誰も居ない教室に予鈴が鳴り響く。スピーカーから発せられる電子音は騒がしく、ブレザーに身を包み学習机に突っ伏していた青峰は、自身の腕の中で教室に誰かが入って来たのを聞いた。

「あの、青峰さん……!」

 モノクロの少女が均等に並んだ机の迷路をジグザグに通り、最後列へとやって来る。全ての机中とロッカーは空っぽ、黒板には何も記されていない。廊下だって誰も通らない。二人きりの学校。全てがモノクロ。

「おめでとうございます。青峰さんは、凄い方だったんですね。知らなかったです」

 少女は青峰の前の席へと腰掛ける。何故だか分からないが、キスをしたくなった。誰も居ない筈なのに、誰かが見ているような気がする。でも結局、周りに誰も居ない事が判っている。

 彼の心中を悟ったかのように、色の無い少女が目を瞑り顔を寄せてきた。そんな大胆な姿を初めて見た青峰は、少しだけ嬉しくなる。手を伸ばし、髪に触れると感触が無い。でも、視界の中では触れている。

 リアリティーが無いその世界は、目を閉じ暗転すると同時に終了した。

 ――再び目を開けると、ソコは何時もの自室だった。カーテンの隙間から朝日が差し込み、部屋を照らす。色のある世界に戻ってきた青峰は、枕に顔を埋めた。

「……夢じゃねぇか」

 掠れた声で呟いた男は、ソレが久方振りに見たモノである事に気付かない。今日もベッドは広く感じ、背中に誰かの気配が無い事が寂しく思えた。

 ストレッチもせず横になり中途半端に睡眠を貪った身体は、ブリキ玩具になったかのようにギシギシする。青峰は倦怠感に負けそうな身体を起こし着ていたTシャツを脱ぐと、そのまま浴室へ足を運んだ。

 ……………………

 八月十日。日曜日。早朝六時にも関わらず、一人の男がマンションの正面玄関で、"ある室号"の呼び鈴を連打している。リンリンリンリンと何度も押せば、インターホンの向こうから不機嫌そうな声がした。

『……んだよ、朝っぱらから』

「遅ェんだよ、火神」

 機械越しに溜め息が聞こえ、家主は寝惚けた声を続ける。

『六時だぞ。……っざけんな』

 火神は入室を許可したらしく、玄関のドアが自動で開いた。朝日が昇る時間にシャワーを浴び始発の電車でここまで足を運んだ青峰は、遠慮も無く真っ直ぐにエレベーターへと向かった。

「……青峰ェ。あんな負かし方しといてよく来れるよな?」

 嫌味で出迎えてくれた火神は、過去最高に不細工だった。泣き腫らした目元、反省会で酒を浴びるように呑み浮腫んだ顔。さっき寝たばかりだと言うのに叩き起こされ、目も満足に開かない。そしてボサボサな髪にTシャツとボクサーパンツ姿。おまけに男の身体はアルコール臭く、体臭と汗の臭いも混ぜていた。その仄かな異臭に、青峰は顔をしかめる。

「火神お前、こないだ女子高生を送ってっただろ」

 挨拶も無しに、青峰がそう問い質す。欠伸を隠しもしない火神は、大きく口を開け「ふあぁ〜……」と間抜けな声を出した。口をムニャムニャさせながら、シャツの中に手を突っ込み腹部を掻いた赤毛の男が喋る。

「――あぁ、あのパイパン姫がどうした?」

 火神は悪びれも無く女子高生の身体的特徴を告げる。下着の内に陰毛の剃られた後が見えたのは、衝撃的であった。

「剃ったのは、オレじゃねぇからな?」

「何で剃ったって事、知ってんだよ」

 火神が腫れぼったい目蓋の下から青峰を見れば、男は目元をパチパチ瞬かせ明らかに動揺した。『手入れ跡があった』とは言っていないのに、妙な解答である。余計な一言でバツが悪くなってしまった青峰は、早速にも本題へと入る。

「場所を教えろ」

 火神が理由を尋ねる前に、青峰は「忘れ物してったんだよ、あのバカ女……」と口籠りながら話す。玄関に凭れた火神は、肩を浮かし首を振った。

「駅までしか連れてってねぇよ。ソコの名前も忘れた」

「使えねェ……」

 舌打ちして文句を垂れる青峰の傍若無人振りは昔から変わらない。慣れている火神は、今度は頭の後ろを掻きながら少女を送った日の事を思い出す。

「……ナビに駅名が残ってんな」

 その呟きを聞いた青峰は、迷う事無くその場から離れようとした。

「先に行ってるぜ、駐車場」

 急ぐ様子を見ると、恐らく青峰は駅名を知ったら真っ直ぐ現地へ向かうのだろう。その後どうするのかは知らないが、手ぶらな所を見る限り忘れ物を届けるつもりは無さそうだ。超が付く程判りやすい男は、超が付く程素直じゃない。

