負けると言われて「ハイ、そうですか」なんて言うプロプレイヤーは居ない。例に漏れず【火神大我】もそうだ。青峰の挑発に目付きが変わる。

「他に何があるっつうんだよ?」

 真顔さえ通り越す真剣な表情に、青峰は「そんなのも判らねぇのか……?」と火神を馬鹿にする。

 余裕と本気の対照に立つ二人は、ホイッスルと共にオフェンスとディフェンスに分かれた。

 その男、火神大我は野心が高い。馬鹿にされたら見返す為に闘志を燃やす。火神の動きが変わったのは、それから直ぐの事だ。

 赤毛の男は誰よりも高い打点でボールを掴み、相手の腕すら吹っ飛ばす勢いでゴールへと叩き込む。リングに向かって振り下ろすシューティングスタイルはド派手で大胆不敵、且つ躍動感に溢れる。そのプレイスタイルは、学生時代から培ってきた彼の集大成だ。

 喉から声を振り絞るように吼えた赤毛の男は、自身がエースである事をアピールする。

 エースはオレだ。

 失った流れは、オレが引き戻す。
 失った点は、オレが取り返す。
 失ったモチベーションは、オレが持ち上げる。

 ――勝つのは、オレだ。


 得点差が十一点に開く。エースがもたらしたこの二点は大きい。落胆していた贔屓の観客も、声援で火神を讃えた。

 ――しかし、状況は僅か二十秒後にまた一転する。仕掛けたのは青峰大輝で、彼は安達が零したシュートをフォローしゴールに叩き込んだ。火神と同じ場所から、同じシューティングスタイルで――。黄色い声援を背負い、振り向いた男は火神に向かって口角を上げた。

「糞野郎ォォォ!!!」

 火神は汗を撒き散らしながら咆哮した。一進一退の攻防戦を開始した両チームは、湿度の高い不快な暑ささえ忘れさせてくれた。

 …………

 点差が六点に縮まった時、一人の少女が用意して貰った特等席から立ち上がりフラフラと姿を消した。隣に座っていた佐久間は試合の行方も気になるが、とりあえずは二人分の荷物を抱えなまえの後を追った。トイレだと恥ずかしいので少し離れた場所から声を掛けるタイミングを図るのだが、彼女がエントランスを抜け外に出た瞬間に足を早めた。

「なまえちゃん……大丈夫?」

 暗闇の中を追い掛ける。足元に水溜まりは広がるが、予報の通り雨は止んでいた。傘を座席に忘れた少年はホッとしながら振り向いた少女の顔を覗いた。そして頬に涙の痕が見え、驚きを声に出した。

「泣いてたの!?」

「……ごめんね? 大丈夫だから……戻って良いよ? 具合悪くなっただけだから」

 ソッポを向いた少女の顔を、窓から漏れる光だけが照らした。彼女の表情が切なそうで、佐久間は自分の顔まで哀しそうになる。

 二人が佇む体育館の出入口付近にはマスコミ関係しか居ない。それすら今は、ヒーローインタビューに向け忙しそうにしている。何千人が熱狂するアリーナから数枚の壁を隔て、たった二人だけの場所に身を置いた恋人同士は、世界に取り残されたようにも見える。

「――なら帰ろうか、俺はもう充分楽しんだし」

 鞄を差し出し、佐久間はそう提案した。アスファルトから雨の香りがして、少しだけ冷やされた外気が身体を包む。彼女の笑顔が見れるのならそれで良い。試合結果なんか、調べれば直ぐに出る。結局、間近でプロの世界に触れても平凡な彼とはレベルが違い過ぎる。友人に自慢する事しか出来ない。

「ごめんなさい、私……」

 少女は小さく狼狽えた。未だに目線は合わせてくれない。何故泣いていたのかも教えてくれない。

「俺はさ、なまえちゃんと観たいんだよ。一緒に、過ごしたいだけなんだ」

 多分、彼女を安心させるにはこの台詞が一番だろう。飾り気の無い本心は、言葉にしたら少女漫画のようだった。

「……あ。チケット貰っといて、失礼かな?」

 キザな台詞を吐いてしまった気がして、慌ててフォローする。イチ高校生の彼は、ここから夜景の綺麗なフレンチに誘う事も出来ない。この時間なら、せいぜい家に送る程度が関の山だ。だから少年は、自分が出来る最大限の提案をした。今日が遅くて駄目なら、予定を明日に持ち越せば良いのだ。

