火神となまえがお別れを述べたその時間、お盆期間で閉鎖中だった総合体育館をコネクションで開放させた黄瀬は、青峰大輝を呼び出していた。こんな我が儘さえ叶えられる事務所の社長には頭が下がらない。

 そうして約束の時間より三十分も遅れてやって来た青峰の姿を見た黄瀬涼太は、怒る前に「うぎっ……!!」っと喉から変な声を出した。そのまま金魚のように口をパクパクとさせ、訝し顔の青峰を指差した。

「何だよ。何か文句あんのか?」

 目線を左方に逸らした黄瀬は、ヘラリと苦笑いを見せる。それもそうだ。目の前に立つ中学時代からの友人は、何年もの間見てきた容貌と圧倒的に違う部分がある。

「いやぁ、その。……失恋っスか?」

 褐色肌に生える髪は何時も額を見せるように七三で、柔らかく撫で付けられたように頭を覆っている……筈だった。

 現在の青峰は髪を更に短く刈り、坊主に似たベリーショートとなっていた。こうすると意外と頭の形が整っているのが判る。短い髪をバリバリと掻いた青峰は、恥ずかしそうに目を伏せる。

「オレが一番見慣れねぇんだよ」

 黄瀬は、益々近寄りがたい風貌へ変化した青峰を「あっ、そ」と冷たく切り捨てる。そうしないと笑ってしまうから……。

「どうせ二ヶ月位で元に戻る」

 床に座り黒いバスケットシューズを履き出した青峰は、紐を結びながら競技の準備を始めた。既にシューズを履き、膝や腕にサポーターまで巻いていた黄瀬は、顎に手を置きながら「写真撮っておかなきゃ」と見た目の変化を珍しがる。

「……早かったな、黄瀬。使える男だ」

 シューズの履き心地を確かめる為に床をドンドンと踏み鳴らした青峰は、準備を終える。

「お礼にしちゃ、上から目線っスね」

「褒めてやったんだ。ありがとうございます、だろ?」

 黄瀬の嫌味にも大柄な態度で返した青峰は、自分よりモテる男には、昔からこんな態度だ。

「アンタ、そんなんだから彼女出来ないんスよ?」

 黄瀬の放った言葉のジャブは、相手の急所を叩いてしまったようで、青峰は俯いて見慣れぬ頭を下げてしまう。寂しそうに自虐的笑いを見せる褐色肌の男は、呟いた。

「…………そうかもな」

「本気で落ち込むんスか? オレ悪者じゃん!」

 黄瀬は、苦々しく目を伏せた青峰の弱々しさに狼狽え苦情を入れるのだが、顔を上げ表情を変えた青峰はすぐに次の話題を出す。

「お前、ちゃんと紹豹孚の動きコピー出来たのか?」

 『そうだ』と、呼び出した用事を思い出した黄瀬は、頭を左右に振って眉を下げる。

「身長と筋力が違い過ぎるっスよ」

「やっぱ無理だったか……」

 相手は217cmの世界最高峰のNBAプレイヤーである。青峰程の実力者だって、むやみやたらに真似は出来ない。そして黄瀬の能力にも限界はある。どうやら"紹豹孚"を模倣するには、その限界を超えなくてはいけないようだ。

 しかし、黄瀬は「はぁ?」と生意気な口を叩いた後に、肩を落とした青峰へニヤニヤした顔を見せた。

「『出来ない』なんて、言って無いっスけど?」

 『オレを舐めるな』と言ったような"自信に溢れた顔"を魅せる黄瀬涼太は、オーダー通りに中国スター選手の動きを模倣した。気のせいか、彼が纏うオーラさえ超一流選手のソレに似た気がする。

 一試合分のデータしか貰って無いが、ネットを探せば幾らでもあった。黄瀬は、ディフェンスの癖からオフェンスのステップまで真似出来る事は全て叩き込んだ。一晩と云う短い時間で。あくまで身長と筋力だけが追い付かなかっただけで、動きに謙遜は無い筈だ。

「――お前は気付いたか? 紹の違和感」

 いつもの様に不適な笑みで【天才・黄瀬涼太】を見た青峰は、ようやく突き止めた不可思議な部分を話題に出す。

「……違和感?」

「アイツ、中国チームに限っては"相方"が居る」

 昨夜、桃井さつきは部屋を出る前に彼に告げた。

 『その人、一人でプレイしてる訳じゃないよ? 誰かが、影で補助してる。何だか、テツ君みたいだね……』

 模倣する為に対象だけを注視していた黄瀬も、気配だけには気付いていたようで、肩を軽く上げてこう言った。

「やっぱりなぁ。誘導する人間が居ると思ったっス。全部じゃなかったのは、NBAだったら必要無いからかぁ」

 正直――今の中国代表から紹豹孚さえ抜けば、充分に日本側が勝利を手に出来る。だから相手もスター選手を中心に体制を立てる筈だ。しかし、全員が紹のアシストをする訳では無い。四人の内、たった一人だけ……彼の活躍を補助する役割が居た。