「オイ! 青峰!」

 火神は廊下に響く程のダミ声で、偽りだらけの背中を呼び止めた。そうして振り向いた青峰に、親切心からある事を教えてやる。

「……今日、日曜日だぜ?」

 ……………………

 ――駐車場へ向かう為に一度部屋に引っ込んだ火神は、着ていたシャツを脱ぎながら寝惚け半分の頭で考え事を始めた。

 青峰が『何故あの女子高生に会うのか』、鈍感な火神にも理由は想像出来る。でも、その次の『何故あの女子高生を気に掛けるのか』が判らない。

 きっと判らなくて当然だ。本人に聞いたって『気になるとか、そんなんじゃねぇよ』と答えるに違いない。

 青峰大輝は感情が行動に直結しやすい。だからこそ、自分へ"偽り"を擦り込み続けている。『違う。そうじゃない。そんなんじゃない』――この言葉は、誰かに言い聞かせているのでは無い。自分自身へ、言い聞かせているのだ。

 そうやっていつも目眩ましの予防線を張り、少しでも自身が傷付かないようにする。それがあの男の本質だ。

 ――だからアイツは幸せになれないんだ。

 保身する振りをして逃げてばかりいる"その男"は、自分で自分の首を絞めているのに気付かない。傷付く事に真面目な男は、その先にある幸せからも逃げてしまう。きっと【不幸の向こうに幸せがある】と、永遠に気付かないまま生きていくのだろう。

 着替えを終えた火神は、アルコール抜けない身体で車の鍵を手に取る。自分は目的地を教えてやる事しか出来ない。その先は、彼自身でどうにかして貰うしかない……――。





 その少女は自室の鏡の前で学校指定の制服に身を包み、髪型に悩んでいた。雑誌をひっくり返して一番可愛く見えるアレンジを探すのだが、闇雲に時間だけが過ぎていた。頼みの姉も現在は職場。母親には恥ずかしくて頼めずに「あぁー!! もう!!」と自棄になる。

 ベッドに横たわると、スマートフォンの着信ランプが瞬いていた。昨晩マナーモードにしてからそれっきりで、画面にはメッセージが写し出されている。タップして詳細を見ると、グループラインがやたらと賑わいを見せていた。

【怖くない?】
【行ってみたら〜?】
【自販機より背高いとかヤバくね?】
【さっき警察に連れてかれたらしいよ!笑】

 友人達はある不振人物についてチャットしていたようだが、その流れは一時間以上前に終了していた。今は来週開催される花火大会の話題に専ら夢中だ。

【変な人居たの?】

 なまえが話題を掘り起こせば、数名の友人が『遅いよ』と返信し、会話に混ざらなかった事を批難した。それも過ぎれば、また不審者についての会話が始まる。

【なまえちゃん、H駅だっけ?気を付けてね。まだ居るかも】
【サキのTwitter見た?】
【さっき写真消してたよ】

 夏休み真っ只中の日中。目まぐるしくメッセージが受信される。共通の友人が不審者の写真をSNSにアップロードしたらしい。話を聞くと、現在不審者はパトカーで警察署へ向かったらしい。しかし、H駅は佐久間と待ち合わせている最寄り駅だ。何で今日に限って……と、不安が過る。

【サキが晒してた写真だよ】

 友人の一人が画像をメッセージラインに載せてくれた。サムネイルではよく見えないのだが、野外で撮影されたその写真には、左側に自販機が見えた。その前に恐ろしく背の高い人物が写っている。

 その目深にキャップを被った男は、Tシャツから褐色肌の逞しい腕を晒していた。その肌にも、男が着ている衣服にも見覚えがある。

 写真を見た瞬間から、彼女は全ての行動を早めた。荷物をスクールバッグにまとめ時計を見ると、時刻は午後二時を少し超えていた。

【男子が言ってた。スポーツ選手だって】
【まだ居るかな?】
【今はもう居ないってさ。警察署じゃない?笑】
【居たら面白いのにね】

 髪を纏めるのも忘れたなまえが駅へ向かって走り出した頃には、チャットはまた違う話題へと移っていった。


 ……………………


 息を切らし駅に着けば、電車までしばらく時間があるのか、待っている人間は居ない。閑散としたタクシープールに、一台だけ車が停まっている。それ以外は蝉の鳴き声しか聞こえない、いつもの光景だった。

 何故自分がここまで走って来たのか分からない。湿度の高い空気に身体が汗ばんだ。どちらにせよ佐久間と約束した時間まであと少しのなまえは、この場で待つ事にした。野外にある公衆トイレで身なりをチェックしようと足を踏み出せば、前方から声を掛けられる。

