初日、初っぱなの練習内容に全員が浮かない顔をしていた。連れ出されたのは隣接されたグラウンド場で、天候は曇り。気温も25℃を下回り、湿度も低い。走りやすい環境ではあるが、内容が過酷過ぎる。

「外周コースは一周1000M。それを二十周走って貰う。一周辺りのタイムが決められているから、間に合わなかった奴は脱落だ。半分も走れなかった奴は、今日帰って良いからな。最初は五分。四週毎にインターバルが十五秒ずつ減って行くから気を付けろ」

 バインダーを掲げた笠松が、ランニングの内容を伝えた。まるで陸上の強化メニューである。ブーイングすら出ない。全員が並んで走り出した。グラウンドを抜け、歩道のアスファルトを無言で走る。

 やがて半分も過ぎれば、ポツリポツリと脱落者が出て来る。中には芝生に朝食を吐く者も居た。コースに残っている選手の顔色も優れない。黛は十三周。紫原も、十五周でリタイアしていた。

 残り一周。与えられた残り時間は三分半。「絶ッッ対無理だろ……」と呟いたのは早々とリタイアを決めた黛で、陸上の長距離選手でなければ難しいタイムだ。そんな中、笠松と青峰は他を引き離しトップを並走するのだった。

 先に仕掛けたのは笠松で、彼にはチーム代表としての意地がある。スピードを付け、青峰を引き離しに掛かる。必ず一番で皆の前に姿を見せなくてはいけない。予想外なのは後ろに付く男の存在だった。早々にリタイアして、芝生へ寝転がると思っていた。『あぁー、ダリィ……』とか言いながら。

 スピードを上げようと思っても、ふくらはぎがビクビクと痙攣する。腹部が掻き回されるような感覚に足元を見てしまう笠松は、背後から掛けられた声に意識を戻す。

「……悪ィな、先行くぜ」

 気付いたら自分のすぐ隣に息遣いを感じた。下がっていた顔を上げれば、肩と背中の色が変わる程シャツを濡らした男が、更にスピードを上げる。信じられない……と言わんばかりに目を開いた笠松幸男は、地面を激しく蹴りダッシュに似た速さでゴールを目指す背後を見送った。

「……どんだけ、タフ……なんだよ……」

 息絶え絶えに青峰を称えたチームの主将は、"スーパーエース"の潜在能力を測り間違えたようだった。

 順位は一着。1000Mを三分以内と云う驚異のスピードで走り終えた青峰は、ゴールしても歩みを止めずにフラフラながらグラウンドを後にした。地獄のランニングの終了を待っていた二十名弱は、汗にまみれた丸刈りの男の背をただ見つめた。

「……陸上選手になれよ」

 誰かの口からそんな呟きが漏れた時には、既に"スーパーエース"の姿は無い。――数分後、追い掛ける形でゴールした笠松も真っ青な顔でグラウンドから姿を消す。

 結局、制限時間内に走り切ったのは青峰と笠松の両名のみで、二人は仲良く公衆トイレで朝食を戻していた。それも盛大に、便器にすがり付く形で――。


 …………………


 その後――休む間もなく二組に分かれオールコートのスリーメンを二時間ぶっ続けで行い、午前中の練習は終了した。ギシギシした肉体では決まるモノも決まらない。シュートの成功率は、パーセンテージを出すのも躊躇う程に最悪だった。しかもたった十二名ではすぐに順番が回ってくる。体力の無い黛千尋は、医務室のベッドで死んでいた。

「……どんな練習してたんだ? 死にそうだけど」

 火神がCMの打ち合わせから帰ってくれば、代表選手の殆どが食堂で昼食も取らずにグッタリしていた。氷室の前にあるプレートからお握りを奪った火神大我は、紫髪の男が呻きながら何か言うのを聞く。

「三回位、死んだかもぉ」

「マジかよ……。オレも練習してェよ。座って話聞くだけは退屈だ」

 パイプ椅子に座り愚痴を漏らした火神。お気楽な彼に言葉を投げたのは、タオルを顔面に掛け、首と背を反らし、天を仰いでいた青峰だった。

「――お前……相変わらず空気読めねェ男だな」

「は? え? わ、悪ィ……」

 呆れたような口調で野次られた火神は、キョドりながらも謝る。男は自己の発言を振り返り、確かに迂闊だったと反省をする。

「……別に、タイガのせいじゃ……――」

 それはグッタリとした氷室が、落ち込む幼馴染みへフォローしようとした時の事だ。少し離れたテーブルから低い声が聞こえる。

「――だったら変われよ」

「良いよなァ。座ってヘラヘラしてりゃ、レギュラーなんて」

 明らかに自分へ向けられた中傷へ、火神はソチラを向いて反抗した。

「オイ、どう言う意味だ……?」

 怒りを復活させた火神は、声を掛けたテーブルを目付きの悪い顔で睨む。疲弊した氷室は手だけを伸ばし、火神を宥める。

「タイガ、安っぽい挑発に乗るな」

 不穏な空気へ大袈裟に溜め息を吐いた青峰は、立ち上がるとスポーツドリンクの入った紙コップだけを手に取り、歩きながら飲み干す。空になったコップをゴミ箱に捨て、室内を後にした。

