顔を近付けると、石鹸のような清楚な香りがした。その匂いが火神の胸を掴んで締め付ける。一度くっ付くギリギリで止め、うっすらと目を開ければ、相手は目蓋を閉じ固まっていた。拒絶されない事を確認した男はゆっくりと唇を合わせた。

 ――柔らけぇ……。

 手も唇も、きっと太股も胸も、二の腕も頬も全てが柔らかい。夢中で口内へ舌を滑らせれば、なまえから上擦った喘ぎが漏れた。手を握り締めながら、身体を助手席へ移動させる。体躯の大きい火神からしたら車内は広いとは言えず、足にシフトレバーが当たる。駅前である事を忘れ夢中で舌を絡めると、背後からクラクションが鳴らされた。

「……ヤベェ」

 唇を離しバツが悪そうに呟いた火神は、慌てて運転席へと戻る。股間はすっかり膨張し、性欲が逃げ場を求める。シートベルトを締めながら、火神大我は問い掛けた。

「この辺、二人きりになれる場所……ねぇか? へっ、変な事しねぇから……キスだけでも」

 なまえから離れた手でハンドルを握り眉頭を掻いた男に向かって、少女は口を開く。

「……雨、酷いですね」

 外は天候に恵まれず、絶えない雨粒が車の屋根を叩く。フロントガラスはカーテンのように覆われ、何も見えない。

「ひ、酷ェな! バケツひっくり返したみてぇだ!!」

 火神は頷きながら話題に乗るのだが、少女はまた沈黙し、気まずい空気が車内へ充満する。

「…………ホテル、とか……ねぇか?」

 身体がソワソワし、心臓が早鐘のように打つ。目的地を定めようとする火神は、指先でハンドルを叩き窓の外を眺めた。

「な、何もしねぇから……」

 尚も無言になっていた相手へ、嘘にも似たフォローを口にすれば「……一件だけなら」と返事が来た。生唾を飲んだ赤毛の男は、サイドブレーキを戻し車体を発車させる。そして二人は、目の前の白と赤が滲む夜の世界へと飛び出した。


 …………………


 平日の夜はラブホテルの利用者が少ないようだ。普段なら自室で行為に及ぶ火神は、久し振りにこういう場所を利用する。モーテル式のホテルは、車庫から個別に建てられた部屋へ真っ直ぐ移動出来る。

 一時間だけ、一時間だけ我慢しろ……。そう自身に言い聞かせる火神の股間は膨張し、心無しかジンジンする。車を前進駐車させ、エンジンを切ると室内灯が点いた。鍵を抜いた男は、汗掻いた左手を助手席へと伸ばし、相手の白く小さい右手を握った。目の前には二人の為の部屋が用意されているのに、火神は再び車内でキスをねだる。意外にも、なまえはソレに答えた。

 触れ合うだけの可愛いキスは、深くなる事無く終了した。

 ――モーテルの中は二部屋に分かれていた。ひとつはソファーと巨大な液晶テレビが鎮座するリビング。その奥には、壁一面に張られた鏡と、大きなベッドが待ち構えている。枕元に置いてある二つの避妊具に、ウゥ……と唸る火神はベッドに腰掛けた。白いシーツに白い枕。床は黒に、壁も黒い。シックさが逆にイヤらし過ぎた。

 二部屋の境目に居るなまえは、項垂れる火神へ声を掛ける。こんな場所に来ても僅かに空いてしまう距離が、二人の微妙な関係を示唆していた。

「何か……飲みますか? お茶かコーヒー……」

 その距離を埋めたい火神は、立ち上がり少女の背中に向かって腕を伸ばす。背の高い男は、逞しく長い両腕を相手の肩から前に通し抱き着いた。

「――大丈夫だ。欲しくなったら、オレが準備する」

 緊張が加速したのか、なまえは息を飲む。このまま飲み物を用意しにリビングへ向かうのか、はたまたベッドへ誘うのか……。火神の取った行動は、後者だった。

「……生理なんです。まだ、終わらなくて」

 二人で寝るには広過ぎるベッドへ倒されると、上から大きな身体が覆い被さった。髪に巻いた黒いゴムを外され、息の荒い男が首筋の香りを嗅いでくる。

 話を聞いているのかいないのか、火神は突き出した舌でなまえの華奢な首を舐め、ヒクリと震えた小さな肩を掴んだ。そして鎖骨付近に唇を付けた赤毛の男は、消え掛かっている痣を避けて新しい場所にキスマークを付け始める。厚い唇が皮膚を滑り、硬い髪が頬に触る。

