まるで馬鹿げた
   メロドラマ

信じるものがあるならば

 靴下のまま住宅街を走るが、彼女の姿はどこにも見えない。舌打ちを静寂に響かせた宮地は、逆方向へ走り出す。足の裏にデコボコしたアスファルトと小石が刺さった。その感触が、一瞬だけ頭を冷静にした。

 ――何やってんだよ。

 文子を捕まえて何をするかも決めていない。殴られ罵られるのかもしれない。コレも番組の一環だったら……。

 逆方向に走って正解だった。五十メートル先に小さな少女を捕らえた宮地は、靴を雑に履いて全速力で走る。ネルシャツが肩からずり落ちても、直しもせずに走った。

「逃げんじゃねぇよ!!」

 宮地はその細い手を握り、迷惑すら考えずに声を荒くしていた。息が弾み、肩が上下する。

「離して!!」

 文子は掴まれた手を振りほどこうと暴れる。勢い余って爪で引っ掻かれた宮地の腕には、二本の赤い線が出来た。ソレを見た彼女は、シュンと大人しくなる。

「……離せばお前は喜んで風俗堕ちんのか?」

 腕の傷から血が滲む。しかし宮地は掴んだ手を離さない。彼が更に強く握るのと、文子がヒステリーに叫ぶのは同時だった。

「風俗って何だよ!!」

「風俗だろ!! 裸晒して、オナニーのお手伝いだもんな!!」

 高校時代の自分が今の自分を見たら、笑うかもしれない。『もっと本気になる場所あんだろ?』……そう言ってバスケを免罪符に逃げるのだ。

 努力、忍耐、根性。努力。努力。努力。

 ――それで成功する輝かしい少年漫画の時間は終わった。だが、彼の人生はこうやって進む。

「離して!!! 宮地なんか大嫌い!!!」

「じゃあ最初から人に関わろうとすんじゃねぇよ!!! 刺すぞ!!!」

 このまま握り潰すんじゃないかと思う程に、掴んだ手に力が入る。離したいとは思わない。物騒な脅しは、冗談でしか言わない筈だった。宮地は身勝手な相手に振り回される怒りで、頭がゴチャゴチャになっているのだ。

「……アンタは、可愛い綺麗な、お嬢様と……映画みたいな、恋愛……すりゃ良いじゃん!」

 文子は鼻を啜る。涙声は聞けたモンじゃない。グスグスと情けない音が辺りに響いた。彼女が言いたい事は分かる。自分との関係を清算したいのだ。

「嫌々しながら私とエロ漫画みたいな人生送らなくても良いじゃん!! 偽善で居るならほっといてよ!!」

 男は頭が突沸したように熱くなり、目の前が見えなくなる。気付くと右手が彼女の柔肌を叩いていた。ギリギリで力を抜いたおかげで、パチンと気味の良い音だけが響いた。

 暴力を奮った事がショックで、宮地は両手をじっと眺めた。

「……悪ィ、手ェ上げるつもりは……」

 そう言い掛けた途中に激しい痛みが頬を襲い、視界が右にずれていた。バチーンと乾いた音の後、宮地は「うっ!」と仰天の声を上げる。軽い平手打ちを何倍ものビンタで返した文子は、怒りに任せて叫んだ。

「二度と叩かないで! 暴力男!」

「悪かったって……」

 宮地は、彼女に憤りを感じて叩いた理由が分からなかった。頭はボンヤリして、文子を見ると胸が痛い。

 喧嘩騒ぎに気付いたのか、近所の家から家主が顔を覗かせる。これ以上騒げば警察が来る。二人で補導デートは御免だ。

「ウチ来ねぇ? 腹減っただろ」

 このまま別れるのも後味悪く感じ、男は涙を流す相手を自宅へ誘った。

「意味判んない。関わらないでって、言ってんじゃん」

「お前、生意気だな?」

 もう一度強引に握った宮地の手は振り払われる事無く、お互いが僅かに震えていた。


   2


「マジで整形と豊胸すんの?」

 部屋に着いてすぐ、そんな情緒無い事を聞いてしまう程に宮地は会話に困っていた。だが相手は、意外にもすぐ質問に答えてくれた。十日振りに部屋に招いた男は前回と同じくティッシュボックスを差し出す。

