八月二十一日。

 午後の自主練中、笠松に連れられ食堂へ向かった青峰は、目の前に置かれた【さんすうドリル】と言う問題集に頬を引き吊らせた。

「さんすうのお勉強か?」

 表紙に記された対象年齢は"ごさいからろくさい"。ちなみに青峰大輝は今年で、にじゅういっさいになる。ファンシーなウサギとクマの絵で、完全におちょくられている気がした。

「一桁の足し算引き算なら出来るだろ」

「馬鹿にしてんのか?」

 勿論、笠松は青峰の地頭を馬鹿にしていない。訳あって、こんなふざけたドリルを購入していた。――協会の経費で。

「合図出すから、ソレ解きながら二十四秒数えろ。数え終わったら机叩けよ? カウントダウンに夢中で手ェ止まってたら、オレがお前の頭を叩くぞ」

「はァ? 何の為にだよ」

 問い掛けながら青峰が椅子に腰掛けると、笠松もストップウォッチを握り、その前に座った。

「ポイントガードに必要なんだよ」

 丸い計測機器を振り、笠松は納得いかない顔をする青峰に説明を始める。彼は全日本屈指のPGだ。高校時代には全国に名を轟かせ、ドラフト指名も青峰と同じく難航を極めていた。

「オレらは、常に時間との勝負だ。仕掛けるにも何にも、秒数がネックになって来る。だから、時計を見ないでも二十四秒カウントダウン出来るようにしろ」

 攻めているチームは、ボールを取った時点から二十四秒以内にシュートを打たなければ、バイオレーションとなる。つまり与えられる二十四秒を巧く使わなければいけない。かつて火神の居た誠凛高校はスピードで攻めるチームだったが、全てがそうでは無い。中には制限時間をギリギリまで有効に使うチームもある。現在の笠松は、後者だ。

「お前ら、シュート入れるのにだけ気ィ付けてりゃ良いから楽だよな?」

 まるでポストポジションを見下されたような発言に、青峰は言い返す。

「オレだって秒数位は数えられるぜ? こんなドリルで変な訓練する事ァねぇ。簡・単・だ」

 開いて"3+7=□"と書かれたページをバシリと叩き、青峰はヤル気の無さを誇示した。

「九人の動き確認しながら、次の手を何パターンも考えながらだぞ? やれるんなら、やってみろよ」

 元来、PGとは賢い人間がやるべき役割だ。考え方は将棋やチェスにも似ている。敵の動き含めて先を見通し、各選手の特性を生かし正しい場所へボールを渡す。

 目まぐるしく変化するコート内部は、全てを把握していなければ落とし穴へ足を突っ込む事だってあるし、上手く誘導しなければ、チーム自体が空中分解してしまう。優れたPGは時間を操りながら、同時にチームの機能を向上させるのだ。

「お前みたいに、予測不能な選手も居るしな」

 ――そう、青峰のような自由奔放に動き回るオールラウンダーは、彼等ポジションからしたら"予測を狂わせてしまう厄介な存在"だ。国内一秀でたPGでもある笠松だって、巧く扱えるか判らない。町田に関しては、既に諦めて自由にプレイさせていた。

「……マジでオレにPGやらせるつもりか?」

「だからオレは賭けてんだよ。そのセンスに」

 訓練を始めようとした丁度その時、打合せから帰ってきた火神が食堂へ顔を覗かせる。

「よォ、キャプテン。探したぜ? こんな所で何してんだ?」

 火神も火神で、敬語を遣う気が全く無い。無礼に慣れた笠松は、チームのエースに「何かあったか?」と声を掛けた。

「オレ、明日撮影だから一日中スタジオに缶詰らしい」

 ウンザリするような会議からようやく開放される"推されエース"は、肩を竦めて明日の不在を伝えた。

「大変だな、広告塔は」

 笠松が男を労う。火神は、青峰の前に置かれた子供向けのドリルを捲り、眉を潜めて「……補習か?」と聞いた。不機嫌そうな顔になった青峰は、その捲る手を叩き火神を睨んだ。黙り込む青峰の代わりに、笠松が【ココで何をしているのか】を教えてやる。

「PGの訓練だ」

「ポイントガード?」

 訝し気に眉根を寄せる火神は、青峰の隣に腰掛け、頭にハテナを浮かべる。何故青峰にPGの訓練をやらせるのか、イマイチ理解出来ないようだ。

「コイツのポジションだ」

 笠松が答えてやると、目を見開いた火神は「ヒャーッ」と引き吊った声の後、腹を抱え爆笑し始めた。身体を反らし過ぎて椅子ごと後ろに倒れそうになる。慌てて青峰の椅子を掴み、踏ん張った。

