泣いてグシャグシャになった顔を、浴室の鏡で確認したらへこんだ。こんな顔を年上の男性に向かって晒していただなんて、考えただけでも落ち込む。シャワーの栓を捻り、温水を肌に掛ければ少しだけ落ち着いた。誰も居ない狭い空間で、張っていた気を少しだけ緩めたなまえは、お湯に紛れひとつだけ溜め息を溢した。

 突然、浴室のドアが開き身体の大きな男が入って来る。彼も素っ裸で、恥ずかしい部分など何処も無さそうに堂々としていた。

「なっ……? 何で入って、いきなり!」

「退け、邪魔」

 勝手に入って来た癖に身勝手な家主は、浴槽の縁を指差す。仕方無くソコに腰掛けた少女は青峰に場所を譲った。狭い浴室で胡座を掻いた褐色肌の男は、なまえの身体を撫でていたシャワーをぶん取り、自身に掛け始める。

「シャンプー、自分の使えよ」

 頭の天辺から短い髪を濡らし、片目開けた青峰は男性用の青いシャンプーを手に取って、頭を洗い始めた。裸一貫なのに相手にもされないなまえは、並べられたピンクのボトルを視界に入れた。

「捨てようと思ったんだけどな」

 聞かれても居ないのに青峰は答える。豪快な手捌きと泡立ての適当さは、男の性格をよく表していた。

「……お前、何で泣いてたんだ?」

 質問する割には興味なさげな青峰は、さっき投げ捨てたシャワーヘッドを催促する。水の束を散らしながら壁に頭をぶつけていたシャワーを手に取り、差し出された手に置いてやれば、お礼も無しに青峰は髪を洗い流したのだった。


 …………………


「――んだよ。友達ゴッコが上手くいかねぇからかよ」

 頭に付いた泡を流し終え、ヘッドから分散されたお湯で直接口を濯ぎながら青峰はなまえの悩みを「下らない」と言わんばかりに切って捨てた。ついでに口から水も吐き捨てた。

「友達ゴッコじゃないです」

「男一人で崩れる友情なんか、ゴッコ遊びだろ?」

 辛辣な意見に言葉が詰まったなまえは、とりあえず身体を隠すのに垢擦りタオルを使用する。水色のタオルはカラカラに乾いていて、普段使われていない為浴室に置き去りとなっていた。

「……友達、居なくなっちゃった」

 青峰は少女の前掛けになっていた垢擦り用タオルを手に奪い、ボディーソープで泡立てる。

「オンナは面倒くせぇな、つるむから」

 ガシガシと乾布摩擦のように背中を擦った男は、泡とザラついた布地で垢を落とす。肌に付着した泡は消える前にタオルにより更に泡立ち、茶色い肌が白く染められていった。

「男の人が羨ましいです」

「オレのチンコくれてやるか? 役立たずだけど」

 全身を流し始めた青峰が卑猥な冗談を言えば、なまえは恥ずかしそうに黙り込んでしまう。

 そうして身を綺麗にした褐色肌の男は、湯槽の縁に座る全裸の女に向かって顔を近付けた。

 気恥ずかしくて目を瞑れば、自然と唇が重なる。相手の薄い口唇から舌が這い出て侵入して来た。濡れた肌同士が触れ、初めてお互いが裸で居る事に気付いた。このまま一線越えてもおかしくはない状況に、十代半ばの少女は背中を伸ばす。

 相手の舌がナカをまさぐるだけで、なまえは何も出来ずに硬直したままだ。息を付く事も、舌を動かす事も出来ずに固まる。出来る事と言えば目を強く瞑る事だけで、沸騰しそうな体内とアラート鳴り響く頭が状況を更に混乱させた。

「…………風邪引きそうだ」

 舌と唇を離した青峰は、膝を立たせサッサと浴室を後にした。男が折り畳み式のドアを開ければ、湯気篭る室内に少しだけ涼しい空気が流れた。

 相手の唾液で口回りがベタベタになったのに、ちっとも嫌じゃない。それ所か、益々青峰の近くに居たくなる。

 世界中を敵に回しても、彼さえ味方で居てくれたら……なまえは何でも出来そうな気がした。


 ……………………


 八月十二日。火曜日。お盆の帰省ラッシュが始まり、ニュースキャスターは『高速道路はあちらこちらで渋滞だ』と伝えた。墓参りなんか関係無く眠りこけていた男を、枕元の携帯が呼び出す。初めて聞く着信音はすぐに切れたのだが、律儀に二つ折りの通信機器を開いた青峰は【Cメール 一件】のお知らせに微睡んだ意識を向けた。

【今日は来い。午前中。協会。笠松】

 その内容に「ゲッ」と呻いた青峰は、昨日の約束を忘れていたようだ。差出人は月曜一杯待っていたのか、素っ気無いメールから沸々とした怒りさえ感じた。

 ふと隣を見ると、半分空けたベッドは空だった。家出少女は言い付け通りに朝イチで帰ったようだ。返信もしない携帯を投げ、男は再度寝転がる。やはり二人で横になった後だと広く感じる。わざとらしく片側を空けた青峰は、枕に溜め息を落とした。