「そりゃこんな顔と胸じゃ、売り物にならないし」

 鼻を噛んだ文子は、鼻先を赤くしながらごみ箱へと塵紙を捨てる。暗闇じゃ気付かなかったが白目まで真っ赤で、痛々しかった。その小さな身体でどれだけの葛藤をしているのか、考えただけでやりきれなくなる。

「マネキンやってりゃ内側なんか何だって良いんだから、楽じゃねぇか」

 ポツリと呟いた宮地は、まるで自分を皮肉ったようで嫌になった。好きになるのに、内側なんかどうだって良いのだ。内面なんて理想像を勝手に組み立て、違うのならば無理に変えさせて、それでも駄目なら周囲に愚痴って捨てれば良い。ソレで『人間は中身が大事』と言うのだから笑える。

「宮地って、好きなタイプ何?」

 小さく聞かれた質問は、嫌味のような答えで返してやる。

「人の事、ボコボコ殴らねぇ女」

 その解答のお礼は、一発のパンチだった。みぞおち付近を殴られ、宮地は痛みで身体を折り曲げる。

「言った傍からかよ! 本ッ当可愛げねぇ女!!」

 ベッドに並んで座った文子は、化粧がドロドロに溶けた顔でコチラを見つめた。その顔が"笑える"だなんて言えない宮地は、ただ見つめ返す事しか出来ない。

「……可愛げあったら、好きになってくれんの?」

「……は?」

「やっぱ私、アンタ嫌い! ムカつく!」

 今度は何故か脛を蹴られ痛みに堪える宮地は、相手の本心が分からずに苛立ちばかりが積もる。

「何なんだよお前は! 好きだの嫌いだの!」

「好きだなんて言ってない!」

「言った!」

「言ってない!」

 意地っ張りの延長になりそうな会話を早急に取り止めた男は、額を押さえて溜め息を付いた。

「何なんだよ、マジで」

 何故、彼女を隣に置きたいのか分からない宮地清志は、モヤモヤが内側に広がるのを感じる。数分の無言の後、文子が彼のシャツの裾を掴んだ。

「……嫌いだけど、初めては……宮地に貰って欲しい」

「……何言ってんの?」

「知らない奴とするよりマシなの!!」

 彼女の手に自分の手を重ねると、体温と共に僅かな震えを感じた。耳を澄ませると、相手の歯はカチカチと音を立てていた。……こんな時まで強がるだなんて、馬鹿な女だと思った。

「震えてんじゃん。本当救いようねぇ馬鹿だな」

「緊張するに決まってるでしょ……馬鹿……」

 お互いを馬鹿にした宮地と文子は、少しだけ空いていた距離を縮める。愛も糞もない、ローカルバラエティーの台本でしか繋がりの無い二人は、その日初めて指示に無い行為を始めようとしていた。

「…………返せって文句言っても、返せねぇからな」

 文子の肩を抱き、目を閉じ相手にキスをする。ソレは両者とも唇がカサカサで、気持ち良いとは言えない口付けだった。


 初めての性行為は、愛の囁きも無く始まった。息だけが荒くなり、唾を飲む音が聞こえた。二人の足先はシーツが擦れ、どちらかが身動きをすればベッドが音を立てる。

 『バックが良い』と言ったのは文子で、宮地はただ従った。後ろから抱き締める事もせず、片手で胸を愛撫した。垂れた乳房はいつもより柔らかく、重く感じた。

 避妊具を無言で付け、また相手にのし掛かる。右手を回し、女性器を弄ると準備が出来ていた。指に纏う愛液を内股で拭いた宮地は、反り勃った自身を入口へ当てた。

「……嫌い。宮地なんか、嫌い。気持ち悪い……」

 嫌い、嫌い、嫌い……。

 喘ぎに混じり、呪詛のように吐き出されるネガティブな言葉。聞きながら腰を振る趣味は無い男は、うなじに一回だけキスを落とすと、腰を深く打ち付けた。秘部の肌が重なる瞬間、パチンと平手打ちのような音がする。