 青峰が見破れなかった違和感はソコで、巧妙にステルスされたその作戦に気付けなかった。――改めて【桃井さつき】の鋭さに感服する。彼女が隣に居たら、自分はもっと上のステージを目指せたに違いない……。そう考えて、また切なくなる。

「まんま黒子っちみたいな感じっスかね?」

「毎試合、相方が変わんだよ。目眩ましだ」

 そうなればクォーターの半分、下手したら前半戦を"相方探し"に当てなくてはいけない。誘導する人物さえ見付けたら紹豹孚を潰すのも早い。下手に三人で一人を囲うよりも、もっと余裕を持ってオフェンスを阻止出来る。

 現に、イタリアは後半から得点に大きな伸びを見せ、中国との親善試合に勝っている。恐らく戦いの中で気付いたのだろう。秀でたスター選手が居ても尚、中国が世界戦で燻っているのは、チーム自体が紹に頼りきっている部分を持つからだ。スタイルを崩せば、簡単に出し抜ける。

「四人の内の一人が、その日の指示を受ける"本物の相方"だ。見付けるのに時間が掛かる」

 問題は、ソレを見破れる眼を持つ人間が居ない事だ。青峰自身も僅か数十分で正しく見分ける自信が無い。ぶっつけ本番では、ブラフやフェイクが多過ぎる。険しい顔をして溜め息を吐いた青峰へ、黄瀬は気楽なアドバイスをした。

「まどろっこしい事しなくても、紹を潰せば良いでしょ」

「どうやって潰すんだよ」

 鋭くも当たり前の質問を返された黄瀬は、これまたラフに自分の見解を変えた。

「……じゃあサッサと相方見付けて、出し抜くしか無いっスね」





 自宅へ帰った青峰は、スーパーで買った晩飯をキッチンのシンク前に落とすと、蛇口を捻り顔を洗った。

 やはり黄瀬涼太は凄い奴だ……。

 男の動きはぎこちなくもあったが、中国が世界へ送り出したスーパースターの動きに似ていた。顔付きまで野性的で、青峰を昂らせる。静かな体育館に二人分の足を踏み鳴らす音と、ひとつのボールが床に弾ける音だけが響くのだった。

「も、駄目……」

 数年振りにバスケに興じた黄瀬が、コートに寝そべって泣き言を言った時には窓の外がオレンジに染まり出していた。額に浮いた汗は、前髪が無い分すぐ垂れてくる。シャツの肩で拭った青峰は、黄瀬の横へ座り片膝を立てた。

「なぁんで、切ったんスか?」

 小さく呟いた黄瀬の声は、静かで広過ぎる体育館では目立った。

「……さつきにフラれた」

 青峰が更に小さな声で理由を教える。

「大分前でしょ、ソレ」

「昨日、またフラれた」

「意味判んねぇ」

 黄瀬の脳裏に浮かんだのは、会った当初から一緒に居た二人の姿で、ソレが崩れる日が来るとは予想すらしなかった。確かに桃井さつきは魅力的な女性だと思う。それでも手を出そうと思わなかったのは、傍に青峰大輝が居たからだ。男の存在が怖いからじゃない。二人の間に割って入る自信が無かったのだ。

「……あの女子高生は? キープっスか?」

 もう一つだけ、気になる事があった。昨日部屋で見た大人しい少女の存在。あの後に、青峰が髪を切った理由になる出来事があったのなら少女は何処に行ったのか……。まぁ、青峰大輝の性格を考えれば、"捨てられた"と考えるのが妥当だろう。

「火神にくれてやった」

 ――ほら、やっぱり。そう言えば、火神大我が少女に惚れただの何だの聞いた記憶がある。黄瀬はバーベキューで見た二人の姿を思い出した。まるで兄弟か親戚だったが、悪くは無さそうだ。

「お下がりかよ」

 横向いてクックッと笑った黄瀬は、体育館の床に綺麗な髪を散らばせる。

「欲張り過ぎて、一度に全て無くす人間って居るからなぁ。昔話でよく見るっス」

「素晴らしい教訓だよな?」

 鼻で笑った青峰は立ち上がり、大分遠くに転がっていたボールを掴みに足を進ませた。


 …………………


 ――ベッドに身を投げると、壊れそうな程に激しく軋んだ。青峰は溜め息を深く吐き、白いだけの天井を眺める。

 ピンク色したシャンプーとコンディショナーは捨てた。髪を切る前、コンビニのゴミ箱へ……。思ったより中身が入っていて、ドサリと重い音がした。持っていても仕方が無い。誰か別の女を招くにも、こんな似合わない髪型じゃ誰も着いて来ないだろう。