「ブハハハハハハハ!! あおみ……っ、青峰がPG〜!?」

「何がそんなに面白いんだよ!?」

 大袈裟過ぎる火神のリアクションに、提案者である笠松幸男は口を尖らせた。青峰は依然黙ったままに腕を組む。

「お前、自分一人でボール抱えてゴールしちまうだろ!! バハハハハハ!!」

 青峰が「おぉ、フォロー頼むぜ?」と冗談に乗れば、火神は噎せて咳き込む程笑った。最終的に笠松から雷を落とされ、火神は腹を抱えながら食堂を後にするのだった。

「なぁ、これでも大丈夫だと思うか?」

 ニヤリと口元を笑わせた青峰が火神の去った出口を顎で指せば、笠松は頭を抱えてしまう。

「……心配になって来た」

 笠松幸男は今の流れで、自分の決断が揺らぐのを感じた。


 …………………


 同日、十九時。更衣室。

 何時ものように任意の居残り練習には参加せず、シャワーで汗を流した青峰は練習着からスーツへと着替えていた。話を聞くと、残る人間は終電ギリギリまで残るらしい。見上げた根性だ。

 ネクタイを結ぼうとロッカーに備え付けの鏡を覗く。未だに違和感ある髪型に顔をしかめると、バスタオルを頭に被った火神が入室して来た。口笛を鳴らし、ロッカーを開ける。そうして革靴を取り出すのだが、今日は綺麗である。悪戯も数日で飽きたのだろう。だからと言って、ギクシャクした空気が無くなった訳では無い。頑固な火神は、今もコートで戦っている。たった一人で……。

「合宿の場所、見たか?」

 タオルで頭を掻いて水気を飛ばす火神は、隣に立つ青峰へ聞いた。

「あぁ、他県だった」

 ネクタイを締め終えた青峰が脱ぎ捨てていたTシャツをエナメルバッグに詰めると、火神は調子の良い声で言葉を返す。

「ソレだけじゃねぇだろォ? 朝六時に来といて」

 手を止めた青峰が火神の方を向くと、男はTシャツを脱ぎ、鍛えた身体を露出していた。

「オレにはもう関係ねぇ」

 準備を終えその場から立ち去ろうとすると、火神の左手が青峰の右肩を掴む。

「だったら、後から『やっぱ欲しい』とか言うなよ?」

「何時まで経っても、モノ扱いなんだな」

「――オレのモンだからな?」

 火神が青峰に顔を近付け、威圧する。身長差は初めて会った時より1cm広がり、3cm差にまでなっていた。この差は小さいようで大きい。必然的に火神は上目気味で睨みを効かせる。

