八月十一日。月曜日。天気、曇りのち雨。夏休みも半分が過ぎ、カウントはアップからダウンへと移る。そんな憂鬱な日に、なまえは親友と約束をした。デパート複合型の大きな駅で誰だか分からない程加工される写真シールを撮影し、ファミリーレストランで他愛ないお喋りをする。ごく普通の交遊だ。

「昨日、デートしたんでしょ? 佐久間君と」

 親友がすました声で質問をした。その言い方が大人びていて、なまえは恐縮した。

「映画観ただけだよ」

 ――嘘だ。本当は、帰り際にキスもした。唇触れるだけの優しいモノであったが、佐久間は耳まで真っ赤にして俯いてしまったのだった。

 普通なら彼氏と関係が進展して嬉しい筈なのに、その前にキスを交わした"彼"との思い出が上書きされて遠くに行ってしまうような気がしたなまえは、ただ切なかった。想えば想う程に頭から離れない。こうして気の合う友人と過ごしていても、心は【青峰大輝】に囚われている。

「……好きな人が出来たんだ、私」

 ポツリと口から漏れた言葉は、押し留めるには遅過ぎた。目の前のグラスに注いだオレンジジュースは汗を掻いていて、テーブルを濡らす。

「えぇ〜? ノロケはやめてよ、私彼氏居ないんだよぉ?」

 ニヤニヤした笑みを顔面に貼り付け、中学からの親友は頬に手を置いた。

「佐久間君じゃない……。もっと、年上の人」

 『この子には何でも言える……――』そう判断して、彼女は内に秘めた男への想いを告げた。しかし状況は彼女の意向を外れ、微笑んでいた親友は瞬く間に恐い顔を見せた。

「……二股って事?」

「二股とか……そんな……」

 暗い声を聞かされたなまえは、慌てて自己を弁論すのだが、親友からしたら【彼氏が居るのに他の男に手を出す人間】にしか見えない。勿論なまえの心情を抜きにして、一般論を述べればその通りなのだ。

「え? ……それで、佐久間君を選んだの? 向こう知ってんの?」

「……佐久間君には……好きな人居るって、言ってない」

 責められる言い方に、なまえの声が小さくなっていく。彼女はなぜ友人がこんなにも怒っているのか判らずに、ただオドオドするだけである。

「ズルくない!!?」

 親友は手のひらでテーブルを叩いた。食べ終えた食器が跳ね、騒がしい音で友人の怒りを伝えた。

「淳ちゃん……何で?」

 理由を知らなければ、解決は出来ない。早まる心臓と焼けるように痛む後頭部を抑え、なまえは問い質す。

「親友だから、黙ってたけど……なまえがそうなら、私だって好きな人と……佐久間君と付き合いたいんだけど!!」

 告げられた真実に真っ白になったなまえは僅かに化粧を施した目元を大きくした。「淳ちゃん」と呼ばれた少女が怒ったのは、"友人の彼氏"だと云う理由で諦めていた恋を無下に扱われた事だった。

 拳を握り、優柔不断ななまえを睨み付けた親友は鞄を掴み立ち上がる。そうして、踏みにじられた恋の為に中学からの付き合いを捨てようと決めた。

「モテモテごっこでもしてれば?」

「淳ちゃん!!」

 大きな声で親友の名を呼べば、軽蔑を含んだ眼差しで拒絶をされる。

「佐久間君、知らないんでしょ? 秤に掛けられてた事」

 財布から千円札と二人で撮影したシールを出しテーブルに投げた親友は、スマホに何かを打ち込みながらファミレスを後にする。背中から重厚なプレッシャーを醸し出しながら十五歳の少女は友人を置いて出ていった。残されたなまえは、捨てられたプリクラを眺める事しか出来なかった。光沢のある台紙に写った二人は仲が良くて楽しそうなのに、弄られた顔は紛い物で他人のようだった。





 電車を乗り継いで二時間弱。行き方は覚えた。カード型の電子マネーは、帰りの分さえ残っていない。なまえは、親友に置いていかれた駅から自宅に帰らずに何故か県外に向かう電車に乗った。そうして目的の駅に着いたのは夜も遅く、補導ギリギリの時間だった。

