なまえはシャワーを浴び、脱衣所に置いてあったガウンを羽織る。一気に大人になった気がした彼女だが、結び方を知らずに紐を持って呆然とするのが、あどけない。

 ベッドルームに戻ると巨大な液晶テレビが付いていて、裸の女性が喘いでいた。視線を外す前に飛び込んだ男優の逞しい身体に、先の火神を思い出す。

 横目で再度画面を見る。女優は恍惚そうな顔をしているが、粗いモザイクの向こう側、挿入部位に抉じ開けられる痛みを思い出したなまえは、眉を下げた。

 大きなベッドで青峰は横を向いたまま眠りこけていた。背中を丸め、引っ張られたTシャツが捲れている。ソコから腰元がチラリと見えているのだが、そんな"だらしなさ"にすら胸が締め付けられる。

 テレビを消し静かになった部屋を見渡せば、テレビにベッド、赤いソファー以外にはスロットマシンしか無いシンプルな部屋だった。床は赤と黒で壁はトーンの暗い赤。そしてベッドサイドには壁一面に大きな鏡。ソワソワする配色にオレンジの薄暗さが加わる。

 寝具に眠る男の横に並び、刈り揃えられたうなじを眺めていると、首の太さと長さに色気を感じた。昨日までずっと見て来た光景なのに、ホテルと云う場所のせいで、より色っぽく思える。

「――青、峰さん? もしもーし……」

 肩を揺すり声を掛けると、相手がモゾモゾと身動ぎをした。青峰は数回呻いた後、何時ものようにシャツを脱いで、上半身を裸にしてしまった。仰向けになった男は、蛍光灯の僅かな明かりにも顔面を苦くさせる。

「……今日は、ソッチの番だろ?」

「え?」

 眠気を堪えているのか、普段より更に声量が小さい。聞き返そうと耳を相手の口元に近付けたなまえは、次の言葉は聞き取れた。

「舐めろよ」

 青峰は目を瞑ったままなまえの後頭部を手のひらで包み、優しく押して胸元へ誘導した。日に焼けた板の一部が焦げ茶に染まり、中央に申し訳程度の乳首が付いている。素肌に触れると汗がクーラーに冷やされ、ヒンヤリした。

「な……舐めるって?」

「――んあぁ。舌で」

 青峰の寝惚けた返事さえ、緊張の材料になってしまう。会ったその日に愛撫された事を思い出した少女は、同じように飾り程度の突起を舌先で擽ってみる。すると、意識が落ちかけていた男の口が小さく開き、艶かしい息を吐いた。女性のソレと比べ、著しく小さく勃っても大きく膨張はしない。唇で挟むにも埋もれてしまうので、仕方無く舌を這わせて押すしかない。表面に塩辛さが無くなる頃、青峰は低く呻き声のような喘ぎを漏らした。

 頭を包む手のひらが髪を撫で始める。乳輪から舌を離し、上に進むか下に進むか悩んでいると、青峰は頭を押して下へと催促した。

 脇を滑るように小さく小さく舐めると、男は身動ぎする。青峰の右手は相手の頭を押したままで、左手は股間へと伸びていた。依然として硬くならないソコは、感度はあるようだ。

「――なぁ……。もっと、下……」

 なまえの頭上で、掠れた声が甘そうに呻いた。荒い息はそのままに、口を閉じた青峰は喉を鳴らして唾を飲んだ。反った首に浮き出た喉仏が上下し、また口が小さく開き喘ぎのような息遣いが始まる。

 男の手がベルトを外し始めた。カチャカチャと金具が当たる音が響けば、手は休まる事無くチャックを下げる。焦れた青峰は下着とジーンズを一気に脱ぎ、足で蹴飛ばす。

「――怖いか?」

 下部を見れず、浅黒い脇腹を枕にしたなまえはそう問い掛けられる。上半身を起こした青峰は、こちらを向き、垂直に寝そべった女のガウンの裏首から手を差し込んだ。そのまま背中へとゆっくり指先を滑らせると、両肩から二の腕に掛けて白い肌が露になった。