 突如トイレのドアが勝手に開いた。金属の擦れる音にギクリとした青峰がワンルームの出入り口を見れば、男性用のTシャツを身に付けた女がやって来た。その女は男と目が合った事に恥ずかしそうにすると、小さな声で朝の挨拶を口にした。

「あの……おはようございます」

「帰ったんじゃねぇのか?」

 寝っ転がった青峰は面倒そうに頭を掻いた。成長しても素直じゃない所は直らないようだ。男は空けていた半分のスペースを隠すよう、その巨体を中央に寄せた。

 女子高生が姿を見せて嬉しいような、うざったいような……そんな複雑な感情を寝て過ごそうと決めた青峰を、先程の着信音がまた呼び出した。

【絶対来いよ。笠松】

 完全にやる気の無い顔で口を開いた青峰は、やはり返事を打たずに携帯を閉じる。そうして上半身を起こし顔を両手で拭い、クローゼットを指差しながらなまえへ命令する。

「スーツ、紺色の方。クローゼットの中」

「あ、はい!!」

 やたら元気の良い声でクローゼットを探る小さい身体を眺めた青峰は、Tシャツからはみ出た透けるように白い太股へほんの少しだけ欲情した。





 こんな真夏日にスーツを着させられ、自宅から遠い大都会に呼び出された青峰は不機嫌そうにビルの受付を通過した。目的地は三階なのだが、笠松から再度のメールで"一階のエントランスホール"を待ち合わせ場所に指定されていた。

 ――こちらが出発の準備をしても尚Tシャツを脱がなかったなまえは、帰る気が無いのだろう。いっそ居ても居なくてもどうでも良くなっていた青峰は、革靴を玄関に投げながら「鍵閉めたらポストに入れろよ」とだけ告げて部屋を出た。

 見慣れた顔をソファーラウンジで見付けた青峰は、思っていたより笠松幸男の機嫌が悪く無さそうな事に安堵した。こんな厳かな場所で説教なんかされたら、たまったモンじゃない。

 笠松の挨拶もそこそこに、ラウンジの端で電話越しにペコペコしている営業を視線に捕らえた青峰は、彼の前に散らかされた企画書が"有名スポーツブランドのモノ"である事に気付いた。どうやらそのサラリーマンは、自社の製品モデルを探しに来たらしい。こうやって協会には、多種多様の人間がやって来る。

「オレを使えば一発丸儲けなのにな?」

 青峰が短い前髪を整えながら調子の良い事を言えば、笠松はソレに突っ込みを入れた。

「約束も守れない奴には無理だ」

 二人がホールで昇りエレベーターを待っていると、降りてきたソレには丁度【赤毛が派手な選手】が乗っていた。箱から降りた男は、ノーネクタイに上着を肘に抱えクールビズと云った格好をしている。顔色が優れない癖に、額には玉のような汗が浮いていた。仄かな甘い香りは、男が愛用する香水の匂いだろう。

「……笠松サン、青峰」

 特長的な眉を下げた男は、並んだ二人の名前を呼びながら顔をしかめた。心無しか、コートで見るより一回り以上小さく感じる。

「火神、練習に来い!」

「…………ッス」

 出会い頭に主将から叱咤された火神は、困ったように口角だけを上げた。どうやら昨日、代表の練習に来なかったのは青峰だけでは無いようだ。火神大我は元々、精神的に落ちると自分の立場を投げ出してしまう性格だ。コイツが一番厄介になるのは、こうしてへこんだ時だった。

「お前何でこんな所居んの? 説教か?」

 スーツのポケットに手を突っ込みながら青峰が質問をすれば、火神は頭を横に振り答えた。

「……今リーグのMVPだってよ、オレが」

「そりゃお前、試合も途中に座り込まないようにだろ?」

 ヘラヘラと嫌味を言った青峰だったが、笠松から鳩尾に肘を入れられ「ヴッ……」と呻き前屈で萎れた。

 火神は眉を怒らせると『こんな受賞嬉しくねぇ』と言いたそうに地面を見つめ、頭を下げた。

「……明日は、必ず」

 火神は笠松にそう約束をして、二人の前から去ろうとした。

「火神!」

 青峰が名を呼べば、火神は初めて顔を上げる。大きく赤い瞳が感情の行き場を失い泳いでいた。

「期待されるプレッシャー、重いだろ?」

 鼻で笑った青峰は、堕ちないよう必死に踏ん張るエースへ有り難い御言葉を掛けてやった。

「――……そんなん、高校ン時から背負ってる」

 一度も笑う事無かった火神は、影を落としたまま二人に別れを告げる。笠松は意気消沈したエースに掛ける言葉もなく、ただ無言で見送った。主将としての不甲斐なさに己の拳を強く握る。

