お母さん、なまえはしばらくお家に帰りません。心配しないで。

 そう母親にメールを出したなまえは、駅の待合室で項垂れた。夏休み初日の今日は、彼氏との初デート。歳の離れた姉から化粧品と衣服を無断で借り、自分成りに精一杯可愛くして来た。

 ――なのに、今日のデートは相手の体調不良によりキャンセルとなった。怒りに任せてメッセージを送信し、後先考えず全財産を注ぎ込み、大分遠い名前も知らない駅まで辿り着いていた。とは言え、高校生の小遣いなんてたかが知れている。数千円の距離なら、せいぜい隣県にしか行けない。

 それでもなまえからしたら旅行に近い感覚だし、一人で県を跨ぐなんて自分が大人になった気にもなる。

「――……泊まるトコ、どうしよう」

 独りきりの待合室で真っ青になったなまえは、今晩の宿について全く考えていなかった。慌てて財布を確認しても、所持金は265円。減りもしなければ、増えもしない。頭を抱え、身体を折り曲げた少女は「あぁ〜ん!もうっ!!」と可愛らしく己の失態を嘆くのだが、誰も居ない空間は虚しく彼女の声を反響させただけだった。

 唸っていても仕方無い彼女は、スマートフォンを取り出しネットの世界を小さな画面に開いた。【神待ち】をすれば良い。知性幼く、情弱ななまえは何の恐怖感も抱かずに掲示板を開く。


【神待ち】 かみ‐まち

「救いの手を差し伸べてくれる人を待つ」といった意味であるが、特に、家出した女性が自分を泊めてくれる男性を電子掲示板などで探すことを意味する表現。

日本語表現辞典 Weblio辞書より出展


「……何を書けば良いの?」

 いざ書き込みをしようとしても、何も浮かばない。【一晩泊めて下さい】以上の言葉が出て来ない。呆然と画面を眺めていると、電池の残量が無いに等しいとメッセージが出た。

「サイアク! 何でこんなに電池無いのぉ!?」

 両手で機器を握り締め、3%と表示された右上のアイコンを睨む。これでは書き込んでも、返事があるかどうか確認する事も出来ない。彼女は完全に"詰んで"いた。

 ナンパを狙うにも、こんな寂れた辺鄙な駅に【女に飢えた若い男性】なんぞ存在しない。更に、自分の周りに駅員以外の二足歩行は居ない。このままでは通報され警察に捕まり、親に怒られてしまう。勝手に私物を持ち出して姉にも叩かれる。絶望的な状況だと、なまえは神を恨んだ。

 スマホが電池切れした僅か三分後。時計は二十二時を五分も過ぎていた。そんな感じに彼女が法的に出歩けなくなったタイミングで、最も会いたくない大人がやって来た。パトカーを降り、紺色の制服に身を包みんだ中年男性と若い青年の組合せが、コチラへ歩いて来る。――補導される。きっと駅員が自分を心配して通報したんだ。余計なお世話だ……。

 なまえは警察がココへ来る前に、別の出口から待合室を脱出した。外に備え付けられたベンダーの後ろに隠れ、待合室の様子を覗いた。彼女の心臓はバクバクと強く鼓動を打ち、毛先がチリチリと焼ける感じがする程に緊張していた。

 警官二人は無人の待合室に首を傾げ、何かを話し込んでいる。一人がパトカーに向かい無線で何かを話すと、すぐにもう一人が戻って来て再度首を捻ると車に乗り込み、何処かへ向かい始めた。

 安堵したなまえは、その場にしゃがみこみベンダーを背凭れにしばらくボサッとした。

 ――その内に電車がホームに滑り込む激しい音がして、また進行していった。外のベンチに腰掛け改札口を眺めたなまえは、次に出て来た人物へ声を出て掛ける事にした。願わくは、親切な人でありますように。

「……来た!!」

 改札からは一人の男が出て来た。片側の肩にリュックを背負い、Tシャツにジーンズと云うラフな格好をしていた。距離と暗闇のせいで顔はよく見えないが、驚くべきはその背の高さだ。遠くからでも外人のように手足が長いのが判る。