 ワイシャツに短いスカート。紺のハイソックスにローファー。腰には紺色のカーディガンを巻き、今日のなまえは誰から見ても現役女子高生だ。肩に担いだスクールバッグが重く、スマホは友人と別れてから一度も鳴らない。秘めた恋心を傷付けられた親友の根回しは素早く、彼女の友達リストは昼間と比べて三分の一以下になっている。自分の不甲斐無さに落ち込んだなまえは、急に新学期が怖くなった。出来れば一生夏休みなら良いのに……。

 一緒に食べた牛丼屋を過ぎ、レンタルショップの角を曲がり、コンビニの前を三分程歩けば目的の場所へと着く。

 その二階の奥から四番目が、彼の部屋。窓に明かりは無く、何度呼び出しても留守のようだ。連絡先も知らないなまえは、壁に凭れると力無く座り込んでしまう。均等に並んだ照明だけが建物を照らした。静かなその場所で、メッセージを受信したスマホが彼女を呼び出す。差出人は、よりにもよって佐久間だ。

【俺はなまえちゃんから別れたいって言われない限りは、別れるつもりは無いから】

 そのメッセージで『彼に全て伝わった』のだと知った。佐久間以外に好きな人が居る。二人を秤に掛けて佐久間を選んだのに、やっぱり違うと悩み始める。人として最低だ……。それなのに、事実を知っても彼氏はなまえを許すのだと言う。

 もし自分が青峰大輝にあの美女と秤に掛けられ、捨てられそうになったら――情けなく恨み妬み、気を狂わせるだろう。そう考えて初めて佐久間の懐の大きさを知った。

 体育座りで俯いていると、角の階段から男が姿を見せた。サンダルを引き摺りながら、逞しく日に焼けた足で自室を目指す。途中に俯き泣いている女子高生を尻目に、猫背の男は彼女のすぐ隣の玄関を開けた。

「――青峰さ……」

 名前を呼ぶ前にドアは閉まり、彼女が見たのは家主の丸まった背中だけだった。

 一言も声を掛けて貰えなかった。立ち止まって、コチラを気にする素振りさえ見せなかった。表札も無く、部屋番号のみ書かれた質素な玄関で、なまえは頭を殴られたような感覚に目眩を感じる。ココに来れば、きっと青峰は自分を迎えてくれると思っていた。なのに、現実は突き放されただけだった。当たり前だ、先に彼を拒否したのは自分だったのだ。傲りが身を滅ぼした。

 立ち上がって帰るのも億劫ななまえは、膝を抱えて玄関に再度踞る。自宅に帰れば家族が居て、彼女は部屋で一人泣くしか無い。それならココで泣いても同じだ。

 それでも上手く涙は出ない。現実を受け入れたくない脳が思考を冷静にする。頭と心がアベコベななまえは自分の身体を抱き、小さくなる事しか出来なかった。


 ………………


「…………何時まで居るんだよ、ソコ」

 数十分後――玄関から身を出した青峰は、迷惑そうな眼差しで踞る少女を眺めた。部屋の中からは深夜バラエティーの気だるい笑いが漏れていて、男が室内で寛いでいた事を示唆する。

「警察呼ぶぞ」

 冷たい声でそう言われて、始めて少女は身体を起こした。肩を垂らしフラフラと歩き始めた後ろ姿はまるで亡霊のようで、大袈裟に溜め息を履いた青峰は玄関に脱ぎ捨てていたサンダルを履き、角を曲がり姿を消した女を追う。

