その日は夕方から雨が降った。ウェザーニュースは熱帯低気圧がなんちゃらと伝えるのだが、気象に明るくないなまえは、そんな雨が降るメカニズムよりも未だに帰って来ない家主を心配する。せっかく作ったスパゲティも冷めてしまった。生野菜のサラダは、悪くならない内に冷蔵庫へ閉まった。

 電話番号も知らない少女が立ち上がり探しに行こうと玄関まで足を運べば、タイミング良くドアが開き男が帰宅した。時刻は二十三時を軽く過ぎている。

「――おかえり……な、さい……」

 帰宅した青峰は、大雨の中傘を差さずに歩いてきたらしい。全身をずぶ濡れにしていた。Tシャツは肌に貼り付き、足元にはあっという間に水溜まりが出来る。

「青峰さん、風邪引きます」

「……あぁ」

 無表情のまま頭を下げる青峰は、顔が曇っていた。昨晩のバーベキューで見た楽しそうな表情とは何処か違う。まるで感情を落としてきたような、そんな不安を感じさせる。

「何か、あったんですか?」

「明日、午前中に荷物まとめて帰れ」

 何時ものようにぶっきらぼうに、突き放した台詞を吐かれた。ずぶ濡れになったシューズを脱いだ青峰は、水を吸った靴下も脱ぎ素足で部屋に入った。廊下のフローリングは、彼が歩く度に大きな足跡を作る。

「……なんで?」

 両手を握り動揺を抑えるなまえは、通路の途中を歩く家主に声を掛けた。

「マスコミ対策だ」

「マスコミって何!?」

 その答えじゃ漠然とし過ぎて、意味が分からない。青峰の境遇を知らない彼女は、更に強く手を握り不安気な顔を見せた。振り返りもしない男は、外から漏れる雨音に掻き消されそうな声で呟いた。

「オレが聞きてぇよ……」

 身体も拭かず着衣したままベッドへと腰掛けた青峰は、背中を丸め、額を手で押さえ項垂れる。

「ねぇ……早く脱がないと、風邪引きますよ? ビシャビシャじゃないですか」

 バスタオルを差し出せば、青峰はソレを素直に受け取り頭に被せた。短く柔らかめの髪の毛は、水の重さに負け垂れ下がる。額から流れる雨は、やがて頬を通り顎から滴る。

「――泣いてたんですか?」

 青峰をよく見ると、目が赤くなり目蓋が腫れていた。男は細く吊り上がった眉を怒らせながらも目線を下げ、ゆっくりと薄い唇を開く。

「泣いてねぇよ」

「目、腫れてますよ?」

「だから、泣いてねぇよ。寝不足だ。……最近ゆっくり眠れねぇし」

 爆発させた悲しみや怒りを悟られないよう、青峰は嫌味で隠した。感情を露にするのは格好悪い。彼はもう大人だ、子供じゃ無い。だからこそ――涙は人前では流さない。

「明日からは、ゆっくり眠れますか? ご飯、食べて下さい」

 なまえは「えへへ……」と誤魔化すような作り笑いをした。そしてスパゲティを温めようとその場を離れる――寸前に、手首を掴まれ踏み出した足を静止させた。

 青峰の手は濡れてヒンヤリしていた。手首を握る力は強く、捻れた皮膚が痛みすら感じる。しかし青峰は手を緩めたりしない。強く、強く掴んだままで――ずぶ濡れのTシャツも脱がない。ジーンズだって水浸しだ。タオルで水気を飛ばしたりしない髪は、何時までも顔面とうなじへ水を流す。

「今晩だけは、どこにも行くな」

「でも、ご飯温めな……――」

 なまえの言葉を遮り、青峰は言葉を紡ぐ。

「オレを否定すんな、拒否すんな! ダメ出しすんな!」

 被せた横暴な命令は、口から飛び出す度に語尾が強くなる。逃げ場が欲しい男は、よりにもよってこんな未熟な少女へソレを求めた。

「二メートル以上、離れんな……」

 そう呟いたと同時に、掴まれていた手がスルリと抜けた。彼がダラリと垂らした手は、重力で膝を叩いていた。

「二メートルって、結構距離ありますよ?」

「ダメ出しすんな」

 駄々っ子になった家主の隣に座ったなまえは、膝の上に手を置き大人しくしているのだが、青峰は相変わらず項垂れたまま何も言わない。息が詰まりそうな時間を解す為に口を開いた少女は、タオルに隠れて顔の見えない男へ声を掛けた。

