八月十七日、日曜日。数分前に、日本列島は日付変更線を超えた。

「……すみません。私、シーツまで汚してて……」

 シュンとしたなまえは、客間のベッドに横たわっていた。家主がトラブルの末にコンビニで調達してくれた生理用品と婦人用パンツのお陰で、今夜は無事に眠れそうだ。汚してしまったジャージと下着、シーツは現在洗濯機の中で踊っている。

「気にすんな。洗えば落ちる」

 共に横になる火神は、大事そうに腕の中のなまえを抱き締めた。目を閉じ綻んだ顔が『幸せだ』と感想を告げる。その幸福に応えるべく、女は身を寄せ相手の逞しい胸元に手を置いた。見た目にも盛り上がっている胸囲は、意外にも柔らかかった。

「……明日、帰ります」

 額を男の鎖骨付近に付け火神の香りを感じたなまえは、小さく決意を告げる。予想通りに、相手は軽く文句を言い出した。掠れた囁きは、声質が濁っていても聞き取りやすい。

「は? 何でだよ? 好きなだけ居ろよ」

「帰って、佐久間君に……気持ち伝えなきゃ」

 決心付いたなまえは、彼氏と別れる事にした。――悪戯に傷付けるだけなら、最初から付き合わなければ良かったのに……。どれだけ想いを寄せても、好きな人に振り向いて貰えない。佐久間と同じ立場になって、初めて己の残酷さを知る。

 彼氏は勿体無い程に良い男だ。佐久間がフリーになれば、狙う女子達が互いを牽制し合うのは明白だ。スポーツ万能、性格は温和で優しい、顔やスタイルも街を歩けば人目を惹く程に整っている。そんな夢のような人物が、何故自分を選ぶのか分からない。

 なまえは、佐久間とは友情以上の関係を育めないだろうと判断した。きっと青峰も、今の自分と同じ気持ちでアッチを選んだのだ。

「付き合えば、好きになるって思ってたけど……何か違うみたいです」

 落ち込んだ声で呟けば、大きく息を吸った火神の胸板が膨らむ。

「オレには耳が痛い話だ」

「……火神さん、好きな人が居るんですか?」

 わざとなのだろうか。彼の腕の中に居るなまえは試すように問い掛けた。

「オレのアプローチは、世界一情熱的だからな?」

 柔らかな髪を撫でた火神は、自信ありげに口角を上げる。その顔につられたなまえも、珍しく意地が悪そうな笑顔で男へと聞き込みを始める。

「好きな人の前でも、自販機でお財布空になるまでジュース買ったりします?」

 火神の表情がまた変化した。目を丸くし、口を尖らせる。そうして一昨日の格好悪い行動を振り返り、声を出して笑った。ちなみに、あの時買った大量のジュースは、キチンと冷蔵庫に入っているのだった。

「それと……買い物してても、呼び出されりゃ速攻で迎えに行くな」

 火神は己の恥態を笑い飛ばしながら、なまえの額を狙ってキスを落とす。触れるだけの擽ったいキスを、何度も何度も落とす。嫌がらない少女を胸に引き寄せ、強く抱くと、手のひらで後頭部を抱えた。

「……これで気付かねぇんだから、ソイツは世界一鈍い奴だ」

 わざと寂しそうに呟いた男へ、なまえは問い掛ける。自意識過剰かもしれないが、火神の好きな人物とは恐らく……――。

「――何で私なんですか?」

「さぁな? でも隣に居ると、スゲェ嬉しい」

 抱きすくめた身体を一度引き離した火神は、今度は唇目掛けてキスをする。重なった隙間から舌を差し入れ、優しく這わせた。

 ――火神大我のキスは、動きが柔らかく、甘い。ゆったりと舌が内部で蠢く。引っ込めると、追いかけっこのように捕まえに来る。身体の力が抜けて、意識がクラクラする口付けだ。

 反対に青峰大輝のキスは、強引で力強い。固めた舌先で激しく口内をまさぐられると、全身が緊張する。ソレは捕食に似ていて、野性的だった。

「お前に手ェ出したら犯罪者かぁ……」

 肩に掛かる柔らかな髪を持ち上げ、首や胸に残ったキスマークを眺めた火神は、ポツリと呟いた。本当は、今すぐにでも深いキスをしながら身体の繋がりを持ちたい。勿論、以前のように強引な性交にならないよう気を配りながら……。

