八月二十日。水曜日。

 自学年の昇降口で人を待っていた佐久間は、目当ての少女が歩いて来たのを見付け、声を掛けた。

「なまえちゃん!」

「おは……お早う」

 久方振りに名前を呼べば、何故か相手は余所余所しい。電話にも出ず、連絡も寄越さない彼女は目を合わせずローファーを下駄箱にしまう。

 ――その風貌の変化に、佐久間は身を固くした。前とは何かが違う。纏う雰囲気が、最後に会った日と変わっていた。言うならば、成長してグッと女性らしくなった。髪に隠れた首筋に、うっすらと痣が見える。息を飲んだ少年は、後頭部を殴られた感覚に陥った。

「どうしたの? 部活は?」

 顔を俯き気味に、バッグの肩紐を握ったなまえは、時計が十時を知らせているのを確認する。

「今日は図書室の当番だって聞いたから、抜け出した」

「……大丈夫なの?」

 バスケ部期待の新人は、首を縦に振り彼女を安心させる。少し位練習を外れても、文句を言われないのは日頃の行いの成果だ。

「図書委員も大変だね」

「でも、部活あるよりは楽だよ」

「バスケ部は地獄、暑いから」

 彼氏彼女の二人は並んで歩くのだが、微妙に距離が空く。どちらから詰めるでも無く、西側奥にある図書室までの長い廊下を歩くのだ。他人行儀な無言を打破したのは、佐久間からのお誘いだった。

「…………今日さ、終わったら俺ん家来ない?」

 足を止めた少女は、俯いた顔を上げて横に立つ少年を見る。不安気な顔は、佐久間にも伝染しそうになった。

「話したい事、沢山あるし」

 真っ直ぐになまえを見た少年の顔は、至って真面目だ。普段は眠たそうに下がっている目尻も、今は真剣な表情を作る。きっと彼に惹かれる女子は、こういうギャップにもときめくのだろう。

「終わったら連絡下さい」

 なまえから返って来た敬語での返答に距離感を感じた彼氏は、歩き出そうとする少女の手を掴んだ。

「今日、家族……夜まで帰って来ないから」

 少女は振り返らない。でも恥ずかしそうに耳を赤くさせているのは、窓から射し込んだ光が教えてくれた。

「それじゃ、俺部活戻るから。また後で」

 そう告げバスケットシューズを鳴らした佐久間は、今さっき二人で歩んだ道を一人で引き返すのだった。


 …………………


「オレにしとけよ。そうすりゃ、幸せにしてやる」

 なまえにそうアプローチしたのは、ラブホテルから車を出した火神大我だった。

 八月十九日。二十二時過ぎ。

 結局火神が衣服を脱ぐ事は無かった。よくぞ我慢出来たと、男は自分を褒める。時々顔を覗かせる狂った性癖が『少女を貫いて泣かせろ』と教唆するのだが、必死に堪えた。ソレだけは嫌だ。一時の快楽の為に愛しい相手を泣かせるのだけは……そりゃ最高のシチュエーションだが、ソコまで堕ちたくは無い。

「……それでも、青峰が良いのか?」

 確認すべくライバルの名を出す。聞かなくても答えは分かっている。だからこそ、辛い現実を教えてやらなくてはいけない。卑怯な手で自分の方へ、振り向かせたくもなる。

「桃井と付き合ってるかもしんねぇぞ……。幼馴染みが付き合うなんて、マンガでよくあるだろ?」

「綺麗な人、でしたから」

 なまえは【桃井さつき】に対して愚痴を言わない。それは、絶対に勝てないと判っている一種の諦めに似ていた。小さい頃から傍に居ると言っていた二人は男前に美人で、それはそれは羨ましい程絵になる。大方、神様がそうなるように仕向けたのだろう。

「落ち込むんだったら、オレと一緒に居れば良い。オレの幼馴染みは、イケメンのモテモテ男だからな」

「なら安心ですね」

 口元の口角を緩やかに上げた助手席の少女は、火神の優しさに肩の力が解れる。

「写真見るか? タツヤもプロ選手だ」

 操作を始めたスマホの画面は眩しく、火神の顔を照らした。データフォルダから自分と氷室のツーショットを選んだ男は、氷室の"酔っ払っても尚崩れる事無い姿"を見せる。その写真の幼馴染みで兄貴分は、笑顔が眩しく綺麗な顔立ちをしていた。垂れた目元に泣きボクロが、男に色気を足す。

