「跳ばなくて良いのか? ジャンパーさんよォ」

 普段はジャンパーとしてセンターサークルに立つ男が、青峰のチェックに付いている。――火神大我。本日の得点は、四割をこの選手が決めている。

「お前に付けるのは、オレしか居ねぇんだよ」

 得点王は青峰専属のディフェンダーを命されていた。呆れ顔を隠しもしない火神は、高校時代からずっとコイツのチェックを任されて来た。それでも読めない青峰の動作は、火神を苦しめる。

「光栄だ」

「よく言うぜ、スーパーエース」

 火神の嫌味も聞き流し、得点板を再度視界に入れた青峰は、デジタルに映し出した数字を確認する。十五点差。こちらがビハインドを背負っている。


 火神……。エースが一番やらなきゃいけねぇ事は何だか判るか? 闇雲に点を取る事か? 自分のプレイで他者を勇気付ける事か?

 ――違う。
 そんなのはオマケだ。
 オレがお前に教えてやるよ。
 "エース"に必要不可欠な事を。


 主審の手から離れたボールが最高地点に達した時、両チームのジャンパーが後半戦最初の戦いを魅せた。

 青峰が自分の陣営に向かって飛び出し、火神がソレを追う。まるで追い掛けっこのようなその動きに出遅れを感じた火神は、頭をフル回転させる。――青峰はこのまま真っ直ぐ走ってパスを貰い、オフェンスの体制を立てる前にシュートへ持ち込む。

 低い体勢のままコートの右方向に走った青峰は、火神の読み通りだ。

 しかし青峰は急に身体の軸を右に傾けると、右足と右手を発射台に床を蹴り上げ、左方向へ走り出した。急な方向転換に対応出来ず真っ直ぐ進んだ火神は「クソッ!」と自身を責め、差が開いた青峰を追い掛けた。こんな素早く正確な動き、青峰大輝にしか出来ない。

 フリーとなった青峰へボールが飛ぶ。火神は男がソレをキャッチし、ボールを構えシュートを打つ前には、ディフェンスに立たなくてはいけない。間に合う、シュートフォームを整える前には手を伸ばせる――。目標まであと三歩。火神は気合いとプレッシャーの為に叫んだ。

 青峰は左手に取ったボールをシュートフォームに持ち込む事無く、肩の力だけで勢い良く投げた。球はゴールに向かって一直線に飛んでいくのだが、腕を下から上に振り上げただけの野蛮なスタイルに、サポーターは青峰が自棄になったのだと確信した。

 この競技は野球じゃない。ドッヂボールでもない。

 これは"バスケットボール"だ。

 いつの間にかライトノベルから目を離していた黛が、まるでパスの中継地点のような動きを見せた青峰へ、負け惜しみに似た皮肉を飛ばす。

「……ゴールは動かないからな」

 ――落胆する人々の予想を反して、矢のように飛んだソレはボードの上部に当たり、手繰り寄せられるようにリングへ吸い込まれた。ネットが揺れ、ボールは床でバウンドする。【14:48】時計が残り時間をそう指す。僅か十二秒、青峰は得点差を三つ縮めた。

 早々得点を決めた青峰は、喜ぶ事もせずにブツブツ呟き、自分の手をジッと眺めている。ざわめく会場にホイッスルが響いた。審判のハンドサインはタイムを示しており、ソレを出したのは火神のチームだった。

「何をやっているんだ!! 火神テメェ!!!」

 監督の怒鳴りがコートに響く。大音量のBGMにも負けない程、巨大な罵声が火神へと飛んだ。

「何の為に7番のチェックを任せたんだ!! お前がちゃらんぽらんにディフェンスしてたら負けるぞ!!!」

 滴る汗を拭いながら、火神は考えていた。今のはまぐれか……? 自分を振り切った青峰は、迷う事無く左方向から左手でボールを投げた。――まるでディフェンスが付く前に、焦って無理矢理シュートへ持ち込んだようにも見える。

 フォームが無いシュートを打てる青峰だって、左で打つ事は少ない。極力は避ける筈だ。今の状況なら、ボールを掴みドリブルを叩いてスリーポイントラインの内側に入るのが一番確実だ。

 火神の疑問が解決されないまま、選手がコートに戻る。そしてスローインから試合が再開される。点を決められても、未だ圧倒的に有利な火神のチームは、流れは自分達にあると確信していた。

 ――勝てる。取られたら取り返すまでだ。一本を大切にしよう。全員がそう目配せをして意思を確認する。

 青峰がトップを守る町田へ何か指示を出しているようだ。町田自身は不快を露にした表情をしているが、青峰の指示に了解したようだ。小さく頷くと、腰を落としディフェンスの体制に入る。

 ポイントガードがライト側のシューティングガードへとパスを回そうと構えた瞬間だ。その一瞬を狙っていた青峰がセンターの死角からいきなり飛び出した。この男は、プロの試合でパスカットを狙うつもりだ。町田に出した指示は、至って簡単なモノだった。

【右のSGにパスを出させろ。あとはオレが何とかする】

「パス回すなァァァ!!」

 火神が怒鳴った時にはもう遅い。ボールはパスが回る前に拐われた。スティールした青峰はオールクリアで悠々とスリーポイントを決めた。左方向から、左手で。

 またしても得点が動いた事に会場は沸き上がる。後半戦僅か数十秒で、点差が九点に縮まってしまった。

 点を取り返すのに固執してしまい、こんな簡単なトラップにも引っ掛かる。こんなの、高校バスケよりもレベルが低いじゃあないか……。愕然とした火神は、膝に手を付き絶望した。