「怖いんなら……このまま寝るぜ?」

「変な事しないって、……言ってたのに」

 背中を指が通る度に肌が粟立つ程ゾクゾクしたなまえは、緊張で張り付く喉を必死に震わせ発声をした。

「変な事って何だよ?」

 丁度重なった天井の照明を逆光に、男には黒い影が落ちる。

「――知らない」

 ガウンは腰まで落ちて、なまえの上半身は薄い照明の元に晒された。ドラマや漫画のような展開に、夢を見ている気になる。世界中の恋人達は、こんなに艶めいているのだろうか。

「知らねぇのに、問い詰めたのか?」

 後頭部に唇を付けた青峰は、いかにもホテルらしい安っぽいシャンプーの香りを嗅いだ。唇が動く感触が、髪と皮膚越しに脳を擽る。

 下腹部には陰毛が見え、その向こう側には初めて肉眼で目にする男性器があった。赤黒くボテッとしたディテールに、小さい頃に見た父のを思い出した。そして前日に触れた――あの独特な弾力のある柔らかさを思い出してしまう。

 ツンと鼻を突いた刺激臭に、目を瞑り顔をしかめる。口を開いてクタリと地を向く性器を口に入れたなまえは、舌へ貼り付く弾力に例えられない何かを感じた。口に含んだ事があるような、無いような。初めての筈なのにそう錯覚したのは、その舌触りが自分の皮膚とさして変わらないからだろう。それでも勃起さえすれば、全体が固くなり血管が浮いて少女が知らないモノへと変化するのだが、不全の青峰にその兆候は見られない。

 通常サイズでも程よく大きい青峰の肉棒は、彼女の口のナカを征服し始める。少しずつではあるが、膨張してきている。

「……勃つかも、しんねぇ」

 初心者らしい下手くそなフェラチオだったが、久々の膨張感にまた唾を飲む。優しく吸われる度、滑る舌と口壁が密着する。

 突如なまえは口を離した。性器と舌を繋ぐ唾液の糸が切れた瞬間、俯いてボソボソ話し始めた。

「青峰さんは……好きでも無い人と、……こ、こういうの出来るんですか?」

「出来る」

 傷付くと分かっていながらも問い質した疑問の返事はたった三文字だった。しかし、その簡単な言葉はなまえを深く傷付ける。せめて嘘でも『違う。そうじゃない』と言ってくれたら……嬉しさで不安を抑え、身を委ねられたのに……――。

「そうですか」

 呟いてソッポを向いた少女に行為の続きを催促する青峰は、物足りなさを教える為に背後から抱き着いた。その白く滑らかな上半身に、血管浮いた手が艶かしく這う。

「っつーか、まだ怒ってんのか?」

 耳のすぐ傍――吐息が直接鼓膜を震わせそうに近い距離で、青峰はそう囁いた。

「――何を?」

「キャンプ場での事」

 下腹部の甘ったるい疼きに、子宮が優しく締め付けられた。

「……怒っ、てる」

 ウエスト部分や脇腹を撫で回す浅黒い手が、徐々に上へ上へと上がる。横乳を過ぎた時に、思わず身体が跳ねて恥ずかしくなった。

「悪かった」

 青峰は、抱き着き頭を抱えたままに相手の身体ごとシーツの上に横たわった。相手の二の腕が、少女の枕代わりになる。

 更に身体を引き寄せられ、頭を肩に乗っけられたなまえは、ダイレクトに皮膚に響いた背後の熱量に驚く。その厚い肩は枕にするには高過ぎるが、それでも素肌に触れられるのは嬉しかった。

「私は大人だから、許してあげます」

 その如何にも幼い上から目線を鼻で笑われたようだ。その後しばらく、後ろの男は何も話さない。聞かない。離れない。無言の時間が二人の間を過ぎていけば、なまえは気まずさを克服する為頭の中で羊を数え始めた。

「お前さ、彼氏と別れろよ」

「……え?」

 急いで羊を脳内牧場から逃がし「ねぇ、それって……」と聞き返した頃にはもう、青峰の意識は既に手放され、強制終了したかのように寝息を立てていた。

 "お前"と云う三文字の呼び方に、青峰からの拒絶を感じる。背中越しの体温だって、幸せを感じる程に近過ぎて辛い。まやかし物だって分かっているから辛いんだ。

 でも離れるのは、もっと辛い。

 二十歳までには、今日会ったあの美女のようになろうと心に決めた。まるでハーフのように美しい顔にスタイルだった。読書モデルと言われても納得してしまう程強烈なインパクトに、普通の少女は怖じ気付く。対して自分は、"若い"と云うアドバンテージしか無い。いや、それだって青峰が【年上趣味】だったら意味がない。

