――八月二日。その日は各所で35℃を越える"猛暑日"だった。そんな太陽が頑張り過ぎた週末に、ある男がプロリーグ協会からアポイントメントを受ける。大きなビルの一角。全面がガラス張りの豪華な建物は、青い空を反射させそびえ立つ。

「オ……私をお呼びですか? 会長」

 一番奥の部屋に通されたスーツの男は、手に提げた上着を案内してくれた受付へ手渡した。そして、目上の人間に対して『オレ』と云う砕けた表現を使いそうになった事に頬を掻く。

 男の名前は【笠松幸男】。黒髪を短く切り揃え、黒々しい眉が幼さを醸し出す。身長も178cm。普通に色を付けた体型も相まって、バスケットプレイヤーにしては小柄な印象を持たせる。

 呼び出した協会の長は、彼と入口に背を向け着席を促す。「ッス」と、短く挨拶した笠松はソファーに浅く腰を掛け背筋を伸ばした。

 言われる内容は予想が付く。――来月から始まるアジア選手権の話だろう。アジアに属する各国が、オリンピックへの駒を掛けて激闘する。五輪の次回開催国は、ここ日本。自国が選ばれないとなると、競技界が手放す損害も大きい。『開催国だから』とお情けの出場では、恥を掻くだけだろう。

「君達には期待している。アジア選手権を、突破して欲しい」

 その軽々しい激励と命令に笠松は眉を上げ、怒りに似た呆れで言葉を返す。

「イランや中国に勝てなんて無謀過ぎませんか!? こんな時期に招集掛けて!!」

 張りの良い声が、豪華な絨毯に吸い込まれる。日本は現在、アジア諸国の中でもランク9位。鳴かず飛ばずである。上位チームに食い込むには奇跡を起こすしか無い。

 そしてアジア選手権は開幕が8月後半だ。自分達には今リーグのファイナルだって控えている。そんな時期に日本代表を招集したって、調整も間に合う筈がない。限界ギリギリまで肉体を酷使させ、デスマーチをする他無い。選手権が終わる頃にはボロボロになるだろう。

「無理だと煽りたくはありませんが、準備期間が足りません!」

 気持ちが良い程の言い切りに、初老の男性はクックッと笑う。役職は楽だな。こんな豪華な部屋で、高見の見物してりゃ良いんだから……――。

「メンバーは、こちらで選考した。各種リーグとの兼ね合いだ」

 笠松は、運営から二枚の紙を手渡される。どうやらコピー用紙数枚で、数ヶ月――いや、オリンピック選手代表して激闘を共にするかもしれない仲間が告げられる。

 使える選手は一握りだろう。世界に通用する人材は、彼が知りうる中でも片手で足りる程しか知らない。そして、悔しいがそこに自分は居ない。

 かつて栄光を欲しいままにした【無冠の五将】も【キセキの世代】も、この道に残った者はほんの僅かだ。彼の後輩である【黄瀬涼太】はプロの世界の温さに辟易し、芸能界へ進んでいた。世界大会なら、喰らい付いてはくれないか……? 誘う台詞までを考えた笠松は、頭を左右に振った。

 全日本代表は控え選手も入れて、総勢二十五名。自分の名前の横に主将の証であるマークがあるのは、擽ったく誇らしい。

 選手一覧は名前順らしく、自分のすぐ上にある男の名前に口角が少し緩んだ。カから始まる名字の男。新設校から突然頭角を現した男だ。飛距離の高い強引なダンクと、譲らないタイマンプレイで流星の如く出現し、その名をプロの世界にまで刻んだ。コイツを飼い慣らすのは骨が折れる。

 しばらく選手名に目を流し、名簿も終わり付近にあった名前に眉を下げた笠松は安堵の溜め息を吐いた。日本で一番の長身プレイヤーは健在している。普段は猫背気味な広い背中が真っ直ぐ伸びた時、ソイツは本気を出す。暴君と化した彼を手なづけられるのは、あの人物しか居ない。

 思わず見落としてしまった。ハ行に名を連ねた泣きボクロを色気顔に魅せるこのプレイヤーも、高確率でスターティングメンバーに選ばれるだろう。

 意外だったのが、【黛千尋】の名前だった。上記の氷室辰也と黛千尋はリーグが違う為、記事や噂でしか話を聞かない。人を惹き付けるプレイが目立つ氷室と違い、黛に関しては情報が出ない。故に、彼のポテンシャルは謎に包まれている。

