「……だ、大丈夫か? 泣きてェなら、泣いても良いぜ? オ、オレで良かったら……一緒、居て……いて、やるから。おう」

 火神が車を飛ばし部屋に着いた頃には、なまえの涙も引っ込んでいた。最初は彼女の首元の痕に呻いた火神だったが、頭を軽く撫で落ち着かせてやる。

「なぁ、美味いモン食いに行こうぜ。腹一杯になったら、忘れるって」

 腫れて潤んだ瞳だけを動かし火神を見たなまえは、直ぐに目を伏せてしまう。そんな落ち込んだ様が痛々しくて、鼻から息を吐いた男はベッドの横に腰掛け軋ませた。

「…………忘れるは、言い過ぎだよな」

 シュンとした火神は調子の良い自分に対し自己嫌悪へ陥るのだが、それを見たなまえは小さく話し掛け始めた。

「――美味しいモノ?」

「お、おぉ! 焼肉とか!!」

 昨日と一緒の提案に、なまえは口元を綻ばせた。火神大我は何時でも肉が食べたい男のようだ。見た目通りな性格に、思わず笑いが溢れる。

「混んでますよ?」

「じゃあ、今日は待とうぜ? まだ七時だ」

 立ち上がり食事へと誘う火神は、眩い笑みを見せた。その笑顔は太陽のようで、暗い感情を吹き飛ばしてくれるようだ。

 赤毛の男は少女の手を握り、狭いワンルームからエスコートする。温かいその手は予想以上に皮が厚く、指の付け根に出来た豆の感触が判る程、強く握られた。そして火神大我は、大きな背中越しからゴモゴモと命令に似た"頼み事"を言うのだった。

「て、手ェ……。離すなよ? お前、すぐ逃げるから……」





 青峰が最寄り駅へ着けば、待合室には"よく知った顔"が見て判る程に意気消沈して座っていた。何てこと無い些細な日常なのに、彼女が居るだけで特別な気がして仕方無い。数年前には当たり前だった事は、失ってから大切だと気付かされる。

 ジーンズのポケットに手を入れフラリと近付けば、幼馴染みの少女は自分に気付いたようだ。

「……大ちゃん、ごめんね。用事、あった?」

「いや……。一日中試合の録画観てた」

 自分の付いた嘘に顔を歪ませた青峰は、全力で胸につかえる"理由"を排除しようとした。

「相変わらずバスケ馬鹿なんだね。安心した」

「前は心配してただろ?」

 喉から乾いた笑いを漏らせば、立ち上がった桃井は頬を膨らませ抗議を始める。

「変わらないのが、一番なの!」

 傷心した幼馴染みの意味あり気な言葉へ「……そうか」と返事を呟いた瞬間、ポケットの中の携帯が鳴った。着信の相手は火神だろう。二人は今、自分の部屋を出て、車で出掛けたに違いない。早く迎えに行く筈が、随分と立ち止まっていたようだ。時計の短針は数字の7を指していて、連絡あってからの一時間が長く感じた。

「……ウチ、来るか?」

「ちゃんと綺麗にしてる?」

「動物園の檻よりはマシだろ」

 青峰の冗談に桃井はまた頬を膨らませ、バッグで男の広い背を叩いた。

 人も疎らな待合室で青峰から手を差し出せば、最後に手を繋いだのが何時だかも忘れた二人は、指先から肌を合わせる。

 横を向いてぶっきらぼうな顔で右手を差し出す青峰のその姿は、小さい頃から何も変わらない。それが堪らなく安心出来る桃井は、エスコートに身を委ねた。





「……腹減った」

 案内された焼肉屋は店内が薄暗く、周りにファミリーが一組も居ないシックな場所だった。店内のカウンターには酒瓶が並び、客は程好く閑散した店内でヒッソリと食事を楽しむ。――そんな場所に制服姿で居るのが恥ずかしくなったなまえは、メニューを見て絶望した。値段が、自分の知っている設定では無い。客単価が高いこの店は、入りが少なくとも経営に問題は無さそうだ。庶民が気軽に来る場所では無い。