 帰ったらお洒落に明るい友人へ相談しよう。でも……彼氏と青峰大輝についてどう話せば良いのか、悩む。今の自分は、男にフラフラした只の浮気女だ。頭を捻っている内に考え疲れたなまえは、意識を飛ばした。





 ――八月三日。朝にホテルを出た青峰は、真っ直ぐチームの練習に向かった。少女をアパートまで送る事無く、わざわざ持ってきた意味が無くなったカートを引かせ、一人で帰らせた。

 ――今頃アイツはオレの部屋でクーラーも付けずに寝ているのだろう。馬鹿が熱中症になっても、知るもんか。

 週末に控えたファイナル戦を目前に、チームの熱気が高まっている今日、青峰を含めた三人の選手が最終調整も途中に、別室に呼ばれた。そこはミーティングに使用する長机とパイプ椅子、それとホワイトボードが置かれた白を基調とした清潔な部屋だ。三人の目の前には、昨年就任した監督が立っている。

 ガタイの良いその監督は片手でファイルを持って、片手で不揃いな顎髭を撫でている。年齢は四十代半ば。元チームのキャプテンで全日本代表選手と、輝かしい過去をお持ちだ。

「……呼び出された理由は、知っているな?」

 隣二人がプレッシャーと戦っている間、青峰はボンヤリしていた。呼ばれた理由はアジア選手権の代表内定についてだろう。最近選手の中でも専らの噂『代表選手が内定した』――それを本日、告げられるのだろう。

 監督は、ファイルを眺めたままに口を開く。三人は一字一句聞き逃さないように注聴した。


 ――おめでとう。

 中年男性がそう告げ、内定結果を告げた瞬間から二人の男は小さくガッツポーズをした。

「安達、町田。代表も大事だが、まずは目前のリーグ連覇だ」

 「ハイ!」と、威勢の良い声が室内へ張った。日本代表に選ばれた二人は、誇らしそうに監督へ視線を送るのだが、青峰大輝だけは視線を下げ混乱していた。

「明日から報道陣が来るだろうが、必ず俺を通してのアポイントを取れ。独断で許可無くインタビューに答えるのは、禁止とする」

 それが、今出来る最善のマスコミ対策だ。ゴーストライターが、質問へ正しい言葉を用意する。ゴシップが大好物な日本の報道陣は、選手に問題があればすぐ叩く姿勢に切り替える。

「特に青峰。気を抜くな、明日から各種メディアがお前のバッシングを始める。勝手な推測もあるだろう。噂も立ちやすい立場だ。プライベートも大人しくしてろ」

 青峰は、未だ何も言わないで固まったままだ。『自分は必ず選ばれる』と云う慢心が外れ、ショックが頭を揺すっているのだろう。顔色が優れず、呆然と立ち尽くしている。

 青峰は、告げられた【控え選手】と云う肩書きの意味を正しく悟ったのだ。

 ――違うぞ、青峰。一番辛いのは、輝かしい舞台でプレイが出来ない事じゃない。周囲やファンの軽蔑と優越を含んだ"自分を見る目"だ。それが各メディアに発表される明日から、代表戦が終幕するまでずっと続くんだ。

「――以上だ。今日から忙しくなるからな! リーグのファイナルも控えてるんだ! 気を引き締めろ! 今年も優勝するぞ!!」

 喝と激励を飛ばした監督は、バタンとファイルを閉じ三人の前を後にした。男が退室しドアが閉まったその五秒後に、片足を引いた選手が耐えきれずに後を追い始めたのだった。

「――控えって……どういう事だよ」

 部屋を出てすぐ、監督は声を掛けられた。特徴的なまでに男らしい声の主に検討が付いた中年男性は、肩をすかして答える。

「温存だ。協会とそう決断をした」

 その選手は昨シーズンも途中に、過度のオーバーワークで右肩のSLAP損傷を起こしていた。手術で強引に治療した青峰は現在も経過観察中で、術後六十パーセント程しか回復していない。ここが頭打ちだと医師も残酷な事を示唆した。それでもバスケしか知らない青峰は、限界まで留まる事を選んだ。