「――すみません、子供で……」

「二年待つ位、すぐだろ?」

 二年と云う年月に、途方も無い長さを感じるなまえは瞳を右下へ伏せた。進まない関係に焦れて、心変わりしてしまったら意味が無い。気紛れな青峰と過ごしたせいか、男性の気持ちを信用するのが怖くなった。再度厚い胸元に潜り込んだなまえを、男は両腕で歓迎する。

 数十分もすると、客室は豪快なイビキで騒がしくなった。暑苦しい本人に似て酷く煩かったが、ソチラへ意識を集中すれば"余計な事"を考えずに済む。今だけは、喧騒が寂しさを和らげてくれる。

 青峰が今何をしているのか考えると、この芽生え始めた"小さな幸せ"さえも終わりそうだ。だって、彼はきっとあの美女と一緒に居る……。そこまで意識してしまったなまえは、火神の熱い身体に張り付いた。体温高い筋肉質な男は、睡眠時には更に体温が高くなる性質のようだ。太く重い腕が身体にのし掛かる。その重さが、今は安心感をくれた。

 青峰は、常に背を向けて寝ていた。ソレが拒絶を表している気がして、毎晩寂しかった。結果、あの彼の中には何も残せなかった気がする。自分と云う存在が、一人空回りしていただけで……――。





 男は独り、浴室で温水の束を受ける。一般的な造りでは天井に頭が着きそうな位に長身で、鍛え上げた肉体は褐色肌が水を弾く程に若々しい。凛々しい目を閉じ、体温程のシャワーに溶けそうになる。

 いつの間にか、自分の中で歯車が狂っていた。何処で間違えたのかも判らない。一人きりになって、初めて寂しさがやって来る。足を掬われないように必死に立てば、目眩に似た衝撃が頭を貫く。胸が痛い。

 そうだ……。これが失恋だ。

 目の前の室内灯は眩しく、目を逸らす。逃げるように温まった床へ座り込み、シャワーで頭を濡らす。髪を洗い気分を落ち着かせようと目を瞑り、シャンプーを探す。目蓋裏に存在する赤と灰色の世界でポンプの頭を見付け、下に押せば洗剤が手のひらを滑る。

 頭皮へ直接擦り込もうとすると、清涼感溢れるミントの変わりに甘い香りがした。目を開け確認したソレは、ピンクの液体だった。

 可愛らしい色したボトルを忌々しく掴み、空の浴槽へと投げた。激しい音を反響させたバスルームに、今度は咆哮が響く。獣のように呻いた男は、歯を食い縛り大きな背を丸めた。短く青い髪を掴んで引っ張れば、濡れたソレは指をすり抜ける。

 思い出したくも無いのに、手のひらに付いた液体からは強い香料が"なまえ"の存在を主張した。何週間も傍に置いておけば、嫌でも記憶に擦り込まれるのだ。

 だから、傍に誰かを置くのは嫌だったんだ……。オレは何もしてやれない、ただ相手を振り回して傷付けるだけだ。昔からそういう人間なんだ。ならば、最初から一緒に居る意味なんか無い。

 正直に言えば、【楽しさ】に似た何かがあった。背中越しに誰かの気配があって布団が狭くて、帰ったら明かりが付いていて、たまにご飯が用意してあって……――。

 彼女は何時も"居るだけ"だった。気が弱いのだ。口答えも否定もせずに、ただ傍に居るだけの存在。

 ――二回、拒絶された。笑える事に、両方コチラから迎えに出向いてやった時だ。その癖、忘れそうになる位に戻って来る。すれ違う互いの気持ちが合致する事は、もう二度と無い。

 違う洗髪料で上書きすれば香りと共に全てが終わるのに、青峰は膝を抱えて踞るばかりで。手のひらに出した"彼女"の面影は、握り締めた二の腕にまで付着した。


 …………………


 泣いて喚く桃井を怒鳴ったのは、単純に突き放す為だった。――そうしないと、自分自身が傷付くからだ。激しいエゴイズムが、男の器を小さくする。

「だって、好きなのに! 冗談だったのに!! 何で別れなきゃいけないの!? そんなに簡単に割り切れないよ!!」

「だからってオレに来る事ねぇだろ!! お前自分のやってる事分かってんのか!?」

 二人を包んでいた雰囲気は一気に様変わりした。目の前で他人への愛を叫ぶ桃井は、もう自分のモノにはならない。絶望が怒りへと変わるのに、時間は掛からなかった。"期待"と云う掻き乱された温かい感情は、行き場を無くしていた。

