八月十八日、十九時。

 【エースの途中退場】と云う大きなトラブルを抱えながらも本日分のスケジュールを終え、各自が自主練に励む。まるで学生時代の部活と同じだ。自信が無い者や、より高みを目指す野心家達が体力の続く限り己を磨く。

 しかし全員がそうでは無く、中には例外も居た。誰よりも早くアリーナを後にし、シャワールームへ向かった青峰大輝は、コンクリート剥き出しの壁に備え付けられたシャワー栓を捻る。

 しばらくすると出入口が開き、隣のブースへ入った"意外な人物"を横目で捕らえた青峰は、水が床を弾く音に紛れながら声を掛けた。

「残って練習しねぇのか?」

「……こんな日は早く帰りてぇんだよ」

 グッタリとした笠松は、頭を振り疲弊を飛ばす。火神が途中退場してからの彼は、まるで謝りマシーンのようだった。協会から電話で叱咤され、各マスコミには【火神大我は、非公開の別メニュー】と言い回り、エースを撮影に来ていた記者達からも叱咤されていたのだった。お陰様で事態は収集し、トラブルが外部に漏れる事は無さそうだ。

 しかしここまでしても、労いの言葉がある訳では無い。青峰は絶対に主将はやらないと心に決めた。面倒事へ自分から突っ込んで面倒行くなんて、ドMの所業だ。

「ペットも待ってるし。腹空かせてるだろうなぁ」

 首をゴキリと鳴らした笠松は、早々と帰宅したい理由をもうひとつ述べた。ソレを聞いた青峰は驚いてしまう。

「ペット!?」

 褐色肌の彼は、ペットと言えば【ヒモ女】を想像してしまう位に爛れている。だからこそ、笠松程の誠実な男が女を動物扱いする事に驚愕した。細い目を見開き、擦りガラス越しに隣の男を監察する。

「散歩に連れてかなきゃだ」

「…………何だ。犬か」

 "散歩"と言う言葉にペットが本物の動物である事を悟り、少し安心する。隣の笠松は、シャンプーで頭髪を泡立てながら疑問を投げた。

「はぁ? 他に何があんだよ」

「女とか」

 手を止めた笠松は、擦りガラスに映る巨体に向かって慌てた声で怒鳴る。

「おんっ……! 女はペットじゃねぇだろ!!」

「彼女は?」

「居る訳ねぇだろ! ま、まず、出逢いがだなぁ……!!」

「だろうな」

 言い訳を馬鹿にされたような口振りに、唸った代表主将はシャワーの栓を解放させた。途端に室内が騒がしい音で満ちる。

「……お、お前はどうなんだよ」

 モゴモゴしながらも青峰の恋愛事情を探った笠松だったが、相手は大きく溜め息を吐く。

「帰ってAV観るだけだ。明日までのが三本もあるぜ」

「タフな奴……」

 こんな身体が動かない日に、一体何発ヌくつもりなのか……。清涼感ある香りで汗臭さを流した両名は、次に身体を洗い出す。頭を振り、水滴を飛ばした黒髪男は呟いた。

「……なぁ。バスケ以外にも、何か支えになるモン作っとけよ」

 ――そのアドバイスは、今の青峰には苦痛だった。自分の中にはバスケットボールしか無い。競技が自分を生かし、自分も競技へ"生活の全て"を注いでいた。趣味だって、たまに如何わしい映像や写真を眺めるだけ。ソレらは"支え"になる程、青峰大輝を魅了していない。ただの暇潰しだ。

 その考えを見透かしたのか、笠松はシャワー音に紛れながら更に言葉を投げる。

「どうせお前、バスケしかねぇんだろ? ……オレもそうだから判る。無くなったら何も残らねぇぞ」

 笠松は遠い過去を振り返り、青峰と初めて戦った決勝戦を思い出す。そして、随分と丸くなった今の彼と自分の距離感に驚くのだった。主将のアドバイスに黙っていた褐色肌の男は、当時と変わらぬ低い声で冗談を言った。

「ハムスターでも飼うか」

「止めとけ。生き物飼って良い性格じゃねぇだろ」

 笠松は、青峰の周りをチョロチョロ走るジャンガリアンハムスターを想像し、余りの似合わなさに吹き出した。愛想もない強面男が小動物を可愛がるとも思えない。

 その隣ブースではキュッと栓が絞まる音が響き、顔を両手で拭った青峰が飄々とした調子で、先日の"現実離れした現実"を口にした。

「女子高生は飼ってた。いや……居着いてたのか? ありゃあ」

「…………は!?」

 青峰は、個室上部に空いた隙間から笠松の股間を覗く。そして予想通りの平均サイズにニヤリとした。小馬鹿にされたのを感じた笠松も青峰の股間を覗くのだが、自分よりも一回り大きく長いサイズに目を丸くする。縮まった状態でもソレなのだから、完全体になったら恐れ戦きそうだ。そんな狂暴な性器を持つ褐色肌の男は、鼻で笑い個室を出る。

