った時に卑怯者だと思われるかもしれない。青峰大輝の現状に彼女の心が揺らいでも、コチラを好いてくれるように努力すれば良いだけの話だ。

 ――だけど火神は、敢えて今日話すのを考え直した。

「……祭りの、当日に話す」

『気になりますよ! ズルいです! ソレは!』

 ワハハハと声を上げ笑った火神は、同じように電話越しの明るく笑う声に救われるのだった。


 …………………


 先に電話を切ったのは向こうだった。恥ずかしそうに囁かれた愛の言葉は情熱的だったが、くぐもっていて少し聞き取り難かった。

『オレは、お前の事……お、女として気になってんだからな』

 なまえがその擽ったい台詞に喜べないのは、一昨日佐久間に指摘された部分があるからだ。

 火神もやがては華やかな世界の住人と交流を持つ。美しい身なりに磨かれた身体。写真やテレビ越しでもあれだけ魅力的な芸能人が目の前に居るとなれば、火神だって興奮するだろう。

 そうなった時に、果たして彼の関心が何時までも自分に向いるだろうか。未来の事は、誰にも判らない。明日にでも綺麗なモデルと交流を持つのかもしれない。そもそも……何故あんなにも男前な男性が自分を気に掛けるのか、ソレさえ彼女は判らない。

 更に、花火や焼肉に無駄とも思える金額を簡単に注ぎ込める男だ。経済状況もなまえが予想出来ない程に潤っている気がする。スポーツ選手だけあって鍛え抜かれた肉体は見事だし、情熱的な性格は真っ直ぐで、エスコートにも一生懸命。機会にさえ恵まれれば、確実にモテる。

 だからなまえは夏祭りの日に告げるつもりで居る。一途な火神が自分にだけ目を向けているのならば、彼に来るべき出会いの妨げにもなっている。

 身体を折り、ベッドの上で身を丸くした。その時の火神のリアクションを想像すると、胸が締め付けられ目頭が熱くなる。


 ――私の事は忘れて、火神さんは火神さんの居るべき場所で……幸せになって下さい。


 その台詞は、自分と云う存在を惨めにするのに充分な程……悲惨なモノであった。全ては罰だ。自分は誰にでもヘラヘラ良い顔をして、相手の気持ちに誠意ある対応をしなかった。だから好きな人が……あんなに簡単に離れて行ったのだ。

 彼は今、幸せなのだろうか? 少女はソレだけが知りたくて、でも知ったらきっと哀しくて……。相手の幸せを願えない自分が、酷く情けなかった。