「明日出掛けようか。部活終わったら駅まで迎えに……――」

 佐久間が言葉に詰まったのは、少女が胸に飛び込んで来たからだ。首筋に髪の毛が当たる。フワフワした頭を軽く撫でると、衣服を強く掴まれるのを感じた。鼻を啜り、涙を流し続ける彼女が何を考えているかは聞かないでおこう。佐久間は、頼られている事がただ嬉しかった。久々に自分を必要とされているのだ。

 頭から手を離し、飛び出しそうな心臓を押さえなまえの背中に両手を回した。力を込めて抱き締めても、嫌がらない事に本能が暴発しそうになる。甘い香りがより強くなった気がして、彼女の華奢具合に驚いた。





 アリーナは未だに爆発的な盛り上がりを見せる。――試合も佳境に入り、状況はすっかり変わってしまっていた。たった一人の活躍で、敗者が勝者になり、勝者が敗者になった。

 何度叫んだか分からない。無我夢中を超えた火神は情けなさも関係無しに、高く跳んだ男に向かって声を張り上げる。

「やめろォォォォォォ!!!」

 青峰は、火神の"集大成"を最後の得点に使用する。左手で、左方向から……――。誰よりも高く飛翔した褐色肌の男は、ディフェンスの二枚壁を越し、左に持ったボールをリングの上から投げるように叩き込んだ。ネットが揺れた瞬間、火神は敗北感に目の前が真っ白になった。

 左手で得意技を盗まれた……。そんなの、超えられないじゃないか。オレは、このまま一生青峰を超えられないのだろうか……?

 客席の様々な声を頭上に受け、まるで世界そのものが終わった火神は、その場に崩れた。膝を付き、呆然と座り込む。

 残り時間は二秒。いつの間にか逆転していた点差は四点……。エースが自暴自棄を起こしたチームは、ブザーと同時にボールを投げるのだが、健闘虚しくボードがソレを弾き返した。

 火神の耳には何の音も届かない。火神の目には何の光景も映らない。口を半開きにした男が理解出来たのは、【敗北】と云う事実だけだ。

 割れんばかりの拍手が、会場に降り注いだ。興奮収まらない客は、スタンディングオーベーションで選手達を讃えた。その爆発した歓声は、クラッカーを鳴らしたお誕生会にも似ている。

 ――きっと誕生会なのだ。国内最大級のエースが今日、生まれ変わったのだから……。

 一人では立ち上がれずにチームメイトに両肩を担がれ整列した火神は、意気と視線を落としたままに終了の挨拶をした。

 こうして、今シーズンが幕を閉じた。哀愁は漂うが、数ヶ月後にはまた別のシーズンが待ち構えている。更にこのコートに立つ数名は、何週間後にはアジア選手権が控えている。感傷に浸っている余裕は無いのに、火神は涙を堪える事が出来なかった。

 大粒の汗もそのままに、悔し涙を流す火神へ声を掛ける者は居ない。全員が燃え尽きたのだ。ベンチに並べられたパイプ椅子に、ガツンガツンと乱暴な音を立てながら選手が座っていく。溜め息を付く者、頭を抱える者、タオルで顔を隠し項垂れる者。敗北はプロでも辛い。相手チームの引き立て役にしかなれなかった自分達を悔やむ。

 ベンチを立てば、マスコミがマイクとカメラを構え待ち構えている。サッサと泣き止んでコメントを考えなくてはいけないのに、火神の涙腺は言う事を聞いてくれない。肩を叩かれた赤毛の男は、グシャグシャの顔を整えず振り向く。

「……泣くなよ、タイガ」

 そこに居たのは氷室だった。彼は試合も途中に座り込んでしまった火神を責めたりしない。何時だって、幼いままの彼の味方で居てくれる。

「タツヤ……オレ、もう駄目だ。……諦めぢまっだ! 残り時間あっだどに!!」

 鼻が詰まり上手く喋れない。惨めで、格好悪くて、醜い。鏡を見ればソコに映るのは、絵に描いたような【敗者】だろう。そんな子供のようなエースの頭を優しく叩いた氷室は、火神へ語り掛ける。