 駄菓子を握ったまま机に突っ伏す紫原が「峰ちん、空気悪くなるとすぐ逃げるからさぁ」と呟く。氷室は自力で身体を起こし、ギスギスした食堂を見渡すと、火神へ語り掛ける。

「…………別な場所に居た方が良い。今は、敵を作るだけだ」

「オレはそんなつもりじゃ……!!」

 火神は困った顔で首を振るのだが、氷室は険しい顔を崩さない。

「判ってる。――でも、状況が悪い」

 唇を噛んだ火神は、立ち上がり食堂を後にする。素直な相手が扉の向こうへ消えた瞬間、氷室はまた机に突っ伏した。


 ……………………


「よォ、今……大丈夫か?」

 エントランスの隅。誰も居ない一角で、火神は耳にスマホを当てていた。ベンチに腰掛け、近くの自販機でジュースを買い横に置く。声とは裏腹に、男は目元を手で覆い辛抱堪らなそうだ。

『あの、火神さん? どうしたんですか?』

「……声、聞きたくなって」

 ストレートに想いを告げれば、受話の向こう側からゴニョゴニョ照れたように『そ、そうですか』と返ってきた。

「オレ、CMに出る事になった。スゲェだろ?」

 話題は何でも良かった。天気でもテレビ番組でも、ネタになるのなら何でも良い。でも結局、こんなのを話題に出したのは誰かに祝福されたかったからだ。ただ、一言で良いから自分が大きな舞台で活躍する事を祝って欲しかった。

『CM……? え!? え〜ッ!??』

 案の定大きなリアクションを見せたなまえは、割れんばかりの大声で驚く。

「九月の頭からオンエアだってよォ。CMって企画に時間掛かって、撮影からは早いんだって、知ってたか?」

『えぇー? 火神さんテレビに出るんですか? えぇー? 観なきゃ。凄い!』

 自分が今日の打ち合わせで知った知識を教えると、少女の声が弾む。その明るい声が、荒んだ火神を癒す。

「……恥ずかしいから観んなよ」

 口を尖らせ目を細め、急にやって来た気恥ずかしさに火神は身を収縮させる。

『だって観たいじゃないですか! 知り合いがテレビに出るなんて!』

「……み、観たけりゃ、その……何時でも会いに行ってやるよ!」

『……ありがとうございます』

 恥ずかしそうに小さくお礼を告げられ、火神の頬まで熱を持った。

 ――単純に嬉しかった。こうやって、悪意の無い人間と話せるのが……。別の事を考える事で、自身に降り掛かった"災難"を一瞬でも忘れられる。

 火神が感じたのは激しい"疎外感"で、まるで自分だけが悪者にされているようだ。認めて貰えない。周りの目が冷たい。バスケがしたいだけなのに、強い相手と戦っていたいだけなのに……。

 ココでは、そんな簡単な願いすら叶えるのが難しい。

 オレは一体何なんだろうか。邪魔者なのか? 嫌われて当然な人間なのだろうか……。敵意を感じる眼差し、言葉。ズタズタになった革靴が脳裏に浮かび、バンドエイドで止血した二本指を見る。

「――オレが嫌になったら、何時でも言えよ。無理に優しくする事はねぇから」

 ポツリと吐いた弱音が、心に空洞を空ける。初めて人から"明確な悪意"を受けた火神は、完全に飲まれてしまった。引き金を引いてしまったのは、他でもない軽率な行動を取った自分自身だ。強気で前向きな火神も、ソレが一番堪える。

『……それは、お互い様ですよ』

 電話越しでも判る程気を遣われたその"優しい返し"に、火神は頭の中がある感情で溢れた。

 オレは、何をしにココに居るのだろうか……。ツラい。こんな場所、居るだけ無駄だ。

 目頭を押さえた火神は、何時から自分はこんなに弱くなったのだと己を責める。

 周囲の人間へ弱さを見せられず、一人で抱えた不安や強がりは、やがて孤独となり両肩へのし掛かる。その重さが男を徐々に苦しめた。悪意の本体が見えない。巨大な何かになり、自分を追い掛けてくる。