「好きなの食えよ」

 二人の間に火の入った七輪が置かれ、店員は一礼する。思わずお辞儀を返したなまえは、声を潜めて火神に困惑を向けた。

「……でも、その……値段が」

「MVPは寸志が出んだよ。気にすんな」

 空腹で元気の無い火神は、メニューをパラパラと捲る。そして「テキトーに頼んで良いか?」と、提案した。異議の無いなまえは首を縦に振り、肯定の意を伝える。

 呼び鈴を鳴らせば、閑散した店奥から店員が手書き伝票を胸に掲げ、オーダーを伺いに来た。メニューから目を離さず、火神は注文を始める。

「松セット、五個」

「……ご、五個ですか!?」

 予想外の発言に聞き返してしまった店員は、困惑しながらも伝票の記入を急いだ。

「あとライス四つ」

「お、お飲み物は?」

 眉を下げ引き吊り笑顔を見せる店員は、制服姿の少女も向きながらに伺うが、男が全て答えてしまうのだった。

「烏龍茶、ピッチャーで」

 メニューを畳み頭を抱え空腹と戦う火神へ呆然とした眼差しを向けたなまえは、松コースの横に書かれた【4〜5名様分】の文字に驚いて何も話せずにいた。おおよそ二十五名弱の分量を頼んだこのテーブルには、二人しか座っていない。

「あの、量……大丈夫なんですか?」

 不安そうな顔をしたなまえがそう聞けば、バッと顔を上げた火神が怪訝そうな顔をして赤い瞳を合わせてきた。

「足りねぇか?」

「えっ!?」

 ボタンで店員を呼ぼうとする火神を慌てて止める。偶然重なった手のひらの熱に驚いた火神は、手をはね除け顔を真っ赤にさせた。

「わっ、悪ィ……! ビックリしてよォ!」

 まるでウブなリアクションが恥ずかしいのか、火神は頭の裏を掻いてハハハ……と笑った。

「やっぱ、五つは多いよな? へっ、減ら……減らすべきだよな」

 先程の店員を呼び注文をキャンセルする火神に、愛想の良い店員はニコニコと笑顔を向ける。そうして二十五名程の肉は、十五名弱分まで減った。それでもまだ多過ぎる量に、なまえは口を押さえ笑い声を出す。

「ぜん……っ、全然減ってない!」

「はァ? お前五人前は食うだろ?」

 一体どういった配分なのか……火神は目を丸くして、笑いこける少女にそう質問するのだが、相手は肩を震わせ続ける。

「食べないですよ! 後は火神さんが食べるんですか?」

「マジかよォ」

 困った顔した火神だったが、内心はなまえが笑ってくれた事がただ嬉しかった。本当に笑顔の似合う女だと思う。こうやって彼は、傍で笑っていて欲しいと願う。それは誠実で、綺麗で、健全な願いだった。





 テーブルに運ばれた恐ろしい量の肉を前にして魅せた"火神の歪んだ顔"を思い出し、ベッドの中で再び笑い出したなまえは、現在彼の自宅に居る。

 以前泊まった客間のベッドと同じ。シーツが綺麗に敷かれ、彼の綺麗好きが良く分かった。ほんのりと香るラベンダーの芳香剤が気分を和らげ、苦しい位に満腹な身体を甘い眠りの世界へと誘う。

 借りたシャンプーとソープは如何にも高そうなボトルに入っていて、何時も火神から香る匂いがした。ソレを自分が纏っても、火神とはまた違う香りになった気がする。

 こうやって余計な事を考えなければ、すぐに意識が青峰へと向かうのだ。昨日の今頃は、二人の関係が崩れるとは思いもしなかった。

 ――連絡先も交換していない。アパートの場所しか知らない。その部屋だって、既に自分の代わりに違う女性が居るのだ。買って貰ったシャンプーは匂いがお気に入りだった。お気に入りになったのは、きっと彼の傍に居る証になっていたからで……――。過去となった今は、匂いも嗅ぎたくない。


 …………………


 火神大我は、リビングで一人葛藤していた。ソファーの上で頭を抱えている男の悩みは、ただ一つ。――なまえの事だ。現在、彼女は自分の家に宿泊している。出来る事なら一緒に寝たい。あの白く弾力のある肌を自分の肌とあわせて、ひとつになって寝たい。脳内で始まった淫靡な妄想に、身体の"ある部分"が反応し出す。

 ――今日なら、部屋に押し掛けても大丈夫か?