 観客が今まで以上に沸き上がる。歓声と称賛・悲鳴と怒号が入り雑じり、【スーパーエース】の帰還に相応しい程に場内は混沌とした。ここ数年味わった事の無い盛り上がりに、全身に鳥肌が立ち上がった火神は呆然とするしかない。

 青峰は、一分も無い内に客席を最大級に興奮させた。それはプロに最も必要な要素だ。顎髭を指で擦った監督は、国内最強の選手を心の中で褒め称えた。

 ――呑まれる。このままじゃ、完全に青峰のペースだ。前半十五分で築き上げた空気が一瞬で崩され、悪い方向に再構築されて行く。

 視線を感じた火神が顔を上げると、青峰がコチラを眺めていた。その見下した瞳は呆れたように冷たく、初めて戦った日を彷彿させる。悔しさに目元が痙攣した。

 二度目のタイムアウトがこんなに早く取られるのは稀だ。それ程までに、たった二本のシュートで状況は変わった。

「青峰の左方向からの得点率、判るか?」

 お通夜状態となったベンチに戻った火神は、厳しい顔をしたマネージャーへ問う。赤毛の男の背中には、未だに鳥肌が立っていた。

 監督が青峰へのディフェンスを強化する方向で指示を出し始めた。ハーフコートに持ち込んだ瞬間からゾーンプレスに切り換える。

 ――無駄だ、そんなの。火神は心の中で悪態を付いた。青峰を潰したいなら三人は必要だ。それ程までに、本気を出したアイツのポテンシャルは高い。

 ファイルを開き、各選手の詳細なデータを眺めたマネージャーは、火神の質問に答える。

「七十五パーセント前後です」

「右方向からは?」

 依然として厳しい顔を崩さないマネージャーは、人差し指で眼鏡のブリッジを上げる。そうして数字を眺めた眼鏡の男は、溜め息を漏らした。

「化け物。九十パーセントを超える」

 スポーツ飲料で水分を補給しながら、火神は最後にひとつ質問をする。顔を拭いたタオルは汗で湿り、ソレをベンチ近くの床に投げた。

「……左方向から、左手で打つ事はあったか?」

 火神の問い掛けにバインダーを覗き、そんなデータ存在しない事に眉を潜めたマネージャーは首を傾げてこう言い放つ。

「彼、右利きですよね? 左手で左方向からなんてする訳が無い」

 ……自分でも何故だか分からない。火神は気付いたらボトルを床に叩き付け、マネージャーの襟首を掴み捻り上げながら怒りの形相で怒鳴り声を上げていた。

「テメェは何を見てたんだよォォ!!!」

 突如の大声と床に叩き付けられたボトルに、全員が火神を見た。乱暴されたマネージャーも、驚いた表情で固まっている。

「……悪ィ」

 上手く行かない流れを八つ当たりしてしまった火神は、素直に謝り手を離して、ボトルを拾う。駄目だ、感情的になっては……。腰を屈めれば汗が滴り、床に落ちた。

 勝てない試合に挑むのは好きだ。まるで狩りをしているように心が踊る。

 ――だけど何だ? この嫌な感じは。空気が違う。青峰一人を止められない苛立ちが、エースを蝕んだ。

 ディフェンスの指示を出し終えた監督は、鼻息荒く選手を送り返す。ここから数分が勝負だ。流れを戻さなくてはいけない。

「まずは一本だ」

 チームで最年長である主将がそう呟いた。

「何時から左利きになったんだ?」

 火神は自身のチェックに付いた青峰へそう質問した。相手チームは、ディフェンスをハーフコートのゾーンからオールコートのマンツーマンに切り替えたらしい。まるで自分達と真逆な指示に腹が立つ。

 ゴール下に引っ込んだ火神は流れる汗もそのままに、目の前の敵のチェックをどうやって外させるか考えた。

「火神。エースに一番必要なモンが何だか判るか?」

 火神はいきなりの問い掛けに、息を切らしながら答えてやる。腕で額の汗を拭えば、肌が滑るだけで意味が無かった。

「はァ? そんなん、チーム引っ張ってく"巧さ"に決まってんだろ」

 そのぶっきらぼうな答えに、汗にまみれながらも肩でクツクツ笑った青峰は、火神へ勝利を確信する発言を向けた。

「――火神悪ィ、オレの勝ちだ」





 なまえはこの場に居るのが嫌になった。出来るのなら、消えてしまいたい。今見たモノを全て消して……。唇を噛んで涙を堪える。

 恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。自惚れに恥を知った彼女は、男に恋してしまった事を悔やんだ。何が応援だ……。そんなの必要無いじゃないか。

 彼女が知っていたのは、あの小さな部屋に居る【青峰大輝】だけだ。思い遣りに欠けていて、自分勝手で神経質。すぐ怒っては怒鳴り、その癖面倒見は良くて何だかんだで傍に置いてくれた。「二メートル以上離れるな」と切なそうな顔で命令した。その後、まるで恋人のようなキスもした。

 その記憶を今、"コートに立つ青峰大輝"が黒く塗り潰し、無かった事にしようとする。観客は彼のモーションひとつで喚いたり喜んだり、泣いたりする。

 そんな圧倒的な存在感を持つスターが自分の愛しい人なんだ。――彼からしたらさっきすれ違ったミーハーなファン達と自分は、何も変わらないだろう。

彼には彼の世界がある。桃色髪の美女を愛し、同じように輝かしい仲間が居て、毎日競技に情熱を燃やし、広くは無いが快適な部屋で寝る。自分は、ソコに入り込んだ"異物"でしか無い。無くても構わない存在だ……。

 そう思った瞬間、自分は彼の特別じゃ無いと気付いた瞬間――涙が彼女の頬を濡らした。