「格好良い……」

 スナップ写真一枚でその魅力を伝えられる氷室は、相当にモテる人間なのだろう。隣に写る火神は後ろを向いているが、その身体は逞しく男らしい。氷室との対比がまた面白い。

「性格も、余裕あるからなぁ」

 性格に余裕の無い火神は項垂れる。氷室辰也の美貌と余裕が自分にもあれば、恋だの愛だのも万丈上手く行っていたに違いない。

「――青峰の何が良いんだよ」

 ハンドルに凭れ、少女の趣味を疑う。青峰大輝はどう見ても女を夢中にさせる要素が無い。無愛想で自己中心的。強面に筋肉質、加えて恐ろしく高身長でもある。アイツの声は確かに男でも羨む程に渋く、また甘みもある。でも、果たしてソレだけで夢中になるモノなのか……?

「怒られてばかりでした」

 寂しそうな彼女を慰める為だけに、火神は青峰のフォローを入れてやる。ココであの男を悪く言っても、返って自分の印象を悪くするだけだ。

「嫌いな奴には、怒りもしねぇよ。面倒臭がりだからな、青峰」

 ――結局の所、女は青峰の"そう云う所"に惹かれるのだろう。アッチが何を考えているか判らない分、振り向いて貰えた時の満足感が大きい。ソレは飴と鞭に近い。

「…………桃井と付き合ってたら、泣きを見るのはなまえだ。忘れろよ。ソレが一番だ」

 雨音に掻き消されそうな火神の呟きは、車内に留まる事無く消える。そのままハンドルを握り、無言のままになまえを自宅近くまで送る。駅から割りと近く、五分程で到着した一軒家が彼女の棲み家だ。

「あの、コレ。ありがとうございました」

 最後に少女が差し出したのは、昨日貸したマネーカードだった。キチンと一万円入っている筈だと、なまえは両手で名刺の様に渡そうとする。しかし、火神がソレを受け取る事は無い。

「ソレは、お前がオレん家に返しに来る約束だろ? 行きの運賃は足さなくて良い」

 小狡い手ではあるが、やはりココで終わりにするより次回への保険を掛けておきたい。彼女は絶対返しに来てくれる。……そしたらまた、我慢の連続だ。

「それじゃ、また。近くまでありがとうございました」

 最後に頭を下げ、傘を手になまえは雨の中を走る。何度見ても、別れの背中は寂しかった……――。





「遅くなってゴメンね?」

 なまえが委員会の担当を終了させたのは、図書室が閉鎖する十五時を少し回った所だった。強豪には程遠いバスケ部は、午後の使用をバレー部に譲っていた。佐久間はチームメイトと昼食を食べ、その後の小一時間程を図書室で潰した。

「読みたい雑誌あったから、丁度良かった」

 少年は頭を掻き、待ち焦がれた二人で歩く帰り道にこそばゆさを感じる。グラウンドの端を並んで歩けば、陸上部が走り込みをしていた。コチラをチラチラと見て、何かを耳打ちしている。

「なまえちゃん、元気だった? ずっと東京の親戚の所に居たの?」

 その疑問が本当である事を、少年は願う。彼女は本当に、東京の親戚の家へ居候していたのだ。そして親戚と東京の街を楽しんだ。そうだ、絶対にそうだ……。

 ――そうであって欲しい。

 しかし、足を止めたなまえは佐久間の方へ顔を向ける。二人の目が合えば、少女の眉は下がりきっていた。

「あのね! 違うの! 私、本当は……――」

「ウチさ! ……何にも無いから、何か買って行こうよ」

 告げられようとする事実を遮る形で、少年は来客へ気を遣う。二人の距離は、益々に広がった。

「――佐久間君。気遣わなくて良いよ」

 再び俯いたなまえは、足を進める。すると、隣に立つ少年は成長著しい大きな手で彼女の手を握る。

「遣うよ。だって彼女だもん」

 相手の告げた"彼女"と言う言葉に胸が痛くなる。繋がれた手のひらは冷たく、少し柔らかかった。ソレは火神大我の、熱く・厚いモノとは全く違う、成長途中の少年らしいモノだった。


 …………………


「気楽にして良いよ。大したモン無いけど」

「綺麗だね」

 佐久間の部屋はシンプルだが、窓から西日が入って眩しい。シーツは綺麗で、本棚には有名バスケットボール漫画の完全版があった。それは先日まで居候していた家主も愛読していた、バスケプレイヤーのバイブルだ。その下の棚には、一段分ぎっしりと雑誌が押し込まれている。全てがバスケットボールに関するモノで、少年の熱意が感じられた。