 ここまで全てが個性に溢れた面々だが、一番の問題は"スーパーエース"に値する【あの男】だ。敵になったら最も厄介で、味方になっても厄介な男……――。

 圧倒的なオーラとセンスで、他人のプレイを霞ませる。アイツに言う事を聞かせるのなら、猿に命令した方がまだ有意義だろう。

 ――しかし、存在そのものが勝利を確信させてくれるのだ。彼をチームに起用するとなれば、多額の金と多数の支持者が動く。彼の試合を観れば、殆どの観客が魅了されてしまう。されないのは、その才能に嫉妬するしかない輩層だ。

 フンと生意気に笑いながら、一覧の最初に目を流した笠松幸男は、一番最初に記された名前に固まった。

 名簿の始まりは【安達雄太】から。ア行に属する名前は、上記以外に二名しか居なかった。

「各選手へは、明日正午に連絡を入れる」

 笠松は、コピー用紙を握ったまま名簿から目線を外せないで居る。頭の中は「何故?」が渦巻き、混乱が混乱を呼んだ。

 男は知りたがった。――あの絶対的なエースは、何処に消えてしまったのかを。消えたのなら、その理由を教えて欲しい。

 その答えは、慌てて捲った二枚目にあった。





 八月二日。長針もあと半周で日付を跨ごうとしている深夜。名誉ある日本代表に選考された【火神大我】は、思春期真っ只中の幼い少女を蹂躙していた。

 黄色い下着の縁に手を掛けると、目元を押さえていたなまえの手が、下腹部へ伸び自分の邪魔をする。

「剃ったのか? コレ」

 下着の下に隠れていた恥丘は真っ白で、無駄な毛が一切無かった。幼さ顔に相応しい仕様に、男は赤い髪を震わせ肩で笑う。剃った犯人に目星を付けた火神は、わざとらしく聞いた。

「誰かに頼まれたのかよ?」

 下着を脱がすのを止め、少女のふくらはぎ途中に掛けたまま、手のひらで下腹部を撫でる。

「やだ!! やだやだやだ!!」

 語彙の乏しい16歳は同じ台詞を繰り返す。最早泣き声に近く、時々鼻を啜る。明るい蛍光灯に照らされた年下の女は、明後日の方向を見て現実から逃げようとする。王子様でも待っているのだろうか?

 ――それならオレは何だ?

 恥丘からゆっくりと指を滑らせ、空いた手で侵入を阻止しようと健気に擦り合わせ始めた膝を割った。

「もっとデケェ声で喚けば、助けが来るかもな?」

 弱々しい手で必死に自分の手を掴んで拒む姿がいじらしく、愛くるしくも見える。だから火神はその手を取り、自分の股間へと導いた。触れた瞬間、驚きに見開いた目が潤む。

 触るのすら初めてなのか、なまえは息を絶え絶えに吸う。知らないモノが怖いのだろう。布地一枚に隔たれた男性器は熱く凶暴で、反り返る程に充血している。

「スゲェだろ……? 入んだよ、ココに」

 右手人差し指を秘部に押し付け、先端で狭い穴を抉じ開ける。女性器を無理矢理開発される痛みに身体を仰け反らせ、なまえは本能的に逃げようとする。身体の反応に数秒遅れ、悲鳴が口を出た。

「やあぁぁぁ!! 痛いいぃぃぃぃ!!」

 部屋に言葉としてもあやふやな叫びが響く。犯罪めいた声色に、火神はまた少女にのし掛かろうした。

 その声以上に激しい音が響いたのは、客室のドアが開き、外部から助走を付けた巨体が右手を振りかぶったからだ。

 部屋に押し入った男は、少女の上にのし掛かっていた相手の頬へ、何も言わずに拳を叩き込んだ。鈍い打撲音と、女の甲高い悲鳴が薄暗さの中に響く。

 相手の巨体を吹っ飛ばす程強烈な一撃は、殴った男も無事では済まない。右指が熱を持ち痛む。押し入った男――……いや、青峰は渇いて張り付く喉を震わせた。

「……何、してんだよ」

 肩で息を弾ませる青峰大輝は、興奮した身体を落ち着けようと深呼吸を繰り返した。

 ベッドの上では、仰向けになり顔を隠した一人の高校生が泣いている。白い太ももがTシャツから伸び、その途中まで丸まった下着がずり下げられている。胸糞が悪くなると同時に、未だに信じられない。火神大我が、同意もなく女性を手込めにする人間だとは……。

 火神は殴られた反動で向こうを見たままに、動かない。俯いた顔は前髪で目元が隠れている。呟いた唇は半開きで、頬が少し腫れ気味だった。

「火神。ソレは……ガキ相手にやるモンじゃねぇ」

 青峰はそう吐き捨て、痛む右手の拳を強く握り、痛みで嫌悪感を排除しようとした。

「――……お前らしいプレゼントだな」

 自分に拳を叩き込んだ青峰へそう言った火神は、腫れた頬を一度も擦る事せず立ち上がる。瞬間、なまえが身体を強張らせたのを切なそうな顔で見つめた火神は、脱ぎ捨てたハーフパンツを拾い上げ客室から姿を消した。