「――来んの遅ェんだよ」

 その声は男性のモノだった。低く、乱暴で、愛想の欠片も無い。声帯の主を顔が浮かんで、思わず泣きそうになった。

 ――あぁ……彼に会いたかったから、私は走ってココまで来たんだ。それだけは、素直に認めよう。

 なまえが顔を上げれば、写真で見たキャップの下に不機嫌そうな顔があった。その顔はあの小さなワンルームで何度も見た顔だ。昨夜の大きなアリーナで見た顔じゃない。

「お前がトロットロしてっから、オレは職質だぞ」

 開口一番に文句を言い出した【青峰大輝】は、ついさっき警察署から解放された。パトカーに押し込められた屈辱は、きっと一生忘れないだろう。火神にバレたら一日中笑われるに違いない。署の刑事が今朝のスポーツ新聞を持っていなかったら、職質の時間も延びていた筈だ。自身の知名度の無さにショックも受けた。

「……何で居るの?」

 なまえの口からは、挨拶より先に疑問が飛び出た。男は電車を乗り継ぎ二時間は掛かる土地に住んでいるのだ。友人達の会話を見る限り昼前から居るようだが、朝早くに発たなければあの時間に彼は居ない。

 ――じゃあ、何でそんな時間からココに居るの?

 その口に出さない質問に、キャップを脱ぎ青い髪を掻いた褐色肌の男が答える。

「迎えに来たんだよ。マスコミも、もういねぇし」

 簡潔な答えは素っ気なく、口調も冷たかった。だけどなまえの気持ちを、簡単に弄ぶ。釣られないように必死で堪える少女は、昨日感じた惨めな想いを思い出した。

「………今日は、約束あるので」

 俯き、相手の足元を見ながらなまえは誘いを断る。青峰のジーンズからは黒いスニーカーが見えた。履き古したボロボロの靴。まるで近場のスーパーへ買い物に行くような格好だった。

「デートか、リア充は羨ましいな。オレもオンナと遊ぶかな?」

 その台詞になまえの胸が妬ける。他の女が隣に立っているなんて、嫌だ。あのベッドは自分と彼の場所なのだ。肩に掛けた鞄の紐を握り、『駄目だ、嫌だ』と云う台詞が口から出ないように押し込める。

「……オレが迎えに来ると、いつも嫌がるな。お前は」

 キャップをベルトに掛け、青峰は目の前の女を睨む。

「…………ごめんなさい」

 小さく息を吐き、小銭を入れた小さなケースをポケットから出した青峰は、近くにあった自販機へ硬貨を入れた。

「ジュース、奢ってやる。好きなの選べ」

 自販機より背の高い青峰は、なまえへジュースを選ぶように指示を出す。喉が渇いていない少女は、その奢りに対して首を振り遠慮をした。

「大丈夫です。……彼氏が来るので、失礼します」

「じゃあ二本買ってやるから、選べよ」

 しぶしぶと自販機の前に立ち、ランプの付いたボタンに迷う。男が何を考えているのかサッパリ分からないなまえは、緊張の元ジュースを押した。

 脛の方から落下音が聞こえたと同時に、自分のすぐ横に逞しい腕が伸びて両側を囲った。筋肉質な男は大きな身体と大きな自販機の間に小さな女を閉じ込める。

「……もう一本選んだらコッチ向け」

 低い声が頭上から聞こえた。背中越しに感じる威圧感が、振り向きたい気持ちを邪魔する。右側にある投入口へお金を入れる褐色肌の指先は、投入完了と同時に柵となり、またなまえの逃げ場を無くす。

 数分間何も選ばずに固まっていれば、ランプが消えて小銭が落ちる。時間切れだ。それと同時に、微動だにしなかった背後の男が行動を開始した。

「……何で昨日、途中で居なくなったんだ?」

 臀部を後方へ突き出し腰を落とした青峰は、厳つい顔を相手のすぐ横に持ってくると、囁くように質問をする。

「知ら、ない」

「あの彼氏とよろしくヤッてたのか?」

 そうやって甘い声で性を匂わせる質問を投げ、耳から思考を蹂躙する。

「か……関係無い、です。青峰さんには」

「こっち見ろよ」

 青峰はなまえの肩を掴み、強引に後ろを向かせる。男の力に敵わない女子高生は、抵抗するより先に身体の向きをひっくり返された。なまえは、跳ねた肩を怒らせたままに硬直する。

「何で途中で帰ったんだ? 熱気に負けたか?」

 青峰はまるで少女の唇を狙うかのように顔をギリギリまで近付け、相手を威圧する。弱さを見せたく無い男は、ソレが一種の癖になっていた。至近距離で顔を覗き込めば、向こうはプレッシャーに負ける。小狡い手だとは、決して思っていないようだ。まやかしに似た恐怖で支配し、青峰大輝は己の立場を持ち上げようとする。

