――その夏、黒子は入院をした。何て事はない、少し重い【食中毒】だ。16歳の少年を苦しめた菌の名前『カンピロバクター』と云う響きが良かったからか、相棒は何回もソレを口にした。点滴を打ち、朝から続く頭痛と腹痛に疲弊しきった黒子は、そんな子供みたいな相手を放っておく事にした。代わりに眼鏡を掛けたチームの主将が「いい加減うるせぇ火神」と静かに注意する。
部活前に面会に来た二人は、十分程で帰っていった。部活が終わる頃には面会時間外になっている為だ。六人収容のこの大部屋から二人が帰れば、隣のベッドから漏れる野球中継の音だけが部屋に残る。高齢により骨折した肉付き良い隣の男性は、またヘッドホンをしていないらしい。右隣の窓際ベッドは空いている……と言うよりは、この部屋には自分も含め、三名しか居ない。
向かい側、入口から一番近いベッドは、常にカーテンで遮断されている。患者を一度も見ていない、お見舞いに来る人間も居ないようだ。咳払いや、咀嚼音等の物音ひとつもしない事が不気味だった。それでも周りより少し遅れはするものの看護師が食事を運んでいるのを見掛けた。だから多分、人は居る。黒子も黒子で気配を消すのは得意だが――ああまでに生活感を消すのは不可能だろう。白くたわむカーテンを引けば、何もないベッドだけが鎮座していそうで気味が悪かった。
一晩立てば部屋に広がる、この"据えた臭い"にも慣れる。昔ながらのこの市立病院は、学校から近いのと、安価な入院費により決定した。また微量の腹痛を覚え、点滴を引っ張り部屋から廊下へ出れば、天井はコンクリートに様々な配管が剥き出しで通っている。壁は黄ばみ、床は緑に塗られ、年期によりくすんでいた。
薄汚れた男性トイレの内部。カラカラと点滴に取り付けられた滑車が、タイル張りの床を滑る。日陰に位置するココは、蛍光灯の煌々とした灯りだけが頼りで、ノスタルジックさを引き立てていた。溜め息ひとつ付いた黒子は、個室でただボンヤリとした。ここはヒンヤリして涼しいし、こうやって座ってしまえば腹痛は少し和らぐ。
本でも持ってくれば良かった……と後悔を始めた頃に、おおよそ二人分の子供の足音とヒソヒソした含み笑いがやって来た。聞き耳を立てている訳では無いのに、ソレは静かなトイレに反響する。
「……だあれもいないそのふとん」
「……だあれもたべないそのしょくじ」
「……だあれもかおをみにこない」
「……だあれもあのひときにしない」
わらべ歌のような拍子だ――。個室のドア越しで彼等はそれだけを唄い、またクスクスと含み笑いを始める。ツンとしたアンモニアの臭いにいい加減"嫌気"がさしていた黒子は、幼い二人が羨ましく思えた。
「……あいにいくならカーテンあけて」
「……てびょうしさんかい、てのこうで」
頬杖付いてボーっと幼児の声を聞いていると、クスクスした笑いは足音と共に出口から去っていった。
――何をしに来たんだろう。
小さな子はじっとしていられない。更には探検が好きだ。巨大なこの施設は彼等からしたら【ダンジョン】みたいなモノだろう。憶測を立てている内に腹痛が治まった黒子は、また溜め息を付くと誰も居なくなった洗面台の蛇口を捻る。そうしてカラカラ滑車の音を鳴らしながら男性トイレを後にした。
光が遮断された昔ながらの廊下を再度通り"自室"へ戻れば、部屋の窓から夕日が差していた。それは視界をオレンジに染め上げる。三つある窓は、左右のカーテンだけが開け放たれ、漏れた光が白いだけの空間を染めた。