 衣服のボタンを外し、胸元だけを露にさせた。水色のブラジャーから覗く白い乳房へ口元を付ける。ソコにも憎きライバルの残した痕が見え、火神は嫉妬に燃えた。

「………っ、ん。う、やだ……」

 大きな手で胸を愛撫する。下着を外すのがじれったくて、下方に引き下げ乳房を露出させた。小さな乳首と乳輪に、火神は唾を飲み込む。

「見ないで……お願い、しま……あぁ、っん」

 勃った乳首を指先で潰し、眉根潜めた少女の唇を再度貪る。舌全体で相手の口内を責めれば、僅かな隙間から甲高い喘ぎが聞こえた。その声に辛抱堪らなくなる火神は、切ない声色を絞り出す。

「あんま色っぽい声出すなよ……。我慢してんだよ、オレ」





 八月十九日。火曜日。天候、曇り後雨。

「三組の関口さぁ、知ってるか?」

「スタイル良いよなぁ」

「それがさぁ……彼氏が大学生で、処女捨てたらしいぞ」

「……エッロ!」

 壁に寄り掛かった数名が、オレンジのボールを抱えながらそんな下世話な話をしていた。噂の的は学年で一番美人で早熟している【関口美穂子】についてらしい。佐久間は入学当初に告白されて断っている。『援交している』と云う与太話を信じた訳では無いが、スレた雰囲気が苦手だった。そんな周りから羨ましがられる程にモテる男子生徒へ、同級生は声を掛ける。

「佐久間、お前んトコどうなの? 彼女、会ってんの?」

 "彼女"と云う単語に眉をピクリと反応させた佐久間は、小さく溜め息を吐き恋沙汰話に混ざる事にした。

「別に、話すような事は無いよ」

「二組のなまえさんだろ? エロい事考えなさそうだよなぁ」

 一人から彼女の名と考察が飛び出す。確かにあの子は見た目が地味だ。クラスで印象を聞いても『大人しくて優しい子』としか言われないだろう。

「…………さぁ? そもそも、最近会ってないから」

 佐久間は持っていたボールを付き、手に戻って来る感覚を楽しむ。初めての夏休みなのにドライ過ぎる付き合いへ、同級生達は疑問を持つ。

「は? こないだの花火大会は?」

「電話しても、出なかった」

 ドリブルを止め、人差し指でボールを回し残念そうに笑った佐久間は、自身に纏う不安を笑顔で拭う。

「浮気だったり?」

 余計な事まで詮索され、とうとうその少年は"彼女"の評判を地に落とすような発言を口に出した。

「……男とキスしてた」

 普段より声のトーンを落とし、先日見た光景を思い出す。なまえは、彼氏と待ち合わせた駅でキスをしていた。……あの地味な少女が、公然の面でだ。

「マジかよ。うちの学校の奴か?」

「そうだったら、全然マシだね」

 佐久間の投げたボールはガシャンと音を立て、ボール籠へと入る。思わぬスキャンダルに、顔を苦くした同級生達は色々聞きたくてウズウズしていた。

――何で、寄りによって……。あぁ、相手が悪過ぎる。

 少し離れた所でバスケットボールの専門雑誌を眺める先輩達。彼等の持っている雑誌に、その憎むべき"間男"が載っていた。

 ――全国の部員達が憧れるべきリーグ覇者、そして日本代表選手として。


 …………………


 自身の載った雑誌を更衣室のベンチに投げ、悪意の無い記事に安堵した青峰は、笠松から一枚の紙を差し出され目線を男に向けた。

「――今週末から合宿を他県で行う。時間厳守。紫原、遅刻したら置いていくからな」

「何でオレなのぉ?」

 笠松の注意に異議を申し立てたのは、朝食変わりにスナック菓子を貪る紫原だった。現在朝の八時前。居るのはやはり昨日と同じメンツ。レギュラーでも朝が弱い黛は、また時間ギリギリにやって来るのだろう。――火神がまだ来て居ないのも、きっと宣伝広告の打ち合わせ後に来るからに違いない。