「…………嫌だったからです」

 顔ごと視線を逸らしたなまえが静かに口を開く。昨夜の光景と感情を思い出してしまった少女は、泣きたくなるのを堪える。

「だって! あんなの見せられたら……!」

 熱狂的な声援の中心。全てを壊し、吸収する。

 たった数モーションで、何千人と云う人間を魅了する。

 それが目の前に居る男なのだ。何の魅力も無い自分が、隣に居て良い人間じゃない。支えてやるなんて、只の傲慢にしかならない。

「見たくなかった!! バスケしてる青峰さんなんか……、見たくなかった……」

「何でだよ」

 唸るような声でなまえへと問う青峰は、内心ショックを受けていた。バスケをしている自分が嫌いだなんて、初めて言われたのだ。彼には"ソレ"しか無いのに、逆に少女は"ソレ"を批難した。

 幼い少女の単純な"嫉妬に似た感情"は、二人の間に亀裂を作った。

「私…………なんで、青峰さんの事好きになったか、分かんない……。恥ずかしくて、青峰さんに恋するのが恥ずかしいんです!」

「……意味分かんねぇ」

 ホームへ電車が滑り込んだらしい。下車した数名が駅からコチラへやって来る。自販機の前で向かい合う青峰となまえは、端から見たら恋人が公然で愛を育んでいるようにしか見えない。全員が二人から目を剃らし、また苦々しい顔をして通り過ぎて行く。

「――だから、もう部屋には行かない。……好きになったら、入れないんでしょ?」

 女の真っ直ぐな目が男を貫いた。男がその潤んだ瞳を可愛いと思ってしまったのは、これが初めてだ。手に入らないと知ったからこそ、尊くて美しい。唇を近付けても、今度は逆方向に顔を背けられた。

「――冷蔵庫のサラダ」

「え?」

 青峰がそう呟けば、意図が見えない少女はまた男と視線を合わせる。近い顔がより近付き、二人の唇は重なった。少女が羞恥から抵抗もせず目を閉じれば、まるでなまえからキスを求めているようだった。

「……腐ってたから捨てた」

 数秒間合わせていた唇を離し、男は低く甘い声でそう告げた。息遣いが感じられる程に近い距離での囁きは、彼女の心へ掴み掛かる。

 泣きそうな顔を真っ赤にさせたなまえは、また俯き肩に掛けた鞄の紐を強く握った。ゴミ箱から覗く端の茶色いレタス。その小さな手で千切ったのだろう。きっと、家主の帰りを待ちわびながら。

「じゃあな。――……なまえ」

 自販機の前から少女を解放した青峰は、ポケットに手を突っ込み歩き出した。途中のプールでタクシーを捕まえ乗り込む男を、少女は自販機の前から見送る。

 それは、初めて彼が言ってくれた別れの言葉だった。

 それは、初めて彼が呼んでくれた自分の名前だった。

 どんな意図があって名を呼んだのか、彼女には検討も付かない。でも、頭に残るのはあの日ホテルで男が発した言葉だけだった。


 ――お前に惚れたら、その時は呼んでやるよ――


「どちらまで?」

 乗り込んだタクシーの運転席から陽気な声が聞こえた。自販機とは反対方向を向いた乗客は、頬杖付いて行き先を告げる。

「……ココから、一番近い駅」

 駅前で客を捕まえたドライバーは「はぁ?」と、すっとんきょうな声を出した。不可思議なオーダーではあったが、年配の男性はメーターを起動させ、車体を隣駅までゆっくり動かした。


 ――……全て滅茶滅茶になれば良い。オレが不要になったなら、せめて傷痕を残したかった。

 名前を呼んだのも気紛れだ。あの場で名を呼べば、アイツはきっとオレを忘れない、絶対忘れない。――忘れさせるものか。人の夢に出てきた罰だと、男は少女へ残酷な制裁を与えた。

 青峰は、浴室に置き去りにしたシャンプーボトルを『帰ったら直ぐにでも捨てよう』と決めた。だって、あの浴室にはもう必要なさそうだから……――。


  Under
  the
  pressure


 ――佐久間は確かに見てしまった。彼女のスマホへ到着のメッセージを入れてすぐの事だった。

 この駅へ青峰大輝が居た事は知っている。友人がSNSで騒いでいたからだ。会えたら嬉しいと思っていた。……三十秒前までは。

 背中に汗が流れたのは、気温が高いせいだ。そうに違いない。

 動揺する十五歳の少年は、自分の彼女と、昨夜コートで爆発的才能を魅せた天才プレイヤーが何故口付けを交わしたのか分からない。――……思考が追い付かずに居る。

 やがて強張る顔に無理矢理笑みを貼り付けた少年は、彼女の元へと歩み出した。