「それでも、タイガはエースだ」

 悔しいなら、巻き返せよ。チャンスはまだあるだろ? お前は他の誰よりも、負けた分だけ強くなれる人間だ。

 兄貴のように慕い、幼い頃から見てきた氷室の瞳は、男をそう勇気付けた。





 敗北に泣き崩れる人間が居れば、勝利に感動も何も感じない人間も居る。ソイツは自身を囲むマイクも全て無視し、裏方へと引っ込んだ。

 語る事は無い。全てプレイで出せば良い。インタビューなんて欺きは捨てて、結果だけ残すのがその男のプライドだ。

 静かな通路を独り歩けば、控え室の前に男が立っていた。黒い短髪に太い眉毛、意思の強そうな大きな瞳が選手を褒める。

「優勝おめでとう、青峰」

「……邪魔だ、退け」

 肩に掛けただけのチームジャージを落ちぬように掴み、青峰は来訪者を睨む。祝言の返しにしては冷たい態度だが、両腕を組み壁に凭れる黒髪の男は怯む事無く用件を伝える。

「来週月曜日。朝イチで協会に来い」

「その日は予定が立て込んでる」

 命令に背いた青峰は、威嚇するように男から目を離さない。その男――【笠松幸男】は背を伸ばし、青峰の方へ自ら歩み寄る。

「……オレはお前が欲しい」

「オイオイ。"控え選手"で居るだろ?」

 その場で立ち尽くし一歩も動かない青峰は、笠松に呆れた口調で"事実"を教えてやった。数歩の所まで来た笠松は、よく通る声で怒鳴った。

「それで良いのか!?」

「都合良いよなァ!! お前らは! 本ッ当に!!」

 廊下に響いた笠松の声を掻き消すように、青峰もまた怒鳴り返した。今度は青峰から男へ歩み寄る。すぐ目の前まで近付くと首を曲げ、顔を近付ける。そして地を這うような低い声で言葉を吐き捨て、笠松を脅した。

「……"堕ちたエース"だ、オレは」

 それでも笠松は一向に怯まない。後退りもしなければ視線を背けたりもしない。ただ真っ直ぐ、青峰を見据え続けた。

「土下座位なら、いくらでもしてやる。言う事を聞け、青峰」

「――プライドねぇのかよ」

 先に視線を逸らしたのは青峰で、右手で思い切りに笠松を突き飛ばす。よろめいた男は、歩みを始めた青峰の背中に決意を飛ばした。

「お前を手に入れられるなら、オレは何でもする!!」

 足を止め横目で笠松を視界に入れた青峰は、下らなそうな口調に戻す。

「熱血ごっこにオレを巻き込むな」

「世界に通用するのはお前しか居ねぇんだよ!!」

 その言葉は、キャプテンが発して良いモノでは無い。笠松は、それでも青峰へ懇願を続ける。一緒にプレイして欲しい。同じユニフォームを着て、今日のように圧倒的センスと技術でチームを構築して欲しい。

 どんな状態でも流れに呑まれず、ゲームの状況や空気を好転する。そんなの出来るのは、国内ではこの男しか居ない。

 だが、青峰も頑固な男だ。一度自分を見放した協会への恨みは深い。

「温存しろって言われたんだよ!! 肩を壊したオレは必要ねぇって事だろ!!?」

 ジャージを握る手に力が籠る。【控え選手】と言い渡され、屈辱を味わい叫んだ事を思い出す。

「だから! 悔しいから! 左でプレイしてやったんだよ!! ざまぁみろ!! オレを捨てたのはお前らだ!!」

 唾を飛ばし、憎しみを笠松にぶつける。八つ当たりでしか無い事に青峰は気付かない。だって、彼からしたら笠松幸男だって自分を蹴落として代表に選ばれた一人だ。

 火神大我だってそうだ。同じチームに居る安達と町田もだ。憎い。憎い、憎い憎い憎い憎い。――だから、今日全てを叩き潰してやったんだ。"左手"と云う突破口を、アイツら全員に見せ付けてやった。