「……お前に会いてェ」

 身体を折り曲げ、空いている手で震える肩を抱いた。年下の女に甘えなければいけない自分が、惨めで情けない。

『あの、火神さん? 大丈……――』

「オレ、もう、行かなきゃだから! ……またな」

 今、心配されたら自分はきっと甘えてしまう。震えた声を無理に出して労りの言葉を遮れば、胸がつかえて溜め息が出る。火神は相手の台詞の前に通話を切り、スマートフォンで震える口元を隠した。





「何で青峰がココに居るんだよ? お前アッチだろ?」

 練習も午後の部へ入った。フヘッと笑った町田は、青峰の髪から顔ごと目を逸らす。今更ながらにわざとらしいリアクションを見せた男に苛立ちながらも、青峰は雑に言葉を返した。

「さぁな、熱血眉毛に聞けよ」

 現在、個別練習の時間となり各ポジション毎に分かれていた。町田は、PFである筈の青峰が何故トップの集うコートに居るのかが疑問のようだ。

「お友達、大変そうだな? 安達が敵視してる」

 CやPFが集うコートを顎で指した黒髪の男は、自分達のチームメイトの話題を出した。青峰もソレに乗っかる。

「血気盛んな奴だからな」

「まぁ、安達も学生時代敵無しだったからなぁ。地元でな」

 町田と安達は笠松のひとつ上だ。つまり、火神やキセキの世代とは入れ替わりとなる。ある意味、アンラッキーな世代だ。

「……全国じゃねぇのかよ」

 全国レベルの選手だった青峰が、地方でのさばっていた安達を馬鹿にする。

「地方の人間の方が、プライド高いんだよ」

 町田はそう言ってクツクツ笑う。彼は別に安達を馬鹿にしている訳ではない。【地方で井の中の蛙をやっていた人間は、プライドが高い】――それがひとつの統計であり、事実なだけだ。

 この黒髪の男、【町田秀貴】は名の通り、秀でたポイントガードである。先日のファイナルで青峰の指示へ素直に従ったのも、ソチラの方が作戦としてチームに意味をもたらすと判断したからだ。男はコートの中では"自分"を持たない。自分個人の意見など、最も不要なモノだと考えている。

 それこそが司令塔に必要な要素であり、全体へ自己を主張するのでは無い。全体を見て、自己の主張を作らなくてはいけない。それは青峰大輝とは、真逆のプレイスタイルだった。

「町田は? ユース居たっけ?」

「青峰! 町田サンだろ! 歳上だぞ!!」

 いつの間に背後に立っていた笠松が、生意気な青峰の後頭部をバインダーで叩く。気味の良い光景に町田は背を反らし笑った。主将に耳を掴まれ引き摺られた青峰は、アリーナの外に引っ張り出された。

「お前、黄瀬にも容赦無かったよな?」

「生意気な人間に優しくする理由なんかねぇよ」

 青峰の批難を切って捨てた笠松は、右手にバインダーを持ったままに腕を組み、本題を告げる。

「青峰……。お前は前半か後半、どちらかしか出れねぇ」

 ロビーで告げられた言葉に、青峰は分かりやすく顔をしかめる。

「左手メインにしても、駄目か?」

「駄目だ」

 主将の頑固なまでの言い切りに鼻で深く息を吐いた青峰は、半笑いで呟いた。

「……予想はしてたぜ?」

「フォームが無いって事は、その分身体に掛かる負荷がデケェんだろ?」

 その指摘に青峰は何も言わない。じっとアリーナを眺めている。

 ――笠松が言う事は本当だ。彼は、彼のプレイスタイルで右肩の損傷を招いてしまったのだ。フォームとは、肉体への負荷を最小限に抑える役割をも持っている。ソレを無視し、酷使し続ければ何時かは駄目になる。中・高の時点では成長半ばの柔軟性を以て対処出来たが、青峰はもう成人だ。黄瀬と同じく能力を使用すればする程、身体が壊れて行く。

「――何時かは駄目になるって、判っててやってた」

 視線を横に向けたまま、青峰はポソリと告げた。

「馬鹿だから気付いてねぇのかと思ってた」

 笠松の嫌みを最後に、ロビーは沈黙した。青峰は、視線をアリーナ内部から目の前の主将へ向けた。

「……火神をどうにかしねぇと、アイツ潰れるぞ」

 目を細めた青峰は、元々低い声を更に低くする。

「お前が他人の心配ねぇ……」

「心配じゃねぇ。アドバイスだ」

「火神はそんな弱い男なのか?」

 笠松が知る限り、火神大我はメンタルの強い男だ。――そりゃあもう……他校のゴールを壊しても、ヘラヘラしてる程に。ちなみに第一印象はソレで、最悪だった記憶がある。

「弱くなっちまったんだよ。高校で」

 青峰は、火神がメンタル的に弱くなった理由が【高校時代に得たチームのせい】であると突き止めていた。誠凛は、黒子テツヤの掲げた理想像がそっくりそのまま反映されてしまったチームだ。仲間と一丸になり勝利を作り上げる。仲間が居てこそ、自分達は最高のプレイが出来る――……。まるで漫画の世界だ。