 その僅か数分後に日付がまたひとつ進み、彼の21歳が幕を開けた。

 きっと火神は待っていた。こうやって歪んでしまった性癖による暴走を、誰かが止めるのを待っていた。鍵を閉めなかったのが証拠だ。

 都合の良い言い訳で"火神大我"を正当化させた青峰は、小さくなり泣いているなまえへ乱暴な口振りで命令を投げた。

「……帰るぞ。準備しろ」

 自分でも酷い言葉だと思う。でも、男は――泣いたオンナにどう接するのが正解なのかも知らない。だから、いつも通りにしか接する事が出来ない。泣き声止まない静かな部屋に、またひとつ低い声が不器用な台詞を紡いだ。

「メソメソ泣いても良いけど、パンツ位は履け」





「――っだっから、田舎は嫌なんだよ!」

 週末ダイヤにより電車が無い事を知った青峰は、自宅に一番近いあの無人駅への文句を言いながら頭を掻いた。火神のマンションの近くに位置するこの駅は、大型デパートが隣接されている。シャッターが閉まり閑散としたソコは、あと数時間後には人々が集い賑やかになるのだろう。

 巨大な交差点にある信号機の赤点滅だけが、暗闇でチカチカと瞬く。高校生のなまえからしたら、まるで現実離れした光景だった。

「泊まるぞ。タクシー使うより安い」

 頭を抱えたままに唸り済んだのか、クルリと方向転換をした青峰は独り言を呟いた。

「こんな時間に空いてるラブホなんかあんのかよ」

「ラッ……ラブホ!?」

 声を裏返し思わず反応したなまえを、青峰は八つ当たりのように睨んだ。

「クソガキに変な事する程、飢えてねぇよ」

 そんな嫌味を残したままに青峰は先に進んでしまう。また三歩後ろを歩くしかないなまえは、青峰の横に桃色のポニーテールを靡かせた美女の幻像を見た。

 ――あぁ、お似合いだ。

 圧倒的な敗北感を感じる前に、幻像を消した。そんな事をしても、彼女の存在はこの世から消えない。――もし目の前の男が、憧れているその美女と付き合うようになったら……そんな世界滅べば良い。

 寝不足からか、平凡に毛が生えた少女は考えがネガティブになる。火神の事を思い出して、また泣きたくなる。自分が我慢すれば、優しかった男が傷付かずに済んだ。私の軽率な判断が、昨日と云う"特別な日"を滅茶苦茶にした。――二人の男から恨まれても仕方無い。上を向いて鼻を啜ったなまえは、既に離されていた距離を早歩きで埋めた。せっかく彼が持ってきたのに、また戻る事になったキャリーケースの音が、彼女の後ろを追い掛けた。

 ――こんな祝前日の土曜夜にホテルが見付かったのは、幸運としか言いようが無い。外観が古ぼけてはいたが、泊まるのに問題は無いだろう。

 ラブホテルなんか友人との会話のネタでしか知らなかったなまえは、巨大なベッドに驚き、そして喜んだ。興奮のままに靴を脱ぎ寝具にダイブしたのだが、固いマットレスと独特の匂いは予想と違い口を尖らせた。

 青峰は、大きなベッドにはしゃぐ女子高生を鼻で笑う。うつ伏せに寝転がって大の字になったなまえは「フカフカじゃない!」と文句を言いながらも、贅沢にキングサイズの寝具を堪能する。

 信用されているのか何なのか……――あんな事があったのに、なまえは二人きりの青峰を警戒しない。その態度が『どう対処していいのか』と男を悩ませる。下手に慰めれば、火神大我を意図せず悪者にするだけだし、最悪は女がまた泣き出すかもしれない。

「……大人の世界なんて、お前が思ってるより良いモンじゃねぇよ」

 頬杖付いて真っ赤なソファーに座る青峰は、幼さ残る女子高生にそう言う。

「……憧れは、憧れのままが良いって……漫画で読みました」

「漫画って、子供かよ?」

 自室にバスケを題材にした漫画を多種重ねる男は、自身を棚に上げそう野次った。

「子供です」

「都合の良いオンナだな、お前」

 開き直りに似た少女の言葉に、青峰は呆れたのだった。

「なまえです! 私! ……なまえって言います」

「どうでもいいな、ソレ」

 三人掛けソファーに寝転がった青峰は、素っ気なく言葉を返す。やはり壁を感じて胸が圧迫される気がしたなまえは、ベッドに顔を埋めた。

 ……苦しい。親しげに美女の名前を呼び、髪を触る愛しそうな顔が脳裏に焼き付いて離れない。羨ましい。あんな風に優しい眼差しを向けられる女性が、心底羨ましい。

「彼女、作らないんですか?」

 仰向けになっている男は目線だけを少女に向け、端的に答えてくれた。

「出来た試しがねぇ」

 そう呟いた青峰は生まれてこのかた、正式に女性と交際をした事がない。"身体のみ"と限定された付き合いはあるのだが、心までを他人に委ねた事は無い。それがモラルとして正しいかどうか自信はないが、少なくとも生活する上で不自由は無い。肉体関係だけで十分だ。