「アツシ、おやつは三百円以内だ」

 氷室が紫原へそう冗談を言うと、相手は「充分じゃん」と呟き、少ない予算で何を買うか計算を始めた。

「……合宿場は、この駅の近くなのか?」

 最寄り駅の名前に見覚えがある青峰は、笠松へ尋ねた。その場所は電車を乗り継ぎ二時間程掛かる。……火神所有のナビで駅名を確認した、忌々しい場所だ。

「デカイ施設があんだよ」

「近くに警察署しかねぇぞ」

 要項を二つに折り畳んだ青峰は、駅の近くに寂れた商店街と大きな警察署があったのを知っていた。

「行った事あんのか?」

「…………ちょっとな」

 思い出したくも無い。彼はソコで不振人物だと通報され、パトカーに押し込められたのだ。未来のスターに失礼過ぎる。

 そして、何故その場所まで行ったのか……考えるだけで腹が立つ。偶然とは言え、何だか自分の世界にあの女子高生が侵食しているかのようで、青峰は面白くなかった。そんな神妙な顔をする褐色肌の男へ、笠松はまたアドバイスをする。

「……ハムスターでも飼ったらどうだ?」

「オレは生き物飼う資格ねぇんだろ?」

「女子高生飼えりゃ、上等だよ」

 青峰が笠松の言葉を鼻で笑ったすぐ後に、更衣室の扉が開く。立っているのはリュックサックを背負った火神大我で、ずぶ濡れに近い程汗を掻き、Tシャツを染めていた。その出で立ちに全員が驚く。

「タイガ、おはよう」

 真っ先に声を掛けたのは氷室で、笑顔でエースを出迎えた。その表情に安心したのか、火神は何時もの強気な笑顔で挨拶を返した。

「あぁ、モーニン」

「何でそんなに汗掻いてんだ?」

 ベンチの隣に腰掛けた火神へ、青峰は尋ねる。まるでフルマラソンを完走して来たような、そんな姿だ。首から掛けていたタオルで額を拭いながら火神は答える。

「家から走って来た。六時に出発してな」

「はぁ!?」

 仰天の声を出したのは笠松幸男だった。リュックからスーツを取り出した火神は、大きな皺が無い事を確認する。

「ココまで大体二十五キロだ。これで文句は言わせねぇ」

 ズタズタにされたバッシュをわざとらしく取り出し、火神はソレに足を通す。……やはりやられていたか。青峰は昨日の黛の言葉を思い出す。


 『馬鹿馬鹿しい世界だよな、本ッ当に。哀れなエースの誕生だ』


 負けず嫌いの火神は、こんな事で逃げるのはみっともないと考える人間だ。己のプライドに掛けて、絶対に負ける訳にはいかないのだ。だから男はリュックから靴紐を取り出した。コレさえ変えれば履けない事は無い。しかし、ソレを青峰が止める。

「火神、オレのバッシュ使え」

「ふざけたバッシュだからか? センス良いだろ?」

 刃物で側面をズタズタに切られ醜い姿となったシューズを嘲笑った火神は、使い物にならない紐を外し始める。

「公開練習、ソレで出るつもりか? 馬鹿言うな」

 ロッカーから予備のシューズを取り出した青峰は、火神の足元へ雑に転がした。高校から変わっていなければ、靴のサイズは同じの筈だ。

「名前書かねぇと、お前のもオダブツにされるぜ?」

 ピリピリした空気の中真剣な顔を見せる氷室は、大切な弟的存在の火神を心配する。

「……タイガ、相談すべきだ」

 しかし、火神がその気持ちを汲み取る事は無い。差し出された救いの手を乱暴にはね除け、意固地を見せた。

「コレはオレの問題だ。逃げるのはダセェんだよ」

 火神からすればココに居る古くからの知り合い以外、全員が敵なのだ。信用出来る人間は限られている。そんな逆境の中で出来る事は只ひとつ。

 単純だ。リーグ最終章で目の前に居る青峰大輝が魅せた、たったひとつの正攻な方法……――。

「実力で捩じ伏せてやるよ……。馬鹿共にはソレしか通じねぇからな」





 同日。午後八時半。ファミレスに呼び出された黒子は、スーツに身を包んだ待ち合わせ相手の髪型へ驚き、瞬きを数回繰り返した。

「――青峰君。どうしたんですか? その髪」

「そんなに変か? コレ」

 既に着席し、メニューを眺めていた青峰は、自分の丸まった頭を指差す。額は元々広かったが、前髪が無いのは不思議で仕方無い。

「何でまた、そんな髪型なんですか?」

「笑わねぇのはお前だけだ、テツ」

 リュックを下ろして席の横に置いた黒子は「笑っても良いんですか?」と、無表情のままに伺う。今の青峰は、見た目がまるでキングコングだ。電波塔によじ登ったら、良い映画になるだろう。