「ハムスターもJKも、一緒だ」

「一緒じゃねぇだろ!!」

 残った笠松はブースから真っ赤になった顔を出し、丸刈り男の鍛え抜かれた背中へ批判をぶつけた。





 八月十八日。十九時。

 火神大我は自室のベッドへ大の字になり寝転がっていた。ボンヤリした頭では、虚無感に襲われるだけだ。

 ――何がエースだよ。無駄に持ち上げんじゃねぇよ……。

 まるで燃え尽きたかのようにヤル気が出ない。自分は名前の通り、何があっても闘志の火を燃やして今日まで生きてきた。何をするにも全力投球で、『暑苦しい』と何度も言われた。そんな傲慢な人間が、たかだか安っぽい挑発に負けそうな事が許せない。オレは何でこんなに弱いんだ?

 そうやって一人で己を野次っていると、ベッドサイドに置いたスマホが呼び出す。本日何度目かも判らない。着信履歴は同じ番号で埋め尽くされている。協会と、氷室辰也と……一番着信の多い知らない番号は、恐らく笠松幸男のモノだろう。いい加減苛々も積もった火神は、機器を掴み、着信を許可した瞬間怒鳴り込んだ。

「っるっせェんだよ!! ほっとけって言ってんだろ!!」

 もう電話の向こうは誰でも良かった。自分を心配し、味方で居てくれている氷室だったとしても、火神の苛立ちは収まらない。

 ――しかし、電波の向こう側の人物は氷室でも、協会の人間でも、笠松でも無かった。小さくか細い"女の声"が、泣きそうに喋り出した。

『――……みませ……』

 慌てて画面を確認し、表示された名前にワァァァァァッ!! と叫びを上げた火神は、スマホを無線のように持ち必死にフォローを入れる。

「違ェ! お前じゃねぇ!! 間違えた!! 悪ィ!!!」

 空いた手で頭を抱えた火神は、つい数秒前の自分を殴りたくなった。よりにもよって、好意を抱く女性に挨拶も無く怒鳴ってしまった。

『……忙しい感じですか?』

 項垂れた火神の耳に謙虚な声が届く。無礼を働いても尚、会話をしてくれそうな相手へ取り繕う男は、分かりやすい位に必死だった。

「暇だ! 暇、暇!! あぁ〜! 何すっかなぁ〜!?」

 わざとらしい独り言の向こうにクスクスと笑い声を聞いた火神は、安心感から頭を掻いて次の話題を探す。しかし何も出て来ない内に、なまえが話し始めた。

『元気そうで良かったです。さっき……元気無かったから』

 電話の理由を知った火神は、全身から力が抜けるのを感じた。いつの間にか身体中に無駄な力を込めていたらしい。ソレから一気に解放され、溜め息が漏れた。

「……何だよ。年下に心配される程、残念な男じゃねぇよ」

 なまえの些細な優しさに、大きな愛しさを感じる。

 ――今すぐ会いたい。抱き締めたい。彼女の時間を独り占めしたい。

 男はフットワークが軽い。そうしたいと思ったら、すぐにでも行動に移してしまう人間だ。

「今から行って良いか? 昨日の今日だけどよォ……」

 今も例外では無く、男は『会いたい』と思えばソレが他県であっても会いに行ってしまう。

『私は良いですけど、練習大変なんじゃ……』

「――良いんだ。会いてぇ……」

 彼女の元まで、高速を飛ばせば一時間。確かに遠い道のりだが、そんなの障害でも何でも無い。とにかく今は会いたいんだ。火神は会って何をするかも考えていないし、明日の事も考えていない。……今は考えたくもない。

「オレは体力馬鹿だからな?」

 笑って自分を明るく見せる男は、会える嬉しさに表情を綻ばせた。





 帰宅ラッシュに差し掛かる電車の中は座る場所も無くて、多数の人が立ったままに箱の中へ押し込まれている。両足に力を入れて揺れに耐える青峰は、周囲の"高身長な自分を見る好奇の視線"にイライラしていた。天井に届きそうな背を丸め、目の前の脱毛サロンの広告を眺める。こうやって人混みの中に数十分も居ると免許と車が欲しいと、切実に思う。

 夏休み期間だと言うのに、制服姿の女子高生を多数見掛ける。キャハキャハと楽しそうに話す集団。腰掛け参考書を見る眼鏡の学生。ダルそうに凭れスマホを弄る者も少なくは無い。正直、個々に興味が無いから全員一緒に見える。楽しそうに話す集団の一人と目が合えば、コチラをチラチラ見ながらのヒソヒソ話が始まった。