 冷めた身体に火が付く。明日からの挑戦へ身を引き締めた青峰は、頭の中から不要になった"恋愛感情"を排除する。





 八月十八日。月曜日。

 日本代表の練習は、本日から様変わりする。練習の一般公開が午後から開始されるようだ。マスコミや各国の視察員が見に入る。そして代表選手の"ある男"も、本日から運命が変わるのだった――。

「タイガ! MVPおめでとう!!」

 集合の二時間前。早々と体育館に足を運べば、更衣室には先客として氷室と紫原が居た。二人も今しがた着いたようで、スーツから練習着へと着替えている途中だ。他には誰も居ない。それがレギュラーの気合いは別格だと教えてくれた。スーツの上着を脱いだ火神は歯切れ悪く、氷室へ言葉を返す。

「あ、あぁ。サンキュー」

 火神の笑顔は曇り、挙動不審に目線も泳いだ。金曜日の夜に、公式サイトで今季MVPが発表された。ネットは怖くて見ていない。好きな相手を食事に誘ったのだって、一人でバッシュを買いに行ったのだって本当は――納得のいかない現実から逃げたかったからで……。

「アツシも狙ってたのにな」

「別にぃ〜? 決勝行けなかった時点で、諦めてたし」

 氷室が紫原をからかえば、巨人にも似た紫髪の男は負け惜しみに似た台詞を述べた。

「寸志で何か奢ってよ〜」

 紫原が火神に食事をタカる。彼は、良くも悪くも他人に興味が無い。自分が受賞出来なければ、誰が受けても同じのようだ。何時ものように、眠たそうな顔で火神を見下ろす。

「焼肉か?」

「センス、ない」

 提案へ駄目出しを喰らった火神は、笑って肩を震わせながらロッカーを開けた。それとほぼ同時に、更衣室が開いた。スーツ姿にキャップと云う不思議な出で立ちをした男を、三人はキョトンとした顔で見る。やって来た男は、先に誰か居るとは予想して無かったようで、恥ずかしそうにキャップのツバで目元を隠す。

「……青峰。よォ」

 気まずそうに火神が挨拶をすれば、やって来たキャップの男――青峰大輝も返事を返す。

「あぁ、早いな」

「キャップなんて珍しいな、有名人気取りか? 熱中症心配する程、暑くねぇだろ?」

 いきなりに増した不穏な空気を無くしたくて、火神は努めて明るい声を出した。

 ――そんな"気を遣わないと暗くなる空気"も、青峰がキャップを外した瞬間に一気に吹き飛ばされた。その下にあったのは、猿のように短くなった青い髪で、サッパリした友人の変化へ紫原は口を半開きにする。火神は目を大きく開き、込み上げてきた笑いに堪えられず吹き出した。

「…………ブハハハハハハハハ!!」

「笑い過ぎだ、タイガ……」

 腹を抱え笑う火神を戒める氷室だって青峰へ背を向けているし、おまけに声が震えている。

「"サクラギハナミチ"かよ!! アハハハハハハハハ!!」

「火ァ神ィ!!」

 青峰は大袈裟な火神を怒りで批難する。氷室にすがり付いてヒィヒィ笑う火神と、大きな背中を震わせる紫原。氷室も、堪るたように自身の肩を抱いていた。

「おう、お前ら早い……」

 とどめに、今到着し更衣室へ姿を見せた笠松幸男が、青峰の奇想天外な髪型へ「なぅわぁ!!」と大きなリアクションを見せれば、遂に更衣室の全員が笑い出す。唯一青峰だけが、気まずそうにキャップを被り目元を痙攣させた。


 …………………


 日本代表総勢二十五名全員が揃い、遂に本格的な練習が開始される。内容も今までのメニューから、よりハードなモノへ一新し、早朝から夜も遅くまで拘束されるのだ。チラリと壁時計を見た笠松は短針が9を指したのを確認し、最前列中央に居る火神へ声を掛ける。