「深夜番組が観たいです、青峰さん。好きな俳優さん出るのがあって……」

「オレ以外の男の話、すんな」

 尚も飛び出る横暴具合へ反抗をしたくて真っ直ぐ青峰を指差したなまえは、わざとらしく溜め息を吐いた。

「何も話せません」

「じゃあ喋んな」

 その言葉に困った顔をしたなまえは、両手でバッテンを作り首を左右に振った。そのボディーランゲージを見た青峰は「だから否定すんなって」と、濡れた手のまま少女の天辺をグシャグシャに撫でた。頭の上部が乱れたなまえは、お返しにと男が頭に被ったままのタオルで水気を飛ばしてやる。

 ギッ……とベッドが軋み、また大きな手がコチラへ伸びてきた。クーラーに冷やされ著しく体温が低い男は、少女の身体を抱え込み熱を求めた。なまえの腕に貼り付いた相手のTシャツが、肌の感覚を不快なモノにする。

「服脱いで下さいよぉ、冷たいぃ」

「こっち向けよ」

 近過ぎる顔を背け両手で男を引き剥がそうとするなまえに、青峰はコチラを向くように言い付ける。それが何を意味するのか理解出来た少女は生唾を飲んだ。

「ねぇ、じゃあ着替えて?」

 水気を多量に含んだ衣服を脱ぐように催促すれば、青峰はソレを無視する。

「……こっち向けって」

 その男は強引だ。自分がしたい事は、相手の意見お構い無しに強行する。キスがしたくなったら、ずぶ濡れだろうが何だろうが、唇を重ねようとするのだ。

 顎を引かれ、口唇が重なる。目を瞑ったなまえは、息苦しさと心臓の高鳴りに頭が追い付かなくなる。一端離れたと思ったら、今度は頭を抱えられ更に深く押し付けられた。喘ぐ少女の声は、塞がれた口から鼻へと抜けた。

 やがて僅かな隙間を抉じ開けた男の舌が、口内にまで滑り込んでくる。背中へ手を回した少女は、水気の含んだシャツを強く握った。その行動が大人らしくて、少しだけ誇らしかった。





 八月四日、月曜日。天気は晴れ。週末には、また台風が来るらしい。茹だるような暑さの中、キャリーを引きお気に入りのミュールを履いた少女がアパートの一室から姿を見せた。

 未だ寝ている家主は、彼女に別れの挨拶もしてくれない。"マスコミ対策"とは、何かも話してくれない。閉めたドアをもう一度開けたくなってノブを握ったなまえは、寂しい感情に負けそうだった。

 カン、カンと気味の良い音を響かせて誰かがアパートを昇って来た。建物の死角から出て来たのは、背が高くガタイの良いサングラス男だった。男に覚えがあるなまえは固まった。

 ポロシャツは襟だけが暗い赤で、全体が薄墨色。下は丈の微妙なカーゴパンツで、足首が覗いている。如何にも『散歩がてらに寄りました』と言いたげな格好をした男は、スニーカーで通路を鳴らしコチラへ向かって来る。