「クソアマ! どこ行くんだよ!」

 青峰は怒りに任せ階段を降り、道路さ迷う制服姿を追う。小さな背中に理不尽に湧いてくる苛立ちをぶつけながら、ようやく背後に追い付いた。

「……帰ります」

「電車なんかねぇよ、馬ァ鹿」

 時間は深夜に近い。こんな田舎駅は終電もさっき発ってしまった。高校生らしい考え無しな女の行動に、成人した男は更に憤る。

「……歩いてでも、帰ります」

 なまえは自分の事なんかどうでも良くなっていた。誘拐されても構わない。事故にあっても、強姦されても、全てなるようになれば良いと思っている。

 彼氏を裏切った結果、親友に見捨てられ、友人グループから外された。そして目の前の男にも邪険にされる。十六歳の少女の世界は小さくも"ソレ"が全てだ。"ソレ"以外に何も無い。

 彼女は秀でた才能も無ければ、頭脳も無い。広い交友関係も無い。全てを失ったなまえは自暴自棄になっていた。

「本ッ当、馬鹿じゃねぇの?」

 呆れたと言わんばかりに少女を見下ろした男は頭を掻き毟り「あぁ! クソッ!」と大声で悪態を付いた。そして少女の華奢な手首を掴むと、強引にもアパートの自室へと引き返した。

「一晩だけだぞ、朝には帰れ」

 その強引さが優しさとなって、なまえのボロボロな心に染みた。――何時もこうだ……。彼に迷惑ばかり掛けて、それでも大事にしてくれる"不器用な優しさ"に甘えてしまう。

 降りた階段をまた登り、男の背中を眺める。正直言うと、筋肉隆々な男性は恐い。あのゴツゴツして硬そうな質感は苦手だ。……でもソレが目の前の男のモノだったら、全てが愛しく思えた。『もっと細かったら良いのに……』なんて、彼を自分好みに仕立て上げる事も必要無い。

 ――特別だ。彼は、自分の中で"特別"になっている。幼い彼女はまだ気付かないが、その感情を人は【愛】と呼ぶ。

「……お前は、オレがAV借りると必ず来るんだな」

 広く大きな背中が少女に声を掛けた。顔は見えないけど、その台詞にトゲは無く、なまえを安心させた。強く握られた手首は、彼女を逃がさないと言わんばかりだった。

 部屋に入ると、ほんの数日間離れただけなのに懐かしい匂いがする。そこでなまえは初めて堪えていた涙を流した。友人の事、佐久間の事、青峰の事……。これからどうすれば良いのか、解決方法が判らない。苦しい、ツラい。

 声を漏らさないように涙を流せば、青峰の胸に引き寄せられ頭を抱え込まれる。身長差があり過ぎる二人は、こうしてスキンシップすら容易では無い。太ましい胸囲に腕を回し、なまえは声を上げた。大きな手で髪を優しく撫でられ、天辺に相手の唇が付く。

「……やっぱ馬鹿だな、お前」

 ――青峰はそう言って、腕の中の少女を更に強く抱き締めた。





「――お客さん! 怖い人呼びますよ!!」

 黒子がエレベーターから降りた瞬間、甲高い女性の声が廊下に響いた。このマンションに住む友人は、何度呼び出しても応答しなかった。仕方無しにオートロックのエントランスは、知らないサラリーマンの背後を付いて入館した。影の薄さが役立った黒子テツヤは、その修羅場が自身の目的地で起きていた事に驚く。

 すれ違った女性は美しいが見た目派手で、甘い残り香が過剰に放出されていた。やがて部屋から姿を見せた目的の人物は、半裸にジーンズと云う出で立ちで黒子を出迎えた。

「……お久し振りです、火神君」

 廊下を振り返った黒子が女性が走り去った方向を指差すと、火神はバツが悪そうに答えた。

「ほっとけ、デリヘルだ」

 火神は貰った華々しい名刺を床に弾いて捨てる。拾った名刺には、確かに性を匂わせる店の名前が記されていた。高校からの友人が、そんないかがわしいサービスを頼んだ事に驚いた黒子は、少しだけ目を開く。ジーンズを履いただけの火神の頬は赤く腫れていた。