 唸った男は、つい二週間程前に自身の犯した行動を振り返る。嫌がる彼女を蹂躙した。青峰が殴ってくれなかったら、あのまま彼女の初めてを貫いていたに違いない。あまりに穢く、不快な過去だ。ソレを考えると、今なまえが傍に居るのは奇跡に近い。

 だったら今日は我慢して、男としての箔を付けるべきだろう。溜め息で"性欲"と云う煩悩を押し出そうとすれば、廊下からドアの開く音がした。

「お……おぉ、どうした? 枕変わったら眠れねぇか?」

 リビングの入り口に立った相手に声を掛ければ、女子高生は顔を真っ赤にし涙を落とし始めた。

「……火神さん、ごめ……っ、なさ……」

 いきなり泣かれた火神は、驚きと困惑で複雑な顔を見せてソファーから立ち上がる。

「は!? 何で泣いてんだ!?」

 俯いた少女の前に立った火神は、ゴニョゴニョ話す小さな声に耳を澄ました。

「――……生理、始まっ……」

「…………セイリ?」

 数秒間ポカンとした火神は脳内の記憶をブン回して、少女の言う単語の意味を探る。そうして導き出した答えに目を見開いた男は、デリカシーの無い答えを口にした。

「股から血ィ出る奴か!!」

「ごめんなさ……っ、汚しちゃ……ゔぅー……」

「血ィ出てんのか!?」

 立ち竦み泣き止まないなまえの後ろに回り込み、貸したジャージに赤い染みを見た火神は「おわぁぁ〜ッ!!」とデカイリアクションを見せた。女性への縁と興味関心が無かった火神は、初めて遭遇する生理現象に恐れてしまう。

「ナプキン……無くて! どうして、いいか……分かんなくてぇぇ!」

「ナッ……ナナ、ナ、ナプキン!? それありゃお前助かるのか!?」

 聞いた事もキチンと見た事もない火神は、CMで得た知識で何となくオムツみたいなモノとは理解している。だけど、やっぱり何だか知らない。

 尚も泣き止まずに顔を覆ったなまえは、立ったままで質問へ答えない。一人じゃ判断付かない火神は、目線をなまえに合わせ、頭を撫でてやる。

「泣いてたら分かんねぇだろ?」

 唸った火神はスマホを取り出し、アドレス帳に居る女性に助けを呼ぶ事にした。瞬時に浮かんだのは【桃井さつき】だったが、今は青峰の所だろう。捨てられたに近いなまえの前じゃ気まず過ぎる。頭を掻き乱した火神は、数年振りに"ある女性"の名を選択する。

 着信への応答は予想外に早く、相手は自分を覚えていてくれたようだ。数年前なら毎日のように聞いていた、あのハリのある声が受話口から響いた。……少し困惑気味ではあるが。

『――かっ……火神君? どうしたのこんな時間に?』

「久し振り……っス、カントク」

 火神が相手の愛称を呼べば、とっくの昔に監督業を引退していた相田は『その呼び方やめて』と拒否する。

「ちょっと聞きてェ事あって、電話したっス」

『私で良かったら、何でも答えるわよ?』

 相田リコの頼もしい性格は、昔と一緒だ。早々に相談を持ち掛けてしまった不躾な部分も、彼女は嫌がらない。"監督"として異性から頼られるのは、こういうドンと構えた部分があるからに違いない。

「あぁ、良かった……。それでカントク、あの」

 ウゥン……と唸り、どう聞けば良いか分からない火神は、そのままストレートに言葉を紡いでしまう。

「セイリって女の股から血が出るじゃねーっスか」

 火神のセクハラに似た――いや、セクハラそのものな話題に、正直な相田リコは通信を強制終了した。何も質問出来ぬままに、火神の相談コーナーは終わりを迎えたのだった。ついでに数年振りの通話時間は二分と三秒であった。

「……切れた」

 直球な火神は、何が悪いのかも分からず呆気に取られた声を出す。それを聞いたなまえは、泣きも途中に吹き出してしまった。再度始まった少女の笑いに、つられて微笑む火神は、口調だけを荒っぽくする。

「おまっ! 恥掻いたじゃねぇか!!」

「だって! 今のは、酷ッ……!」

 なまえが堪えきれずに張るような笑い声を上げると、火神もワハハハハと豪快に笑った。そのまま優しく頭を撫でた火神は、指で涙を拭う少女へ再度質問をする。

「……で? オレはどうすりゃ良いんだ?」

 気が強くて親切過ぎる男は、鼻を啜りながら教えてくれた彼女の役に立ちたくて、生まれて初めて生理用品の調達へと向かった。

 ――最寄りのコンビニへナプキンを求めに入った火神は、購入物の容貌を知らずに戸惑った。そして、たまたま夜勤中だった女性店員へ「セイリのナプキン下さい」と言い放ち、危うく警察沙汰になったのは……また別の話。





「……で? オレはどうすりゃ良いんだ?」

 二時間程前に火神と全く同じ台詞を吐いていた青峰は、隣に座る桃井の豊かな胸元をただ眺めていた。呼吸に合わせて上下するその部位は、彼女の魅力的な場所のひとつだ。

 部屋に着き早々に試合のビデオを観戦していた幼馴染みの二人は、ベッドの前に座り込み丁度一人分の距離を空けている。これも彼等の変わらない部分で、桃井を安心させた。二人の間には必ずバスケットボールと云う競技が存在する。それは青峰大輝が選手として活躍する間、ずっと変わらないのだろう。