「――よォ、元気か?」

 サングラスを外した男は、少女に向かって挨拶をする。それは先日無理矢理にも貞操を奪おうとした男――。火神大我だった。

 出会った当初と変わらない男の態度に動揺したなまえは、青峰宅の前から一歩も動けずに居る。彼女の気持ちなんかお構い無しな火神は、歩みを寄せて来た。

「お前にも用があった」

 胸ポケットからはみ出した紙を右手人差し指と中指で挟みピッと差し出した火神は、なまえへ受け取るように目配せをした。

「一昨日のお詫び。やるよ」

 突っ返す理由も無い少女は両手で受け取ると、その紙がチケットだと知る。やたらゴテゴテしたデザインのソレは、バスケットボール公式リーグが観戦出来るペアチケットだ。

「今週末、代々木体育館。ファイナルのチケットだ。バスケは知ってるな?」

「地元の、彼氏が……バスケ部なので」

 火神は呆れたように「ハハハ……」と空笑いをする。彼氏が居る癖に飄々と男の部屋に泊まる尻軽さに、何か思う所があるのだろう。

「青峰さん、何かしたんですか? マスコミ来るから出てけって……」

 キャリーの持ち手を強く握ったなまえは、火神にそう聞いた。昨晩見せた泣き痕の件もあり、酷く不安になる。通路の柵に手を掛けた火神は、本日散歩がてらに来た理由を口にした。

「オレも、ソレを聞きに来た」

 火神も納得がいかないらしい。――何故青峰大輝が代表から外れているのか。分からないなら本人に聞くまでだ。……ついでに、何処から漏れたのかは知らないが、昨晩の内に代表選手が世間に好評されていた。

 それで哀れな【控え選手】が、匿名な世界でボコボコにされている事を慰めにも来た。まぁ、アイツがネットを見ているとは思わないが。

「スポーツの世界はシビアなんだぜ? オレら遊んで金貰ってるだけに見えんだろ?」

 それとなく周囲を確認した火神は、マスコミの姿が無い事に安心と猜疑を持つ。まだ動いていないのか、はたまた既に【青峰大輝】と云うスーパースターが過去のモノになったのか……。どちらにしても、"ある男"は救われない。

「どんだけ努力したって……望んだ結果が出なきゃ、叩かれるだけだ」

 火神は酷しく寂しい台詞を告げると、下手くそな作り笑いを見せた。無理に目を笑わせようとすれば、眉間に皺が寄る。

「単純で遣り甲斐があるけどな」

 なまえの横を通り過ぎた背の高い男は、赤い瞳で最後に少女を捕らえるとそのまま挨拶も告げずに青峰の部屋へと入って行く。ノックもチャイムも無い。その図々しくも自由な間柄に信頼関係を見た彼女は、羨ましく思えた。

 紫外線が肌に突き刺さるのすら感じる程に暑い夏の日。大人になりたかった少女は、結局子供のままに、東京の"ある田舎駅"から去った。親指で自分の唇を押さえ、昨晩の深いキスを思い出しながら……――。





 コンコン……とワンルームのドアをノックした火神は、ジーンズから上は裸と云う"だらしない格好"のままベッドに横になった青峰を視界に入れ、「よォ」と気軽に挨拶をした。

「勝手に入って来るんじゃねぇよ、泥棒か? テメェは」

 火神が来るより先に起きていた青峰は、来訪者に背中を見せたまま不法侵入を責める。

「練習サボリで狸寝入りか。給料泥棒だな」

 "泥棒"と云う言葉に"泥棒"で返した火神は、自分の頭が冴えている事にニヤリとした。青峰はその嫌味を無視して、火神へ当て擦りを飛ばす。

「…………日本代表様が、何の用だよ」

「理由、見当付くだろ?」

 一軍日本代表様は、哀れな控え選手に問い質す。アレコレ憶測するよりも、本人に聞く方がずっと早い。だから男はココに来た。

「何で……代表にお前の名前がねぇんだよ」

 寝具から動かない青峰は、無言を貫く。火神が部屋を見渡すと、テーブルの上には本で隠すように一枚の封筒が見えた。ギリギリ隠されなかった『整形外科』と云う文字に反応した火神は、青峰が自分の動きに気付く前に足を早めて部屋を横断した。