「それで、ボクに用事って何ですか?」

 窓際に立て掛けられたグランドメニューを手に取った黒子が、本題を青峰へ問い掛ける。喧騒感強い晩飯時。青峰はお冷やグラスを傾け喉を潤し、黒子テツヤに用件を告げた。

「火神がグレそうだ」

「強がりですから。火神君も、キミも」

 フゥと息を吐いた黒子は、青峰のその一言で、やはり火神が逆境に立たされている事を知る。先日彼のマンションで聞いた嘆きが、随分と悪い方向へ進んでいるようだ。

「アイツ、一人で戦う気だぜ? コートに敵が九人だ」

 青峰は、火神の態度を鼻で笑う。今日のミニゲームも最悪だ。ボールを持てば全て自分で決めようとする。彼は団体競技を一人でプレイしているのだ。オフェンスチャージも多数出した。このままでは周りとの溝は益々深まるばかりだ。――昔の自分を見ているようで、青峰は辛抱堪らなそうな顔をする。

「元々、他人を信頼する人では無いので」

 火神大我をよく知る黒子は、その扱い方の難しさも心得ていた。彼は言わば【鏡のような男】である。信頼されれば信頼で返すし、悪意を持たれれば悪意で以て相手に接する。そんな人間が冷たい風に吹かれれば、瞬く間に冷徹になってしまうのも当たり前だ。

 そこで一旦会話は途切れた。呼び鈴を押した黒子が、やって来たウェイトレスへ注文を告げる。青峰もチキンステーキを注文した。主食は何となくでパンにした。黒子が意外そうな顔でコチラを見る。

「バスケ以外の支えを作れ、だってよ。熱血眉毛に言われた」

 メニューを戻し、丸刈りの頭を撫で抱えた青峰は、汗掻いて濡れたお冷やグラスをただ眺める。

「桃井さんは?」

「…………いや」

 幼馴染みの名前を出せば、青峰は顔を無表情に変える。コレは男の癖だ。本人の深く立ち入りたく無い話題は、表情を無くす。判りやすくて重宝する。

「だから髪を丸めたんですか」

「何も言ってねぇだろ!」

「キミは時々、恐ろしく判りやすいですから」

 全てを見透かすような黒子は、大きな瞳を青峰へ向ける。青峰は失恋で髪を切った。ソレが一番、未練を断ち切るのに手っ取り早いからであろう。

「キミ、あの女子高生どうしたんですか? 火神君が好意を抱いてる……」

 無表情のまま、青峰は少女の名を口にした。

「――……なまえか」

「女性を名前で呼ぶなんて珍しいですね」

 混雑している店内は、オーダーが集中しているようだ。トントンと指先でテーブルを叩く黒子は、青峰へそうやって試すような事をチョイチョイ入れる。

「そんなんじゃねぇよ」

 青峰の素っ気ない返答にタップしていた指先を止めた黒子は、真っ直ぐに男を見据える。

「手出したら犯罪者ですからね。……最も、今は火神君がそうならない事を願うばかりです」

 青峰の目元がピクリと痙攣した。まるで嫌味に似た黒子の言葉。火神と少女は一線を越えるのだろうか。小さい身体に火神の巨体がのし掛かるのを一度見た。その時は下の女が泣いていて、助けを求めていた。――だが、今がそうとは限らない。火神に誘われたら、何となくで応じるのだろう。大人の世界を知りたいだの何だの、小汚ない言い訳をして……。アイツはもう処女じゃない。チンケで役立たずな性器で貫いてやったのだから……――。

 思い出すのは最後の泣き顔と、背中越しに聞いた悲痛な泣き声だ。ソレもやがて記憶から消えるのだろう。もう、二度と会えない。仮に会えたとしても、火神の後ろに隠れる形でしか姿を見せない筈だ。

 青峰大輝は人付き合いに薄い人間だ。学生時代に結構な数の告白を受けた。部活の邪魔だと全て断り、結局こんな年齢になるまで彼女が一人も居ない。

 ――支えなんて大袈裟なモン、必要ねぇよ。インスタントで充分だ。コンビニエンスの何が悪い。

 頭を抱えボンヤリ物思いに耽った青峰は、突如顔を上げ「んあぁ!!」と叫んだ。そして絶望的な表情で、思い出した"ある事実"を口にするのだった。

「どうしました? そんな顔して」

「ヤベェ……。AV返すの忘れてた……」