八月十二日。火曜日。一部でお盆休みが始まり、先祖を供養する時期だ。その日本独特な風習と無縁な火神大我は、愛車をコインパーキングへと停めた。施錠を確認した男は、鍵をパンツスーツのポケットへしまう。

 ――青峰大輝が笠松幸男と協会での"一悶着"を終了させた丁度その時、火神大我は何度も通った青峰のアパートへと足を運んでいた。

「……はい」

 なまえが部屋を開けると、ソコには赤毛の眩しいスーツ姿の男が立っていた。上着を脱ぎ去り、ワイシャツからは肌着のタンクトップが透ける。普段のカジュアルな格好とは想像出来ない程に大人っぽく見えた。男は一瞬だけ驚いた顔を見せたが、すぐに笑顔を作るのだった。

「あ、おま……。よォ」

 フランクに挨拶をした火神は、その後に続ける言葉が浮かばずに黙り込んでしまう。そして急に体温が上昇したのを頬に感じ、ソレは背中照り付ける太陽のせいだと思うのだった。

「青峰さん、居ませんよ?」

「あ、あぁ。青峰な? 元気か? さっき会ったぜ?」

 無駄に大きな身振り手振りで、火神は彼女に言葉を掛けた。努めて平然で居ようとすれば、話す内容がおかしくなってしまう。大袈裟なジェスチャーを途中で止めた火神は、急に恥ずかしくなり視線を横に逸らした。

「……は、入っても良いか?」

 火神がゴニョゴニョと篭った声でそう伺えば、相手は黙り込む。その反応も当然だろう。男は信用されない自分に物悲しさを感じた。今更に八月二日の行動を後悔しても、もう遅い。

「嫌だよな、オレと二人きりで待つのは」

 意気を消沈させた火神は帰ろうと踵を返すのだが、その横顔になまえは声を掛けた。

「……青峰さんの部屋だから」

 躊躇する理由が自分に無いと知った火神は、歩き出そうとした足を止め安堵した顔になった。

「青峰にはオレから連絡する」

 ポケットからスマートフォンを取り出した火神は青峰の携帯へ着信を飛ばす。そして呼び出し音が留守録モードに切り替わった瞬間に通話を終了させた。

「暑ィから、先入ってようぜ?」

 そうやって無理矢理に入室を促した。家主の居ない部屋に上がり込み、男モノであろうTシャツをワンピースのように被った女の後ろを歩く。目の前で動く臀部に釘付けになれば、何故だか知らないが、少女がこの前より可愛く思える。

 ぼんやり下方に視線を向けて歩いていると、額を思いきりドアの桟にぶつけた。急な痛みと脳を揺すられる奇怪な感覚に、火神は驚き呻いた。

「……だ、大丈夫ですか?」

「あぁ、しょっちゅうだ」

 涙目で鼻を啜った火神は、"久方振り"に殴打した額を押さえて苦悶しながら空笑いをした。

 相変わらず狭いワンルームに入室すれば、テーブルには教科書や参考書、ノートが散らかっていた。『勉強なんか勘だ』と言い放つ程"勉強嫌い"な青峰のモノでは無い。

 火神はテーブルの前に腰掛け、英語の教科書を捲った。――やはり日本人が学ぶ英会話は自分に向いていない。ビジネス英会話だ、こんなの。そのまま流暢な発音で英訳された物語を読めば、現役高校生は驚いた。