「孝輔さんなんか、傷付けば良いんだよ!!」

 思わず飛びそうになった張り手を抑え、青峰は拳を握り怒りを堪える。俯き彫りの深い目元に影を落とせば、桃井へ情けない質問を投げた。

「…………オレの事は、どうだって良いのかよ?」

「そんな訳無いじゃん!!」

 ヒステリックに似た女の叫びに、男は乱暴な怒鳴りで返す。

「あんだろ!! テメェ、オレの事馬鹿にしてんのか!!?」

 静まりかえったワンルームに、二人分の荒い息が弾む。興奮と怒りで互いの肩が震え、上下した。

「大ちゃんは……、そうやって何時だって自分ばっかりだね」

 先に沈黙を破ったのは桃井さつきで、冷たい口調で男を侮蔑する。彼女は、目の前の彼に裏切られた気になっていた。大切だからこそ牽制する青峰の気持ちに、気付かない。

「今はその話してんじゃねぇだろ!? 話すり替えんな!!」

 青峰は、女性のこういう部分が嫌いだ。論点をすり替え、いつの間にか自分を優位に立てる。幼馴染みだろうが、好きな相手だろうが、そんなの関係無い。頭を掻き毟り、大袈裟に溜め息を吐いた。

「……もう、良い」

「どこ行くんだよ」

 ボサボサの髪のままフラリと部屋を出ようとする桃井の手首を、男は掴み引き止める。払うように手を振り回した桃井は、遂に涙を床に落とした。

「離して! 帰る!!」

「くだらねぇ意地張って、周り困らせんじゃねぇよ!!」

「困って無いじゃん!!」

 桃井の言葉は、まるで子供の駄々だ。成長して心身共に美しくなった桃井さつきは、内面だけを幼い頃へと戻した。昔から傍に居る関係だから遠慮無く見せられる"弱く恥ずかしい一面"なのに、青峰も気付かず彼女を突き放す。

「いい加減にしろ!! 何時までガキで居る気だよ!!」

 手首を掴んだ手に力が入り、桃井の顔が痛みで歪む。鼻を啜り涙を拭った女は、バッグからスマホを取り出した。

「女友達の家に泊めて貰う。それなら良いでしょ?」

 耳へ機器を当て、桃井は応答した相手と通話を始める。少し震えてはいるが、先程まで泣いていたのが嘘のように明るい声だ。楽しそうに会話する様子が面白くない青峰は、誰も聞いていない投げやりな台詞を吐き捨てる。

「……勝手にしろ」

 友人への電話を終えた桃井は、終電に間に合うように支度を始めた。と言っても、乱れた髪を直しバッグを肩に掛けるだけだ。その倦怠感溢れる光景を見たくなくて、項垂れ座り込む青峰は無表情のまま、床に落ちた桃井さつきの涙粒を眺める。

「――さっきのビデオ……」

 ワンルームから出る寸前の事だ。桃井は、幼馴染みでありプロ選手として世界を舞台に活躍を始めた彼に助言をした。それは、青峰が疑問視していた"違和感"を全て凪ぎ払った。慌ててリモコンを掴み再生を始めた横顔へ、最後の言葉を掛けた桃井は、静かに部屋を退室する。

「――ちゃんと全体を観なきゃ、駄目だよ? 大ちゃん……苦手でしょ?」

 青峰は画面を注視しながら、鼻を啜った。桃井の最後の言葉が、何を意味するのか……ぼやけた視界が鑑賞の邪魔をする。





 親から帰りの電車賃の振込を確認したなまえは、現在火神宅の最寄り駅に居た。自宅まで送ると言う相手を遠慮し、電車に揺られる事にした。

 生憎空は曇っていたが、ショッピングセンターと併合しているこの大きな駅は、賑やかな程に人で溢れていた。頭上の電光掲示板には沢山の在来線が案内されている。駅特有の蒸し暑さに、二人は汗を纏う。