閉められた中央のカーテンは逆光で黒く、その前に人が立っていた事に黒子はビクリとした。パジャマ姿のソレは俯き、自分のベッドを眺めていた。人物は逆光により綺麗に顔だけが見えない。黒い頭は輪郭だけでボサボサの長髪だと判った。男か女か、若人か老人か――……。それさえ見分けが付かない。
「……あの、何か用ですか?」
黒子が声を掛けると、相手は首だけを動かしこちらへ視線を向けた。その素早く、肩から下が固定された動きは黒子を不安にさせた。やはりカーテンの闇と左右の光により顔が見えないが、朧気ながらに口元が笑っていた。灰色の歯が、切れ長の割れ目から覗く。――気味が悪い。
何も言わない相手は、茶色いスリッパをズルリ、ペッタン……と引き摺りながらゆっくりと歩き出す。隣をすれ違いたくない黒子は、点滴を固定しているキャスターを握り締めた。顔を見たくなった黒子が失礼ながらに薄目で注視すると、ある事に気付く。
――彼の肩口を見ると、二枚を纏めている"縫い目"が見えた。よく見ると、柄も薄いし、ボタン部分も違和感ありに留められている。それは全て衣服の裏表が逆だからだろう。
「……あの、パジャマ逆ですよ?」
相手はその指摘にさえ何も言わず、入口から一番近いそのカーテンの向こうへ消える。"ギシリ"とパイプベッドが軋む音だけが布の向こうから届き、また無音へと変わった。
ふう……と小さく溜め息を付いた黒子は、自分の隣に何時も居る【太めの男性】を見る。彼はイビキを掻いて寝ているようだ。消し忘れていたテレビからは、教育番組の明るいメロディーが流れていた。
黒子は気付かなかった。そのパジャマを逆に着ている人物がカーテンの消えるまで、テレビから全く音がしていなかった事に――。
……………………
「何だよ、テツお前"食中毒"か」
ベッドの端にニヤニヤした肌の黒い男が座る。汗で湿ったワイシャツを身に付けた彼は、思っていたよりも元気そうな黒子へ声を掛ける。
「カンピロバクターだ」
ベッド脇にある丸椅子に尻を乗せた赤毛の男は昨日に引き続き、その響きの良い病名を教えてやる。
「……明後日、退院です」
「そりゃ良い、ノンビリ出来るのも明後日までだな」
腰掛けた青峰が落ち着きなく膝を揺すったモンだから、ベッドが僅かに揺れる。黒子は何も言わず、微量にユラユラする動きに身を任せ、今朝から腹痛が治まった事に安堵していた。これは殆んどの菌が体内から排出された為だろう。
「何か、ねぇの? "出た"とか」
『出た』とは、確実にシモの話では無いだろう。そんなの言わなくても、嫌と言う程に"出た"。――黒子は、ふと昨日のアレを思い出した。その不思議な体験を言えば、二人は気持ちが良い程に笑い飛ばしてくれるだろう。
……でも、対象の相手はすぐソコに居るのだ。もしあのカーテンの向こうに消えた患者が"只の人間"なら、悪戯に傷付けるだけだ。そう言い聞かせ、救いを求め喉から出そうな【体験談】をグッと堪えた黒子は、ソレを心の中へと戻した。
「……やめろよ、青峰。オレそういうの苦手なんだよ」
赤毛の男が、デカイ図体に似合わず【肝が据わっていない事】を口にする。青峰がフンと鼻で笑えば、悦ばしいとは言えない話題を提供しだした。
「――幽霊の見分け方、教えてやるよ」
白い掛け布団へ目線を落とした黒子は、モヤモヤした気持ちが退院したい欲望を膨らませていくのを感じた。視線を横にスライドすれば、火神が両耳を手のひらで隠し目を瞑っている。その弱々しい姿勢に、少しだけ気が晴れた。
「アイツらなぁ、裏返しらしいぜ?」
「……裏、返し?」
黒子がオウム返しで質問をすると、青峰はクイッとワイシャツの胸元を掴んで示す。更には駄目押しに「服が」と低い声で告げた。