 フイと顔を逸らした青峰は、数年前の自分を思い出す。制服が戦闘服であり、ステータスだった。守られる存在の証だ。スーツの今じゃ、守ってくれる対象も居ない。更に、今度は守る側にならなくてはいけない。


 『どうせお前、バスケしかねぇんだろ? ……無くなったら何も残らねぇぞ』


 何も残らない虚無感は、代表から外された"あの日"……痛い程に感じた。あの時の自分は支えすら無く、雨に打たれてドロドロになったのだ。憂鬱な気分を思い出す前に溜め息を吐き、次の停車駅を告げるアナウンスへ耳を傾ける。目的地まで、あと二駅だった。

 スーツの内ポケットに入れた携帯を取り出し、滅多に開かないウェブで検索を始めた男は、目当てのサイトを眺める。

 そんな事をしている内に最寄り駅へ到着する。電車を降りると同時に、今度は携帯を閉じた。自分以外には誰も降りず、電車はゆっくりとホームを発車した。

 ――家に帰りたくなかった。きっと玄関を開ければ蒸し暑い空気が出迎えてくれるだけで、がらんどうな屋内は暗く寂しいだろう。

 怒りと失望を抱えた火神は、今頃自宅で泣いているのだろうか。押し付けたあの少女の小さな身体にすがり付いて、情けなく周囲や環境へ愚痴を言い、更には自分を責めながら……。

 それでも寂しさは無い筈だ。【誰かが居る】とはそういう事だ。泣き止んだら、相手にキスでもすれば良い。きっとアイツ……なまえは余計な事は何も言わないし、説教もしない。ただ"居るだけ"なんだから。

 苛々する。【支え】を持った火神の家に孤独は無く、逆に自分は帰ったら孤独しか待っていない。桃井を選び少女を捨てたとは言え、こんな結末……あんまりだ。

 ポツリポツリと雨が降り出す。舌打ちをした青峰は、本降りする前に駆け足で進み出した。……帰りたくない、寂しい自宅へと――。





 なまえの地元に着く頃には雨はどしゃ降りとなり、傘を差し待っていた相手に申し訳無さを感じた。火神は濡れた傘を後部へ転がし、乗り込んだ少女へタオルを差し出した。

 珍しく髪を二つに結び、清楚な身なりの女子高生は、おしとやかな女性が好きな火神のタイプにビタリと該当した。自身の見た目が派手な割りに、女性には素っぴん美人の大和撫子を求める。火神大我はそういう男だった。

「わざわざすみません」

「い、いや……? ドライブしたい気分だったしな」

 駅前のロータリーに車を止め、ハザードが濡れた道路に反射する。車内には小さなボリュームで洋楽が流れていた。昨日別れ今日会って、何も話題が無い二人は沈黙を貫いてしまう。

 ――会えば会う程愛しさが膨らんでいく。単純な男は、単純な理由で、単純な悩みを忘れる。今日あった事が全て頭から消えていく。

 一昨日、彼女の首には多数の愛された証があった。それが今日まだ残っているか確認は出来ないが、なまえが誰かに愛されたのは明白だった。そしてきっと彼女は、未だ消えない証を残されている。心の中へ、恋心として……――。

「……青峰がどうなったか、知りてぇか?」

 火神が少女へそう尋ねれば、相手は息を飲んだ。男はただ、なまえが未だ【その証を残した人物】を想っているのかが知りたかった。

「…………いえ、大丈夫です」

 少女は俯き、暗い声色で答える。

「なら、吹っ切ったか?」

 そう聞けば、なまえは黙ったままスカートを握る。少女はYesとは言わない。それが答えだ。悔しい事に、心は未だに青峰へ囚われているようだ。捨てられたのに……。相手は"自分だけの幸せ"を選んだと言うのに…………。

「……知ってた方が良いぜ? アイツな……――」

 神妙な口振りの男は、少女へ青峰のその後を伝えようとする。聞きたくないと言わんばかりに両耳を塞ぎ、ギュッと目を瞑るなまえを尻目にし、容赦の無い火神は激しさを増した雨音に紛れながら口を開いた。

「――丸刈りになった」

「……え?」

 想像とは違う答えに目を丸くしたなまえへ、悪戯な笑みを見せた火神は今朝見た光景を思い出し、クハハ……と笑う。

「髪切って、丸刈りになってた。まるでモンチッチだ!」

 パチパチ瞬きをしたなまえは、暗闇の中朧に浮かぶ男が腹を抱え笑っているのをただ眺めた。

「……へ? えぇ〜!?」

 動揺した自分が恥ずかしくなり、なまえは手首に付けていた黒い髪ゴムを手のひらで伸ばし弄び始める。すると、弾いたソレは指先から離れ二人のシートの間に入ってしまった。サイドブレーキの横に引っ掛かっていたゴムを取ろうと、少女は手を伸ばす。