 エレベーターで目的の階に着いた笠松は、青峰へ選手権の確定事項を教えてやった。昨日の練習で全ての代表選手へは伝えてあるが、逃げた火神・青峰両名からしたら初耳だろう。

「初戦の相手が中国に決定した」

「最悪なカードじゃねぇか」

 その言葉とは裏腹に、青峰の顔はオモチャを与えられた子供のように嬉しそうだった。強い人間と戦い、己の実力を知るのが何より大好きな青峰にとって、謙遜無い相手のようだ。

「お前【紹豹孚】を知ってるか?」

 笠松がある中国人の名を口にすれば、青峰の表情から途端に笑みが消えた。

「あぁ、モノホンのMVPだろ?」

 まるでどこかの誰かを【偽物のMVP】だと言いたげな青峰は、昨シーズンのNBAを脳内でプレイバックした。

 ――紹豹孚(ショウ・ヒョウフ)。二十四歳。二年前からNBA一軍に在籍し、前季で遂にMVPを獲得した【アジアで敵無しの最強プレイヤー】である。身長は217cm。手足が常人より長く、身のこなしも洗練されている。自国では【千年に一人の逸材】と唱われるスター選手だ。更に彼女はスーパーモデルと云ったセレブリティ溢れる選手に嫉妬すら感じてしまう。

 そんな男の名がこの場で出たとなれば、嫌な予感しかしない。

「――代表入りしたそうだ」

「なら、火神があと三人は必要だな」

 予測が当たった青峰は、ウンザリした顔で冗談を告げた。別に火神を馬鹿にしている訳ではない。逆だ。それ程までに紹豹孚を『喰えない奴』だと評価している。

「…………抑えられると思うか?」

「火神と紫原で挟むしかねぇんじゃね?」

 まるで他人事な返事だが、的は得ている。オフェンス一人に二人付けるなんて出来れば避けたい事案だが、この場合は仕方が無い。相手は超一流プレイヤーだ。

 笠松は青峰大輝の洞察力を信じ、もう一つだけ似たような質問を投げた。

「……勝てると思うか? 紹に」

 鼻で溜め息を吐いた青峰は、肩を竦め質問へ対応してやる。

「残念だ。オレが代表入りしてりゃなぁ」

 その返事を聞いた笠松は、口角を上げて応接室の扉をノックした。





 自宅に帰った火神大我は、スーツの上着をリビングのソファーに投げてテレビの電源を入れた。更にコンポも付け、普段よりも音量を高くする。そうやって部屋を無駄に騒がしくした赤毛の男は、頭を抱えソファーに腰掛けた。冷房効かない部屋は蒸し暑く、うなじに汗が流れる。

 納得が行かない。何故自分がMVPなのか……。それは単なる謙遜なんかじゃない。純粋な憤りと疑問だった。

 考えられる理由はただひとつ。アジア選手権に向けた重圧だ。『次はヘマをするな』。――賞と共に押し付けられる期待と責任は、火神にとって過去最大の重荷となった。

 受賞の言葉はゴーストライターが代筆してくれる。他人の考えたメッセージなんて、どんな顔をして読めば良いか判らない。

 偽りのエースは
 偽りの賞を以て
 偽りの言葉を並べる。

 誰もが納得いかない事とは、本人が一番納得出来ないモノだ。茫然自失になった火神を傍で慰める人物は居ない。

 恋人が居れば、少しは気が紛れたのだろうか。――剥き出しの感情をぶつけられる相手も、今は居ない。寂しさに目を瞑った火神は、孤独と不安と緊張に吐き気すら覚えた。

 ギリギリな精神状態でふと頭に浮かんだのは、自身の誕生日に二人でケーキを食べた一人の少女だった。理由は単純で、男が最近交流を持った異性が、なまえと昨日ビンタされたデリヘル嬢の二人しか居ないからだ。

 あの忌々しいファイナルの日、彼女はいつの間にか隣に座っていた少年と姿を消していた。「チケットやったのにそりゃねぇよ」と思ったモノだが、今となってはそれで良い気がした。無様で情けない姿を観られなかっただけ良かった。

 八月二日。迎えに来た青峰を振り切り、自分を選んだ年下の女。あのまま助けが来なかったら強姦された筈なのに、次会った時は許す素振りを見せてくれた。単純に気が弱いのか、それとも懐が広いのか。――少女を確かめる術はもう無い。

 きっとアソコで無理に性癖を暴露しなかったら、今頃あの少女が隣に居てくれたのかもしれない。

 こんな名ばかりのMVP選手を「おめでとうございます!」と、……心から祝福してくれたのかもしれない。

 『歌え』と言えば、さして上手くも無い歌声を聞かせてくれたのかもしれない。

 ――『かもしれない』ばかりが頭に浮かぶ火神は、空想物語の中で祝福される"自分"があまりに恥ずかしそうで、思わず口元を緩ませた。