 …………………


「代表の方はどうですか? 順調ですか?」

 リビングに通された黒子がリュックを下ろしながらそう聞けば、適当にワイシャツを羽織った火神は投げ遣りに答えた。

「……知ってんだろ? オレの評判」

 珍しく眉根を潜めた黒子は、先の試合で火神が取った"ある行為"が、誹謗中傷の的になっている事を知っている。

 彼がその場に座り込んだのは、試合終了二秒前だった。

 ――たった二秒で何が出来る? 残り時間も少なく己の不甲斐無さを知り絶望した火神を責めるのは、死人に鞭を打つ行為にも似ている。

 だが、ソレは身内目線の"甘い意見"でもある。火神大我は他でもない【チームのエース】だ。第一人者が諦めてしまえばチームは終わる。単純に言えば、火神はゲームを二秒早く終わらせてしまったのだ。その責任能力の無さで、他方からバッシングされている。

「叩かれてる。史上最低のエースだって……」

 やはり火神は、相当堪えているようだ。彼は自分に対して真面目だ。どんな意見でも、真っ正面から受け捉えてしまう。それが例え匿名性の高いネットの書き込みだとしても、例外では無い……――。そんな不器用な男を、黒子は慰めるつもりでココに来た。

「火神君の気持ち、分からなくは無いです」

「だから最悪なんだろ? プロがする事じゃねぇ」

 火神は国際試合でもある【アジア選手権】でエースの肩書きを背負っている。そんな中で信用を失った男は、苦い顔して俯き目元に影を落とす。

 普段は明朗な元相棒が試合も途中に絶望した背景には、確実に"あの男"が潜んでいる。そう確信した黒子は、その男の名を口にした。

「――青峰君は、天才だ」

 黒子は、自室で観戦していた試合を思い出す。狭いテレビの中でも、男の存在感は圧倒的だった。パワー、テクニック、それに併せて魅せ方も全て知り尽くしている。青峰は無意識下であったとしても、シュートのタイミング、モーション、ポジショニング全てが完璧で、カメラは最も美しい角度でその選手を捕らえる。それこそが、青峰が多額の契約金を動かす真の理由である。

「お陰でオレは、息が詰まりそうだ」

 火神がポソリと呟く。

 【国内最強のエース】が退けば、自分が輝けるチャンスだと思っていた。――でも、そうじゃなかった。付き纏うのは青峰大輝の影だ。比べられ、届かなければ誹謗中傷される。そうやって期待を背負った男達は、観衆の声へ応えられなければ手のひらを返される。

 二人はまるでシーソーだ。片方が浮上すれば、片方が沈む。出会った時から互いをライバル視する二人は、そうやって絶妙なバランスで切磋琢磨し合う。今は火神が沈む番のようだ。早急に重い枷を捨て、地面を蹴り上げて浮上しなくてはいけない。

 青峰に奪われたエースの座は、己で奪い返すしか無い。相手が怪物になってしまったのなら、怪物狩りをしなくてはいけない。

「応援しています。火神君」

「…………あぁ、サンキュー」

 黒子テツヤの言葉に嫌味は無い。本心だろう。彼は火神大我が結果を残せなくても、無下に叩いたりはしない。

 優しいんだ……、黒子はいつもオレの理解者で居る。

「デリヘル返して正解だったな」

 笑いながら腫れた頬を擦り立ち上がった火神は、キッチンに向かい酒瓶を取り出した。ウイスキーに炭酸水、ロックアイスにグラスを二つ。酒の苦手な黒子は躊躇するのだが、強引に押し切られアルコールを口にした。

「……オレがどうにかしなきゃいけねぇんだろうな」

 洋酒を一気に煽った火神は、アルコールが体内に吸収されるのを感じながら、そう漏らした。向かい合った黒子は困ったようにはにかみながら、空になった男のグラスにウイスキーを注ぐ。

「自分の事を本当に解決出来るのは、自分しか居ないんですよ? 火神君?」

 ――瓶をテーブルに置いた黒子は、ふと思い出したように火神にある質問をした。質疑を投げられた火神は、口を曲げ恥ずかしそうに応答するのだった。

「そう言えば、火神君。さっきの方に何故怒られてたんですか?」

「……うっせぇよ。――"本番"しようとしたんだよ」