「大ちゃん、ポジションは? かがみんとパワーフォワードかなぁ?」

 女性らしく綺麗に足を崩して座る桃井は、猫背で胡座を掻く青峰へポジションを聞いた。まだ正式に決定した訳では無いが、応接室で主将の笠松が重役へ告げた言葉を伝える。

「驚くなよ? ポイントガードだ」

「……へ? えぇ〜!?」

 ハーフのように垂れ気味で整った瞳を丸くした桃井は、口元を両手で隠しながら驚き具合を露にした。

「気が狂ってるよな」

 本人も戸惑うポジションだったが、彼の幼馴染みは更に戸惑っているようで、皺ひとつ無い眉根を潜めて不可解そうな顔をしている。

「嘘でしょ……?」

「さつき……。お前、どんだけ驚いてんだよ」

 鼻で笑う青峰は、こうやって懐かしい"あだ名"で呼ばれる事が単純に嬉しかった。やはり『青峰君』は、距離を感じるから……。

「もっかい見せて? さっきの試合」

 桃井は長い髪を後ろで括る為に、両手で束に纏め始めた。彼女はそうやってデータ収集へ意識を向ける。これは、桃井さつきの癖だ。

 高校時代、桃井がいつの間にか身に付けたその癖を、最初に気付いたのは若松孝輔だった。三年にもなると若松は主将を任され、視聴覚室で常に桃井の隣に座っていた。

 『なぁ……。ビデオ観るのに何時も髪纏めるの、何でなんだ?』

 当時の青峰は、彼等の少し後ろでソレを眺めていた。指摘されポカンとした桃井は笑い、その日から毎回データを取る際にはポニーテール姿を見せた。思えば、アレが始まりだったのかもしれない。先に自分が気付いて指摘していたら、状況は様変わりしていたのだろう。

 髪を纏める桃井の白く華奢な手に、自身の黒く筋ばった手を重ねた。ゴムを巻こうとする手を止めた幼馴染みは、おずおずと青峰の顔を視界に入れる。

 二人の間に流れる空気が変わった。いや、変わるように仕掛けた。DVDは先程から再生を止め、テレビは画面が黒くなっていた。鏡のように映っている二人は、初々しいカップルにも見える。

 視線を合わせて五秒後、桃井は顎を引いて目を閉じた。閉じられた意味を知った青峰は、ポニーテールから手を離す。

「……さっきん所だよな?」

 手を離し腰を上げた褐色肌の男は、停止したデッキへと向かう。いざとなると何も出来ない臆病な彼は、僅かな距離を引き離した。

「――ごめんね……。迷惑だよね? こんな時間まで」

「何時もの事だろ?」

 ぶっきらぼうに答えるのだが、彼は後ろを振り向けずに居た。すると、背後に自分のモノでは無い熱と、柔らかい何かが触れる。細過ぎる腕が後ろから伸び、身体の前で交差した。抱き着いて来た桃井は、震える声で青峰へと語り掛ける。

「大ちゃん、何だかんだで優しいから……甘えちゃうんだ」

 ――男が振り向き相手を胸元に招いたのは、ソレが必要だったからだ。

 括られなかったストレートな髪を撫で、腕に込める力を強くした。

「――なぁ、さつき?」

 腕の中の幼馴染みは落ち着いた声で「……何?」と問い掛ける。細い癖にふっくらした身体は、女性らしさで満ちていてずっとこうしていても苦じゃない。

 ――例え地球が終わるとしても……安心して運命を受け入れるだろう。

 しかし、終焉を向かえる前に男は幸福を腕の中から遠ざけた。

「…………オレにあの若松を重ねるのは、止めろ」

 青峰はそう言って華奢な肩を掴んで、抱擁とキスの変わりに意思の強い視線を投げた。

 オレは、オレなんだ。他の誰にもなれない。ましてや、誰かの身代わりにされるなんて耐えられない。

 小さい頃から好きだから、誰よりも愛しているから……男は、ソレが許せなかった。

 ここで桃井が「そんな事していない」と答えれば、青峰の物語は"ハッピーエンド"を迎えた。しかし現実は彼に残酷で、余計な苦難を与えたがる。

 エンドロールは始まらない。
 まだまだ先のようだ。

 ――代わりに流れたのは、桃井さつきの瞳から溢れた涙だった。