「……オレはただ、お前の事――」

 下に組み敷いた相手の言葉は止み、荒い息遣いだけが聞こえた。いつも通りの静かな部屋に、知らない呼吸音。

「……ムカつくんだよ」

 男は言いたかった言葉を飲み込み、また作業のように腰を振った。文子の背中桃色に染まり、すごく官能的に見える。だけど……性行為がこんなに寂しいモノだとは思わなかった。

 嫌い、嫌い……アンタなんか、大嫌い。

 彼女から再度吐き出され始めた呪詛は涙混じりで、切なさに色を付けた。


   3


 ――きっかけは、高校一年生の三学期。彼は覚えていないだろうし、気付いていないが……文子は高校一年生の時にクラスが一緒だった。

 宮地清志は、ルックスと高身長のお陰で入学当初から学年でも目立った存在。対する自分は、ガサツで男勝りな性格のせいで周りには同性の友達しか居なかった。教室の後ろで楽しそうに話す宮地の笑い声を聞くのが嫌いだった。その近くには、クラスで人気の美少女達が居たから……。

 三学期の席替えは宮地の後ろ。隣の席だったらもっと仲良くなれたのかもしれない。でも文子は、彼の綺麗な髪を近くで見れるのが嬉しかった。退屈そうに首を傾けると流れる蜂蜜色の襟足。

「宮地君、文子ちゃん黒板見えないってさ」

 ある日、彼の隣の女子がそう言っていた。いつも後頭部を眺めていたから、きっと困っているように見えたのだろう。

「あ、悪ィ」

 宮地清志はそうだけ言って、次の授業から机へ突っ伏すように板書を取るようになった。――喋り掛けられたのはそれっきりの、三ヶ月だけの関わりだった。

「……オレ、ガサツな女駄目なんだよ。悪ィな」

 そう言われてフラれた高校一年の終わり。それ以来、男勝りな性格を消す努力を始めた。上手く行かなかったから、たまたま見たドラマのヒロインを真似した。ガサツで乱暴な性格をお嬢様気質で隠し、自分を変えた高校三年生の終わり。

 そして今年の春休み。いかがわしい事務所にスカウトされ、ふたつ返事でOKした。人生の転機だ。

 彼の進学した大学の食堂。生まれ変わった風貌で自分の名を宮地に告げた。二年振りに話し掛けたら、宮地清志は自分を覚えていなかった。一年同じクラスで、三ヶ月後ろの席で、告白までしたのに……文子は、彼の中で"とうに消えた存在"だったのだ。

 だから、最後の望みとして……バスケサークルの主将に頼み込み、無理矢理企画に応募して貰った。――宮地の名で。



 もし宮地清志が、彼女との出逢いを"偶然"だと思っているのなら、それは間違いだ。……だって、全ては文子が裏で仕組んだ事なのだから。

 カーテンの隙間から白んだ空が見えた。冷房無くてもまだ涼しい朝方は、遠くの空から明るくなる。初夏の朝は、一番空が綺麗で空気が気持ちよくて、心踊る時間帯だと思った。

「……ごめんね? 宮地、ごめん」

 声は裏返り、涙で視界が滲む。行為中にあんな事しか言えない自分が嫌だった。可愛げの欠片も無い、抱くには最悪な女だ。

 もし感情に従い、本心を伝えていたのなら……彼女は幸せな朝を迎えていたのだろうか。ワガママ言って一夜を共にさせた代償は痛くて苦しかった。

 『ムカつく』の言葉が宮地の本心なのかを知りたくなくて、文子は彼が起きる前に部屋から姿を消した。


 ――数時間後。アラームで起こされ頭を掻いた宮地は、文子がベッドから姿を消している事に気付いた。

「……挨拶もしねぇのかよ」

 大きく欠伸をして、再び枕に顔を埋める。初体験明けの朝は、最低最悪な気分だった。紅く染まった華奢な背中しか記憶が無い。つまらない行為の感想は『こんなモンか』……。

「……やり直してェ」

 宮地は枕に溜め息吐いて、深く後悔する。言えずに飲み込んだ"ある言葉"を伝えていたのなら、状況は変わったのだろうか。――そう考えても、今はもう遅い。


   4


 十二月某日。その日は初めて雪が降った。チラチラと風に舞うだけの微量な結晶は、講義室の外で踊っている。落下しているとも言うが、どちらでも良い。どうせ今日は積もらない。

