八月十六日、土曜日。

 明るくなった部屋で微睡みを続ける頭を振れば、テレビからは異国語が聞こえた。画面は間に座る男で見えないが、端に写るオレンジの床はバスケットコートだろう。

「……おはようございます」

 しかし、青峰は返事をしない。黙り込み、視線が画面に釘付けとなったままだ。その少し丸まった広い背中を眺めていると、幸せな気分に包まれる。私は、あの広い背中に手を回し、太い腕に抱き締められた……――。それと、少し長めのうなじ部分が好きだ。ニマニマと後ろ姿に浸っていると、視線を感じた青峰が振り向いた。

「……何見てんだよ」

 馬鹿にされてると思ったのか、男はデッキのリモコンを投げた。わざと外されたソレは、枕元に落ちる。

「何でも無いです」

 引き続き笑顔を綻ばせたなまえは、絶えない幸せに口角が上がる。訝しげに自分を睨む青峰を見ているだけで、今は幸せだ。

「……キメェ」

 そんな残忍な言葉も、彼女の幸せを打ち消す事は出来ない。腕を伸ばしてリモコンを手にした青峰は、細長いソレで肩を叩きながら再び観戦を始めた。他人から見たら、きっと枯れ果てたカップルに思われるだろうが、女性器を襲う腫れたような痛みが少女に"性交"の証を与えた。ベッドで横になるだけで思い出す。昨晩、逆光に影を落とし汗と耐え難い表情をした褐色肌の男を……――。

「グウタラしてねぇで、そろそろ客人来るから服着ろよ」

 青峰がテレビから目を離さずにそう言えば、タイミング良くチャイムが鳴る。男が立ち上がって迎えに行く間、急いでTシャツを着て、制服のスカートを履く。鏡の一枚も無いこの部屋じゃ、髪も整えられない。玄関からは男二人分の声が聞こえる。片方は家主の低い声で、もう片方は以前にバーベキューに聞いた……――顔が浮かんだ瞬間、なまえは頭を抱えた。

「……ゲッ」

 美しく整った顔を歪めたモデルの【黄瀬涼太】は、ベッドに座る女子高生を見て"カエルが潰れたような醜い声"を出してしまった。それは少女の髪がボサボサで、寝起きのスッピン顔だったからでは無い。黄瀬はグルリと後ろを向いて、青峰に迫真の顔を見せた。

「アンタ、少しは恥じらい持った方が良いっスよ?」

 なまえの首回りに夥しく付いたキスマークに性的関係があると悟った黄瀬は、青峰へ説教を始めた。

「女子高生相手に、何してんスか? 犯罪者かよ!!」

「オメーだって、モデルやアイドルの玉子食ってんだろ?」

 グッ……と喉を詰まらせた黄瀬は、数回咳払いをして自身と青峰の明確な違いを教えてやる。

「従妹でしょ……? 近親相姦かよ」

 それは単に黄瀬の勘違いだが、面倒になった青峰は訂正する事もせず、話題を自分達から逸らそうとした。

「オレじゃなくて、火神がアイツにお熱だ」

「火神っちが!? 恋!?」

 意外な人物の名と意外な展開に戦いた黄瀬は、綺麗な比率で整った目元を大きく見開いた。そして、直ぐに汚いモノを見るような表情に変化させる。この絶妙な顔面の変化が、彼をタレントだと匂わせた。

「……知ってて置いとくとか、青峰っちらしいっスよ」

 青峰に顔を近付け声のトーンを落としたモデルの男は、ベッドの上で硬直している少女を指差した。

「あんなに痕付けて。スタンプ台か、アンタは」

「うるせェ……」

 胸元を強く押され身体を引き離された黄瀬は、溜め息で抗議しながらベッドに腰掛ける。肩に力が入り緊張を全身で体現するなまえは「ヒッ……」と声を上げた。雑誌でよく見るモデルが、自分の隣に座り足を組んでいるのが信じられないようだ。

「――で、何で呼んだんスか?」

 デッキからDVDを取り出した青峰は、薄い専用ケースにソレを入れる。

「紹豹孚の弱点が見付からねェ。背番号78番だ。一晩中試合観ても、隙がねぇ。違和感だらけだ。……何でだ?」

 そう言って、ケースを黄瀬へと差し出した。無言で受け取った綺麗な男は、表面に記された【201X,親善試合,イタリアvs中国】の文字を見た。酷く雑で、汚い字だ。ソレを書いたであろう本人が、黄瀬へ問い掛ける。

「お前、コレ観てアイツの動き、コピー出来るか?」

「……あのさぁ、そんなん出来るならオレ! こんな汚い世界居ないんスけど!」

 事実、【完全無欠の模倣】と云うポテンシャルの高い能力は成長した肉体に追い付かず、使い物にならなくなってしまった。そうやって黄瀬は、バスケットボールの世界から姿を消したのだ。