「……良いチームだったからな」

 高校生最後の試合を思い出す。正直言えば、羨ましかった。信じるからこそ、皆が強くなれる。そんな漫画のようなチームが優勝するのは、"必然的"だと思う。

 そして更に、青峰の立てる予想は悪い方向へと進んでいた。

「火神の野郎……このままだと日本でバスケすんの辞めて、アメリカに国籍移すぜ?」

 火神の家族は国籍をアメリカにし、向こうで永住権を獲得した。しかし、成人した火神だけは国籍を日本に残していた。――もし火神大我が国籍をアチラへ移行すれば、日本代表としての資格を失う。途端に笠松の表情が固まる。

「火神は、そう言ってるのか?」

「オレだったら、そうする。バスケを嫌いになる前に、逃げるのが一番だ」

 二人が最悪な未来を想定したと同時に、アリーナから怒号が飛んだ。

「真面目にやれって言ってんだろ!!!」

 その声の持ち主は、たった今二人の頭の中心に居た人物で、笠松は慌てて駆け出して行く。青峰はその場に留まり、主将の忙しさへ溜め息を付く。

「お前みたいに椅子に座って寛いでた訳じゃねぇんだよ、オレら」

 火神にそう喰って掛かったのは、同じポジションで練習していた安達だった。

「ソレと今の練習は関係ねぇだろ!! 代表なんだぞ!!」

「同じメニューこなしてから言えよ」

 興奮して怒鳴る赤毛の男を余所に、三つ年上の安達は腕を組んで余裕を見せていた。火神は遂に、ほぼ互角の体格をした相手にメンチを切る。付き合わせた額と視線に、両者が譲らない。

「……オレのロッカー荒らしたの、テメェか?」

 地を這う声で質問を投げる火神を、安達は鼻で笑う。

「知らねぇな。敵が多いみたいだな? 大丈夫か? エースさんよぉ」

 間に割って身体を引き離した笠松は、自分より背の高い両者を交互に見る。

「何喧嘩してんだよ、お前ら」

 ……――きっと大分前から兆候はあった。でも誰も気付かなかった。本人すら気付かなかった。火神大我の中で、音を立て何かが切れた。

「――……やってらんねぇ。馬鹿馬鹿しいな」

 顎を上げて見下す火神は、踵を返して男達の元を去ろうとする。出口へ向かうエースを、笠松が止める。

「火神、落ち着け」

「勝手にしろよ。オレはオレで、バスケをする。こんなお遊び球技やってられっかよ」

 肩に置かれた手を振り払い、火神は歩みを続ける。後ろを歩く笠松は、何としてでも火神を止めなくてはいけない。主将の勇ましい眉が下がる。

「お前が来ないで、どうやって練習すんだよ」

「こんなのが練習? 笑わせんな。監督はどうした? コーチは?」

 すっかり呆れ返った火神は、立ち止まり伏し目に似た目で笠松を睨む。瞳に光など宿っていない。在るのは、底の見えない失望だけだ……。

「監督は……海外から引っ張って来るんだよ。明日にでも、合流する筈だ」

 歯切れ悪くしか答えられないのは、笠松自身も疑問視する点だったからだ。いくらメニュー自体はフィジカルトレーナーが考えたモノであっても、管理する人間が居ないのはおかしい。しかし、現状日本国内に指導が出来る人間が居ない。自国が衰退する理由が、ココにある。

「こんなのが調子こいてんのに、注意もしねぇのか……?」

 火神の台詞に安達が足を踏み出すが、慌てた他の選手が後ろから羽交い締めにする。いつの間にか全員が彼等を注視し、集まり出した。

 ハハハハハハ……と大声で笑った火神は、まるでヒール役のような顔で、他の選手を心から見下す。

「……だから日本は駄目なんだよ」

 遂に――瞳の据わった火神の口から自国を見下す言葉が出た。笠松は、青峰の予想が正しい方向に進み始めたのを感じる。

 火神は固まった笠松幸男を残し、アリーナを退室する。途中に火災報知器の赤いケースを蹴飛ばし、広い屋内に強烈な緊迫感を残した。

 青峰は、擦れ違った火神を纏う【失望と怒りのオーラ】が余りにも大きく、一瞬だけ声を掛けるのを躊躇う。

「……火神。公開練習、一時間後だぜ?」

「だから何だ? ……知るかよ」

 鼻で笑った火神は、目元を引き釣らせたまま足を止める事は無かった。