「そういう事聞いてんじゃねぇよ!!」

 廊下に怒号が飛ぶ。どうやら理由が気に喰わなかったようだ。自分が納得いかないなら反抗する。まるで駄々っ子と変わらない。

「今のチームに必要なんだよ、青峰お前が」

 この深傷のエースを下手に代表として出場させ、病状を悪化するだけと云うのならば、国内のリーグで満足して貰うべき――。それが上層部の総意だ。無理をさせれば選手生命にも関わる。今のリーグに居られるのだって、日本の競技レベル自体が他国に比べ低いからだ。

「そうだよな!! 金になるからな!? 海外に挑戦させる気なんか無ェんだろ!?」

 右肩を押さえた青峰は、心情までは抑えきれずに当たり散らす。吐露される不満は、直球で痛々しい。

「……何時までオレを飼い殺す気なんだよ」

 ギリギリと力が籠った褐色の指先が、肩へと食い込んでいた。少しでも無茶なプレイをした瞬間、肩に鉛を付けたような違和が青峰大輝を襲うだろう。手術で損傷を戻しても、完治出来ないと云う後遺症が残った。医師からはプレイの制限で競技への参加が下りている。

「今は、日本に居るべきだ」

 その命令に、青峰は歩みを男に近付けた。怒りが感情を支配したのか、顔を突き付け額で額を打つ。そして見開いた目でチームの監督を睨んだ。

「温い環境で舐めたプレイして、満足出来る人間じゃねぇんだよ。オレは」

 青峰は自分よりも一回りも年上の男性に、至近距離からメンチを切る。その強張った顔面からプレッシャーを感じたチームの監督は目線を逸らし、その流れで青峰へ背を向けた。

「肩を壊してまで人生を棒に振りたいなら、止める気は無い。……俺はな」

 青峰のその表情は、辞書の【憤怒】に添えたらきっと映えるに違いない。それ程までに感情を爆発させている。選手を宥める上辺だけの優しい言葉は、無い。

「合同練習は、二日後だ」

「どの面提げて行けって言うんだよ!!」

 泣きべそに似た言葉を飛ばされた。行けばきっと問われる。『何故、彼が補欠なのか?』……と、哀れみを向けられる。

 表向きに【裂傷は完治した】と云う声明を出したのは彼自身だ。その身体よりも立場を優先した判断は、後々に自分の首を絞めた。

 今更ながらに「肩の完治は見込めない」と報告を出せば、代表後も肩に爆弾を抱えた男だとレッテルを貼られてしまう。自身で世界への道を閉ざす事となるだろう。

「己が決めた事だろ? 青峰」

 置き土産の辛辣な言葉が胸に刺さって身体を裂く。通路に置かれたゴミ箱を蹴り飛ばした青峰は、大声で咆哮した。顔を両手で押さえ、喉が潰れそうになるまで吼えた。きっとミーティングルームに居るチームメイトにも、みっともないこの叫びが届いてだろう。もしかしたら、既に嘲笑の的かもしれない。

 誰かがオレを笑っていても構わない。

 鬱憤を全て出し切るんだ。明日から始まる"屈辱"の為に……――。

 【控え選手】なんて、代表入りもしていない哀れな肩書きだ。日本代表は総勢二十名。内、レギュラーを取れるのは半数。スターティングメンバーはさらにその半数と、狭まっていく。肩さえ完治していれば、オレだって国内プレイヤーの頂点に立てた。

 そう――ずっと憧れの存在で居たい。過去の人間となってしまうのが怖い。思春期からずっと栄光を駆け抜けた男は、初めての挫折に声を張り上げ嘆いた。

 神を憎むしか無い。

 憎しみは、この掠れた声に込めるしか無い。

 そうしたら、神は振り向いてくれるのだろうか?

 逆に……何も無くなった自分を見てくれる人物を神と呼ぼう。

 ――……オレにとって、神とは誰だ?