「ゴ、ゴム……落ちちゃった」

「何してんだよ。ホラ、取ってや……」

 火神までもが手を伸ばせば、二人の手の甲が触れた。ビクリと身体を跳ねさせた男は、慌てて手を戻す。なまえの指先が掴んでいた髪ゴムは、手から離れシートの裏に入り込んでしまう。こうなったら後部座席から手を伸ばすしか無い。

「……わ、悪ィ……。奥に入っちまった」

「……別に良いですよ。一本位……――」

 再び静寂が訪れ、カーステレオはメロウな洋楽へと変わっていた。ムードある車内で、火神の指先が少女の手甲に触れる。そのまま手を握った火神は、汗ばんだ手のひらでなまえの右手を包んだ。どちらの熱なのか判らない程に体温が溶け、やがて男は自身の顔を相手の唇目掛け近付けさせた。





「……お前さ、オレと付き合わねぇ?」

 八畳のワンルーム。コレが日本を代表する天才的プレイヤーの城だ。その城内は現在、オレンジの豆電球のみが薄暗く照らす。ベッドを軋ませ、立ち上がった一人の女が背中のホックを留めた。男と云う生き物は、ブラジャーを外す癖に留めはしない。

「そういうプレイですか?」

 首を捻った女は、可愛らしい声で男へ話し掛ける。初めて呼んだデリバリーヘルスは"当たり"だと思った。顔はそそられないが、胸はハリがあって大きい。喘ぐ声も、舌使いも最高だった。

「デリヘルなんて辞めちまえよ」

 男の腰元付近はシーツが水溜まりで濡れている。何て事はない。数十分前にしてやった激しい愛撫で、女が潮を吹いただけだ。その染みが、男へ『お前はテクニシャンだ』と自信を付けさせる。

「今月、三人目です」

 家主――青峰大輝の誘い文句は、何人もの男が口にしていたらしい。

「人気あるんだな」

「説教したいお客さんが多いだけです。ヤる事ヤって、満足したら説教タイムです」

「最低だな」

 そう言いながらも自分だって、つい数分前までは赤子のように甘え抱き着き、胸に付いた突起を舌で転がしていた。ふくよかで柔らかい乳房を手のひらで捏ね、勃たない男性器を何分間もあの口で愛撫させたのに、まるで全てを忘れたかのようだ。

「何歳ですか?」

 スカートを履く女が質問をする。数ヶ月前に成人式を挙げたばかりの男は、低く甘い声で答えた。

「……二十、五歳」

 本当の年齢が恥ずかしくなった青峰は、逆サバを読み自分を大きく見せようとする。するとデリヘル嬢は急に口調を変え、馴れ馴れしくなった。

「じゃあタメだね。私も二十五歳。プロフィールは二十歳だけど」

 ――サバ読み過ぎだろ、歳上かよ。青峰は顔をしかめる。そりゃあ裸を見せたがらない訳だ。女は服を着て、明かりを最大にする。本当の年齢を知った後だと、化粧がやたら厚いのに気付く事が出来た。

「……付き合ってくれるの?」

 来た時と同じ姿になった嬢は、裸のままの男にしなだれる。太く長い腕を伸ばしテーブルに置いていた財布を手にした青峰は、口を開いた。

「あと四歳若かったらな」

「最低……」

 文句を言う歳上女へ、財布から万札を数枚掴み差し出す。女側だって、青峰大輝の本当の年齢を知ったら躊躇するだろう。老け顔の男は、嘘の年齢で相手を騙す事が出来た。

「勃ったなら、本番してあげたのに」

「疲れてんだよ、今日」

「でも呼ぶんだ……。デリヘル」

 意地悪な目線で顔を覗き込まれる。それがおねだりに見えた青峰は、顎を持ち上げキスをしてやった。

 唇を重ねながら、男は"偽り"で寂しさを捨てた。やがて来るであろう孤独に比べれば、プライドなんて安いモノだ。

 ――【支え】なんて、こんな偽物でも充分じゃねぇか……。

 舌を捩じ込めば、嬢は甘く鼻を抜けた喘ぎを漏らす。衣服の上からまた乳房を揉み、下着越しに場所を知った乳首を潰す。

 最後にアラームが終了を知らせてくれた。魔法の時間は解け、シンデレラは元の生活へ戻る。ガラスの靴の代わりに差し出された名刺は、ピンクで女性らしい。

「コレ、私の名前」

 差し出された名刺を腕ごと突っ返し、冷めた目で女を見据える。まるで恋人のようだった二人は、時間が過ぎれば只の他人へと戻る。

 判っているからこそ、青峰は冷酷に言い放つ。

「興味ねぇよ。お前の名前なんか」