「ザックリで良いよ」

「無茶言うの、マジでやめてっス」

 青峰の楽観具合にガックリと首を落とした黄瀬は、隣で一ミリも動かないなまえへ沈んだ声のままに話し掛けた。

「……首、ファンデーションとかで隠した方が良いっスよ。凄い事になってるから」

「……えっ! あ、はいっ!!」

 首元をしなやかな指で差された女は、緊張のあまり声が裏返ってしまった。なまえは、そんな余裕の無い自分が恥ずかしくて俯き、スカートをグシャリと握ってまた固まる。

「オレら、明後日から本格的に練習だ。合宿入るからそれまでに手合わせしてぇ」

「まぁた、アンタは人の都合なんてお構い無しっスね」

 呆れ笑いをする黄瀬に、青峰は強引な睨みで念押しをする。

「出来るだろ?」

「出来ない……、なんてみっとも無くて言えないっスよ」

 下らなそうにケースを掴み、黄瀬は肩を竦める。プライドが高いのは昔から変わらないようで、嫌々ながらにも引き受けてくれるのだった。

「そんな事より、頼れば良いでしょ? 桃っちを。アッチの方が弱点すぐ見付けそうだ・け・ど」

「…………今は、会いたくねぇ」

 恋心を打ち砕かれたその女の名に、青峰は俯く。黄瀬からすればここから先は当人達の問題だし、自分に関係無い事でもあるが、何時までも仲違いをしてクヨクヨされていては、遊びにだって誘えない。

「いつまで失恋引き摺ってるんスか?」

 黄瀬がそう言えば、青峰は男の膝を拳で叩いた。思わぬ攻撃に黄瀬は、打撲箇所を押さえて呻く。

「人の人間関係に首突っ込むんじゃねぇよ」

「ソレを更に引っ掻き回すのが、オレの趣味」

 そのジョークを鼻で笑った青峰は、下手くそな笑顔を見せた。

「最低だな、お前」





 一日中同じような試合を眺めていた青峰は、時計の短針が数字の6を指しているのに気付き、背伸びをした。隣で課題を片付けていたなまえは、青峰の横顔を頬杖付いて眺める。

「学生は面倒臭ェよな。宿題あるから、休みもオチオチ休めねぇ」

 視線に気付いた青峰は、訳の判らない数学参考書を眺め、なまえの勉強の邪魔をする。

「中学の頃が、一番多かった気がします」

 なまえは去年の今頃、自由研究や作文に追われていた自分を思い出す。高校は教科こそ増えたが、課題自体はプリント数枚――と、大分楽になっている。

「オレ、毎日バスケしてたから勉強した記憶がねぇ。通信簿なんか、アヒルの行進だぜ?」

「可愛い」

「イッチニ、イッチニ……だ」

 欠伸をして立ち上がった青峰は、ベッドに寝転がった。一日中テレビの前にかじり付いた後にゴロ寝なんて、到底スポーツ選手とは思えない。

「コッチ来いよ。膝枕のひとつも出来なきゃ、彼氏満足させられねぇぞ。貧乳なんだから」

 広い背中から、素直じゃない要望が飛んだ。余計な一言が多い男の"下手なおねだり"を叶えにベッドに腰掛けると、大きな頭が膝上に乗った。

「――目、痛ェ」

 ずっと中国チームやNBAの録画で紹の動きを追っていた青峰は、両面をギュッと瞑り疲れ具合を見せた。労るように頭を優しく撫でると、羞恥を感じたのか青峰は口を尖らせた。

「……撫でんなよ、恥ずかしい」

 撫でるのは自分の特許だと言いたげに、男は膝からスカートの中へ手を差し入れる。青峰の手が内側に向かう度、無防備な太股が露になった。始まった淫靡な空気に、なまえは熱を感じながら固まる。