「辞退したのか? まさ……――」

「あぁ、そうだ! だから帰ってくれ!」

 言葉を遮り怒鳴りながら火神の方を向いた青峰は、赤毛の男が"ある紙"を持っている事へ目を見開いた。

「嘘が下手だ」

 ペラリと紙を手に取り見せた火神は、診断内容と青峰の状況ををすぐに理解した。チラリと流し見しても、治療は継続中らしい。

「勝手に見んじゃねぇよ!!」

 診断内容を把握し、怒りで髪が逆立ちそうな火神は、紙を掴んだまま青峰へ近付く。そして勢いに任せソイツの腰元を跨ぐように大きな巨体を乗せた。

 起き上がっていた家主の上半身を強く突き飛ばしベッドへ沈ませ、診断書を顔面に押し付けた。そのまま唾が飛ぶ程興奮した口調で怒鳴る。

「完治してねぇなら! したとか言うなよ!!!」

 絶望へ誘う紙切れを顔面から払った青峰は、憤りで目元が痙攣している火神に落ち着いた声で命令をする。

「……重い。退けろ」

 火神は寝そべる青峰へ顔を突き付け、行き場の無い怒りを開いた目で伝える。

「自分誤魔化すのに必死か?」

「るせェんだよ、退けろ」

 火神は青峰の身体から腰を上げると、右手で相手の股間を思いきりに叩いた。パンッと小気味の良い破裂音と、「ングッ……」と云う青峰の喉が鳴る音は同時だった。急所を手のひらで叩かれた青峰は、ジーンズ越しに股間を押さえる。ジンジンする痛みを逃がそうと歯を食い縛り背を丸めるのだが、骨にまで響くその痛みに神経が向いてしまう。

「突破しろ。お前なら出来んだろ?」

「――……は?」

 涙目を火神に向けた青峰は、たった一文字で"台詞の意味"を聞いた。火神は震える手を必死にボトムスのポケット内で抑えながら、青峰の理解力の低さへ舌打ちをする。

「――諦め悪ィ男なんだよ。お前も…………オレも」

 火神はそう言い残し無表情のままに退室した。どうしようもない不条理から来る怒りが、男から冷静さと感情を奪う。

 バタン……と、遠くで玄関が閉まった。頭を掻いた青峰は股間の痛みが治まってすぐ、拾った診断書を片手で丸めて握り潰した。





 ――突破しろ。

 火神はそう言った。右肩に爆弾を抱えて突破口を探せ? 回避方法なら充分に試した。

 どれだけ綿密に身体造りをしても、ソコにまで頭が回らなかった事に悔しさが残った。自分のプレイスタイルは、他人よりも肩への負担が大きい。故障してから気付き、部位へ気を配っても何の意味も無い。逆に臆病になるだけだ。冷静になって考えれば、監督の言う事は正しい。

 あぁ……だからこそ、突破口が必要になるのか……――。

 結局一日をベッドの上で過ごした青峰の身体に、倦怠感が積もる。暗闇の中でハァ……と吐いた溜め息が、やけに大きく聞こえる。

 寂しい程に静かな部屋を明るくしようと、闇の中でテレビのリモコンを探る。その時窓の外が赤色に染まり、数秒後に腹に響く爆発音とパラパラとした細かな音が空間を裂いた。

 上半身も裸のままに重い身体を動かして窓を開ければ、暑い空気が顔を撫でる。丁度正面の夜空に、一輪の花火が打ち上げられた。窓に手を掛け一人眺める。

 そうだ、今日は花火大会だった。

 この時期は毎年リーグの最終調整で帰宅が遅い。今日だって、サボらなかったら花火大会があった事すら知らないでいたのだろう。

 窓の外に咲く花は、星ひとつ無い曇り空によく映えた。何百と云う光が夜空を照らした数秒後に、爆発音が耳に響く。灰色の煙が風に乗り右から左に流れ、空のステージから掃ける。

 特等席で一人で眺めるのだが、感動を共有する人物は誰も居ない。遠くの歓声を"感動の共有"にすれば、こちらが余りに寂しすぎる。その内飽きて、夏の風物詩は只の騒音に成り果てた。

「――アイツ返すの、一日早まったかもな……」

 あの女子高生ならきっとはしゃいで、近くの小学校で催している屋台に『行きたい!』とせがんだのだろう。

 脳内で少女に浴衣を着せるのだが、ソレが金魚柄のクシュクシュした子供用で、ベッドに寝そべった青峰は鼻で妄想を笑い飛ばすのだった。