 逆に視線だけ見下す形となる青峰は、口角だけを上げて火神のプレッシャーに応えた。

「ガキの扱いには慣れてそうだな。精神年齢が一緒だ」

 口調や言葉のはしで余裕を見せる青峰に、火神は唸り声を上げる。鼻の頭に皺を寄せ歯を食い縛る赤毛の男は、一昨日のなまえを思い出した。

「――アイツは、お前にお熱だ。捨てられたのに……まるで忠犬だぜ」

「迷惑だって伝えろ」

 突き合わせていた顔を離し、バッグを肩に掛け歩みを進めた青峰は、その場から退室した。

 不完全燃焼の火神が舌打ちをして乱暴にベンチへ腰掛けると、入口からは氷室が姿を現す。

「タイガが恋かぁ」

 ニヤニヤしながら更衣室へ入る男は、手を越しに当て上半身裸の火神を見た。

「タツヤ……。盗み聞きとは良い趣味だな」

「彼は、アッチでもライバルなのか?」

 氷室は青峰の去った方向を親指で示し、肩を竦めてアメリカンなリアクションを取る。

「はァ!? そんなんじゃ……!!」

 慌てて訂正をするのだが、幼馴染みはもう聞いてすらいない。彼は、火神が惚れた相手に興味津々だ。パチンと指を鳴らし、相手の予想をする。

「アレックスみたいなタイプ? それなら、タイガがお守りだ」

 ウゥ……と唸り、困った顔を見せた火神は、顔を赤くして氷室に話し掛ける。

「……タツヤは引かねぇか?」

「引く?」

 口角を最大まで上げ火神の初恋を祝福する氷室は、ウブにも似た表情を魅せる火神の顔を覗き込んだ。

「あ、相手は……十六歳だ」

 弟分のカミングアウトに一瞬真顔を見せた氷室だったが、すぐに笑顔を貼り付けた。訝しむ感情を抑え、愛想の良さを見せられるのは流石と言った所である。

 しかし彼の努力も、部屋の向こうから聞こえてきた声で、全てが無駄になった。

「……火神は、ロリコン?」

 ドアから顔だけ出した紫原が、ドン引きしたような表情でコチラを見ていた。その紫髪の巨人が吐いた言葉と、変なモノを見るような眼差しに深く傷付いた火神は、大声で盗み聞きを批難した。

「何で居るんだよ!!」





 二十一時。自宅に帰った火神は、溜め息と共に誰も居ない空間で「ただいま……」と呟く。コレは高校時代に居候していた【アレックス】のせいで身に付いた癖だ。

 真っ直ぐ寝室に入り、スーツをハンガーに掛け消臭スプレーを振る。ネクタイとベルトを外せば、開放感からまた溜め息が漏れる。

 今日も朝早くから動きっぱなしだ。身体はくたびれ睡眠を欲しているのだが、どうしても素直に眠れそうに無い。理由は、内側に篭った熱のせいだ。一昨日を思い出すと、性器の先がジンジンする。

 昨日は帰って直ぐに寝た。電話をしている余裕も無かった。――最も、本当に毎日したら迷惑だろう。少し引かなくては、余裕が無いと思われてしまう。

「……溜まってんだよ、絶ッッ対」

 ドカリとベッドに腰掛ければ、体重分激しく軋む。ズボンは社会の窓付近にテントが張っている。足裏で床板を鳴らし、ソレがやがて貧乏揺すりへと変わった。斜め上に視線をずらし何かを考える振りをした火神は、ズボンと靴下を脱ぐ。ワイシャツのボタンを中途半端に外してから万歳したまま脱ぎ、床に投げた。そうして肌着代わりの白タンクにグレーのボクサーパンツ姿になる。

 下着をずらすと、元気な息子が天井を見上げた。完勃ちでは無いが、それなりには硬い。赤毛の男はベッドサイドのチェストからローションを取り出し、ヌタヌタするピンクの液体を手のひらに出した。

 自慰なんてココ最近、全然していない。リーグで忙しかったし、夏前まではセフレも居た。コッチは何となくで交際も考えていたのに、彼氏が出来たからと連絡すら付かなくなった。……とにかく、久方振りのオナニーである。

 ローションを亀頭から垂らし、全身に擦り込むように伸ばせば、グチャグチャとイヤらしい音が部屋に響く。鼻息も荒く、ソレすら息苦しくなった火神は口を半開きにし、息を深く吸って深く吐く。指先が性器を滑る度にジンワリする気持ち良さを感じた。

 ――モーテル型のラブホであった事を思い出しながら目を瞑ると、脳裏に浮かぶ光景が鮮やかになる。

「……胸、やだ。くすぐった……」

 小さい乳首を親指と人差し指で摘まみ、クリクリ捏ねてやると少女はそう喘いだ。親指の腹で擦りながら、もう片方も責めようと口を近付ける。弄っている側はビンと勃つのだが、放置している側は柔らかいままだった。しかし舌先で乳輪を優しく撫でると、直ぐにソチラも反応を示した。それでもまだ柔らかい胸元を口に含む。子供のように吸えば、頭を抱え込まれる。そのすぐ上では、なまえが苦しそうに喘いでいた。

 胸だけじゃ物足りねぇ。もっと色んな所にキスしてぇ。

 脇、ヘソ周り、背中、ふくらはぎ、膝の裏……そして、女性器へ舌を這わせて喘がせ、蹂躙したい。現在の火神はそう願いながら、妄想で欲望のまま一通りにキスを済ませる。すると、頭の中のなまえが自分をねだった。

「火神さん……、入れて? お願い、我慢出来ないの!」

 その口調は先日までのセフレのモノだったが、火神からすれば何でも良い。自身を握る力が強くなり、スピードも早くなる。激しくなった手淫の刺激を、脳内で別の刺激へ置換した。