 怖じ気付いたなまえだったが、警察が頭を過った瞬間に足を踏み出した。

「あの〜……。すいません」

 なまえは男の隣に並び、控えめに声を掛けた。改めて近くに寄るとソイツの身長の高さに驚くばかりだ。そのタッパのデカさに比べたら、自分なんかまるで小学生だ……。

 ちょっとだけ可愛い子ぶった声にも、男は反応せず前を向き歩き続ける。しばらく並んで歩行している途中、なまえは自分が無視されている事に気付いてしまった。そして男の進行ラインを塞ぐように前へ立った。

「あの! すいませんってば! ねぇ!!」

「邪魔だ、退けろ」

 初めて口を聞いてくれた言葉がコレだった。遥か上から見下ろされ、冷たい台詞を吐かれたなまえは身体を小さくするのだが、このまま補導され、親や学校に連絡される可能性の方が遥かに怖い。

「話聞いて下さい!!」

 両手を開き、完全に通せんぼをしたなまえを、背の高い男は尚も見下ろし続ける。相手はコチラの出方を伺っているようにも見える。

「今日泊めて下さい! お願いします!!」

「…………」

 頭を下げ九十度のお辞儀をするのだが、相手は尚もリアクションを起こさない。だから彼女は、更に腰を曲げて懇願する。

「一晩だけで良いんです! 玄関で寝ますから!!」

 声が震えた。判っている……。こんなの、初対面の異性にするお願いでは無い。――でも、こうしないと自分は泣きを見るだろう。補導され県外に呼び出された親は自分を一晩中叱咤し、この夏休みは外出禁止令が出るかもしれない。そうなったら最悪の夏休みだ。

「…………他当たれ」

 無情にも男は冷たくそう言い放ち、頭を下げた彼女の横を通り抜け歩き出した。きっと表情には全く変化が無く"自分には関係無い"と考えているに違い無い。

「頼れる人が居ないんです!」

 ピタリと足を止めた男は、長い腕を真っ直ぐ伸ばし、路地を指差し始める。

「交番なら、ソコを曲がって突き当たりを……――」

「警察は駄目なの!!」

 その台詞に怪訝そうな顔をした男は、指差した手を下ろしなまえを見た。

「……家っ……家出したから、駄目……なの」

「だからって、オレを巻き込むのか?」

 言葉が胸に刺さる。どうやらこの男は、思った事をすぐ口へ出してしまう性格のようだ。その素直さが、逆になまえを傷付けた。

「安心して、寝る場所さえあれば良いんです……」

「ウチ来て、安心出来ると思うか?」

「…………」

「素直に交番へ行け」

 悔しいが、男が言う事は理にかなっている。なまえは、自分が子供な事を恨んだ。きっと綺麗でスタイルが良い女性だったら……自分にもっとお金があったら――夜中に歩いても補導されない年齢だったら……――。後悔が涙となり目を濡らす。

「――なんでも、しますから……」

「安いオンナに、興味ねぇんだけど」

「お願い、します……! 泊めて下さい!」

 声が震え、目から水滴が落ちた。顔が熱いのは、蒸し暑い気温のせいでは無い。鼻を啜り、また頭を下げてお願いの言葉を口にしようとした時だった……――。

「……今晩だけだぞ?」

「お願いしま……! って……え?」

 また『駄目だ』と言われると思い、尚も懇願し続けた彼女は、男の口から出た許可の台詞に情けない声を出してしまった。

「泊めてやるから、好きにしろ」

「あ、ぁ、ありがとう……ございます!」

 ペコペコと、何度も頭を下げてお礼を言う。これで今晩は安心だ!! 彼女は心の中でガッツポーズをした。――神は居た。大分ぶっきらぼうで冷たい人だが、きっと彼が神様だ。

 何がこの男の気分を変えたのか……。詳しくは判らないが、彼の近くの掲示板には『行方不明者目撃証言のお願い』が張り出されていた。

「メシは?」

「お昼に、おにぎりを……」

 なまえがオドオドながらに答えると、どうやらその返答はお気に召さなかったようで、今度は強い口調で尋ねられる。

「晩メシは!?」

「ハイッ! 食べてません!」

「着いて来い」

 半泣きで答えると、男はまたスタスタと歩き出す。歩幅が大きく、早歩きで無いとすぐに置いて行かれる。それでも……こんな知らない土地の夜道を一人で歩くより、ずっと不安が晴れた。