「あぁー……。死んだ、俺死んだよ。宮地」

 試験の結果を見た友人は机に突っ伏して『不可』の数に落ち込んでいた。今年の冬休みは補習に追試に忙しそうだ。

「先輩に殺されんな。恋愛もバレたばっかだろ?」

 友人の結果を覗き込んだ宮地は、自分の結果を見せる。『不可』は無く、まずまずの評価だ。恨みがましい視線を送った友人は、溜め息を吐いて机に頭を打ち付ける。

「あん時、映画なんか観に行かないで、勉強してりゃ良かった……」

「浮かれてたのにな! 初彼女だって!」

 宮地はゲラゲラと笑った。結局、あの合コン相手と恋人同士になれたまでは良かった友人だが、数ヵ月でサークルの先輩にバレた。こびっとく叱られた癖に、試験前無惨にフラレる。踏んだり蹴ったりの結果、このザマである。来年はお払いに行くと良い。

「良いよなァ、お前は。ミスコンちゃんにフラれても他に女が居るから」

 はぁー……と息を吐き、宮地は暖房付かない講義室の寒さに震える。何故か知らないが、宮地があのミスコン女に"フラレた"事になっていた。修正するのも面倒で、彼はプライド高いメス犬に手を噛まれたと思う事にした。

 無言になった二人は、各々が寒さにウンザリしながら黙り込んだ。会話が無いと、後ろのグループの話が耳に届く。冴えない大学生らしい風貌の二人が、ヒソヒソと話していた。

「なぁ、聞いたか? ウチの学部、グラドル居るってよ」

「マジで?」

「貴司が動画落としたって、着エロギリギリ」

「他人の空似じゃなくて?」

「それな。最近来てねぇって、信憑性高くね?」

 カタンと立ち上がる男がして、目を瞑っていた友人は片目を開き隣を見る。宮地が立ち上がり、後ろを振り返っていた。

「名前は?」

 恐ろしく背の高い、お洒落で格好良い男が急に話し掛けてきたのだ。後ろの席の学生は、引いたような態度で相談を始めた。

「何だったっけ? あぁー……。忘れた」

「……文子か?」

 焦れた宮地はドカドカと後部座席へと進み、遂には片方の生徒の襟首を掴んで脅す。

「文子って名前じゃねぇのか!?」

「宮地! どうした? いきなり!」

 友人も立ち上がり、殴り掛かりそうな宮地を後ろから羽交い締めにする。ザワザワと室内が騒がしくなり、全員が背の高いイケメンを視界に入れた。

 宮地は両手を離し、机を叩いて尋問を続ける。

「思い出せよ!! 文子だ!! アイツ最近大学来てねぇんだよ!! テストもだ!!」

「肉便器ちゃん!?」

 宮地の友人が目を見開き、夏頃に二度だけ目にした女性を思い出した。そして、普段はアイドルにしか興味無い筈の宮地が、身近な女性に食い付いた事へ驚く。

「動画見せて貰えば? おーい! 貴司!」

 少し離れた席に居た貴司と言う生徒が迷惑そうな顔してコチラへやって来た。彼からスマホを渡された宮地は、中央の再生ボタンを押す指が震えた。

 もし動画に映るのが彼女だったら……自分は次の行動をどうするのだろうか。手にした機器を破壊し、粉々になるまで踏み抜くかもしれない。最悪はやり場の無い怒りを持ち主に奮い、八つ当たりをするかもしれない。

 ボタンを押せなかった宮地はスマートフォンを持ち主へ突っ返し、荷物を掴んで講義室を後にする。

「……っつーか、文子って誰?」

 スマホを受け取った貴司は、背の高過ぎる宮地を見送った後に小さく呟いた。彼がダウンロードしたアイドルは、二つ上の学年の女子生徒だった。


 ……宮地は何もかもが嫌になっていた。挨拶も言わずに消えた彼女の行方も、順調にアイドル活動を始めたであろう事実も。――文子が、どこか遠くへ行ってしまったような虚脱感を感じた宮地は、一度だけ立ち止まり廊下の壁を殴った。

 あの夜以来、彼女は数ヶ月もの間姿を見せず、大学はこのまま冬休みへ突入しようとする。早足になりながら講堂を脱出した宮地は、その足で生活管理課へと向かう。