 ――あぁ、入っていく……。なまえの股に開いた入口へ、自身を埋め込んで行く。妄想の中の彼女は、自分好みに身体を反応させた。手で口を隠し、両腕で小さい乳房を寄せ谷間を作る。反った喉元には、自分だけが付けた紅い痕が点々としていて……――。

「火神さん! いやっ……! 私、もっ……!!」

 絶頂を迎えるタイミングまで揃えてくれる。まさに理想の女だ……。股間部から快楽がジワジワと昇り詰める。背中を走り、脳天に刺さる少し前――慌ててティッシュを手にした。それでも脳内のなまえは姿を消さず、自分がイクのを待っていてくれる。唇を噛み、身体を小さく痙攣させる彼女が余りに可愛くて、そして淫靡で…………、火神は呆気なく欲を吐き出した。役目を終えた相手は姿を消し、目の前にはいつもの寝室があった。

 ――息絶え絶えながら、性液をティッシュに包みゴミ箱へシュートする。肌着にパンツのままベッドへ横になると、甘い睡魔が身体を包んだ。腹が減った、喉が渇いた。ちゃんと風呂にも入っていない。更には下着から、ローションにまみれた男性器が飛び出たままだ……。

 でも、このまま眠りに堕ちてしまいたい。ウトウトと目蓋が重くなって、意識を手放そうとした瞬間――インターホンが火神を呼び起こした。


 …………………


 エントランス前で待つ青峰は、スーツ姿のまま火神が玄関を開けるのを待つ。しかし家主は随分と応答を待たせた挙げ句に、迷惑そうな声で話し出した。

「…………何の用だよ? 帰れよ」

「お前ん家は、何時からお邪魔するのに理由が必要になったんだ?」

 スピーカー越しにも判る大きさで溜め息を吐かれる。ザーッと云うノイズが数秒間続き、火神は低い声を出した。

「……ウチには居ねぇぞ」

 拒絶を含むその台詞を鼻で笑う青峰は、笑顔のままに問い掛ける。

「誰が?」

 ――ガチャンと音がして、エントランスの自動ドアが開いた。


 青峰が部屋に着けば、タンクトップに半ズボン姿の火神がタオルで両手を拭きながら出迎えてくれた。迷惑だと見て判る表情で……。

「飲みに来ただけだ」

 リビングに通された青峰は、周囲をキョロキョロ見渡す。やはり何かを探しているのか、見付からないと判れば顔を元の"だらしないモノ"に戻した。

「嘘が下手だな。……明日撮影だって知ってんだろ」

 そう。コイツは酒を呑みに来た訳じゃ無い。きっと、淡い期待を抱いて来たのだ……。『まだ自分に惚れている奴が居る』――ソレだけを確かめに来たのだろう。

「――青峰。桃井はどうした?」

「……ゴリラの飼育員に逆戻りだ」

 その一言で男が失恋した事と、ココを訪れた意味を知った火神は、青峰のネクタイをワイシャツごと掴み捻り上げ、そして再び顔を突き合わせ怒鳴る。

「自分勝手過ぎんだよ!! テメェは!!!」

 二重瞼を限界まで開き二股の眉を怒らせた火神は、低い声で青峰へ告げてやる。

「だから甘えに来たのか? 残念だったな。ココにはオレしか居ねェ」

 乱暴を受けても怒鳴られても、一切の表情を変えない青峰は、口を開いて火神に話し掛けた。

「テツが、心配してるぜ? お前が……糞ガキに手ェ出すんじゃねぇかって」

 火神の目元がピクピクと数回痙攣する。ソイツが次の言葉を発する前に、青峰は代わりにその発言を口にしてやる。


「――オレみたいにな」


 そのすぐ後、青峰はリビングのテーブルに身体を強かにぶつけていた。激しく動いたテーブル脚が、フローリングに傷を作る。左頬が痛むのは、火神の右拳が当たったからだ。口内が切れ、鉄の味が鼻から仄かに抜けた。幸い、歯は折れずに済んだ。

「……帰ってくれ」

 目元を抱えた火神が、失意の表情を見せる。『まさか、本当に手を出してはいないだろう』と青峰を信じていたのに――今のたった一言で全てが崩れ去った。

「もう電車ねぇよ」

 打撃された頬を擦り、歪に笑う青峰。何を考えているか判らない……。火神は、痛む拳を握り締め二発目を必死に耐える。

「帰れよ!!!」

 そうやって声を荒げるのだが、掠れた声で笑う青峰大輝は動こうとしなかった。