「火神、お前は別メニューだ。エントランスにお客さんが来てる」

「……客?」

 何も聞かされていない火神は、客人の予想も付かない。一瞬だけ女子高生との付き合いが脳裏を過ったが、それなら青峰の方が先に捕まる筈だ。

「スポーツブランドのイメージキャラクターに起用だってよ。CM撮影の打ち合わせだ」

 笠松の口から飛び出した意外過ぎる内容に、火神は「うぇぇ!?」と変な声を出す。斜め後ろに立っていた氷室が、男の背中を叩いて祝福してくれた。

 しかし、全員が火神を祝ってはくれない。口火を切ったのは、火神と相性が悪い【黛千尋】だった。

「――良いよな、贔屓の人間は」

「黛、やめろ」

 不穏な発言をしたその男へ、笠松は牽制をした。しかし、黛は不満を当て付けるように攻撃の口を止めたりしない。

「MVPなんて、お偉いさんの投票だろ? 幾ら積んだんだ?」

 その台詞に、火神が振り返り黛を睨んだ。まるで自分が裏金で名誉を獲得したかのような口振りに、火神は腹が立った。

「……何が言いてェんだよ」

 更に後方から「座り込んだのに……」と、小さく呟いた声が聞こえる。やがて援護射撃のように、一人二人が同調する言葉を言い出す。二十数名が猜疑の眼差しで自チームのエースを見た。火神からしたらこんなアウェイな空気は初めてで、ソレらは自尊心へ深く突き刺さった。

「コイツが決めた事じゃねぇ! 協会が決めたんだ!」

 笠松が一喝をする。こんな終わった事でチームメイトを責めるのは馬鹿馬鹿しい。自分達は前を向かなくてはいけない時期だ。勝利の為に下らない"やっかみ"は捨てて欲しい。

「また座り込んだら、どうすんだよ?」

 囁くように何処かから聞こえた声へ怒りが満ちた火神は、拳を握る。ソレを阻止したのは氷室の左腕で、エースの胸元へかざした。

「――オレが蹴飛ばして、立たせてやるよ」

 そう言ったのは、本日から練習に参加する青毛の男。変に髪型は変わったが、周囲を舐め腐った生意気な顔付きは変わらない。ファイナルにて圧倒的なセンスを見せ付け、両利きとして復活した"スーパーエース"の言葉に、周囲のざわめきは止む。これこそが、頂点に立てる人間の持つ"支配力"だ。

「オレはお前のチームメイトと違って、優しくねぇからな? ちゃんと立てよ、火神」

 怒りに震えていた火神を見た青峰は、相手の顔が少しだけ緩んだのを感じた。別に助けた訳じゃない。茶番を何時までも続けられるのに、心身的ダルさを感じただけだ。

 その時丁度、スーツを着て腰の低そうな営業マンがアリーナの入り口まで選手を迎えに来た。それを見た笠松が、顎で入り口を指せば全員がソチラを向く。急に視線が集まったスーツの男は、居心地悪そうにヘコヘコと首を下げた。

「火神、行け。待たせるのも失礼だ」

「……ッス」

 元気無く頭を下げ、エースはスポーツブランドの営業マンの元へと駆ける。本来なら喜ばしく名誉ある事なのに、火神の顔から喜びは感じられない。

「……厄介だな、このチームは。マジで」

 火神の姿が消え全員が前を向けば、鼻で息を吐いた青峰はギスギスした空気を久々に感じ顔を苦くする。纏まりなんてあったモンじゃない。一新させた世代交代の欠点がココだ。

「オレは正直なだけだ。影でコソコソするのは好きじゃねぇんだよ」

 火神が居ない事で青峰の隣に立つようになった黛は、意味が深そうな台詞を吐く。青峰は横目で特徴の薄いその男を見た。


 着替えの為に更衣室へ引っ込んだ火神がロッカーに鍵を差し込むと、奥まで入らず途中で突っ掛える。外してまた差し込み、逆向きにしても同じだ。溜め息を吐き取っ手を掴むと、ソレは簡単に開いた。訝しんだ男がロッカーを開けると、瞬時に顔色が変わる。


「弱肉強食だって馬鹿にしてると、弱者は群れるぜ? 時にはソレが脅威にもなる」

 細めの目を更に薄くし、何かを見透かしたような黛千尋は青峰大輝へ自身の見た光景を話そうとして、止めた。


 座り込んだ火神は、左手の二本指の先に赤い筋を見る。痛みと共にジワリと滲み出る液体は、紐をズタズタにされた革靴に仕込まれた剃刀傷だった。拳を握り血を止めようとしても、きっと畳んだ手のひらで広がるだろう。


 スポーツの世界も中々に陰湿だ。それは実力でしか正しさを証明出来ない世界だからだ。弱者が纏うフラストレーションは、やがて嫌がらせへと発展する。特に大きな過ちを犯しそれでも尚、強大なバックを味方に付けた【火神大我】のような人物は、やっかみの対象に丁度良い。

「馬鹿馬鹿しい世界だよな、本ッ当に。哀れなエースの誕生だ」

 その囁きに、青峰は舌打ちをする。火神が受けた洗礼に大方の予想は付く。ココは"そんなの"が、当たり前なのだ。男は、小さい頃から憧れていた"プロの世界"が【嫉妬と権力】が渦巻く汚い場所だと身を持って知っていた。

 そして青峰の脳裏に浮かんだのは、ドラフト指名で今のチームに入ってすぐ――切り刻まれゴミ箱に捨てられていた、新調した自分のバスケットシューズだった。