「……最近、冷たいね」

「――そう、かな?」

 八月九日、土曜日。その日、台風が西日本を襲った。雨足は強く傘が無ければ外出も出来ない、そんな日の夕方。なまえとその彼氏、佐久間は地元から電車を乗り継ぎ、代々木まで足を運んだ。天気予報は雨のち曇り。夜にも止むらしい。

 会場は大きく、入場口に人だかりが出来ていた。多数の報道陣がテントの下で機材の準備をしている。まるでお祭りだ。

 前売り・当日併せてチケットは完売。最終決戦となれば人々の関心も高まるのだが、今回は特にオリンピック予選に向けての日本代表が発表されたばかりである。各種報道がこぞってピックアップし盛り上げている為、集客は通常よりも高い。特に人々の関心が高いのが、【堕ちたスーパーエース・青峰大輝】の所存だ。

 なまえは、アイドルのコンサート会場でよく見掛ける"名前の記された団扇"を持った一団とすれ違った。青峰にもこんな形のファンが居るようだ。可愛らしく飾られたソレは、無愛想な男のイメージと合わない。

「俺の思い過ごしなら良いよ? でも……」

 傘の柄を強く握った佐久間は、真剣な眼差しで彼女を見た。視線を受けた少女は俯き傘に隠れ、向こう側へ声を掛ける。

「気のせいだよ。佐久間君」

 最低だ。私は……。

 彼女は自分を責める。責めた所で心境が変化する訳では無い。

 別にキープしている訳じゃない。好きじゃないけど寂しいから一緒に居るとか、そういう関係ではない。ただ、別れるのに何と伝えれば良いかが判らない。

 『好きな人が出来たから別れよう』

 ――それは一体誰?

 そう聞かれたら、本当の答えなんて言える訳が無く、解答を濁すだけ。こんな自分を好きだと言ってくれた彼を、いい加減な態度で傷付けたくは無い。――幼いなまえは、ソレが只の"保身"でしか無い事を知らない。

「バスケ観るの初めて?」

 佐久間は、真っ青な顔色をした彼女を気遣うように声を掛ける。そして顔を縦に振ったなまえへ、優しそうな笑みを作った少年は手を合わせてお願い事を言う。

「今度さ……練習試合あるんだけど、良かったら観に来てよ!」

「試合、出るの?」

 そう不思議そうに質問をして、彼氏に首を向けたなまえ。彼女が驚く顔も無理は無い、彼氏は少女と同じ高校一年生だ。たった三ヶ月でユニフォームを獲得するのも難しいだろう。なまえは誇らしそうに、傘の中で自慢する。

「俺、スタメンだよ?」





 控え室から伸びた通路を一人の男が歩く。壁が薄いのだろう、声援と音響が僅かに聞こえた。節電中の為なのか、裏方の廊下は暗い。

 夏場だと云うのに、身体を冷やさぬようモノクロ基調のチームジャージを羽織った男は、真剣な表情で歩み続ける。

 進行方向の先、廊下の角から鮮やかな赤髪をした男が出て来た。思わぬ所で遭遇したソイツは本日の対戦相手で、黒とオレンジのユニフォーム・似たデザインのジャージを羽織る。特徴的な眉毛を上げた相手は、口元をニヤケさせ赤い瞳をその男へ向けた。

「……今日は、オサボリマンじゃねぇのか?」

「邪魔だ」

 薄い唇を開き、鋭く細い目を刃物のように向けた褐色肌の男は、対戦相手とのエンカウントに進めていた歩を止めた。

「青峰。泣いても笑ってもファイナルだ。オレは負ける気がしねぇ」

「なら、負けた時の言い訳考えとけ。……火神」

 青峰は得意の皮肉で嘲笑を飛ばすのだが、試合前の緊張感が薄れぬよう口数を少なくしていた。キュッと床を鳴らし、再び男は廊下を歩み始める。

「…………スタメンの席は常に四つだ」

「何の話だよ」

 すれ違い様に掛けられた"火神の台詞"の意味を探る。お互いが相手に背を向け、まるで振り向いた方が負けるかのように背中越しに会話を始めた。

「代表チームのキャプテンに、そう言われたんだよ。――必ずお前が捩じ込んで来るってな」

「オレは落ちた人間だ。関係ねぇ」

 青峰は自身の右肩を掴むのだが、そうすれば自然と握る力が強くなってしまう。ギリギリと指先が食い込み、悔しさに歯を食い縛る。遠くから響く観客の声はワァワァと盛り上がり、静かな通路に非日常を生む。

「そう思ってない奴も居る」

 今度は火神が先に歩を進めた。今、青峰がやって来た道を真っ直ぐに進む。選手控え室に戻るのだろう。青峰はそれとは逆に、火神が姿を現した通路の角を曲がる。

 青峰の足跡が聞こえなくなった瞬間、火神は壁を拳で強く叩いた。前髪が目に掛かる程顎を引き、誰も居ない通路の先を睨む。そして歯軋りの内側から、恨めしいような声を捻り出した。

「……オレもその一人なんだよォ。スカポンタン」


 …………


 午後七時。遂に今季のリーグは最終決戦を迎えた。何千人と云う観客以外にも、テレビ中継がお茶の間に試合の行方を届ける。

 スターティングメンバーが、マイクパフォーマンスに似た紹介と共にコートへと出て来た。ヒップホップなBGMと司会が、興奮高まる場内盛り上げる。

 先ずはオレンジに黒いラインを入れたユニフォームが鮮やかなチーム。ソコに属する火神大我は背番号が10だ。男は十五歳からソレを愛用している。一番馴染むらしい。火神以外にも日本代表が三人居る。最後に外人選手が一人。しかしコイツのせいで、未だ火神大我はセンターになれないのだ。かつてない程贅沢なスタメンに、メンバーは負ける気がしないと自負する。