「勿体無いですね」

「別に、彼女じゃなくてもエッチ出来るしな」

 大人で節操の無い発言にベッドの上で身悶えたなまえは、過去青峰に抱かれたであろう女にさえ嫉妬した。

「――ソッチ、行っても良い? ……ですか?」

 ソファーの方を指差し問うのだが、男は無視する。溜め息を吐いたなまえはマットレスを軋ませ、素足のままに床を歩く。許可無く彼の元まで歩み寄れば、退く気が無い青峰は冗談を口にする。

「襲うぜ?」

 立ち止まり眉を下げたなまえは、冗談に狼狽えてしまう。今度は青峰が溜め息を付き、ソファーに座り直した。緊張しながら空いたスペースに座れば、隣から質問を投げられた。

「彼氏とは、いつエッチすんだ?」

 青峰は、とりあえずの話題として出したのだろう。流れるような口調からは興味の無さが明け透けていた。顔が熱くなったウブな処女は、荒い口振りで言葉を返してしまう。

「秘密、です!」

 軽く叩こうと拳を握り、男へ振り上げる。相手に当たる寸で、大きな二本の手で両手首を掴まれてしまった。相手はプロのスポーツ選手だ。素人の動きなんて、取るに足らない。

 あ、と発声する前に身を引き寄せられたなまえは、鼻から青峰の胸元へ突っ込んだ。汗と煙の匂いがして、お世辞にも『良い香り』とは言えない。――でも、鼻に付いた彼の体臭は自分好みだった。

 あの部屋の匂いが好きだ。男臭いし、清潔感は薄い。でもあの部屋の香りは、彼にしか似合わない。彼の為の匂いや香りなのだ。 いつの間にか――いや、きっと最初からソレを好きになっていたに違いない。

「……火神ン時は、あんなに嫌がってたのにな?」 両手の自由を奪われ、胸に顔を埋めるしかないなまえは震える声と脳で必死に言葉を繋いだ。

「あの人は、お兄ちゃんみたいな感じだったから……っ!」

「――……オレは? 兄貴じゃねぇの?」

「秘密……、です」

 意地の悪い質問は、益々なまえの思考を塞いで邪魔する。彼女の頭の中は色んな事で渦巻いている。

「秘密が多いな」

 白い額に掛かった髪を大きな手で掻き上げられる。目が合うと急に恥ずかしくなって視線を逸らしてしまった。

 二人の主従は、今完結した。少女は男に逆らえない。

 年下だからじゃない。
 居候だからじゃない。


 愛してしまったからだ。


 恋愛とは――どんな境遇であっても、惚れたら負けだ。目が泳いだなまえは、青峰の胸板に視線を集中させた。同級生には無い逞しさを持つ。浮き彫りになった胸は、皮膚の下に鍛えられた筋が詰まっている。触ればきっと固く、その雄臭さに気持ちが悪くなるのかもしれない。

 ……でも、それが青峰大輝のモノなら触りたくなる。固く生温い皮膚の内側の、生命溢れる鼓動を聞きたくなる。

「お前、どこ見てんの? それも秘密か?」

 青峰はなまえの俯いた顔を覗き込み、真っ赤になった小さな額を小突いた。

 深く残る眉間の皺。
 細長い目と眉。
 蒼く小さい瞳。
 筋通った鼻。
 薄い唇。

 傍に居られるだけで幸せだ。

「名前……呼んで下さい」

 せっかく教えたんだから。特別扱いをされたい彼女は、苗字では無くて名前を教えた。

 黙ったまま何も言わない青峰は、相手の顎を軽く掴み親指で唇をなぞる。

 真剣では無い。
 ふざけても無い。
 怒ってもいない。

 感情の無い表情を崩さず、唇だけを動かした。

「お前に惚れたら、その時は呼んでやるよ」

 唇から親指が外される。顎を持ち上げられると、少女は自然に目を閉じた。瞼の裏に広がる暗闇の中で、柔らかいモノが触れ……頭が破裂しそうだ。

 ――それはなまえが、初めて経験するキスだった。