「雑誌、中学から買ってたら増えてってさ」

 佐久間は棚から一冊の雑誌を取り出す。【月刊バスケットボール】は競技の総合誌だ。先月末に発売された雑誌の目玉記事は高校のインターハイと、リーグファイナル直前のW特集だ。

「――これがさ、前に言ってた青峰大輝。凄かったね、リーグの最終戦。まさか両利きになるとは思わなかった」

 遠慮がちにベッドへ腰掛けると、雑誌を差し出される。開かれたソコには、何度も見た顔があった。コートの中で汗にまみれた男の顔は真剣そのもので近寄りがたく、また強者のオーラを纏っている。

 こんな所で、一方的過ぎる再会をするとは思わなかった。なまえは、膝に載せた雑誌の写真を撫でる。

「……あのさ、俺……二人がキスしてる所、見た」

 間を空けてベッドに座り込んだ佐久間は、両手で顔を拭いながら先日の光景を口にした。自販機前での情熱的なキスシーンを見て、その日自分も彼女の唇を奪った。見間違える筈が無い。あの肉体に髪型は、青峰大輝だ……。

「遊ばれてるだけだ! 本気になっちゃ駄目だ!!」

 佐久間は、雑誌に写る選手から目を離さない相手に声を荒げて訴える。

「――でも……」

「相手はプロだ! 日本代表だよ!? よく見るじゃん! タレントやアナウンサーと付き合ったりしてるよ!?」

 肩から手を離した少年は、自分の言った台詞に両手で顔を覆う。何も知りたくない、何も感じたくない。隣に座るなまえが、どんな顔をしているのか――胸が締め付けられる。……見たくない。

「俺らが敵う相手じゃ無いんだよ……!」

 頭を抱えた佐久間は、彼女の想う相手を知り途方に暮れるしか無い。少女は膝に乗せられた雑誌に写る想い人を眺めるだけで、何も言わない。

「怒んないからさ、キスしてた事……。だから、考え直せよ」

 佐久間の語尾から強気が見える。コレは提案じゃない。命令だ。他人に初めて見せる"男の面"は、酷く乱暴で浅ましい。

「キスだけじゃ、無いよ……?」

 そう呟いたなまえは、肩に掛かる髪を手のひらで退け、既に消えかかっている"愛された証"を見せてきた。やはりソレは、そう云う意味があったのだ……。眉を下げた男は、泣くのを我慢する。

「それこそ本当に……遊ばれただけじゃないか……」

 絶望的な言葉は、その場に居る二人の人間を傷付けた。

 ――数分間の無言を裂いたのは、小さく震える声。愛しい相手を雑誌の中に閉じ込め、横に置いたなまえは、制服のスカートを握り締める。

「……何で私なの?」

 少女は自分に自信が無い。別段『可愛い』とチヤホヤされない。白い肌は気の弱さを引き立てるだけだし、頭だって平均程度だ。更にバスケットボールに関しては知識が全く無い。話を盛り上げる事も、的確なアドバイスも出来ない。

「だって、私……バスケ何も知らないよ? 佐久間君が頑張ってても、凄いねってしか言えないんだよ? 会話にもならないよ……。だって、判んないんだもん……!!」

 少女が目尻に溜めた涙が落ちる前に、佐久間は頭部を抱えていた両手を膝に置いた。

「……それで良いんだよ」

 バスケットボールとは、佐久間――そして青峰や火神のような人間にとって"聖域"だ。競技を知らない人間に、土足で踏み入られるのを嫌う。知らないなら知らないで、構わない。単に自分のプレイで感動し、落ち込んだ時は何も言わず傍に居るだけの存在こそが彼等の理想だ。

 言ってしまえば、素人の説教やアドバイスなんか余計だ、邪魔だ、必要無い。……ただ、何も言わずに傍で観ていて欲しい。プライドが高く、酷い我が儘だと知っているからこそ、そんなパートナーを欲し続ける。彼等の最高の理解者とは、皮肉にも【何も知らない人間】なのだ。

 例えばバスケで悩みを抱えても、彼等は自己で解決する強さや方法を持っている。乗り越えてくれる仲間だって居る。……だが、単純に全てを忘れさせ、甘やかしてくれる相手は存在しない。火神がなまえに恋をし、求めているのはココだ。

「なまえちゃんはさ、否定をしないんだよ。嫌だって言ってるの、見た事ない」

「そんな事、無い……」

 まるで馴れ合いのようなお世辞に聞こえ、なまえは佐久間の言葉を否定した。少年の感じた定義を曖昧にしてしまったのだが、彼は気付かない。彼女の否定が謙遜にしか聞こえないからだ。