「……なぁ、またエッチしようぜ?」

 ストレートな誘いへ応えようとした瞬間――突如、テーブル上にあった携帯が男を呼び出した。

 これから始まるセックスの邪魔をされた青峰は、ノロノロ立ち上がり慣れた手付きで携帯を開く。

「誰だよ、面倒くせ……」

 言葉が途切れ、画面を見て大きく溜め息を吐いた青峰は、手のひらで目元を隠しながら着信へ応答した。

「……さつき? お前、何してんだよ」

 ――着信の相手は、傷心中の幼馴染み【桃井さつき】だった。

『かがみんから、聞いた?』

 寂しそうに落ち込んだ声が向こうから聞こえる。――やはり火神が余計な事をしてくれたようだ。

「聞いた。動物は飼っちゃいけませんって、言っただろ」

 冗談を言えば、向こうはフフッ……と笑う。――声を聞いているだけで胸が痛い。早急に電話を切ろうと言い訳を探せば、桃井さつきは呟くように言葉を落とした。

『……今ね、大ちゃん家近くの駅に居るの』

「駅……? N駅か?」

 ハッとした声で最寄り駅の名を告げれば、それは正解のようだ。幼馴染みは泣きそうに震える声を出した。いつの間にか、自分を呼ぶ名が、昔のモノになっている。

『大ちゃん家、どこだか……分かんなくて……』

「――いや……なぁ、さつき? ウチに来る気か?」

 青峰の心臓は、動揺と期待で跳ねていた。携帯と鼓膜の間に心臓があるようで、鼓動に合わせて耳の内側が震動する。

『…………駄目?』

 返事に狼狽する褐色肌の男は、行儀良くベッドに座る女を横目に入れる。別に桃井さつきを呼んでも構わないが、十六歳の少女を居候させているとは知られたくない。

 ――となると、この女子高生をどうするかが問題だ……。もしくは今、黄瀬か火神に連絡して桃井さつきを説得させ自宅に帰すか……。いや、火神に頼んで少女を預けるのも可能だ。でも、アイツの言い分を無視してコイツを連れ帰ったのは昨日の今日だ。

 どれが一番良い方法か悩む青峰へ、桃井は『大ちゃん……?』と問い掛けた。隣では少女が不安そうな目でコチラを見ている。板挟みになった青峰は、自分の短く青い髪を掻いた。

 ――なまえは、青峰の悩みを理解していた。たった今、自分は【不要な存在】になったようだ。頭の裏がジンジンする。考えるにも、痺れたような思考回路は言う事を聞かない。

 幸せだった時間は、一本の電話が終わらせた……。

 スマホを握った少女は、震えて強張る指先でアドレス帳を呼び出し、"唯一"今の彼女を救ってくれるだろう男へ発信をする。――これが、なまえの出来る"精一杯"だった。

 長いコール音に半ば諦めた、その時だ。音が切れ数秒後、電波にバスの効いたダミ声が乗せられた。

『――おぉ。どうした? お、お、お前から電話なんてよォ……』

「今、大丈夫ですか?」

 電話の向こう側はザワザワしていて、彼は自室に居る訳では無さそうである。

『バッシュ買いに来てた。何だ? あ、会いてェ……とか、か? メシ、まだなんだ、オレ』

 吃りながらも明るい声は、なまえを安心させた。この場で火神に渋られたら、彼女は自分の価値の低さに絶望しただろう。しかし、火神が彼女を救った。

「迎えに来て下さい! ごめんなさい!」

 理由も告げず、火神に自分をココから連れ出すように頭を下げた。彼女の声は明るく、ハキハキとしている。それもそうだ。暗い声を出したら、負けてしまう。泣いてしまう。辛い気持ちを悟られてしまう。同情で強引に相手を遣うのは嫌だった。

『……分かった。今すぐ行くから、待ってろ』

 その葛藤に火神は、優しく応えてくれた。

 あの誕生日に、エスケープした自分を探し出してくれたのも彼だった。自身の誕生日を滅茶苦茶にされたのに、一度も責める事をしない。今頃になってなまえは、火神大我の器の大きさを感じた。下がった横髪の中で、少女は唇を噛んで泣くのに耐える。

『青峰居るか? ソコ』

「――青峰さん?」

 チラリと横に居る男を見ると、相手は通話終了した携帯を未だ耳に付け固まっていた。

『変わってくれ。ココからは、大人の話だ』

 その言い方が大人の男性らしくて、彼等が再度自分よりも年上だと気付かされる。無言でスマートフォンを差し出せば、青峰は手を伸ばしてソレを受け取った。触れた指先が、切ない。

「……よぉ、火神」

 青峰は親しい友人へ何時もの調子で話し掛けるのだが、電波の向こうからは怒りを抑えた声が聞こえた。

『――テメェの都合で傷付ける位なら、最初から期待させんな』

 何も説明していないのに、火神は大体の経緯を理解したようだ。元々、こうなるように仕向けたのは火神大我なのに、いつの間にか青峰が"悪者"へと変化していた。

『三十分で迎え行くからなまえ部屋に置いとけ。お前は桃井と時間潰してろ。回収したら電話してやるから』

「……回収とか、まるで物扱いだな」

 青峰は言葉の挙げ足を取り、皮肉めいた台詞を返す。

『物扱いも出来ねェ奴が言うんじゃねぇよ!!!』

 電話の向こうから気性も荒く怒鳴られ、何かを言い返す前に通話は終了していた。火神は喜ぶ半面、青峰に失望したのだろう。都合よく振り回し、簡単に手放す身勝手さに……――。