「今の、凄くないですか?」

「帰国子女だ、オレは。中学までアメリカに居た」

 口に手を置いたなまえは「だから火神さん、外国人みたいなんだぁ」と一人納得していた。敬意を持たれるのが好きな火神は、イチイチ反応してくれる事が嬉しかった。

「あの、火神さん凄かったです。こないだの試合も、前半とか一番目立ってました」

 ベッドに座って足を揃えたなまえは、先日の決勝戦で活躍した火神を褒める。素人の彼女から見ても、火神のプレイは強引で気持ちの良いモノだった。

「MVPだぜ?」

 気分の乗った火神は『別に大した事じゃ無い』と言わんばかりの口調で、調子の良い自慢をした。つい一時間前までは思い悩んでいたと言うのに、今はどこ吹く風である。

「えっ? MVPって、一番凄い選手ですよね!?」

 好奇の眼差しを向けられた火神はニヤけた口元に手を当て、ソレを隠すのだった。

 ――先程の"空想劇場"が現実になった。擽ったくこそばゆい感触が身体に満ちる。

 そして目の前に座る彼女の笑顔を独り占めしたいと思った。彼女の頭の中に自分を残したくなる。

 それが"ある感情"の芽生えなのに気付かない火神は、胸の高鳴りが単純に【自分を追い込み過ぎた為の不調】だと思っていた。

「佐久間君も喜んでました。火神さんに指差されたって」

 なまえから男の名前が出ただけで面白く無い火神は、彼女に聞かれないように口の中で「男を指した訳じゃねぇよ」とぼやいた。

 佐久間とは恐らく少女の言っていた"彼氏"で、観客席の隣に座っていた優男の事だろう。アレがタイプだと言うなら、筋肉ダルマの火神とは真逆だ。まぁ、青峰なんかは更に真逆に位置するだろう。

「彼氏とラブラブなのに、こんな所に居んのか」

 口調も厳しめに少女を批難するのだが、それは尻の軽さを戒めている訳ではない。自分が蚊帳の外に居るのが面白くないだけだった。――何でオレを頼らないんだ。火神はいつの間にか、もっとなまえの尊い存在になりたがっていた。

「……親友にも、言われました。私の彼氏の事、好きだって……知らなかった」

 暗い声が下方から聞こえる。頬杖付いた火神はテキトウな口調で、御座なりのアドバイスをした。

「だったら、文句言われないようにするしかねぇだろ」

 そうだ。そんな男は友人にくれちまえ。

 そんで、お前はオレが幸せにしてやるから。


 ――……あれ? オレ、何でそんな事望んでるんだ?

 顔を逸らすと、テレビに反射した間抜け面した自分と目が合う。

「……気付いたらココに来てました」

 じゃあ、それならオレの所に来れば良いだろ? 美味いモン沢山食わせてやるよ。寝る場所だって、こんな狭く汚ねぇベッドより広くて綺麗だしよォ……。

「………え?」

 前に行儀よく座る少女が聞き返した。その時初めて火神は、今の『大事にするから、家に来て欲しい』と云う願望を心の中に留められず、口に出していた事を知る。

「帰る」

 これ以上意味不明な言動をする前に姿を眩ませようと、火神はいきなりに立ち上がる。恐い顔となった男に躊躇しながらも、なまえはこう問いた。

「あの……青峰さん、良いんですか?」

 ふと考えた火神は、やっぱり理由は判らないが青峰となまえが二人きりになるのが堪らなく嫌だった。EDだからセックスは出来なくても、キスはしているかもしれない。

 ――青峰とコイツがキス!?
 絶ッ対嫌だ! 最悪な気分だ。

「……じゃあ、待ってるか」

 今度はベッドに腰掛けた火神は女子高生の横に身を置き、より近付いた距離に唾を飲んだ。

 こんな年下で色気の無いなまえに執着するのは、きっと"女に飢えすぎているからだ"と結論を出す。火神はどちらかと言えば、グラマラスな年上が好きである。年上なら落ち着きがあって、クレバーで刺激的な交際が出来るからだ。

 生まれてこの方、明確に【恋】をした事がない火神は、ついさっきから己に起きている"不具合"に狼狽えるしか無い。目が合い、恥ずかしそうに逸らされると頭が鷲掴みにされ揺さぶられるように思えた。

「――おまっ、まっ……」

 話を振れば声が裏返った。羞恥を誤魔化す為に咳払いをした赤毛の男は、気を取り直してなまえに気になっている事を聞いた。

「彼氏と、どこまでしたんだ……?」

「どこっ、どこまで……」

 質問に固まってしまった少女のウブさを"壊したい"と思っていた。――昨日までは。

 今は、とにかく幸せにしてやりたい。自分と一緒に居るのが【堪らなく嬉しい事】だと思わせたい。その心境の変化は、火神を大人にさせた。

「キス、とか……なぁ?」

 顔を覗き込めば、なまえは俯いたまま固まる。爆発しそうな心臓をワイシャツの上から押さえた火神は、目を閉じて瞼裏の小さな暗闇で赤い唇を狙う。

「……っ、やだ!」

「…………暑ィ」

 火神の口に柔らかいモノが触れたのと、青峰が玄関を開けたのは同時だった。





「練習サボって何してんだオメー……」

 青峰の隣で赤い頭を下げた火神は、よりにもよってキスを拒絶されたシーンを見られてしまった。唇に付いた少女の手のひらは厚く可愛かったのだが、拒まれた事が酷く火神を落胆させる。今は惨めで情けなさ過ぎて、消えたくなっていた。黒子のミスディレクションが羨ましい。今なら黛に土下座してでも、気配を消す方法をレクチャーして貰いたい。