「――ドタキャンした時だけかな? だからビックリした。あぁ、この子怒るんだって……」

 ゆっくりとした動作で佐久間の指先が頬に触れる。肩を跳ねさせ緊張を露にしたなまえは、必死に視線を逸らす。

「俺だって、なまえちゃんを見てた。大人だって、そう思ってた」

 頬を滑る指先が、うなじへと回る。その流れが大人びていて、少女の鼓動を速くさせる。二人きりの空間は居心地が悪く、口呼吸で無いと息苦しさを感じた。


 『お前は大人だ。オレらより……ずっと』


 火神も自分をそう言っていた。大人って何なんだろうか? こんな風に誰にでも良い顔をして逃げるのを大人だと言うのなら、自分はさぞ汚い人間なのだろう。

「俺はもう、待つだけは嫌だ」

 佐久間は、痕の付いた首筋に顔を近付ける。こうしたからと言って、彼に勝てるとは思わない。震え慣れない手付きでボタンを外すと、まるで消え掛かった痕に被さるような新しいモノまで発見した。

 佐久間は、彼女がとんでもなく遠くに行ってしまったような気がして、失意を感じる。

「……なまえちゃん。嫌なら、ちゃんと言って?」

 肩を押され、少女の視界は天井へと向く。こんな風に恋人のステップを一段上げる最中でも、頭の中に居るのは"褐色肌の大男"だった。


 『お前さ、彼氏と別れろよ』


 ――ああ言ってくれた彼は、もう居ない。佐久間の言う通り、彼等には輝かしい未来がある。パートナーにも恵まれるだろうし、あのルックスだ。芸能人がこぞって狙うに違いない。

 火神だって、いずれ誰かに心変わりする日が来る。一般人でしか無いなまえは、きらびやかな世界の住人には勝てない。だから少女は、普遍から抜け出せない自分の惨めさに飲まれた。

「…………何で泣くんだよ」

 佐久間は、彼女のはだけた胸元を隠してやる。覆い被さった自分の下。愛しい相手は横を向いて涙を流していた。

「ごめんね……? ごめん……。私、佐久間君の事……友達以上に、好きになれない……」

 フラれると知った佐久間は、喉から振り絞るような声で彼女に想いを告げる。

「ずっと一人だけ見て来たんだよ……。コッチは」

「ごめんなさい……」

 そんな風に謝らないで欲しい。惨めになるだけだから……。それなら、憎い"間男"の存在を……その記憶から消去してくれ。

 佐久間は気付かない。夏休み当初、夏バテでデートをドタキャンさえしなければ、なまえはソイツと出逢わなかった。自分の隣で、自分だけを見ていてくれたのだ……――。

「勝てる訳ねぇだろ……。青峰大輝になんか。何でだよ……」

 彼もまた意固地になっているだけなのかもしれない。初めての彼女。淡い恋がアクセントを利かせる学園ライフ。――その殆どが崩れる。幼いながらのプライドが、ソレを許さないのだ。

「――青峰さんも、好きな人居るって……。その人の所、行っちゃった」

「だったら! 別れる必要無いじゃん!」

「……佐久間君を、独り占めにするのは……周りの子に悪いから」

 なまえが小さく意見を述べる。親友が、佐久間を好きなんだ。大好きな友は、想い人がこんな中途半端な自分と付き合ったから、恋心を諦めたと言っていた。簡単に人の恋を踏みにじった気がしたなまえは、きっと青峰と出逢わなくても親友の為に別れを告げただろう。

「関係ねぇよ! そんな理由で振られる俺は何なんだよ!」

「佐久間君の事、好きな子が居るの! その子からすれば、私は卑怯なんだよ? 半端な気持ちで付き合ってるんだもん!」

 友人を無くした。今も、繋がっているのはごく数名。全部、全部全部……自身が中途半端だっただけだ。

 調子に乗っていた。初めての彼氏に、初めての冒険。全部夏のせいにした。初めて男性の家に泊まったし、その家主と唇や肌を重ねた。――そして処女も喪失した。初めてだらけの日常を過ごす内に、大人になった気で居た。でもソレは、背伸びして上辺だけを飾っていただけだった。

 その結果が――今だ。

「じゃあ好きになってくれよ!! 俺、頑張るから!! 青峰大輝みたいになるから!!」

 その懇願は、無謀にも近い約束だった。一人の少年が叶えられる願いでは無い。――だって彼は……本物の青峰大輝は複雑怪奇な人間で、世界に一人しか居ないのだから。