 対するチームは、白基調に黒いストライブが入る。コートに出た五人が、モノクロなユニフォームでも着ている人間は輝く事を証明してくれた。センターの安達と、ポイントガードの町田がココの主力選手だ。他に三人のスタメンが紹介される。内の一人は甘いマスクで女性人気が高い所謂"広告塔"である。女性特有の黄色い声援が飛ぶ。

「……峰ちん、出ないじゃん」

 二階席の一番手前に座る紫原は長い足を限界まで投げ出した。代表選手に与えられたジャージに身を包んだ一行は、観客の中でも目立っている。

「怖じ気付いたんだろ? あんなに叩かれたらな」

 試合そっちのけで本日もライトノベルをたしなむ黛が、一般論を述べた。ネット検索で【バスケットボール日本代表】と打てば、少なくとも数件は青峰のバッシングが結果に出てくる。SNSでは『負けた日に話し掛けると、殴られる』と云う眉唾モノの噂だって広まっていた。この会場にだって、ファンからアンチに寝返った人間も多数居るだろう。

「温存しているのかもしれないよ?」

 後部に座った氷室が青峰を庇う。やはり全員が青峰の様子を気にしているようだ。

「やっぱり決勝戦は、盛り上がりが違ぇなぁ」

 笠松は満員具合にガックリと頭を垂れる。先々週末行われた三位決定戦も、ここまで人は入らなかった。普段は会場の三分の二も入れば御の字だ。今日は報道陣の数も違う。時期も相まって、恵まれた環境でのゲームとなりそうである。ホイッスルと共に、向かい合ったジャンパーが飛んだ。

 ――ゲーム最初の得点を決めたのは火神大我だった。両手で掴んだボールをリングに叩き込んだ。ディフェンスさえ吹き飛ばし、誰も届かない高い位置からシュートを決める。開幕に相応しい派手なパフォーマンスに客席のボルテージが上がった。

 火神は獣のように咆哮すると、直ぐ様ディフェンスに走る。サッカーとは違い、バスケはシュート後アピールする時間は限られている競技だ。走っている途中に、火神は客席の一部を指差す。差された一角は盛り上がり、選手に手を振り始めた。

「スゲェ、こっち見た!」

 なまえの隣に座る彼氏も、そのファンサービスに感動する。しかし、なまえは素直に喜べない。つい先日にコートで活躍を見せる【火神大我】の近くで過ごし、挙げ句に蹂躙されそうになった少女は、実感が湧かずボンヤリと試合を眺める。

 優しいお兄さんに思えた男は不気味な性癖を持ち、今は獣のようなワイルドなプレイを魅せる。知れば知る程に奥が深い人間だ。

 なまえは胸騒ぎを覚えた。コートに【青峰大輝】が居ない。観たかったのに……意中の男は姿を見せない。佐久間が言っていた通り、最近は調子が悪いのだろうか? もし出て来たら……精一杯応援をしよう。彼が目立ったプレイを見せなくても、私は声を枯らすまで応援する。

 そうしたら、きっと届く筈だ。この気持ちが、同じ空間に居る彼に……――。

 彼女の決意も虚しく、男は一度も姿を見せず前半戦が終わった。点差も僅かに開きがあり、火神のチームが試合をリードしている。

 負けている事に悔しい顔ひとつしないその監督は、後半戦で自チームの広告塔を引っ込める事にした。元々そんなに目立って優秀なプレイヤーでは無い。集客と話題作りが目的の選手だ。例え外したとしても、シュートを打つだけで黄色い声援が飛んだ。監督の指示に、ルックスの良い彼も少しだけ安堵した顔をする。

 それでは、詰めなくてはいけない点差はどうするか……――? 顎髭を擦った監督は、未だベンチに腰掛け頭にタオルを被った"ある選手"に声を掛ける。

「…………オイ、準備は出来てるか?」

 その選手から返事は無い。それで良い。コイツは、返事が無いのが肯定の印だ。

 逃がした? 出し惜しみ? 温存? そんなヤワな理由でコイツをベンチに引っ込めていた訳では無い。全ては会場を盛り上げる為だ。前半で引き離される事は予想していた。ここ数日、"この選手"がバッシングの対象になっているのも知っている。落ちぶれた? 笑わせるな。――……奴は、数日で進化した。昨夜遅くに呼び出され、見せられたパフォーマンスに度肝を抜かれたんだ、俺は。

 このリーグはショーだ。観客を喜ばせるのが第一なんだ。――さぁ、ここからが本当のショータイムだ。

「行って来い、青峰」

 被ったタオルをベンチに脱ぎ捨てた青峰大輝は、黒いバスケットシューズを床で鳴らしながら一歩一歩コートに向かって脚を進ませた。歓声が背中へとのし掛かる。僅かに混じったブーイング。それが歩む度に段々と大きくなる。

 ホラ……何とでも言え。オレはお前らが何と言おうと、勝利を掴み取ってやる。

 堕ちた天才・青峰大輝。オレを嫌いな人間だって居るだろう。"どの面提げて出て来るんだ"と思われても仕方ねぇ。安達と町田が、コートの中でオレを見下している。屈辱と敗北感が頭を過った。

 ――しかし、それすらステージに立てる快感には敵わない。後半戦。やっとコートに立てた青峰は、緩やかに口角を上げた。