「……牛丼屋、さん」

 案内されたのは、全国チェーンの牛丼屋だった。一番奥の、しかもトイレの前に座った男は、"女性のエスコート"が下手そうだ。それは高校生のなまえにも判った。

「文句あんなら、大人しく交番行け」

 男は少女が不満気なのを悟ったようで、細長い目でギロリと睨む。その視線になまえは恐怖心を煽られた。

 気まずい雰囲気の中、若い女性店員がニコニコとお茶の入ったグラスを持って来た。

「ご注文お決まりになりましたら……――」

「並み盛りひとつと、大盛りひとつ。あと味噌汁ひとつ」

 年季を感じるガラパゴス携帯でメールを打ちながら、男はぶっきらぼうに注文をした。

「あの、じゃあ私、コ……」

 なまえはテーブルの中央にメニューを広げ店員に注文しようとする。しかし彼女が指差そうとする前に、男は大きな手でメニューを叩き「以上だ」とオーダーを終わらせてしまう。オロオロする女性店員を顔付きの凶悪な男が睨めば、可哀想なその女性はなまえの注文を聞く前に厨房へ引っ込んでしまった。

「何食ったって一緒だ」

「…………ハイ」

 なまえはほんの少しだけ、この男に着いて来た事を後悔した。メールを送信したのか、男は古臭い携帯をテーブルに放り、頬杖付いて横を向いてしまう。暗闇では気にならなかったが、男は大分……いや、かなり色黒で筋肉質だった。――そして顔は怖いが、酷く男前だった。

 二人の前に牛丼が並ぶ。予想はしていたが、味噌汁は男の前にある。塗り箸を自分の分だけ取った男は、紅生姜を恐ろしい位に牛丼へ載せていた。多分、ケースの半分は使用している。そりゃそんなにアクセントを載せれば、"何食っても同じ"になる。

「あのぉ〜……お名前は?」

 無言に耐えられないなまえは、モリモリと紅生姜丼を貪る男に質問をした。褐色肌した男は、箸を止めてお茶を飲み干すとやっと質問へ答えてくれた。

「何で名乗らなきゃいけねぇの?」

 その冷たい返事で、目の前の男とコミュニケーションを取るのが酷く困難な事を知ったなまえは、小さな声で謝った。

「すいません……」

「お茶」

 ドンッと乱暴にコップを置いた男は、初対面の少女へ名詞だけで命令を出す。

「……ハイ」

 素直に従うしかないなまえは、麦茶の入ったポットを傾けた。





 男のアパートは普通だった。八畳のワンルームで、ベッドは大きく、御座なりに敷かれたシーツがシワシワだった。タオルケットはかろうじて黄ばんでは居ないが、多分しばらく洗濯されて居ないだろう。だって、枕とソレからこの部屋に充満する"男臭さ"を一層強く感じたから。汗のような、皮脂のような……とにかく雄臭い匂いだった。

 壁にはNBAのロゴとバスケットボールの選手が写るポスター。その隣には、ポスターの選手とお揃いのユニフォームが掛けられていた。玄関に転がっていた大きなシューズは競技用だろう。男はバスケットマンのようだ。少女も『スラムダンク』位なら知っている。その漫画の完全版が雑に積み上げられていた。

「バスケ、好きなんですか?」

「まぁな、それでメシ食ってるし」

 リュックからタオルと靴下と練習着を取り出し洗濯機にぶち込んだ男は、鞄の中に消臭スプレーを振る。

「プロなんですか?」

 やっと質問へ真面目に答えてくれた事へ感動しながら、会話を続けようとしたなまえだったが、その問いに関しての答えは返って来なかった。代わりに大きなTシャツとバスタオルが投げられた。

「シャワー、浴びて来いよ。パンツ探しといてやるから」

 やっと親切な言葉を掛けられたのだが、そんな事に気付かない程に衝撃的な単語を耳にしたなまえは、思わず目を丸くした。

「……パ、パンツ!??」

「前のオンナが、忘れてったのがあった筈」

 部屋の隅に積み上がった衣服の山を漁る男は、刺激的な事を平然と言い放った。

「前のオンナ!!??」

 なまえは途端に同室の男を意識し、顔が熱くなるのを感じた。