「――いや、何か……キスしたくなってよォ」

 嘘を付くのが下手な火神は、馬鹿正直に己の行動を省みる。青峰はそんな男のぼやきには興味が無いのか、無視して話題を変えた。

「……初戦は中国だってよ」

「は? 中国?」

 キョトンとした顔で聞き返した火神は、昨日練習をサボタージュしていた為に代表戦での【決定事項】を知らない。

「アジア選手権だ」

「遣り甲斐あるな」

 ボソリと呟いた火神は、青峰の予想とは裏腹に嫌そうな顔をした。

「しかも、代表に紹が居る」

「じゃ、青峰が三人は必要だな」

「一人で充分だ」

 火神は青峰と同じ考えを持っていた。赤毛の彼もまた【紹豹孚】を高く評価していた。

 もしかしたら今まで戦ってきた選手と比べられない程苦戦するかもしれない。火神はまた別の理由で鼓動が速くなり、体温が急上昇した。

「アイツ倒しゃ、スーパーモデルと付き合えるかもな?」

 少しだけ顔付きが獰猛になった火神に、青峰はそう冗談を告げた。

「……スーパーモデルかぁ」

「糞ガキに手ェ出さなくて済むぜ?」

 青峰がなまえの頭を掴み強引に揺すった。ソレを見た火神は、急に不快感に苛まれ「止めろよ」と注意する。

「紹って誰ですか?」

「アジアで一番の選手だ」

 なまえの素朴な疑問には、火神が簡潔に答えてくれた。そして青峰は自信満々で「オレの次にな」と、自分を高く評価するのだった。

「やっぱオレ、今から練習行く」

 初戦の相手を知り、早速にもやる気が出たのか――火神は先程笠松と交わした約束を訂正した。帰ろうと身を立たせた赤毛の男は、青峰の向こう側へ座るなまえへひとつだけお願いを告げる。

「……連絡先、教えてくれよ」

 火神がそう言えば、訝しんだ顔した青峰がスーツから携帯を出す。

「お前じゃねぇ」

 そうやって火神は青峰のボケを正統派なツッコミで斬った。

 通信アプリで繋がった火神は、スマホを尻ポケットへ仕舞う。――筈だったのだが、手元が狂いフローリングに落としてしまった。壊れはしないものの、ウッカリ過ぎる失敗に火神は唸った。

 帰る時も最後まで青峰となまえに手を振るのだが、前方を見ていなかった為、桟へ後頭部を強かに打ち付けていた。ついでに玄関では散らばったDMに足を滑らせたらしく、野太い悲鳴が聞こえた。

「ポンコツだな、アイツ」

 青峰は火神の不調具合を、少しだけ心配してやった。腑に落ちぬMVPに、相当へこんでいるように見える。

 しかし事態は男の予想を斜め上を突き抜けているのだった。この時の青峰は、まさか火神が隣に座りスマホを操作する少女に恋心を抱いているなんて、知るよしも無かった。





 コインパーキングに停めていた車へ乗り込んだ瞬間、緊張感が少しだけ解れた。試合前の緊張感とはまるで違う。恥ずかしさを伴うモノだった。

 大きく息を吐いた火神のスマートフォンが持ち主を呼び出したのは、出発しようとエンジンをスタートさせた瞬間。

 画面に映し出されたアプリケーションのメッセージボックスに記された名前を見た瞬間に心臓が跳ねた。

【なまえです。よろしくお願いします】

 初期設定のままの壁紙。メッセージの下に貼られたスタンプは、キャラクターが親指を立ててウィンクをしていた。

 人差し指を宙に泳がせた火神は、返事を打つ途中で手を止める。ここで即返事を送れば【暇人】だと思われそうだ。それは恥ずかしい気がした火神は、機器を助手席に投げた。

 それともう一つ……。もし自分からの返事が来なかったら、彼女は少しでも不安になるかもしれない。そうやってなまえの中に火神と云う存在を残したい。

 火神大我、二十一歳。返事は即返すタイプの彼は、生まれて初めてメッセージ通信で放置プレイと云う"賭け引き"をした。