「……力を貸してくれ、青峰」

 静寂が再度訪れた。青峰は最後に"ある質問"を投げた。努めて感情を抑え込み、薄い唇を開く。

「――もしオレが今日負けてたら、テメェは来たのか? ココに」

「あぁ、来てた」

 疑う隙も無い程に簡潔なその返事を、青峰は笑い飛ばした。目の前のイイコちゃんは、気持ちが良い程に真っ直ぐだった。

「……さぁ? どうだか」

 そうとだけ言い残し、"両利き"と云う新たな武器を手に入れ生まれ変わった【スーパーエース】は控え室に姿を消してしまった。

 あとは神に祈るしかない笠松幸男は、控え室の前で踵を返した。歩き出した男の顔は真剣そのもので、高校時代から何も変わらない。





 ――八月九日。深夜。青峰は玄関入ってすぐにある明かりを付け、数日振りに自宅アパートへと戻った。黒子テツヤに練習内容を聞いてからはずっとチーム保有の施設で寝泊まりし、一日中ボールに触っていた。

 左手を使いこなすには人の倍練習しなくてはいけない。何十時間も左でプレイし続けた。ご飯も、ドリブル付きながら片手で食す程に徹底した努力を見せていた。

 そんな数日を過ごせば、気を抜いた瞬間に疲弊が身体にのし掛かる。重い足を引き摺り冷蔵庫を開けると、中央に見慣れぬボウルが鎮座していた。

「……サラダ?」

 ラップを捲り匂いを嗅げば、僅かに突いた腐敗臭に顔を離し、苦い表情を作った。

「何だよコレ!」

 思い出したのは、居候させていたあの女子高生だった。どうやら青峰は、少女が発ったあの日から一度も冷蔵庫を開けなかったようだ。

「……作ったんなら、言えよ。マジで」

 腰で冷蔵庫のドアを閉め、中身を燃えるゴミの袋に捨てた。ボウルは、だいぶ前から水が張られているシンクに投げた。綺麗に千切られたレタスに、ほんの少し罪悪感が残る。誰かにご飯を用意して貰える擽ったさを、出来れば今日味わいたかった。

 溜め息を吐いて買ってきた出来合いの弁当をテーブルへと出す。リーグで優勝しても、男はこうして独りで弁当を貪る。一体何時からこうしているのだろうか? 祝賀会にも顔を出さずに、余韻残さず日常へと戻るようになったのは、何時からだろうか……。買ってきたハンバーグ弁当は、安っぽい味で男の勝利を祝ってくれた。

 数分で食事を終えた青峰は、油性マジックで左手人差し指に点を三つ打ち、簡単な顔を作った。その間抜けな顔した指は、何だかなまえに似ている。ククッと笑い、指を眺めた。

「……オメデトウゴザイマス」

 裏声を作り指を曲げお辞儀をさせた。可愛くもない油性ペンで描いた顔に、可愛くもない自分の声。ソレをある一人の少女に似せた。

 ソイツは世界でたった一人……"スター選手"では無く【青峰大輝】を個人として愛してくれた。地位も名誉も何も知らない癖に、どんな態度を取っても呆れずに自分の傍に居てくれた。今までそんな人間、居なかった。全ては"秀でた才能"があるからだ。

 友人だって、セフレだって、チームの仲間だって、世間だって……全部、全部全部全部全部、バスケットボール選手として優秀だから傍に居るのだ。ソレが"オレ"の全てになっている。だからこそ、代表を外された事が憎らしい。限界ギリギリまで、自分と云う存在を不安定にさせた。

 …………いや、本当は"その少女"以外にも一人だけ自分を見てくれた人間が居た。それが初恋相手で、幼い頃から近くでお互いを見てきた。――全ては、無くしてから必要性に気付く。

 今日、あの居候身分が来ていたのは知っている。火神がシュートパフォーマンス最中に、ある一角を指した。その時にその少女の姿を見た。隣に座っていた人の良さそうな少年が"例の彼氏"だろう。お似合いだ。尻の青い・何も知らない・未来さえ輝いていると信じている二人は、お似合いだ。――高校生なんてガキ、相手にするのも馬鹿馬鹿しい。シンとした部屋で、余裕を見せたくて笑い声を漏らす。

 ――そして青峰はテーブルの上にあった物全てを右手でなぎ払い、孤独に負けぬよう歯を食い縛った。