聞こえていたのか、火神が眉間と鼻の付け根にギュっと皺を寄せる。
「あと――拍手もだ。手の甲で叩くんだってよ? 気味悪ィな」
「勘弁しろよ、マジでクソ野郎だな……青峰」
ウンザリした顔で火神は青峰を誹謗した。その声が届いていない黒子は、頭の中で昨日の光景をフラッシュバックさせていた。確か、自分は相手に告げた筈だ……。
――……あの、パジャマ逆ですよ?――
「腹黒眼鏡が好きだったんだよ。こういうオカルトな話。――勿論、嫌がらせで、だ」
「……オレ、桐皇行かなくて良かった」
そうまで言い出した火神は、よっぽどオカルトの類いが嫌いみたいだ。桃井なんか、話を聞きながらキャアキャア騒ぐ。「そんなんだから余計に言われんだよ、アイツ」――そう言って青峰は"笑い話"を引っ張り出した。
「あとな、アドバイスだ。お前ら、気を付けろよ?」
ギシリと大きな音を立て、青峰はベッドから立ち上がり床に置いた鞄を手に取る。帰るつもりなのだろう、火神も連れて。独り取り残される黒子へ、彼はこう告げた。
「――"笑ってる幽霊"にだけは、近付くなってよ」
「……随分と表情豊かだ」
火神が青峰の"アドバイス"を馬鹿にすれば、こちらに広い背中を見せ遠くの窓越しに青い空と白い入道雲を眺めている。でないと怖いのだろう。薄暗い病室をただ見ているのは……。
「怒ってる霊とか泣いてる霊より、よっぽど良くないらしいぜ?」
ククク……と笑い、他人事だから肩を震わせられる青峰は、黒子の顔が青ざめている事には気付かない。
「んじゃ、帰るわ」
「置いてくなよ、青峰」
スクールバッグを背負いさっさと行こうとする青峰を、火神が急いで追う。残されるのに不安な気持ちになった黒子は、右手で宙を掻いた。
彼等が問題のベッドを囲うカーテンの前を通ろうとしたその時、部屋の出入口に双子の園児が立っているのが見えた。いつの間にソコに居たのか……――二人とも同じ顔、同じ水色のスモッグに同じ茸のような黒髪。見分けが付かないふたつの園児は、おかめのように肌が白く、糸のように細い目と口を笑わせている――。
民芸品のようなソレらに恐怖を抱いた黒子は、無意識の内に身体を後退させていた。ガタンとぶつかった柵が揺れ、火神と青峰が、不思議そうにベッドの上の友人を見る。いつの間にか訪問していた目の前の来客に全く気付かないのか……。二人は視線を黒子から移しもしない。
クスクス笑う園児は、前の日トイレで聞いたあのわらべ歌を唄い始めた。この部屋で、この不気味な唄が聞こえているのは自分だけらしい。火神なんか「腹大丈夫か? 黒子?」と心配そうに声を掛けてくる始末だ。
「……あいにいくならカーテンあけて」
――会いに行くなら、その白いカーテンを開け――
「……てびょうしさんかい、てのこうで」
――手拍子を三回、手の甲で叩く――
「――火神君、キミの前に……」
「オレの前?」
火神が入口へ顔を向けるが、何もない。ただ開いたドアから廊下が見えるだけだ。――彼からしたら。
何で気付かないんだ 何で気付かないんだ 何で気付かないんだ
キミが少し目線を下げれば、先程から同じフレーズばかりを奇妙に唄う園児が居るんだ。キミがあと少し足を踏み出せば彼らにぶつかるんだ。なのに、何で――……?
ある事実に気付いた黒子は、叫びたいのを必死に堪えた。じゃなきゃ、発狂したのかと入院を延長されるかもしれない――。
細い目をした双子が着ている園児服は、両者とも裏返しだった。
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