 そんなの、昔からじゃないか……。青峰は薄い唇の中で強く歯を噛み合わせる。

「火神が……三十分で迎え来るから、待ってろってよ。鍵は掛けたらポストに入れろ」

 自室の鍵と、借りた通信機器を持ち主に渡し、自分を見つめる女から目を逸らす。

「……青峰さんは?」

「さつきを迎えに、行く。ほっとけねぇだろ……? 来ちまったんだから」

 一度も目を合わせる事無くワンルームを出た青峰は、玄関へと向かう。廊下の電気も付けず暗闇の中でスニーカーを探すのだが、背後から寂しそうな声で引き止められた。

「――……行かないで?」

「……何、言ってんだよ」

 なまえは、ただ見送るのをやめ、勇気を振り絞って引き止める。しかしそんな悲痛な苦しみに気付かない青峰は、コチラを一度も見ないでスニーカーを履いてしまった。

 これから青峰大輝は、自分の幸せを掴みに行く。――そしたら、男と反してなまえはきっと不幸になる。

「置いて行かないで!!!」

「だから! 何を言って……――」

 丸めていた背を戻した青峰は、最後にやっと振り返った。そして言葉も途中に、男は言動の全てを停止させる。

「――だって……きっと、もう会えないもん……」

 青峰の顔が動揺で歪む。それは今まで、なまえが一度も見た事の無い表情だった。小さく青い瞳が揺れて、眉はすっかり下がる。半開きの口は何かを言おうとしているが、言葉が出て来ないのだろう。

 青峰は、歯を強く噛み締めた。今にも泣きそうな少女がワンルームの入り口に立って、自分が戻って来るのを待っている。

 ――何を迷っているんだ。躊躇する理由なんて無い。あと少し待てば、ココに火神が迎えに来てくれる。でも……さつきは、一人きりでオレを待ちぼうけしているんだ。コイツは鍵を掛けてこの場所に居れば、安心だ。迷ってる暇は無い。幼馴染みが事件か何かに巻き込まれる前に、迎えに行かなくては……。

 そうやって青峰は、理論で自分を正当化する。本当は、醜い感情で二人を天秤に掛けているのに。

 振り切り背中を見せれば、背後から泣き声が聞こえた。玄関を開け、青峰は自室から立ち去る。目を細めなければ、情けない感情に負けそうになる。頭の中では、焦りと罪悪感が戦っていた。


 『――テメェの都合で傷付ける位なら、最初から期待させんな』


 期待なんかさせてねぇよ。抱いたのが期待だと言うのなら、以前に『好きでも無いオンナも抱ける』と伝えてある。勝手に期待した相手が悪い……。

 近付いたら傷付くだけだって知っているのに、なまえはオレの傍に居たがった。馬鹿だ。馬鹿だ馬鹿だ馬鹿だ。

 アイツは、ただの馬鹿女だ……――。

 生ぬるい風が肌に張り付き、不快指数が増した。一歩一歩駅に向かうと、何故か頭の中には先程の光景が流れる。


 『――だって……きっと、もう会えないもん……』


 ――アレは、なまえ成りの別れの言葉じゃないか? まるで自分と桃井が付き合うのを予知しているかのようだ。未来なんか誰にも分からないのに、少女は最後に自分をアピールした。

 知ってる。どうせ桃井さつきと上手くいく筈は無い……。だって、彼女は未だに若松孝輔を想い、『素直になれ』と背中を押して貰えるのを待っているだけなのだ。それでも、僅かな希望だけが足を運ばせる。

 今まで"あの馬鹿な女"は、寂しさを埋めるだけのピースだった。ソレで埋めた部分は思っていたよりも広く、失った今……青峰の心をスカスカにさせた。

「――畜生……。何でだよ……」

 立ち止まって天を仰いだ男は、腕で目元を覆った。それは、何かで目蓋を押さえないと"溢れる感情"が水滴となって頬を濡らすからだ。

 桃井を迎えに行かなくてはいけないのに、男は歩き出す事をしない。


 ――男は、待っている。

 この不可解な気持ちが消え、何もかもが夏より前に戻り、孤独でつまらない日常が始まる事を――。

 男は、ずっと待っている。ただ立ち竦んで、空を仰いでいる。


 愚かな女と過ごした"幸福な時"が終わる、その時まで――。


 ……………………


 独りきりの世界に慣れた男は、【自分の世界の狭さ】に気付かない振りをするのが得意だ。

 誰も誘導してくれないから、自分で道を探すしか無い。"幸せな世界"が、山を越えた向こうにある事を知らない。

 すると、どうだろうか。

 男は諦めてしまった。やがて、不作の大地へ文句を言うだけの"情けない人間"になってしまった。

 乾いた大地が、今の男の全てだ。