 ――もう少し居たかったとは、言わない。伝えてしまったら、きっと変な期待を持たせてしまうから。

「……使えよ、コレ。一万入ってる」

 専用のICカードを差し出した火神は、微笑む。おどけた顔したペンギンが、左側に描いてある灰色のカード。

「でも、それは……嫌」

「やるなんて言ってねぇよ。返しに来い、一万入れて」

 それは、火神なりの口実だ。こうすれば彼女は、必ず自分の元へ来てくれる。だから男は、一万円分の電子マネーを惜しみ無くなまえへ託す。

「……ありがとうございます。必ず返します」

 意図を汲んだのか、少女はカードを手に取り財布にしまった。ジーンズのポケットに手を入れた火神は、上体を反らしながら別れを残念ぶる声を出す。

「あ〜あ。オレ、お前を見送ってばかりだな。毎回じゃねぇか?」

「そう言えば、そうですね!」

 言われて初めて気付く。最初に会ったのも、愛車で隣県まで送って貰った時だ。二回目は、リーグ戦ファイナルのチケットを受け取った時。……何時も何かを貰ってばかりだ。火神はソレに気付いていないのか、嫌な顔ひとつしない。

「次は、迎えに行く」

 頭を優しく叩いた高身長の男は一晩一緒に寝たからか、すっかり緊張が解けていた。未だに心臓はドキドキするが、今は温かい気持ちで一杯だ。

「最初に見送った時、オレが言った言葉……覚えてるか?」

 火神が優しく問題を出せば、なまえは答えをすぐに導き出した。

「子供の相手出来る程、大人じゃない……でしたっけ?」


 『正しく子供の相手出来る程、オレらは大人じゃねぇんだよ』


 そう言ったのは目の前の火神大我で、その後すぐに『青峰ならそう言うだろう』と補足していた。そして現在、彼はその言葉を訂正する。

「お前は大人だ。オレらより……ずっと」

「――子供です」

 ……いいや、お前は大人だ。火神は心の中で念押しした。なまえは否定をしない。何時でも素直で、楽しそうだ。誰が相手でも態度が変わらない。あの気難しい青峰が傍に置いていたのも、そういう部分が心地好かったのだろう。

「電話して良いか?」

 別れの名残惜しさを少しでも払拭したくて、火神は提案をする。その要望は拒否される事無く、簡単に許可された。

「はい、待ってます」

「惚れるまで、毎日してやるよ」

 男は強気な顔に、愛想の良い笑顔を魅せる。それを見たなまえは、相手を羨ましがるのだった。

「火神さんは、自分に自信があって羨ましいです」

「自分に自信がねぇ人間を、誰が好きになんだよ?」

 アッサリ返ってきた台詞は、その言い方とは裏腹に奥の深い言葉だった。自分を愛せない人間は、きっと誰からも愛して貰えない。人間とは、自尊心と自虐心が絶妙なバランスを保った瞬間に、爆発的魅力を引き出す生き物なのだ。

「……それも、そうですね」

 好きな相手から褒められて気が大きくなった火神は、単純な男のようだ。

「自分を正しく愛せる人間が、一番モテるんだぜ?」

「正しく、愛せる?」

 首を捻ったなまえへ講釈垂れる男は、最後に頭を強く撫で、相手の髪を乱した。

「自分を磨けよ。そうすりゃ、簡単だ」

「やっぱり火神さんは、大人ですね」

 片手でボサボサになった髪を直しながら、女子高生は楽しそうに笑った。

 やがて、別れの時間はやって来る。それだけは、避けられない。彼女には、彼女の過ごすべき世界がある。次に"自分の世界"と重なる時を待てば良いだけだ。

「それじゃあ、時間なんで。お金、必ず返します」

 そう告げて改札へと向かったなまえは、借りたICカードで通り抜ける。最後に機械の向こう側でお辞儀をし、ホームへ降りる階段に姿を消した。

 火神は、ソレをただ眺めて見送る。特徴的な眉が下がり、最後は口角も下りた。

 改札口に背を向け歩き出した赤毛の男は、夢から覚めた気分へ仄かな孤独を感じるのだった。